表示設定
表示設定
目次 目次




「ただいま」

ー/ー



 平日の昼下がり。

 開いた部屋の窓から、そよ風とともに入り込んできた懐かしく感じる甘い香り。その匂いがふいに鼻をかすめて僕は眠りから目を覚ました。
 連日30度を越える残暑の厳しさは昨夜の雨ですっかりなりを潜め、たまに吹く柔らかい風が心地よい涼しさを部屋に運んでくれる。
 布団に仰向けで寝転んだまま窓の外を覗き見た。
 水色の絵の具で塗りつぶされた空のキャンバス。ところどころ白い雲が浮かんでいたが雨が降る気配は感じられず、気象予報士でもない僕だが「本日は晴天ナリ」と心の中で呟いた。
 またも鼻をかすめる先程の甘い香り。

 ――キンモクセイか。

 僕は大きく息を吸い込み、窓から入ってくる甘い香りを堪能する。
 この香りを嗅ぐと今年も秋が来たんだなと毎年感じる。
 きっかけは忘れたが小さな頃から僕は、このキンモクセイの香りが大好きだった。
 快晴の空を数分眺めた後、香りに誘われるように僕は着替えをして外に出た。
 
 またも大きく息を吸い込む。
肺一杯に心地よい空気と大好きな香りが充満する。そしてふぅと一気に吐き出すと、さてどうしたものかなと考えた。行くあてなど全く思いつかなかった。

 ――散歩はいいですよ。身の回りの色んな変化に気づかされます。

 そういえば先生が散歩を勧めてくれていたなと思い出した。あの時は全く気に留めなかった言葉だったが。
 今日は何となく気分が良かった。
 何となくという気持ちで歩く事が出来た。大好きな香りが僕の背中を少しだけ押してくれていた。

 久しぶりに電車に乗った。そして久しぶりの駅に降りた。
 ここは僕が小学5年生まで暮らしていた町だった。この町を出てから実に20年の年月が流れていた。うろ覚えになった昔の記憶をたどり、その頃住んでいたアパートに向かう。途中の道で見かける建物はとても懐かしく当時を思い出したが、新しく建てられた見覚えの無いマンションも少なくなかった。
 そんな中、僕と家族が住んでいたアパートは今もまだ健在だった。何となく嬉しく感じ、何となくほっとしている自分がいた。今は何という人が住んでいるんだろう?そんな好奇心から自分達が住んでいた202号室のポストを覗く。ジェームスという外国人が住んでいた。
「あの部屋にジェームスかよ」
 あまりのミスマッチさに暮らしてるイメージがわかず、思わず一人ごちてしまった。

 通っていた小学校。秘密基地を作った煉瓦ビルの屋上。たまに父親と行っていた昔ながらの古い銭湯。外灯が無く夜になると真っ暗で不気味な幽霊坂。毎週買っていた雑誌を早売りしていた小さな本屋。
 意外にも心に残っている思い出の場所は当時のままで、あの頃の記憶がその場所その場所で甦る。
 だけど耳の遠いおばあちゃんが店番をしていた駄菓子屋跡地は、20階建ての高層マンションに変わってしまっていた。
 当時そのつもりは無かったのだが、呼んでも奥からなかなか現れないおばあちゃんを待てずに、何回かお金を払わずにお菓子を取ってきたことがあった。
 店が潰れたのは僕の所為じゃないないよなと自分で自分を弁護した。

 毎日と言って良いほど遊びに来ていた小さな公園に着いた。
 目を疑った。
 驚くほど何も変わっておらず、20年前のあの頃と同じ風景を僕に見せていたのだ。
 正面にはつつじの花壇が植えられており、丁度真ん中には人が二人横に並んで歩けるくらいの幅の出入り口。僕は20年ぶりに公園内へと入っていった。
 園内の中央に背の高い外灯があり、正面には砂場、左には滑り台と屋根のあるベンチ。そして右にはブランコが二つ並んでいた。
 久しぶりにブランコに座るとその低さに驚いた。ふと反対側の屋根のあるベンチの方へ目をやる。ベンチの後ろには緑色のフェンスが立っている。元々あの場所は2メートルくらいの高さのブロック塀があるだけだった。だけどそのすぐ手前に4メートルほどの高さのフェンスが立てられた。その理由を僕は知っている。

 当時の僕は友達とここでよくサッカーをしていた。力加減のできないあの頃の僕らは、ついついボールを高く蹴り上げてしまいベンチ裏のブロック塀を通り越してしまうのだった。
 公園の隣には民家があった。そこに住んでいたのはカミナリ親父ならぬカミナリババ。見つからないようにすばやくボールを拾いに行くのがドキドキだった。見つかった時は相当な剣幕で叱られるからだ。
 庭にある鉢植えを壊してしまったり、時に窓ガラスも割ってしまった時もあったので当然と言えば当然である。だがビビりながらも反省の続かない僕らは、叱られながらも繰り返しカミナリババの敷地へとボールを蹴り入れてしまっていた。
 言っても聞かない僕らに業を煮やしたのか、それとも諦めたのか。突然あのフェンスが現れたのだった。そこまでしてもらってもまだ、たまに蹴り入れてしまう僕らがいた訳だが。依然カミナリババの庭にボールを取りに行くのには勇気がいるのだった。

 そんなある日、僕は友達とサッカーではなく公園の裏側の塀に登って遊んでいた。
そして僕はあやまって足を滑らせしまい、
2メートルほどの高さから落ちて気を失ってしまう。気がつくとカミナリババが僕の頭に包帯を巻いてくれていた。ババの家の中で。
「はい、できたよ。大丈夫かい?」
 救急箱をしまいながらババが僕に聞いた。いつもの怒鳴り声ではなかった。
「あ、すいません」
 いつものクセで謝ってしまった。
「おやおや、こんな時はありがとうって言うもんだよ」
 ババが笑いながらそう言った。初めて見るババの笑顔だった。
「念のために、お父さんかお母さんに病院連れてってもらいな。気をつけるんだよ」
「すみません…じゃなかった。ありがとうございました」
 礼を言ったあと僕はドアを開けて外に出た。そこはいつもそそくさと逃げる、いつもの景色だった。
 ババの家から出てきた僕を友達が心配そうに待っていた。僕が塀から落ちた時、結構大きな音がしたようで、それに気がついたババがすごい勢いでやってきて、僕を家の中へと運んだらしい。このまま帰ってこないんじゃないとまで思ったらしい。
 いつもの剣幕のババしか知らなかったら、そう思っても不思議は無いかもしれない。ババの笑顔は僕しか知らない。

