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ー/ー



 ーー耳元で鳴り響く目覚まし時計。揺らめくカーテンの隙間から差し込む陽光。トントントントンまな板を叩くリズミカルな音と、漂ってくる朝食の匂い。
 匂いに釣られて振り向いた先、エプロン姿の母の背中が見える。
 母は決まってそのタイミングで振り向き、言う。


「おはよう、やっとお目覚め? 早く顔を洗って、着替えておいで。朝ごはんができたよ。朝食は一日の基本だからね。何があっても食べなきゃダメよ」


 母の口癖だった。昼と夜は、多少乱れても構わない。だけど朝だけは、しっかり、バランスよくたくさん食べなさいって。
 白飯と味噌汁。毎日の朝食で、この二つだけは母は絶対に欠かしたことがなかった。
 俺が十四歳になったばかりの六月。交通事故で死ぬまで、記憶の限り一度もーー。


 ※※※


 りりりりりりり……。
 耳をつんざくスマホのアラームで俺は目を覚ました。手探りでスマホを探すが見つからない。


「……るせー」


 手で止めないと二分は鳴りやまない。頭が痛くなりそうだ。
 だけど昨日の夜はスマホをいじりながら寝落ちしていたようで、どんなに布団をまさぐっても見つからなかった。
 ……くそ、昔はアナログな目覚まし時計だったから、右手を伸ばせば届く所定位置に置いてあったのに、スマホだとコンパクトすぎて困る。
 ふいに手が、硬くて平たいものに触れた。
 ようやくあったか俺のスマホ。掴んでアラームを止めようと顔の前に持ってきた瞬間、ぴたりと音が止まった。
 なん……だと?


「ああ、もうっ! やかましいんだよ、このクソがっ!!」
「わ……!」


 イライラに任せて思い切り投げつけると、悲鳴が上がった。
 忍(しのぶ)の声だ。忍は黒いエプロン姿で朝食を作っていた。俺の怒鳴り声と、足元に飛んできたスマホに驚いた悲鳴らしい。


「ちょっと、ターちゃんっ、何投げてんのっ! スマホ壊れちゃうってばっ」


 そう言って、右手に包丁を持ったまま振り向く。忍は小柄で一見女の子のようにも見える男の子だった。黒髪で黒目で、着物が映えそうな顔立ちの。
 俺の幼馴染み兼、忍曰く、第二の母親なんだと。
 ちなみにターちゃんとは俺のことで、本名は隆之(たかゆき)。小さい頃から忍は俺をターちゃんと呼んでいた。


「ほら、スマホ」


 拾って差し出されるそれを、俺は無言で受けとる。


「お味噌汁と目玉焼きと鮭だよ、今日の朝ごはん」
「いらな……」
「だめっ! 今日の講義一限からでしょ? ちゃんと食べないとエネルギー持たないよ! 早く顔洗ってきて!」


 返事も待たず、俺に背を向ける忍。
 ……たく。言うことまで死んだ母親に似てきやがって。あーイラつく。


 母が死んだ数日後。こいつはいきなり俺の家に転がり込んできやがった。そして毎朝母の代わりに、台所に立つようになった。
 中二の六月から、今日まで……、大学二年の春まで、約六年間ずっとだ。


「あ、そうそう、期末の試験だけどね……レポートのやつと……」
「うるせー」


 支度を終えて朝食を食べ始めてから、忍はずっと俺に話しかけてくる。
 俺はずっと無言で相づちさえ打たずにシカトを決め込んでいたけれど、あまりに喋るから、沸点突破だ。
 寝不足と低血圧。変な夢は見るし、アラームはうるせーし、ああ、くそ、全部が腹立たしい。


「……ごめん」


 忍はうつむいて、小さく謝った。


「……もういらね。学校行く」
「ダメだよ、朝食はちゃんと……」


 口にしかけた忍の言葉に、さっき見たばかりの夢の、母の言葉が重なった。


 ーー朝食は一日の基本だからね。何があっても食べなきゃダメよ。


「てめえ……、いい加減にしろよっ」


 がしゃぁんと派手な音が、張りつめた重い空気をぶち壊した。食器が割れる音だ。俺はとっさに、テーブルに並べられた朝食を腕で凪ぎ払っていた。
 今までも不機嫌な気分で朝食についたことは幾度となくあるけれど、こんなことをしたのは初めてだ。
 忍が「ひっ」と怯えた声を漏らしても、俺の怒りはおさまらない。
 マグマのようにぼこぼこと、血液の中で煮えたぎっていた。


