1
ー/ー ーーもう本当に、ダメかもしれないと思った。
遠くからわずかに水の流れる音がした。少年が虚ろな眼差しを向ける。幻聴かと思ったのだ。
喉は渇ききっていた。飲まず食わずで、どれほどの時間山の中をさ迷ってきたのか。何度夜を越えたのか、記憶も靄(かすみ)がかかったように朧だ。
身体中が軋むように痛んだ。秋を迎え、色とりどりの紅葉(こうよう)が美しく山中を飾っている。それに反し、きつい足場の悪い斜面と秋口の寒さは容赦なく少年の体力を奪っていった。
このまま野垂れ死ぬんじゃないかと、何度も思った。そのたびに少年を生に執着させていたのは、他でもない家に残してきた病気の母親の存在だった。
母は床(とこ)に伏している。数週間前原因不明の病にかかり、身体の状態は悪くなる一方だった。
医者を呼ぶ金も薬を買う金もない。気休め程度の薬草を少量、煎じて飲ませる以外に少年が母のためにしてやれることはなかった。
金がいるのだ。金さえあれば、医者が母をきっと救ってくれる。
少年は藁にもすがる思いで、この山に来た。ここには昔から、ある伝承があった。
ふらふらと歩を進めるうちに、水流の音は大きくなる。やがて乱立する木々の向こうに、川が見えた。
幻聴ではなかった。どれほどぶりかの水が飲める。
少年はからからに渇いた喉をごくりと鳴らし、もつれる足で走った。川にたどり着き、冷たい水面(みなも)に指先で触れる。確かに感じる、液体の感触。
少年は川の中に頭ごと突っ込み、文字通り浴びるように飲んだ。
渇いた身体が潤い、生気がみなぎってくるようだった。
空腹も、少しだがまぎれた。
そのまま土ぼこりで汚れた顔も洗い、視線をあげた時だった。
「あ……」
少年の視界に映った、一匹のもふもふしたもの。それは、じーっとこちらを見つめてくる小狐(こぎつね)だった。
少年は目を見開いた。
あれはーー。
「幻の……緋狐(ひぎつね)?」
川の淵に手をつき、身を乗り出すようにして少年は呟いた。
緋狐。名前の由来は真っ赤な体毛と、同じく緋色の宝石のような目。そしてもう一つ、額に埋まった赤い宝玉だった。緋狐は、美しいその姿形よりも額の宝玉に価値がある。とても高値(たかね)で売れるのだ。
だから少年も、緋狐を探していた。
宝玉を手に入れて母への薬代を工面するために。それが、母を救う唯一の手段だった。
それまで少年を見つめていた緋狐は、ふいに踵を返すと山の奥へと消えた。
「あ、ま、待って……っ」
せっかく見つけた獲物を、逃がすわけにはいかない。
少年は川に飛び込んだ。水の深さは膝くらいまでだ。流れはやや速いけれど幸い小さな川で、向こう岸まで渡るのにそう苦はない。懸命に狐を追いかけ、少年は川を横断した。
一度視界から消えた狐は、だけどすぐに見つかった。川から上がると数十歩ほど離れた場所で、動きを止めたまま再び少年に視線を向けていたのだ。
少年は全力で狐を追いかけた。緋狐はまた走り出す。
その距離は縮まることも離れることもなく、一定の距離を保ったままの追いかけっこは続く。
すでにふらふらであちこちの関節が痛みを伴っていたけれど、気力だけで緋狐に食らいついていた。
明らかに走る速度は落ちているはずなのに、緋狐との距離は変わらない。さすがに妙だな、と思いはした。まるで少年のペースに合わせて逃げているようだ。おちょくられているのだろうか。
それでも、ここまできて逃がすわけにはいかなかった。擦り傷だらけの足と痛みだす肺に鞭打って、走る速度をまたあげる。
その時ふいに、緋狐の動きが止まった。目前に、大きな岩肌が立ちはだかったのだ。緋狐は逃げる方向を変えようと、スピードを一気に落とした。その瞬間を逃さず、少年はその小さな体に飛びついた。
両手に触れる柔らかな手応え。
「つか……まえた……っ」
掠れた声で叫んだ。
ようやく、幻の緋狐を捕まえた。これで母を救える。少年のやつれた顔が歓喜する。
激しく肩を上下させながら、すぐに額の宝玉に手を伸ばした。赤い、つるつるとした親指ほどの大きさの石だ。少しずつ、少しずつ指に力をこめていく。石はまったく外れる気配がなかった。
緋狐は暴れも鳴きもせず、緋色の大きな瞳で黙って少年の瞳を見つめているだけだ。
「取れない……」