 あれから20年経ったフェンスの向こうにはカミナリババの家はなく、雑草が好き放題に伸びる空き地が広がっていた。

 ――ババ、どうしてんだろう。もしかして。

 不吉な考えが浮かんだその時、僕の耳に少女の声が届いた。
「今も元気だよ」
 ずっとフェンスを見つめていた僕は驚いて、声のする正面に向きなおす。
 緑が生い茂った大きな木の下に7~8歳くらいの少女が立っていた。
 いつの間にという疑問と、少女が発した言葉の意味について。そのふたつの疑問を僕は一文字であらわす。
「え?」
「5年くらい前ね、おばちゃんの息子夫婦が迎えに来たの。今はそっちで一緒に暮らしてるの」
 舌ったらずな言葉で少女は答える。
「ふ~ん、そうなんだ。詳しいね」
 僕がそう言うと、彼女はへへへと照れるように頭をかいた。でもそんな事より不思議なのが、僕がカミナリババの事を考えていたと何で分かったかと言う事。だがそんな事お構いなしに少女は言う。
「ケイカも乗っていい?」
 ん?ケイカ……?どこか聞いたことのある名前に感じた。
「ブランコに?」
ケイカと名乗る少女は大きく何度もうなづいた。どうぞと手のひらで隣のブランコへ促すと、ケイカは僕の膝の上に座ってきた。キンモクセイの甘い香りが鼻をかすめた。
「おいおい、こっちかよ」
 僕が呆れてぼやくと、ケイカはまたもへへへと笑顔を作って身体を揺らす。
「ねぇ、お兄ちゃん。漕いで漕いで」
 そして催促。思わず苦笑する。でも心の中で少し楽しいと思っている自分もいた。
「よ~し、ちゃんと掴まってろよ」
 僕はケイカが膝の上から滑り落ちないギリギリの角度まで後ろにブランコを引き、
チョンと軽く上に跳ぶと足を前方へ放り上げた。
 ヒューっという風を切る音と共にブランコは前へ飛んでいこうとするが、一瞬止まったかと思うと今度は後ろへと戻っていく。そんな振り子運動の繰り返しは次第に大きくなってゆき、スピードもどんどん上がっていった。
「すごいすごい~、気持ち良い~」
 少し怖がらせてやろうと思った僕の企みは裏目に出たようで、膝の上のケイカはキャッキャッと言いながら大喜びだった。でも楽しそうならそれで良いかなと僕は目を閉じる。
 前へ後ろへと流れる風を感じながらブランコの揺れに身を任せていた。
 甘い匂いが優しく包む。どこか体が軽くなっていくような錯覚に陥る。
 ブランコの遠心力で身体にまとわりついていた色んな重りが、少しづつ遠くへ飛んで行っている気がした。

「……きっと、大丈夫」

 ブランコに揺られる中、不意にケイカの言葉が聞こえた。頭の中で微量の電気が走った気がした。その一言で僕は20年前のある記憶が一瞬で甦った。僕は目を開いた。
 
 20年前の引っ越しの日。
 その日は平日の昼間だったので、友達はみんな学校で授業中だった。友達との別れは昨日の内に済ませていた。出発するまでまだ時間があったので、僕は一人でいつもの公園に行ってみた。
 誰もいないだろうと思っていた公園には、小さな女の子がひとりでブランコに座っていた。
「こんにちは」
 あの頃の僕は知らない子供でもすぐに声をかけて一緒に遊んでいた。初対面で家に連れて帰ってきて、夕飯を一緒に食べたりした子もいたくらいだ。
 そんなことを普通にできる雰囲気が、この公園には出来上がっていた。
 女の子は僕を見ると、声をかけられたのが自分だと気づき驚いた顔をした。
「一人できたの?」
 女の子は2回小さく頷いた。口はいまだに開かれていない。何となく女の子の声が聞きたくなった。
「何年生?」
 女の子は人差し指と中指を立てて見せる。またも言葉無しで通じてしまう。
「2年生かぁ」
そう言い終った瞬間に薬指も中途半端に半分立った。
「ん?3年生?」
 僕が首をかしげて聞くと、女の子も指を見て首をかしげる。微笑ましくて思わず笑ってしまった。
 女の子も僕につられて小さく笑い白い歯を見せた。口は開いたが声はまだ聞いていなかった。
「よ~し、ちゃんと掴まっておけよ」
 僕はそう言うと女の子の後ろに回り、小さな背中をそっと押し出した。

 止まって吊られていただけのブランコは、女の子を乗せてゆっくりと揺れ始める。突然の事に驚いた少女は体が固まってしまったようにピクリとも動かず、ブランコの揺れるがままになっている。
「ブランコはベンチじゃないぜ。揺らして遊ばなきゃ」
 押し出した背中が帰ってくるとまた押し出してやった。何度かそれを繰り返していたら楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
 小鳥のさえずりのようなかわいい声だ。目標を達成して満足した僕は、ブランコを押しながら今度は違う事を考えていた。明日からのことだ。
 本当は引っ越しなんて嫌だった。友達と離れるのも嫌だったし学校が変わるのも不安だった。周りの環境の変化について行けるか心配で思わずため息が出てしまう。
「ねぇ、お兄ちゃん。この匂い好き?」
 女の子はブランコに揺られながら、舌っ足らずな言葉で突然聞いてきた。どの匂いの事だろうとクンクンと辺りに鼻を利かせてみる。すると優しい甘い匂いが微かに感じ取れた。
「甘い感じのやつ?」
 確認すると、それそれと返事が来る。
「うん、好きだよ。良い匂いだね」
 前からこの公園でこんな匂いしたかなと疑問に思いながらも僕はそう答えた。
「ケイカも好き」
「ケイカ?」
「うん、私の名前。ケイカ」
 そうか、声を聞きたかったら名前を聞けばよかったんだと今頃気づく。
「ねぇ、お兄ちゃん。ブランコ止めて」
 僕は少しづつ勢いを殺してブランコを止めてあげた。するとケイカはブランコの前にある花壇の木の前に立って指を指す。
「見て見て、この花の匂いだよ」
 指先を追うと生い茂った緑の葉っぱの中に、オレンジ色の小さな花が所々に咲き始めているのが見えた。
「あぁ、この木かぁ。去年の工事で植えられてたな。そう言えば」
「遠い所からお引っ越ししてきたの」
「はは、木がお引っ越しか」
 ケイカの例えで親近感が沸いた目の前の木を僕は見上げた。

