渡り鳥
ー/ー 寒い日と暖かい日が目まぐるしく入れ替わっている。陽射しは一貫して夏のそれに近いが、気温は乱高下し、半袖で過ごせる日があったかと思えば、翌日には冬物の上着を引っ張り出したりで、毎日が気忙しい。四月半ば。蓬莱公園では、桜に代わってツツジが見頃を迎え始めているだろう。
もっとも、写真の中の桜は、まだ健在だ。部屋のカレンダーに写っているのは、どこかの有名な一本桜。青空の下、斑雪の山並みを従え、満開の偉容を誇っている。
「あじわい暦」 と銘打たれたこのカレンダーは、すぐ近くの 「ときわ商店」 でもらった。「ときわ商店」 はアパートの大家。毎年年の瀬が迫ると、買い物に訪れた客に、粗品やカレンダーを配っている。店主のこだわりか、懇意の業者がいるのか、くれるのは決まって 「あじわい暦」 だが、このカレンダー、なかなか奥が深くて気に入っている。二十四節気はもちろん、七十二候、雑節、五節供、月齢、潮回り、暦注に至るまで、細かく記載されているからだ。床屋などで見かける日めくりカレンダーならまだしも、月めくりのカレンダーでここまで凝ったものは――少なくとも贈答品では――見たことがない。
「あじわい暦」 によれば、今日は二十四節気の 「清明」 の期間に入る。七十二候なら、「虹始見」 の候。
桜の時期と重なる 「清明」 も、「虹始見」 まで下ってくると、おおむね花は終わり。アパート周辺の桜も、すでに散ってしまった。花見を楽しむことができるのは、一般的に言って、初候の 「玄鳥至」 と次候の 「鴻雁北」 くらいまでだろう。
ところで、「玄鳥至」 も 「鴻雁北」 も、渡り鳥の動向を伝えている。「玄鳥」 はツバメ。「玄」 は 「黒」 のことだから、「黒い鳥」 で、すなわちツバメとなる。「鴻」 は訓読みで 「ひしくい」。大型の雁を指す。「鴻雁」 は、大型と小型の雁の総称。
ツバメは暖かくなると日本列島に飛来して、民家の軒下など、わざわざ人気のある場所に巣を作る。駅やコンビニなどで、巣を行き来している姿を見かけることも多い。一方、冬鳥の雁は、春の訪れとともに、シベリアなど寒い地方へ帰っていく。ちなみに、ツバメも雁も、昔は常世からやってきて、常世へ帰ると考えられていた。
七十二候によれば、今は夏鳥と冬鳥が入れ替わる時期。
海彼より訪れる鳥と――
海彼へ旅立つ鳥と――
すれ違う渡り鳥の群れも、季節の変わり目の慌しさを物語っている。
玄関の呼び鈴を聞き、読みかけの漫画を放り出して、ベッドから立ち上がった。こたつの上の目覚まし時計は、十一時きっかり。小林は、約束の時間に一分のずれもなくやってきた。
「ちゃんと眠れました?」
ドアの向こうで、逆光を背負った男が白い歯を見せた。四角い黒縁メガネ、白いシャツに黒いカーディガンを羽織り、無造作な短髪にはワックスのツヤ。最近普及し始めたこの整髪料を、小林は、ジェルみたいに固まらなくていい、と言って愛用している。
「んー、ぼちぼちかな……」
真一はあくび交じりに答える。ベッドに入ったのが六時半、目覚めたのが十時半だから、確かに寝足りない。ただ、睡眠に関しては、わりと融通が利くほうだ。いたずらに生活のリズムを乱そうとは思わないが、多少の寝不足なら苦にしないし、いつでもどこでも寝たり起きたりが可能。就職先にホテルを選んだのは、こんな体質だったからということもある。
指先で車のキーを回していた小林に、トイレにいく、と伝えて先に行かせた。