「何が朝食だ。うぜえんだよっ。毎日毎日台所に立って、くっそまじい飯作りやがってっ。……第二の母親ァ? ふざけんなよっ」


 腕を伸ばして、右手で忍の胸ぐらを掴む。そのまま締め上げると、忍は顔を歪めて潰れた蛙のような声を漏らした。


「気持ち悪いんだよっ。おまえ男だろ? のこのこ部屋に住み着いてきて、エプロンなんかつけて、なんなんだよっ」


 こいつが毎朝台所に立つたびに、俺は嫌でも死んじまった母親を思い出す。包丁がまな板を叩く音も、味噌汁の匂いも、エプロン姿の華奢な背中も。
 だけど、忍は俺の母親じゃない。胸ぐらを掴んでいる拳が当たる骨ばった体は男の体だ。いや、例えこいつが女だったとしても、母親の代わりにはなれないんだ。


「……っ」


 苦しいのか、忍の顔は真っ赤で、目の端には涙が浮かんでいた。俺は突き放すように、忍から手を離した。


「う……ごほっ、げほっ……」


 テーブルに突っ伏して、何度も咳き込む忍。喘ぐようにぜえぜえと息を整え、俺を見上げる。
 その目はしきりに何かを訴えていた。
 その時になってようやく、俺自身の息も上がっていることに気付く。
 ……ダメだ、興奮しすぎだ。
 何度か深呼吸した。激情が少しずつ引いていく。


「もうやめろよ、いつまでそうやって、馬鹿げたママゴト続ける気だ?」


 ずっと俺を見上げてくるだけで何も言わない忍に、俺は静かに問いかける。
 冷静に、荒ぶった感情は胸のうちに押し込めて。


「……ターちゃんが、一人でも寂しくなくなるまで」
「バカじゃねーの?」
「……バカだよ? だってターちゃんには、産まれた時からお母さんしか居なかったでしょ? そのお母さんが事故に遭った時から、僕がそばにいなきゃって……。せめておばさんが大切にしていたご飯と味噌汁だけは、ずっと食べさせてあげなきゃって思ったんだよ」


 今度はぼろぼろと泣き出す始末。なんでだ。なんで忍が泣くんだ。
 俺はテーブルをまわりこんで、忍の正面に立った。俺より低い身長だから困る。そっとかがんで、忍の胸元に顔を埋める。
 小さい頃、母に抱きしめられた匂いと感触を思い出していた。