「お兄ちゃん、遊んでくれてありがと。一度乗ってみたかったんだ、これ。いつも見てるだけだったから」
 ブランコを指差して嬉しそうにケイカが笑う。
「そっか、いつでも乗れば良いのに」
 何となくこの子も最近引っ越してきたのかなと僕は思った。
「うん、また乗りたいな。お兄ちゃん、また遊んでくれる?」
 ケイカの何気ない言葉で僕の表情は分かりやすく曇ってしまった。
「お兄ちゃんもどこかにお引っ越しちゃうのね」
 年下の子に情けない顔を見せたくない僕は、無理に笑顔を作ってみるけど上手く笑えなかった。
「じゃぁ遊んでもらったお礼に、ケイカがおまじない唱えてあげる」
「おまじない?」
「そう、心のモヤモヤが消えちゃうおまじない」
 いかにもなネーミングに思わず吹いてしまった。
「あ~、信じてないでしょう。折角やってあげようと思ったのに」
 ケイカは頬を膨らませて機嫌を損ねてしまったようだ。
「ごめんごめん、是非お願いします。モヤモヤ消してください」
 僕は素直に謝って少し大袈裟にお願いした。
「うん、いいよ」
 ケイカは寛大な心で許してくれた。
「じゃぁ、ここに立って目を閉じて」
 言われるままに先程の木の前に立たされ目を閉じる。
 あの甘い匂いがほのかに香る。もっと自分の身体に取り込みたくなり、自然と大きく息を吸っていた。
「次に心のモヤモヤの原因を思い浮かべるの」
 僕は昨日の友達との別れ際の顔や、引っ越し先での暮らしの不安を頭に浮かべた。
 時間の感覚はなかった。目を閉じてすぐだったのかも知れない。あるいは数分間、時を刻んだのかもしれない。

「……きっと、大丈夫」

 ケイカの声が耳からではなく頭の中で聞こえた。たった一言のおまじない。
 とても優しい言葉。そっと背中を押してくれる様な、そんな励まし。ゆっくりと心へと沁み込んでいく。

「お~い、直太郎。もう行くわよ」

 後ろから不意に母親の声が聞こえた。目を開けると僕は驚いた。ついさっきまでは少ししか咲いていなかったオレンジ色の花が、そこかしこに咲き開いていたのだ。
 そして周りを見渡すがケイカはどこにもいなかった。
「直太郎、聞こえてるの?お父さん待ってるわよ」
 きょろきょろと見渡しているが一歩も動かない僕を待ちかねて、母親がすぐそばまで寄ってきた。
「ねぇ、この花、何ていう名前?」
「あぁ、キンモクセイね。あなた花になんか興味あったの?」
「いや、別に。いい匂いだなと思ってさ」
 いつもと様子がおかしいと思ったのだろうか、母親は心配そうな顔をして
「引っ越し本当は嫌よね。直太郎、ごめんね」と僕に言った。
「今度の家の近くにもキンモクセイがあればいいよ」
 謝る母親に僕は笑って言った。ケイカのおまじないの効果だろうか。心のモヤモヤは少し晴れていた。


 あれから20年。
 そんな不思議な体験はすっかり記憶から消されてしまっていた。
 そうだった。キンモクセイという名前を知ったのはあの時だったのだ。香りが好きになったのもあの時だった。僕はこの公園で再びケイカと出会っていた。
 そしてあの日と同じように一緒にブランコで遊んだお礼に、再びおまじないを唱えてもらった。
 そしてあの日と同じように目を開けた時には、少女は姿を消してしまっていた。
 そしてあの日と同じように、少し心が軽くなっている気がした。
「いつもお礼を言う前に消えちまうのな」
 目の前のオレンジ色のかわいい花に向かって、僕は笑って毒づいた。

「ただいま」
 そう言って僕が玄関で靴を脱いでいると、パタパタとスリッパの音を立てて美幸が出迎えてくれた。
 僕の愛する妻である。
「おかえり~、帰ってきたら直ちゃんいないからびっくりしちゃった。心配したよ~」
 泣きそうな顔だけど、彼女は喜びも隠せないようだった。
「ちゃんと『散歩行って来る。帰るから心配しないで』ってテーブルに書置きしていっただろ」
「うん、あれもね、
探さないでくださいって書いてあるんじゃないかと見るのが怖かったの」
 笑って話すその言葉は美幸にとって半分冗談であり、もう半分は本音だろうと思った。それは僕のせいだった。
「まぁ、とりあえず家に上がらせてくれよ」
 その場から動かずよける気配のない美幸に僕は言う。
「あ、どうぞどうぞ。遠慮なさらずに」
 気がついたようで美幸が玄関の横の壁によけてくれた。
「してないよ」
 自分の家に遠慮するかと鼻で笑って、美幸の横を通り抜けようとした。その時。
「ん、何かいい匂いがする」
「ああ、これおみやげ」
 僕は手に持っていたビニール袋に入っている鉢植えを見せた。
「あら、キンモクセイ?」
「そう」
「これって大きくなるんじゃないの?」
「やっぱりそう思う?」
「うん」
 二人の間にしばし沈黙が訪れる。
「ま、いいか。なったらなったで考えれば」
 そんな答えを出してくれる美幸が僕は好きだった。