小林は岡崎の中学時代の同級生。コンビニの夜勤を始めてすぐ知り合った。一家でパーラー (昔の喫茶店の一形態) を営んでいて、平日しか休みが取れず、遊び相手に事欠いていた。釣りという共通の趣味があったため、真一と打ち解けるのは早かった。小林はつい最近、車を買い替えたばかり。以前はぼろっちい重ステの軽に乗っていたが、新しく買った車は、遠出も楽なステーションワゴン。今日はその車のお披露目で、ドライブに行くことになっている。
玄関の鍵をかけ、二階の外廊下を歩きながら、空の様子をうかがう。南風が強かった昨日は、陽射しがあっても空が濁っていたが、風が収まった今日は、穏やかで春らしい色を取り戻している。水彩画のような淡い水色に、滲んで消えそうな白い雲。風船でも浮かべたら、似合いそうな空だ。気温も暖かく、絶好のドライブ日和になった。
突き当たりから鉄階段を下りていく。小林の車は、階段のすぐ脇に停まっていた。スポーティーなフォルムの白い車だ。一度、バイト先のコンビニに買い物にきたので、外観だけなら見たことがある。
陽射しにハレーションを放つ車を見下ろしつつ、時代の移り変わりの速さをしみじみと実感した。真一が中学生だった頃、若者に人気の車といえば、圧倒的にツードアのスポーツカーだった。高校生になると、巷はクロカン四駆ブームで、派手にドレスアップしたRVやピックアップトラックを、街でよく見かけた。アメリカの若者の日常が垣間見えるハリウッド映画や、パリ・ダカールラリーで日本車が輝かしい成績を収めたことも、ブームを後押ししていたに違いない。4ドアのハイラックス・サーフや日産テラノが登場したのもこの頃。だが、バブルが弾けて、先行き不透明な時代に入ると、スポーツカーも四駆も、一般の若者には手を出しづらい車になった。四駆ブームはそれでもしばらく続いたが、バブルの余韻が消えていくのと歩調を合わせて下火になっていった。そして今は、目立つことより使い勝手の良い――街乗りが楽で、週末のレジャーにも使えるような――車が人気を集めている。
「おーすっ」
助手席に岡崎の姿が見えたので、後部座席側に回った。ドアを開けて乗り込もうとしたら、シートの奥で手を挙げている奴がいた。
「ちわっす。どうっすか、この車。遊びに行くのにぴったりでしょ。みんなでじゃんじゃん乗り回しちゃいましょうよ」
どこかの激安店で買ったような、トライバル柄の白いパーカー。金髪に近い髪の色をした小柄な男は、鷹揚に腕を広げて言った。おい、と小林に怒鳴られても聞こえない様子。
長岡も岡崎の中学時代の仲間だ。小林のパーラーと同じ通り沿いの花屋で働いている。岡崎に紹介されたとき、真一の顔を知っていると言ってきて驚いた。花の配達でアパートのそばを通りかかっときに、真一を見かけたという。長岡がこのあたりまで配達に来るのは事実。実際、店のロゴが入った車を何度か見たことがある。だが、真一の顔を知っているという言は怪しい。どこかですれ違ったことがあるにせよ、赤の他人の顔など覚えていないのが普通だろう。真一だって、コンビニに来る客の顔など、いちいち覚えていない。覚えているとすれば、常連か、よっぽどインパクトのある客だけだ。最初はうっかり信用してしまったが、長岡のお調子者の性格を知った今は、場を盛り上げようとでまかせを言ったのだろうと思っている。
「はいはいー、みんな聞いてー」
助手席の岡崎が手を挙げている。
「俺さあ、水曜ヒマだからー。遊びにいく予定があったら、遠慮なく誘ってねー」
こいつは去年も同じことを言っていた気がする。実際、平日にもかかわらず、真一たちとよく遊んでいた。
「この前、聞いたよ」
そっけなく小林に返されると、横を向いて小林の肩に手を置く。
「ま、忘れられちゃったら寂しいからね。特に、車買った人に」
岡崎の足は、真一と同じスクーター。自宅から約十キロのところにある大学が、行動範囲の限界だ。
フロントガラスを見つめたまま、小林は無言でキーを回す。