「……何? どうしたの?」


 忍の戸惑ったような声が、耳をかすめた。


「なんでもない」


 匂いも、薄くて硬い感触も、母とは全然違う。当たり前だ。忍は男で、別人だ。
 アラームも、まな板を叩くリズムも、朝食の香りも後ろ姿も母とは違うんだ。


「……ありがと。でももう無理して俺の母親を演じなくていい」


 俺は体を離して忍を見つめた。


「味噌汁もご飯も真似して作らなくていい」


 忍の顔が捨てられた仔犬のような顔になる。


「その代わり、今度は洋食作れよ」
「え?」
「パンとかハムエッグとか、コーンスープとか、そんな感じの朝食にしろよ? それなら部屋に居ていいよ」
「本当にっ?」


 今度は飼い主が見つかった仔犬の顔。


「大学も一緒だし、約六年同居してんのに今さら追い出すのもあれだしな。俺朝飯食わないと昼まで持たないし、自分で作るのとかダルいし」


 俺が照れ隠しにいろいろと理由をあげ連ねてる間にも、みるみる忍の顔は嬉しそうに輝いていく。


「わかった! 僕洋食頑張るっ」


 料理センスないくせに、という言葉をぐっと呑み込む。


 ーー翌日。我が家の朝食に、産まれて初めて洋食が並んだ。




おわり


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 ーー耳元で鳴り響く目覚まし時計。揺らめくカーテンの隙間から差し込む陽光。トントントントンまな板を叩くリズミカルな音と、漂ってくる朝食の匂い。
 匂いに釣られて振り向いた先、エプロン姿の母の背中が見える。
 母は決まってそのタイミングで振り向き、言う。
「おはよう、やっとお目覚め? 早く顔を洗って、着替えておいで。朝ごはんができたよ。朝食は一日の基本だからね。何があっても食べなきゃダメよ」
 母の口癖だった。昼と夜は、多少乱れても構わない。だけど朝だけは、しっかり、バランスよくたくさん食べなさいって。
 白飯と味噌汁。毎日の朝食で、この二つだけは母は絶対に欠かしたことがなかった。
 俺が十四歳になったばかりの六月。交通事故で死ぬまで、記憶の限り一度もーー。
 ※※※
 りりりりりりり……。
 耳をつんざくスマホのアラームで俺は目を覚ました。手探りでスマホを探すが見つからない。
「……るせー」
 手で止めないと二分は鳴りやまない。頭が痛くなりそうだ。
 だけど昨日の夜はスマホをいじりながら寝落ちしていたようで、どんなに布団をまさぐっても見つからなかった。
 ……くそ、昔はアナログな目覚まし時計だったから、右手を伸ばせば届く所定位置に置いてあったのに、スマホだとコンパクトすぎて困る。
 ふいに手が、硬くて平たいものに触れた。
 ようやくあったか俺のスマホ。掴んでアラームを止めようと顔の前に持ってきた瞬間、ぴたりと音が止まった。
 なん……だと?
「ああ、もうっ! やかましいんだよ、このクソがっ!!」
「わ……!」
 イライラに任せて思い切り投げつけると、悲鳴が上がった。
 忍(しのぶ)の声だ。忍は黒いエプロン姿で朝食を作っていた。俺の怒鳴り声と、足元に飛んできたスマホに驚いた悲鳴らしい。
「ちょっと、ターちゃんっ、何投げてんのっ! スマホ壊れちゃうってばっ」
 そう言って、右手に包丁を持ったまま振り向く。忍は小柄で一見女の子のようにも見える男の子だった。黒髪で黒目で、着物が映えそうな顔立ちの。
 俺の幼馴染み兼、忍曰く、第二の母親なんだと。
 ちなみにターちゃんとは俺のことで、本名は隆之(たかゆき)。小さい頃から忍は俺をターちゃんと呼んでいた。
「ほら、スマホ」
 拾って差し出されるそれを、俺は無言で受けとる。
「お味噌汁と目玉焼きと鮭だよ、今日の朝ごはん」
「いらな……」
「だめっ! 今日の講義一限からでしょ? ちゃんと食べないとエネルギー持たないよ! 早く顔洗ってきて!」
 返事も待たず、俺に背を向ける忍。
 ……たく。言うことまで死んだ母親に似てきやがって。あーイラつく。
 母が死んだ数日後。こいつはいきなり俺の家に転がり込んできやがった。そして毎朝母の代わりに、台所に立つようになった。
 中二の六月から、今日まで……、大学二年の春まで、約六年間ずっとだ。
「あ、そうそう、期末の試験だけどね……レポートのやつと……」
「うるせー」