 部屋の奥に進むとリビングのテーブルに夕飯の支度がしてあった。僕の好物のハッシュドビーフだ。
 正直驚いた。今夜はこれが食べたいと思っていたからだ。
 言わなくても通じてしまう美幸が僕の妻で良かったと思った。
 振り返って美幸の顔を見る。恥ずかしいが今の心に思った事を伝えようとした。その瞬間だった。
「あれ、これじゃなかった?」
「え?」
「待って待って、ちょっと座って待ってて」
「いやいや、ちょっと。なんだよ、おい」
 美幸はキッチンへと消えてしまった。かと思えばすぐに戻ってきた。
 皿いっぱいに装った豚の角煮を持って。
「じゃ~ん、これでしょ」
 僕に自慢げに見せる美幸。確かにこれも僕の好物のひとつだ。だけど今日食べたいと思ったのは、先にテーブルの上に用意されていたハッシュドビーフな訳で。微妙な僕の表情に気づいた美幸は
「だ、大丈夫、まだある。ちょっと待ってて」
 そう言ってまたもキッチンへ戻る。テーブルにハッシュドビーフと角煮を置いて。
「なぁ、美幸。ちょっと僕の話聞いてくれよ」
「ちょっと待ってて。すぐ行くから」
「いや、ていうか冷めちゃうから食べようよ」
 奥で皿をカチャカチャ鳴らす音が聞こえる。また何か盛り付けているようだ。そして美幸が戻ってきた。左の皿にハンバーグ。右の皿にカルボナーラ。言うまでもなく僕の好物な訳だが。どうやらどちらか選べなかったので両方持ってきた、そんなところのようだ。
 僕は思わず吹き出して笑ってしまった。美幸は美幸で、僕の今夜食べたいものが正解したのか分からず泣きそうな顔をしている。
「まぁ、座りなよ」
 しょんぼりした美幸を座らせる。テーブルの上に、また新たなメインディッシュが二つ追加された。
「こんなに沢山、いっぺんに作ったの?」
「だって、直ちゃんが久しぶりに外に出れたんだもの。お祝いしたくなっちゃって……」
 美幸の気持ちは素直に嬉しかった。少々呆れたが。
「僕が食べたいと思ってたのはハッシュドビーフだよ。答え合わせする前に次だすなよ」
「なんだ、そうだったの?やっぱりね。
ピピ~ンときたのよね、実は」
 さっきまでの落ち込みが嘘のように、胸張ってそう言う美幸。テーブルの上の賑やかなディナーたちを眺めながら、僕は苦笑いするしかなかった。

 僕は今日まで半年以上の間、一歩も外に出ていなかった。きっかけは職場の変化からだった。
 僕は映画が好きだったので、レンタルビデオの店で長い間アルバイトをしていた。自分の気に入ったお勧め映画を紹介するコーナーを作ったりもしていた。今まであまり回転していなかった作品が、僕の紹介で借りられていくのを見るとすごく嬉しい気分になれた。充実した毎日だった。
 そんな中、僕は2年付き合っていた美幸にプロポーズをした。彼女は笑って頷いてくれた。
 そこで問題になったのは収入面であった。自分ひとりが生活していく上では今の職場でも構わなかったが、ふたりで暮らすとなると話にならない給与であった。人に何かを勧める事が好きだった僕は広告代理店へ転職した。
 正社員として採用され、この会社で頑張っていこうとやる気も十分だった。今までと職種も変わり戸惑う事も多かった。
 毎日のような残業と休日出勤。家にいる時間より会社にいる時間の方があきらかに多い日々。このサイクルに疑問を持ち始めていた。
 ある日僕は会社で小さなミスを犯した。単純な確認ミスだった。
 その失敗を取り返そうと頑張るが、しばらくするとまた同じようなミスを繰り返してしまい自己嫌悪に陥った。
 自分はダメな人間だと思うようになっていた。
 会社に行かなければという気持ちと、行きたくないし何もしたくないという気持ち。二つの気持ちが毎朝頭の中でせめぎ合うようになっていた。
 次第に寝つきが悪くなり食欲もなくなった。みるみるやせ細っていく僕を見かねた美幸が、心療内科へ一緒に行こうと持ちかけてきた。正直行きたくなかったが、涙目で訴える美幸に申し訳なくなり訪ねることにした。

 僕はうつ病と診断された。

 薬を処方されたが飲む気になれなかった。それ以前に食欲もなかった。あの日以来病院にも行かなかった。親身になって言ってくれていた先生の言葉も頭に入らなかった。何もする気がなくひたすら布団の中で眠り続けた。
 必然的に会社は僕を解雇した。
 そんな僕の事を美幸は文句のひとつも言わず、僕の代わりにパートの仕事をするようになった。
 自分が情けなくて仕方なかった。仕事をしなきゃと頭は思うのに、身体は鉛のように重たく心の中は焦燥感でいっぱいだった。
 僕と一緒では美幸は幸せになれない。いなくなった方が良いのでは。いつしかそう思うようになっていた。
 僕は一度だけその思いを美幸に言った事があった。美幸は僕の頭を優しく撫でながら横に首を振って笑いかけてくれた。ほっとした自分が情けなく、またも自己嫌悪に陥った。
 無理に笑ってくれてる彼女の口元が震えていたのを僕は見ないふりをしていた。こんなんじゃいけないと思う気持ちだけが空回り、何も行動に移せない自分への自己嫌悪に押しつぶされる。そんな悪循環の毎日。
 そして気がつけば半年という時間が流れ、僕は今日久しぶりに家の外に出て散歩してきたのだった。キンモクセイの香りに誘われるといった小さなきっかけで。