エンジンが静かにうなり始めて、ぽつりとひと言。
「さ、行くか」
もっとも、写真の中の桜は、まだ健在だ。部屋のカレンダーに写っているのは、どこかの有名な一本桜。青空の下、斑雪の山並みを従え、満開の偉容を誇っている。
「あじわい暦」 と銘打たれたこのカレンダーは、すぐ近くの 「ときわ商店」 でもらった。「ときわ商店」 はアパートの大家。毎年年の瀬が迫ると、買い物に訪れた客に、粗品やカレンダーを配っている。店主のこだわりか、懇意の業者がいるのか、くれるのは決まって 「あじわい暦」 だが、このカレンダー、なかなか奥が深くて気に入っている。二十四節気はもちろん、七十二候、雑節、五節供、月齢、潮回り、暦注に至るまで、細かく記載されているからだ。床屋などで見かける日めくりカレンダーならまだしも、月めくりのカレンダーでここまで凝ったものは――少なくとも贈答品では――見たことがない。
「あじわい暦」 によれば、今日は二十四節気の 「清明」 の期間に入る。七十二候なら、「虹始見」 の候。
桜の時期と重なる 「清明」 も、「虹始見」 まで下ってくると、おおむね花は終わり。アパート周辺の桜も、すでに散ってしまった。花見を楽しむことができるのは、一般的に言って、初候の 「玄鳥至」 と次候の 「鴻雁北」 くらいまでだろう。
ところで、「玄鳥至」 も 「鴻雁北」 も、渡り鳥の動向を伝えている。「玄鳥」 はツバメ。「玄」 は 「黒」 のことだから、「黒い鳥」 で、すなわちツバメとなる。「鴻」 は訓読みで 「ひしくい」。大型の雁を指す。「鴻雁」 は、大型と小型の雁の総称。
ツバメは暖かくなると日本列島に飛来して、民家の軒下など、わざわざ人気のある場所に巣を作る。駅やコンビニなどで、巣を行き来している姿を見かけることも多い。一方、冬鳥の雁は、春の訪れとともに、シベリアなど寒い地方へ帰っていく。ちなみに、ツバメも雁も、昔は常世からやってきて、常世へ帰ると考えられていた。
七十二候によれば、今は夏鳥と冬鳥が入れ替わる時期。
海彼より訪れる鳥と――
海彼へ旅立つ鳥と――
すれ違う渡り鳥の群れも、季節の変わり目の慌しさを物語っている。
玄関の呼び鈴を聞き、読みかけの漫画を放り出して、ベッドから立ち上がった。こたつの上の目覚まし時計は、十一時きっかり。小林は、約束の時間に一分のずれもなくやってきた。
「ちゃんと眠れました?」
ドアの向こうで、逆光を背負った男が白い歯を見せた。四角い黒縁メガネ、白いシャツに黒いカーディガンを羽織り、無造作な短髪にはワックスのツヤ。最近普及し始めたこの整髪料を、小林は、ジェルみたいに固まらなくていい、と言って愛用している。
「んー、ぼちぼちかな……」
真一はあくび交じりに答える。ベッドに入ったのが六時半、目覚めたのが十時半だから、確かに寝足りない。ただ、睡眠に関しては、わりと融通が利くほうだ。いたずらに生活のリズムを乱そうとは思わないが、多少の寝不足なら苦にしないし、いつでもどこでも寝たり起きたりが可能。就職先にホテルを選んだのは、こんな体質だったからということもある。
指先で車のキーを回していた小林に、トイレにいく、と伝えて先に行かせた。
小林は岡崎の中学時代の同級生。コンビニの夜勤を始めてすぐ知り合った。一家でパーラー (昔の喫茶店の一形態) を営んでいて、平日しか休みが取れず、遊び相手に事欠いていた。釣りという共通の趣味があったため、真一と打ち解けるのは早かった。小林はつい最近、車を買い替えたばかり。以前はぼろっちい重ステの軽に乗っていたが、新しく買った車は、遠出も楽なステーションワゴン。今日はその車のお披露目で、ドライブに行くことになっている。