少年の手から、ふいに力が抜ける。おもいきり力を入れれば、石を取ることはできるかもしれない。でもそれは、緋狐にとって痛みを伴う行為にはならないのだろうか。
この宝玉は、狐の体の一部なのだ。人でいえば、きっと爪や歯と同じようなものだ。
それを無理矢理引っこ抜かれたら……。
少年はぶるりと身震いした。
「でも、これが無いと母さんは……」
母を救う最後の頼みの綱が、この宝玉であることは事実だ。
少年はかぶりを振った。指に力を込める。緋狐が、わずかに身をすくめたような気がした。
けれども宝玉は取れない。額に完全に埋まっていた。
少年は、近くにあった石を手に取った。片手と膝で緋狐を押さえ付け、もう片方の手で石を振り上げた。
狐の額めがけて石を叩きつけようとした。
「……っ」
だけど少年の手は、寸前のところでぴたりと動きを止めていた。
「やっぱり、できない……」
吐き出した声が震える。少年はきつく瞼を閉じた。瞼の裏に、病に臥せった母の顔が浮かぶ。
目を開けると、緋狐は変わらず微動だにしないまま、じっと少年を見つめていた。その無垢な、けれどもどこか凛とした眼差しを見つめ返す。
自分にはどうしても、この罪のない小狐を傷つけてまで宝玉を奪うことはできない。母に心の内で何度も詫びた。
少年は石を捨て、柔らかな緋狐の体を離してあげた。
「おまえ、全然怯えないんだな……」
苦笑して、小さな頭を何度か撫でた。
緋狐が岩陰に去っていく。
その姿を見送り、少年はその場に仰向けで横たわった。緋狐を追いかけ全力で走った疲労が、今になって少年の全身に大きなダメージを与えていた。空腹も足腰の痛みも、限界だった。
母を救えないどころか、自分はもう家に帰りつくことすらできないだろう。山をがむしゃらにさ迷い、下(くだ)り方も覚えていないのだ。緋狐の額にある宝玉を手にいれるという唯一の希望も絶たれた。もう少年が必死に生にしがみつく理由は、一つもなくなった。
硬い地面に横たわり、秋の澄んだ空を見上げながら、静かに目を閉じた。
どれくらいそうしていたか。ふいに耳元で声がした。
「くぅん……」
少年が、微かに目を開ける。隣には先ほどの緋狐がいた。横たわる少年の首に、鼻先を押し付けている。温かい感触が気持ちいい。
「まだいたの……?」
襲われかけた人間のそばを離れないなんて、変なやつだな、と思った。
緋狐は、くぅんくぅんと何度も鳴いて、少年のボロボロの服を引っ張った。どうやらどこかへ連れていこうとしているらしい。
「もう僕、動けないよ……」
このまま眠らせてほしかった。もしかしたら、そのまま目覚められないかもしれないけれど、それでもいいと思えた。
「くぅん……くぅん」
緋狐は、何度も鳴いて少年を眠りの淵から呼び戻そうとする。ちろちろと頬を舐められ、やがて軽く噛まれた。
さすがに痛みで反射的に身体を起こした。
いったいどうしたと言うのか。さっきまで、鳴き声一つあげなかったくせに。
岩の陰へと消えていく緋狐を追って、少年もとぼとぼと歩いた。今まで視角になっていて見えなかった、大きな岩のその向こう側を覗く。
「こ、これは……」
その光景に、少年は目をみはった。
そこには色とりどりの木の実があった。栗や果物、きのこまで。少年がどれほど山を歩いても、食べられそうなものなど見つからなかったのに。岩を挟んだ向こう側は、食糧の宝庫だった。
「そんなはず……」
生と死の狭間で、自分は夢でも見ているのだろうか。
少年は辺りを見渡したけれど、緋狐の姿はどこにもなかった。
さらに少年はあるものを見つけ、目を留めた。地面の上に大きな葉に包まれた、見たこともない薬草が置かれていたのだ。どこに生えているものだろう。
「これを、母に……」
自然と心に浮かび上がってきた考えだった。この薬草を煎じて飲ませれば、母は助かる。根拠はないのに、それはほとんど確信に近いものだった。
少年は、木の実をめいいっぱい貪った。甘い汁が、喉の渇きを癒し空っぽの胃を満たしてくれる。ひとしきり頬張って腕で口についた汁を拭うと、薬草を持ってすぐさま母の待つ家に向かおうとした。
その足が、ふいに止まる。岩陰のさらに奥は、今度は崖になっていた。そしてその向こうにには、見覚えのある小さな村があった。その光景にさらに驚く。