 支度を終えて朝食を食べ始めてから、忍はずっと俺に話しかけてくる。
 俺はずっと無言で相づちさえ打たずにシカトを決め込んでいたけれど、あまりに喋るから、沸点突破だ。
 寝不足と低血圧。変な夢は見るし、アラームはうるせーし、ああ、くそ、全部が腹立たしい。
「……ごめん」
 忍はうつむいて、小さく謝った。
「……もういらね。学校行く」
「ダメだよ、朝食はちゃんと……」
 口にしかけた忍の言葉に、さっき見たばかりの夢の、母の言葉が重なった。
 ーー朝食は一日の基本だからね。何があっても食べなきゃダメよ。
「てめえ……、いい加減にしろよっ」
 がしゃぁんと派手な音が、張りつめた重い空気をぶち壊した。食器が割れる音だ。俺はとっさに、テーブルに並べられた朝食を腕で凪ぎ払っていた。
 今までも不機嫌な気分で朝食についたことは幾度となくあるけれど、こんなことをしたのは初めてだ。
 忍が「ひっ」と怯えた声を漏らしても、俺の怒りはおさまらない。
 マグマのようにぼこぼこと、血液の中で煮えたぎっていた。
「何が朝食だ。うぜえんだよっ。毎日毎日台所に立って、くっそまじい飯作りやがってっ。……第二の母親ァ? ふざけんなよっ」
 腕を伸ばして、右手で忍の胸ぐらを掴む。そのまま締め上げると、忍は顔を歪めて潰れた蛙のような声を漏らした。
「気持ち悪いんだよっ。おまえ男だろ? のこのこ部屋に住み着いてきて、エプロンなんかつけて、なんなんだよっ」
 こいつが毎朝台所に立つたびに、俺は嫌でも死んじまった母親を思い出す。包丁がまな板を叩く音も、味噌汁の匂いも、エプロン姿の華奢な背中も。
 だけど、忍は俺の母親じゃない。胸ぐらを掴んでいる拳が当たる骨ばった体は男の体だ。いや、例えこいつが女だったとしても、母親の代わりにはなれないんだ。
「……っ」
 苦しいのか、忍の顔は真っ赤で、目の端には涙が浮かんでいた。俺は突き放すように、忍から手を離した。
「う……ごほっ、げほっ……」
 テーブルに突っ伏して、何度も咳き込む忍。喘ぐようにぜえぜえと息を整え、俺を見上げる。
 その目はしきりに何かを訴えていた。
 その時になってようやく、俺自身の息も上がっていることに気付く。
 ……ダメだ、興奮しすぎだ。
 何度か深呼吸した。激情が少しずつ引いていく。
「もうやめろよ、いつまでそうやって、馬鹿げたママゴト続ける気だ?」
 ずっと俺を見上げてくるだけで何も言わない忍に、俺は静かに問いかける。
 冷静に、荒ぶった感情は胸のうちに押し込めて。
「……ターちゃんが、一人でも寂しくなくなるまで」
「バカじゃねーの?」
「……バカだよ? だってターちゃんには、産まれた時からお母さんしか居なかったでしょ? そのお母さんが事故に遭った時から、僕がそばにいなきゃって……。せめておばさんが大切にしていたご飯と味噌汁だけは、ずっと食べさせてあげなきゃって思ったんだよ」
 今度はぼろぼろと泣き出す始末。なんでだ。なんで忍が泣くんだ。
 俺はテーブルをまわりこんで、忍の正面に立った。俺より低い身長だから困る。そっとかがんで、忍の胸元に顔を埋める。
 小さい頃、母に抱きしめられた匂いと感触を思い出していた。
「……何? どうしたの?」
 忍の戸惑ったような声が、耳をかすめた。
「なんでもない」
 匂いも、薄くて硬い感触も、母とは全然違う。当たり前だ。忍は男で、別人だ。
 アラームも、まな板を叩くリズムも、朝食の香りも後ろ姿も母とは違うんだ。
「……ありがと。でももう無理して俺の母親を演じなくていい」
 俺は体を離して忍を見つめた。
「味噌汁もご飯も真似して作らなくていい」
 忍の顔が捨てられた仔犬のような顔になる。
「その代わり、今度は洋食作れよ」
「え?」
「パンとかハムエッグとか、コーンスープとか、そんな感じの朝食にしろよ? それなら部屋に居ていいよ」
「本当にっ?」
 今度は飼い主が見つかった仔犬の顔。
「大学も一緒だし、約六年同居してんのに今さら追い出すのもあれだしな。俺朝飯食わないと昼まで持たないし、自分で作るのとかダルいし」
 俺が照れ隠しにいろいろと理由をあげ連ねてる間にも、みるみる忍の顔は嬉しそうに輝いていく。
「わかった! 僕洋食頑張るっ」
 料理センスないくせに、という言葉をぐっと呑み込む。
 ーー翌日。我が家の朝食に、産まれて初めて洋食が並んだ。
おわり