「で、どこに行ってたの?」
 カルボナーラのパスタをフォークで巻き取りながら美幸が聞いてきた。
「子供の頃住んでた町をプラプラとね」
 ハッシュドビーフを口に運びながら僕は答える。
「へ~、直ちゃんが育った所か。見てみたいなぁ」
「別に特別な所はないよ。どこにでもある普通の所だよ」
「今度連れてってね」
「別に良いけど」
「やった」
 美幸はいつまでも僕を見ながらニヤニヤしている。
「なんだよ、そんなに嬉しいのかよ」
「うん、直ちゃんが少し元気になったみたいで嬉しい。ちゃんと帰ってきてくれた事も嬉しい」
 そんな照れくさい事を良く自然に言えるなと僕は感心する。
 気の利いたことを返したかった僕だったが、こんな言葉しか思い浮かばなかった。
「……ただいま」
「おかえり」
「このくだりはさっき済ませたよ」
「2回目だね」
 うなづく美幸。そして思い出したように続けた。
「あ、そうだ。どうしてキンモクセイなの?」
「ああ、それね。おまじないってのを教えてもらってさ」
「おまじない?」
「うん。美幸には相当苦労かけてきたから恩返しじゃないけど、やってあげようかなと」
「ふ~ん。どんなおまじないなの?」
「気持ちが軽くなる……みたいな感じ」
 僕は鉢植えを美幸の前に置いた。美幸は不思議そうな顔で僕の顔を見ている。
「もっと花に近づいて目を閉じて」
「こう?」
「そう。そうしたら今日までの半年間、思い浮かべて」
「……うん」
 本当に思い浮かべているのだろうか?見た目にはただ目をつぶっているにしか見えない。まぁいいかと、僕はそっと美幸の背中へと回った。
 気づかれていないようだ。僕はそのまま美幸の耳元に顔を近づけそっとおまじないを唱える。

「……きっと、大丈夫」

 動かない美幸。部屋の時間が止まったようだった。僕がやってもやっぱり効果ないかと少し後悔した。
 ゆっくり振り返る美幸。その瞳からは一筋の涙がこぼれ、それから堰を切って彼女は泣き出した。
 半年間一度も見せなかった、ずっと貯め込んでいた感情だった。
 もう大丈夫だからと彼女をそっと抱き寄せる。美幸はいつまでも泣いていた。
「心配かけたね」
 僕が言うと彼女は泣きながら首を横にふり「全然平気」涙声で答えてくれる。
 彼女の頭を撫でながら僕の気持ちはありがとうでいっぱいになった。
「でもね、本当は今日が一番心配したの。
急にいなくなっちゃったから、もしかしたら帰ってこないんじゃないかって」
 まぁ、半年間一歩も外に出なかったんだから、そう思われても仕方ないだろう。
「最初は探しに行こうと思ったんだけどね、だけどきっと帰ってくるって信じたの」
「で、こんなに色んなものつくってたの?」
 美幸はテーブルの上の料理を見て俯いてしまった。そんな美幸を見て僕は声を出して笑ってしまった。久しぶりに笑った気がする。
「あのね、今度は一緒に外を歩きたいな」
 泣きながら、笑いながら、照れながら。美幸は僕に言う。
「いいよ、これから夜の散歩でもしようか?」
 僕が答えると「今はこうしていたい」と美幸はからだを預けてきた。
 そして「直ちゃん、無理しないでね、少しずつゆっくりで大丈夫だから」とつぶやいた。

 部屋の中は今日という日のきっかけをくれた優しい甘い香りが包み込んでくれていた。
 僕は目を閉じてキンモクセイの香りを大きく吸い込む。
 そして心の中で今度は自分におまじないを唱え、胸に抱きしめた彼女に今日3度目となる言葉を告げた。

「ただいま」と。
                       


スタンプを贈って作者を応援しよう!



みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



 平日の昼下がり。
 開いた部屋の窓から、そよ風とともに入り込んできた懐かしく感じる甘い香り。その匂いがふいに鼻をかすめて僕は眠りから目を覚ました。
 連日30度を越える残暑の厳しさは昨夜の雨ですっかりなりを潜め、たまに吹く柔らかい風が心地よい涼しさを部屋に運んでくれる。
 布団に仰向けで寝転んだまま窓の外を覗き見た。
 水色の絵の具で塗りつぶされた空のキャンバス。ところどころ白い雲が浮かんでいたが雨が降る気配は感じられず、気象予報士でもない僕だが「本日は晴天ナリ」と心の中で呟いた。
 またも鼻をかすめる先程の甘い香り。
 ――キンモクセイか。
 僕は大きく息を吸い込み、窓から入ってくる甘い香りを堪能する。
 この香りを嗅ぐと今年も秋が来たんだなと毎年感じる。
 きっかけは忘れたが小さな頃から僕は、このキンモクセイの香りが大好きだった。
 快晴の空を数分眺めた後、香りに誘われるように僕は着替えをして外に出た。
 またも大きく息を吸い込む。
肺一杯に心地よい空気と大好きな香りが充満する。そしてふぅと一気に吐き出すと、さてどうしたものかなと考えた。行くあてなど全く思いつかなかった。
 ――散歩はいいですよ。身の回りの色んな変化に気づかされます。
 そういえば先生が散歩を勧めてくれていたなと思い出した。あの時は全く気に留めなかった言葉だったが。
 今日は何となく気分が良かった。
 何となくという気持ちで歩く事が出来た。大好きな香りが僕の背中を少しだけ押してくれていた。
 久しぶりに電車に乗った。そして久しぶりの駅に降りた。
 ここは僕が小学5年生まで暮らしていた町だった。この町を出てから実に20年の年月が流れていた。うろ覚えになった昔の記憶をたどり、その頃住んでいたアパートに向かう。途中の道で見かける建物はとても懐かしく当時を思い出したが、新しく建てられた見覚えの無いマンションも少なくなかった。
 そんな中、僕と家族が住んでいたアパートは今もまだ健在だった。何となく嬉しく感じ、何となくほっとしている自分がいた。今は何という人が住んでいるんだろう?そんな好奇心から自分達が住んでいた202号室のポストを覗く。ジェームスという外国人が住んでいた。
「あの部屋にジェームスかよ」
 あまりのミスマッチさに暮らしてるイメージがわかず、思わず一人ごちてしまった。
 通っていた小学校。秘密基地を作った煉瓦ビルの屋上。たまに父親と行っていた昔ながらの古い銭湯。外灯が無く夜になると真っ暗で不気味な幽霊坂。毎週買っていた雑誌を早売りしていた小さな本屋。
 意外にも心に残っている思い出の場所は当時のままで、あの頃の記憶がその場所その場所で甦る。
 だけど耳の遠いおばあちゃんが店番をしていた駄菓子屋跡地は、20階建ての高層マンションに変わってしまっていた。
 当時そのつもりは無かったのだが、呼んでも奥からなかなか現れないおばあちゃんを待てずに、何回かお金を払わずにお菓子を取ってきたことがあった。
 店が潰れたのは僕の所為じゃないないよなと自分で自分を弁護した。
 毎日と言って良いほど遊びに来ていた小さな公園に着いた。
 目を疑った。
 驚くほど何も変わっておらず、20年前のあの頃と同じ風景を僕に見せていたのだ。
 正面にはつつじの花壇が植えられており、丁度真ん中には人が二人横に並んで歩けるくらいの幅の出入り口。僕は20年ぶりに公園内へと入っていった。
 園内の中央に背の高い外灯があり、正面には砂場、左には滑り台と屋根のあるベンチ。そして右にはブランコが二つ並んでいた。
 久しぶりにブランコに座るとその低さに驚いた。ふと反対側の屋根のあるベンチの方へ目をやる。ベンチの後ろには緑色のフェンスが立っている。元々あの場所は2メートルくらいの高さのブロック塀があるだけだった。だけどそのすぐ手前に4メートルほどの高さのフェンスが立てられた。その理由を僕は知っている。
 当時の僕は友達とここでよくサッカーをしていた。力加減のできないあの頃の僕らは、ついついボールを高く蹴り上げてしまいベンチ裏のブロック塀を通り越してしまうのだった。
 公園の隣には民家があった。そこに住んでいたのはカミナリ親父ならぬカミナリババ。見つからないようにすばやくボールを拾いに行くのがドキドキだった。見つかった時は相当な剣幕で叱られるからだ。
 庭にある鉢植えを壊してしまったり、時に窓ガラスも割ってしまった時もあったので当然と言えば当然である。だがビビりながらも反省の続かない僕らは、叱られながらも繰り返しカミナリババの敷地へとボールを蹴り入れてしまっていた。
 言っても聞かない僕らに業を煮やしたのか、それとも諦めたのか。突然あのフェンスが現れたのだった。そこまでしてもらってもまだ、たまに蹴り入れてしまう僕らがいた訳だが。依然カミナリババの庭にボールを取りに行くのには勇気がいるのだった。
 そんなある日、僕は友達とサッカーではなく公園の裏側の塀に登って遊んでいた。
そして僕はあやまって足を滑らせしまい、
2メートルほどの高さから落ちて気を失ってしまう。気がつくとカミナリババが僕の頭に包帯を巻いてくれていた。ババの家の中で。
「はい、できたよ。大丈夫かい?」
 救急箱をしまいながらババが僕に聞いた。いつもの怒鳴り声ではなかった。
「あ、すいません」
 いつものクセで謝ってしまった。
「おやおや、こんな時はありがとうって言うもんだよ」
 ババが笑いながらそう言った。初めて見るババの笑顔だった。
「念のために、お父さんかお母さんに病院連れてってもらいな。気をつけるんだよ」
「すみません…じゃなかった。ありがとうございました」
 礼を言ったあと僕はドアを開けて外に出た。そこはいつもそそくさと逃げる、いつもの景色だった。
 ババの家から出てきた僕を友達が心配そうに待っていた。僕が塀から落ちた時、結構大きな音がしたようで、それに気がついたババがすごい勢いでやってきて、僕を家の中へと運んだらしい。このまま帰ってこないんじゃないとまで思ったらしい。
 いつもの剣幕のババしか知らなかったら、そう思っても不思議は無いかもしれない。ババの笑顔は僕しか知らない。
 あれから20年経ったフェンスの向こうにはカミナリババの家はなく、雑草が好き放題に伸びる空き地が広がっていた。
 ――ババ、どうしてんだろう。もしかして。
 不吉な考えが浮かんだその時、僕の耳に少女の声が届いた。
「今も元気だよ」
 ずっとフェンスを見つめていた僕は驚いて、声のする正面に向きなおす。