「こんなに近くだったのか……」
そこは紛れもなく、自分が生まれ育った、母が待つ家がある村だった。山に囲まれた、町からだいぶ離れた医者のいない小さな小さな故郷(ふるさと)だ。
こんなに、近くをさ迷っていたなんて。少年は、おかしくなって笑った。どうにか斜面のなだらかな場所を探し、下りた。
母への薬草は、胸に大事に抱えていた。
ようやく家にたどり着くと、母は蒼白な顔で待っていた。動けないはずの身体を無理矢理起こしていた。少年の姿を見つけると、涙を流してその細い身体を抱きしめた。
自分は母に、多大な心配をかけてしまっていたのだ。何日も家を空けていた。自分が母の病気を案じて山をさ迷っている間、母も同じように自分の身を案じて神経をすり減らしていたのだ。
母に会えた安堵と、母に心配をかけてしまった罪悪感から、少年は何度もごめんなさいと謝った。そしてとめどなく溢れてくる涙もそのままに、母の身体をきつく抱きしめ返した。
薬草を煎じて飲ませると、母は嘘のように元気になった。やつれた身体はもとの張り艶を取り戻し、数日後にはまた働けるようになった。
その日その日を食いつないでいく貧乏暮らしには違いないけれど、また元来の生活を取り戻すことができたのだ。
母に山での一連の出来事を話すと、母は緋狐にまつわるある言い伝えを話して聞かせてくれた。
なんでも一説によると、緋狐は神の化身なのだという。人間の行いを見て、心の汚れたものには制裁を、心の清らかなものには慈悲を与えてくれる。
少年が緋狐の宝玉を奪わなかったから、母も少年も助かることができたのかもしれない。
もしあの時緋狐に危害を加えてでも宝玉を奪い取っていれば、きっと少年は、あのまま山の中で野垂れ死んでいただろう。
「おまえが優しい子だったから、おまえも私も助かったんだよ」
母に頭を撫でられながら、少年は思い返していた。
緋色の美しい小狐の、同じく緋色の無邪気で凛とした眼差しを。行いを見られていたのか。
少年はぽかんとした顔を母に向けた。
まさに、狐につままれたような気分だった。
おわり
遠くからわずかに水の流れる音がした。少年が虚ろな眼差しを向ける。幻聴かと思ったのだ。
喉は渇ききっていた。飲まず食わずで、どれほどの時間山の中をさ迷ってきたのか。何度夜を越えたのか、記憶も靄(かすみ)がかかったように朧だ。
身体中が軋むように痛んだ。秋を迎え、色とりどりの紅葉(こうよう)が美しく山中を飾っている。それに反し、きつい足場の悪い斜面と秋口の寒さは容赦なく少年の体力を奪っていった。
このまま野垂れ死ぬんじゃないかと、何度も思った。そのたびに少年を生に執着させていたのは、他でもない家に残してきた病気の母親の存在だった。
母は床(とこ)に伏している。数週間前原因不明の病にかかり、身体の状態は悪くなる一方だった。
医者を呼ぶ金も薬を買う金もない。気休め程度の薬草を少量、煎じて飲ませる以外に少年が母のためにしてやれることはなかった。
金がいるのだ。金さえあれば、医者が母をきっと救ってくれる。
少年は藁にもすがる思いで、この山に来た。ここには昔から、ある伝承があった。
ふらふらと歩を進めるうちに、水流の音は大きくなる。やがて乱立する木々の向こうに、川が見えた。
幻聴ではなかった。どれほどぶりかの水が飲める。
少年はからからに渇いた喉をごくりと鳴らし、もつれる足で走った。川にたどり着き、冷たい水面(みなも)に指先で触れる。確かに感じる、液体の感触。
少年は川の中に頭ごと突っ込み、文字通り浴びるように飲んだ。
渇いた身体が潤い、生気がみなぎってくるようだった。
空腹も、少しだがまぎれた。
そのまま土ぼこりで汚れた顔も洗い、視線をあげた時だった。
「あ……」
少年の視界に映った、一匹のもふもふしたもの。それは、じーっとこちらを見つめてくる小狐(こぎつね)だった。
少年は目を見開いた。
あれはーー。
「幻の……緋狐(ひぎつね)?」
川の淵に手をつき、身を乗り出すようにして少年は呟いた。
緋狐。名前の由来は真っ赤な体毛と、同じく緋色の宝石のような目。そしてもう一つ、額に埋まった赤い宝玉だった。緋狐は、美しいその姿形よりも額の宝玉に価値がある。とても高値(たかね)で売れるのだ。