玄関の鍵をかけ、二階の外廊下を歩きながら、空の様子をうかがう。南風が強かった昨日は、陽射しがあっても空が濁っていたが、風が収まった今日は、穏やかで春らしい色を取り戻している。水彩画のような淡い水色に、滲んで消えそうな白い雲。風船でも浮かべたら、似合いそうな空だ。気温も暖かく、絶好のドライブ日和になった。
突き当たりから鉄階段を下りていく。小林の車は、階段のすぐ脇に停まっていた。スポーティーなフォルムの白い車だ。一度、バイト先のコンビニに買い物にきたので、外観だけなら見たことがある。
陽射しにハレーションを放つ車を見下ろしつつ、時代の移り変わりの速さをしみじみと実感した。真一が中学生だった頃、若者に人気の車といえば、圧倒的にツードアのスポーツカーだった。高校生になると、巷はクロカン四駆ブームで、派手にドレスアップしたRVやピックアップトラックを、街でよく見かけた。アメリカの若者の日常が垣間見えるハリウッド映画や、パリ・ダカールラリーで日本車が輝かしい成績を収めたことも、ブームを後押ししていたに違いない。4ドアのハイラックス・サーフや日産テラノが登場したのもこの頃。だが、バブルが弾けて、先行き不透明な時代に入ると、スポーツカーも四駆も、一般の若者には手を出しづらい車になった。四駆ブームはそれでもしばらく続いたが、バブルの余韻が消えていくのと歩調を合わせて下火になっていった。そして今は、目立つことより使い勝手の良い――街乗りが楽で、週末のレジャーにも使えるような――車が人気を集めている。
「おーすっ」
助手席に岡崎の姿が見えたので、後部座席側に回った。ドアを開けて乗り込もうとしたら、シートの奥で手を挙げている奴がいた。
「ちわっす。どうっすか、この車。遊びに行くのにぴったりでしょ。みんなでじゃんじゃん乗り回しちゃいましょうよ」
どこかの激安店で買ったような、トライバル柄の白いパーカー。金髪に近い髪の色をした小柄な男は、鷹揚に腕を広げて言った。おい、と小林に怒鳴られても聞こえない様子。
長岡も岡崎の中学時代の仲間だ。小林のパーラーと同じ通り沿いの花屋で働いている。岡崎に紹介されたとき、真一の顔を知っていると言ってきて驚いた。花の配達でアパートのそばを通りかかっときに、真一を見かけたという。長岡がこのあたりまで配達に来るのは事実。実際、店のロゴが入った車を何度か見たことがある。だが、真一の顔を知っているという言は怪しい。どこかですれ違ったことがあるにせよ、赤の他人の顔など覚えていないのが普通だろう。真一だって、コンビニに来る客の顔など、いちいち覚えていない。覚えているとすれば、常連か、よっぽどインパクトのある客だけだ。最初はうっかり信用してしまったが、長岡のお調子者の性格を知った今は、場を盛り上げようとでまかせを言ったのだろうと思っている。
「はいはいー、みんな聞いてー」
助手席の岡崎が手を挙げている。
「俺さあ、水曜ヒマだからー。遊びにいく予定があったら、遠慮なく誘ってねー」
こいつは去年も同じことを言っていた気がする。実際、平日にもかかわらず、真一たちとよく遊んでいた。
「この前、聞いたよ」
そっけなく小林に返されると、横を向いて小林の肩に手を置く。
「ま、忘れられちゃったら寂しいからね。特に、車買った人に」
岡崎の足は、真一と同じスクーター。自宅から約十キロのところにある大学が、行動範囲の限界だ。
フロントガラスを見つめたまま、小林は無言でキーを回す。
エンジンが静かにうなり始めて、ぽつりとひと言。
「さ、行くか」
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