 緑が生い茂った大きな木の下に7~8歳くらいの少女が立っていた。
 いつの間にという疑問と、少女が発した言葉の意味について。そのふたつの疑問を僕は一文字であらわす。
「え?」
「5年くらい前ね、おばちゃんの息子夫婦が迎えに来たの。今はそっちで一緒に暮らしてるの」
 舌ったらずな言葉で少女は答える。
「ふ~ん、そうなんだ。詳しいね」
 僕がそう言うと、彼女はへへへと照れるように頭をかいた。でもそんな事より不思議なのが、僕がカミナリババの事を考えていたと何で分かったかと言う事。だがそんな事お構いなしに少女は言う。
「ケイカも乗っていい?」
 ん?ケイカ……?どこか聞いたことのある名前に感じた。
「ブランコに?」
ケイカと名乗る少女は大きく何度もうなづいた。どうぞと手のひらで隣のブランコへ促すと、ケイカは僕の膝の上に座ってきた。キンモクセイの甘い香りが鼻をかすめた。
「おいおい、こっちかよ」
 僕が呆れてぼやくと、ケイカはまたもへへへと笑顔を作って身体を揺らす。
「ねぇ、お兄ちゃん。漕いで漕いで」
 そして催促。思わず苦笑する。でも心の中で少し楽しいと思っている自分もいた。
「よ~し、ちゃんと掴まってろよ」
 僕はケイカが膝の上から滑り落ちないギリギリの角度まで後ろにブランコを引き、
チョンと軽く上に跳ぶと足を前方へ放り上げた。
 ヒューっという風を切る音と共にブランコは前へ飛んでいこうとするが、一瞬止まったかと思うと今度は後ろへと戻っていく。そんな振り子運動の繰り返しは次第に大きくなってゆき、スピードもどんどん上がっていった。
「すごいすごい~、気持ち良い~」
 少し怖がらせてやろうと思った僕の企みは裏目に出たようで、膝の上のケイカはキャッキャッと言いながら大喜びだった。でも楽しそうならそれで良いかなと僕は目を閉じる。
 前へ後ろへと流れる風を感じながらブランコの揺れに身を任せていた。
 甘い匂いが優しく包む。どこか体が軽くなっていくような錯覚に陥る。
 ブランコの遠心力で身体にまとわりついていた色んな重りが、少しづつ遠くへ飛んで行っている気がした。
「……きっと、大丈夫」
 ブランコに揺られる中、不意にケイカの言葉が聞こえた。頭の中で微量の電気が走った気がした。その一言で僕は20年前のある記憶が一瞬で甦った。僕は目を開いた。
 20年前の引っ越しの日。
 その日は平日の昼間だったので、友達はみんな学校で授業中だった。友達との別れは昨日の内に済ませていた。出発するまでまだ時間があったので、僕は一人でいつもの公園に行ってみた。
 誰もいないだろうと思っていた公園には、小さな女の子がひとりでブランコに座っていた。
「こんにちは」
 あの頃の僕は知らない子供でもすぐに声をかけて一緒に遊んでいた。初対面で家に連れて帰ってきて、夕飯を一緒に食べたりした子もいたくらいだ。
 そんなことを普通にできる雰囲気が、この公園には出来上がっていた。
 女の子は僕を見ると、声をかけられたのが自分だと気づき驚いた顔をした。
「一人できたの?」
 女の子は2回小さく頷いた。口はいまだに開かれていない。何となく女の子の声が聞きたくなった。
「何年生?」
 女の子は人差し指と中指を立てて見せる。またも言葉無しで通じてしまう。
「2年生かぁ」
そう言い終った瞬間に薬指も中途半端に半分立った。
「ん?3年生?」
 僕が首をかしげて聞くと、女の子も指を見て首をかしげる。微笑ましくて思わず笑ってしまった。
 女の子も僕につられて小さく笑い白い歯を見せた。口は開いたが声はまだ聞いていなかった。
「よ~し、ちゃんと掴まっておけよ」
 僕はそう言うと女の子の後ろに回り、小さな背中をそっと押し出した。
 止まって吊られていただけのブランコは、女の子を乗せてゆっくりと揺れ始める。突然の事に驚いた少女は体が固まってしまったようにピクリとも動かず、ブランコの揺れるがままになっている。
「ブランコはベンチじゃないぜ。揺らして遊ばなきゃ」
 押し出した背中が帰ってくるとまた押し出してやった。何度かそれを繰り返していたら楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
 小鳥のさえずりのようなかわいい声だ。目標を達成して満足した僕は、ブランコを押しながら今度は違う事を考えていた。明日からのことだ。
 本当は引っ越しなんて嫌だった。友達と離れるのも嫌だったし学校が変わるのも不安だった。周りの環境の変化について行けるか心配で思わずため息が出てしまう。
「ねぇ、お兄ちゃん。この匂い好き?」
 女の子はブランコに揺られながら、舌っ足らずな言葉で突然聞いてきた。どの匂いの事だろうとクンクンと辺りに鼻を利かせてみる。すると優しい甘い匂いが微かに感じ取れた。
「甘い感じのやつ?」
 確認すると、それそれと返事が来る。
「うん、好きだよ。良い匂いだね」
 前からこの公園でこんな匂いしたかなと疑問に思いながらも僕はそう答えた。
「ケイカも好き」
「ケイカ?」
「うん、私の名前。ケイカ」
 そうか、声を聞きたかったら名前を聞けばよかったんだと今頃気づく。
「ねぇ、お兄ちゃん。ブランコ止めて」
 僕は少しづつ勢いを殺してブランコを止めてあげた。するとケイカはブランコの前にある花壇の木の前に立って指を指す。
「見て見て、この花の匂いだよ」
 指先を追うと生い茂った緑の葉っぱの中に、オレンジ色の小さな花が所々に咲き始めているのが見えた。
「あぁ、この木かぁ。去年の工事で植えられてたな。そう言えば」
「遠い所からお引っ越ししてきたの」
「はは、木がお引っ越しか」
 ケイカの例えで親近感が沸いた目の前の木を僕は見上げた。
「お兄ちゃん、遊んでくれてありがと。一度乗ってみたかったんだ、これ。いつも見てるだけだったから」
 ブランコを指差して嬉しそうにケイカが笑う。
「そっか、いつでも乗れば良いのに」
 何となくこの子も最近引っ越してきたのかなと僕は思った。
「うん、また乗りたいな。お兄ちゃん、また遊んでくれる?」
 ケイカの何気ない言葉で僕の表情は分かりやすく曇ってしまった。
「お兄ちゃんもどこかにお引っ越しちゃうのね」
 年下の子に情けない顔を見せたくない僕は、無理に笑顔を作ってみるけど上手く笑えなかった。
「じゃぁ遊んでもらったお礼に、ケイカがおまじない唱えてあげる」
「おまじない?」
「そう、心のモヤモヤが消えちゃうおまじない」
 いかにもなネーミングに思わず吹いてしまった。
「あ~、信じてないでしょう。折角やってあげようと思ったのに」
 ケイカは頬を膨らませて機嫌を損ねてしまったようだ。
「ごめんごめん、是非お願いします。モヤモヤ消してください」