だから少年も、緋狐を探していた。
宝玉を手に入れて母への薬代を工面するために。それが、母を救う唯一の手段だった。
それまで少年を見つめていた緋狐は、ふいに踵を返すと山の奥へと消えた。
「あ、ま、待って……っ」
せっかく見つけた獲物を、逃がすわけにはいかない。
少年は川に飛び込んだ。水の深さは膝くらいまでだ。流れはやや速いけれど幸い小さな川で、向こう岸まで渡るのにそう苦はない。懸命に狐を追いかけ、少年は川を横断した。
一度視界から消えた狐は、だけどすぐに見つかった。川から上がると数十歩ほど離れた場所で、動きを止めたまま再び少年に視線を向けていたのだ。
少年は全力で狐を追いかけた。緋狐はまた走り出す。
その距離は縮まることも離れることもなく、一定の距離を保ったままの追いかけっこは続く。
すでにふらふらであちこちの関節が痛みを伴っていたけれど、気力だけで緋狐に食らいついていた。
明らかに走る速度は落ちているはずなのに、緋狐との距離は変わらない。さすがに妙だな、と思いはした。まるで少年のペースに合わせて逃げているようだ。おちょくられているのだろうか。
それでも、ここまできて逃がすわけにはいかなかった。擦り傷だらけの足と痛みだす肺に鞭打って、走る速度をまたあげる。
その時ふいに、緋狐の動きが止まった。目前に、大きな岩肌が立ちはだかったのだ。緋狐は逃げる方向を変えようと、スピードを一気に落とした。その瞬間を逃さず、少年はその小さな体に飛びついた。
両手に触れる柔らかな手応え。
「つか……まえた……っ」
掠れた声で叫んだ。
ようやく、幻の緋狐を捕まえた。これで母を救える。少年のやつれた顔が歓喜する。
激しく肩を上下させながら、すぐに額の宝玉に手を伸ばした。赤い、つるつるとした親指ほどの大きさの石だ。少しずつ、少しずつ指に力をこめていく。石はまったく外れる気配がなかった。
緋狐は暴れも鳴きもせず、緋色の大きな瞳で黙って少年の瞳を見つめているだけだ。
「取れない……」
少年の手から、ふいに力が抜ける。おもいきり力を入れれば、石を取ることはできるかもしれない。でもそれは、緋狐にとって痛みを伴う行為にはならないのだろうか。
この宝玉は、狐の体の一部なのだ。人でいえば、きっと爪や歯と同じようなものだ。
それを無理矢理引っこ抜かれたら……。
少年はぶるりと身震いした。
「でも、これが無いと母さんは……」
母を救う最後の頼みの綱が、この宝玉であることは事実だ。
少年はかぶりを振った。指に力を込める。緋狐が、わずかに身をすくめたような気がした。
けれども宝玉は取れない。額に完全に埋まっていた。
少年は、近くにあった石を手に取った。片手と膝で緋狐を押さえ付け、もう片方の手で石を振り上げた。
狐の額めがけて石を叩きつけようとした。
「……っ」
だけど少年の手は、寸前のところでぴたりと動きを止めていた。
「やっぱり、できない……」
吐き出した声が震える。少年はきつく瞼を閉じた。瞼の裏に、病に臥せった母の顔が浮かぶ。
目を開けると、緋狐は変わらず微動だにしないまま、じっと少年を見つめていた。その無垢な、けれどもどこか凛とした眼差しを見つめ返す。
自分にはどうしても、この罪のない小狐を傷つけてまで宝玉を奪うことはできない。母に心の内で何度も詫びた。
少年は石を捨て、柔らかな緋狐の体を離してあげた。
「おまえ、全然怯えないんだな……」
苦笑して、小さな頭を何度か撫でた。
緋狐が岩陰に去っていく。
その姿を見送り、少年はその場に仰向けで横たわった。緋狐を追いかけ全力で走った疲労が、今になって少年の全身に大きなダメージを与えていた。空腹も足腰の痛みも、限界だった。
母を救えないどころか、自分はもう家に帰りつくことすらできないだろう。山をがむしゃらにさ迷い、下(くだ)り方も覚えていないのだ。緋狐の額にある宝玉を手にいれるという唯一の希望も絶たれた。もう少年が必死に生にしがみつく理由は、一つもなくなった。
硬い地面に横たわり、秋の澄んだ空を見上げながら、静かに目を閉じた。
どれくらいそうしていたか。ふいに耳元で声がした。
「くぅん……」
少年が、微かに目を開ける。隣には先ほどの緋狐がいた。横たわる少年の首に、鼻先を押し付けている。温かい感触が気持ちいい。
「まだいたの……?」
襲われかけた人間のそばを離れないなんて、変なやつだな、と思った。
緋狐は、くぅんくぅんと何度も鳴いて、少年のボロボロの服を引っ張った。どうやらどこかへ連れていこうとしているらしい。
「もう僕、動けないよ……」
このまま眠らせてほしかった。もしかしたら、そのまま目覚められないかもしれないけれど、それでもいいと思えた。
「くぅん……くぅん」
緋狐は、何度も鳴いて少年を眠りの淵から呼び戻そうとする。ちろちろと頬を舐められ、やがて軽く噛まれた。
さすがに痛みで反射的に身体を起こした。
いったいどうしたと言うのか。さっきまで、鳴き声一つあげなかったくせに。
岩の陰へと消えていく緋狐を追って、少年もとぼとぼと歩いた。今まで視角になっていて見えなかった、大きな岩のその向こう側を覗く。
「こ、これは……」
その光景に、少年は目をみはった。
そこには色とりどりの木の実があった。栗や果物、きのこまで。少年がどれほど山を歩いても、食べられそうなものなど見つからなかったのに。岩を挟んだ向こう側は、食糧の宝庫だった。
「そんなはず……」
生と死の狭間で、自分は夢でも見ているのだろうか。
少年は辺りを見渡したけれど、緋狐の姿はどこにもなかった。
さらに少年はあるものを見つけ、目を留めた。地面の上に大きな葉に包まれた、見たこともない薬草が置かれていたのだ。どこに生えているものだろう。
「これを、母に……」
自然と心に浮かび上がってきた考えだった。この薬草を煎じて飲ませれば、母は助かる。根拠はないのに、それはほとんど確信に近いものだった。
少年は、木の実をめいいっぱい貪った。甘い汁が、喉の渇きを癒し空っぽの胃を満たしてくれる。ひとしきり頬張って腕で口についた汁を拭うと、薬草を持ってすぐさま母の待つ家に向かおうとした。
その足が、ふいに止まる。岩陰のさらに奥は、今度は崖になっていた。そしてその向こうにには、見覚えのある小さな村があった。その光景にさらに驚く。
「こんなに近くだったのか……」
そこは紛れもなく、自分が生まれ育った、母が待つ家がある村だった。山に囲まれた、町からだいぶ離れた医者のいない小さな小さな故郷(ふるさと)だ。
こんなに、近くをさ迷っていたなんて。少年は、おかしくなって笑った。どうにか斜面のなだらかな場所を探し、下りた。
母への薬草は、胸に大事に抱えていた。
ようやく家にたどり着くと、母は蒼白な顔で待っていた。動けないはずの身体を無理矢理起こしていた。少年の姿を見つけると、涙を流してその細い身体を抱きしめた。
自分は母に、多大な心配をかけてしまっていたのだ。何日も家を空けていた。自分が母の病気を案じて山をさ迷っている間、母も同じように自分の身を案じて神経をすり減らしていたのだ。
母に会えた安堵と、母に心配をかけてしまった罪悪感から、少年は何度もごめんなさいと謝った。そしてとめどなく溢れてくる涙もそのままに、母の身体をきつく抱きしめ返した。
薬草を煎じて飲ませると、母は嘘のように元気になった。やつれた身体はもとの張り艶を取り戻し、数日後にはまた働けるようになった。
その日その日を食いつないでいく貧乏暮らしには違いないけれど、また元来の生活を取り戻すことができたのだ。
母に山での一連の出来事を話すと、母は緋狐にまつわるある言い伝えを話して聞かせてくれた。
なんでも一説によると、緋狐は神の化身なのだという。人間の行いを見て、心の汚れたものには制裁を、心の清らかなものには慈悲を与えてくれる。
少年が緋狐の宝玉を奪わなかったから、母も少年も助かることができたのかもしれない。
もしあの時緋狐に危害を加えてでも宝玉を奪い取っていれば、きっと少年は、あのまま山の中で野垂れ死んでいただろう。
「おまえが優しい子だったから、おまえも私も助かったんだよ」
母に頭を撫でられながら、少年は思い返していた。
緋色の美しい小狐の、同じく緋色の無邪気で凛とした眼差しを。行いを見られていたのか。
少年はぽかんとした顔を母に向けた。
まさに、狐につままれたような気分だった。
おわり
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