 僕は素直に謝って少し大袈裟にお願いした。
「うん、いいよ」
 ケイカは寛大な心で許してくれた。
「じゃぁ、ここに立って目を閉じて」
 言われるままに先程の木の前に立たされ目を閉じる。
 あの甘い匂いがほのかに香る。もっと自分の身体に取り込みたくなり、自然と大きく息を吸っていた。
「次に心のモヤモヤの原因を思い浮かべるの」
 僕は昨日の友達との別れ際の顔や、引っ越し先での暮らしの不安を頭に浮かべた。
 時間の感覚はなかった。目を閉じてすぐだったのかも知れない。あるいは数分間、時を刻んだのかもしれない。
「……きっと、大丈夫」
 ケイカの声が耳からではなく頭の中で聞こえた。たった一言のおまじない。
 とても優しい言葉。そっと背中を押してくれる様な、そんな励まし。ゆっくりと心へと沁み込んでいく。
「お~い、直太郎。もう行くわよ」
 後ろから不意に母親の声が聞こえた。目を開けると僕は驚いた。ついさっきまでは少ししか咲いていなかったオレンジ色の花が、そこかしこに咲き開いていたのだ。
 そして周りを見渡すがケイカはどこにもいなかった。
「直太郎、聞こえてるの?お父さん待ってるわよ」
 きょろきょろと見渡しているが一歩も動かない僕を待ちかねて、母親がすぐそばまで寄ってきた。
「ねぇ、この花、何ていう名前?」
「あぁ、キンモクセイね。あなた花になんか興味あったの?」
「いや、別に。いい匂いだなと思ってさ」
 いつもと様子がおかしいと思ったのだろうか、母親は心配そうな顔をして
「引っ越し本当は嫌よね。直太郎、ごめんね」と僕に言った。
「今度の家の近くにもキンモクセイがあればいいよ」
 謝る母親に僕は笑って言った。ケイカのおまじないの効果だろうか。心のモヤモヤは少し晴れていた。
 あれから20年。
 そんな不思議な体験はすっかり記憶から消されてしまっていた。
 そうだった。キンモクセイという名前を知ったのはあの時だったのだ。香りが好きになったのもあの時だった。僕はこの公園で再びケイカと出会っていた。
 そしてあの日と同じように一緒にブランコで遊んだお礼に、再びおまじないを唱えてもらった。
 そしてあの日と同じように目を開けた時には、少女は姿を消してしまっていた。
 そしてあの日と同じように、少し心が軽くなっている気がした。
「いつもお礼を言う前に消えちまうのな」
 目の前のオレンジ色のかわいい花に向かって、僕は笑って毒づいた。
「ただいま」
 そう言って僕が玄関で靴を脱いでいると、パタパタとスリッパの音を立てて美幸が出迎えてくれた。
 僕の愛する妻である。
「おかえり~、帰ってきたら直ちゃんいないからびっくりしちゃった。心配したよ~」
 泣きそうな顔だけど、彼女は喜びも隠せないようだった。
「ちゃんと『散歩行って来る。帰るから心配しないで』ってテーブルに書置きしていっただろ」
「うん、あれもね、
探さないでくださいって書いてあるんじゃないかと見るのが怖かったの」
 笑って話すその言葉は美幸にとって半分冗談であり、もう半分は本音だろうと思った。それは僕のせいだった。
「まぁ、とりあえず家に上がらせてくれよ」
 その場から動かずよける気配のない美幸に僕は言う。
「あ、どうぞどうぞ。遠慮なさらずに」
 気がついたようで美幸が玄関の横の壁によけてくれた。
「してないよ」
 自分の家に遠慮するかと鼻で笑って、美幸の横を通り抜けようとした。その時。
「ん、何かいい匂いがする」
「ああ、これおみやげ」
 僕は手に持っていたビニール袋に入っている鉢植えを見せた。
「あら、キンモクセイ?」
「そう」
「これって大きくなるんじゃないの?」
「やっぱりそう思う?」
「うん」
 二人の間にしばし沈黙が訪れる。
「ま、いいか。なったらなったで考えれば」
 そんな答えを出してくれる美幸が僕は好きだった。
 部屋の奥に進むとリビングのテーブルに夕飯の支度がしてあった。僕の好物のハッシュドビーフだ。
 正直驚いた。今夜はこれが食べたいと思っていたからだ。
 言わなくても通じてしまう美幸が僕の妻で良かったと思った。
 振り返って美幸の顔を見る。恥ずかしいが今の心に思った事を伝えようとした。その瞬間だった。
「あれ、これじゃなかった?」
「え?」
「待って待って、ちょっと座って待ってて」
「いやいや、ちょっと。なんだよ、おい」
 美幸はキッチンへと消えてしまった。かと思えばすぐに戻ってきた。
 皿いっぱいに装った豚の角煮を持って。
「じゃ~ん、これでしょ」
 僕に自慢げに見せる美幸。確かにこれも僕の好物のひとつだ。だけど今日食べたいと思ったのは、先にテーブルの上に用意されていたハッシュドビーフな訳で。微妙な僕の表情に気づいた美幸は
「だ、大丈夫、まだある。ちょっと待ってて」
 そう言ってまたもキッチンへ戻る。テーブルにハッシュドビーフと角煮を置いて。
「なぁ、美幸。ちょっと僕の話聞いてくれよ」
「ちょっと待ってて。すぐ行くから」
「いや、ていうか冷めちゃうから食べようよ」
 奥で皿をカチャカチャ鳴らす音が聞こえる。また何か盛り付けているようだ。そして美幸が戻ってきた。左の皿にハンバーグ。右の皿にカルボナーラ。言うまでもなく僕の好物な訳だが。どうやらどちらか選べなかったので両方持ってきた、そんなところのようだ。
 僕は思わず吹き出して笑ってしまった。美幸は美幸で、僕の今夜食べたいものが正解したのか分からず泣きそうな顔をしている。
「まぁ、座りなよ」
 しょんぼりした美幸を座らせる。テーブルの上に、また新たなメインディッシュが二つ追加された。
「こんなに沢山、いっぺんに作ったの?」
「だって、直ちゃんが久しぶりに外に出れたんだもの。お祝いしたくなっちゃって……」
 美幸の気持ちは素直に嬉しかった。少々呆れたが。
「僕が食べたいと思ってたのはハッシュドビーフだよ。答え合わせする前に次だすなよ」
「なんだ、そうだったの?やっぱりね。
ピピ~ンときたのよね、実は」
 さっきまでの落ち込みが嘘のように、胸張ってそう言う美幸。テーブルの上の賑やかなディナーたちを眺めながら、僕は苦笑いするしかなかった。
 僕は今日まで半年以上の間、一歩も外に出ていなかった。きっかけは職場の変化からだった。
 僕は映画が好きだったので、レンタルビデオの店で長い間アルバイトをしていた。自分の気に入ったお勧め映画を紹介するコーナーを作ったりもしていた。今まであまり回転していなかった作品が、僕の紹介で借りられていくのを見るとすごく嬉しい気分になれた。充実した毎日だった。
 そんな中、僕は2年付き合っていた美幸にプロポーズをした。彼女は笑って頷いてくれた。
 そこで問題になったのは収入面であった。自分ひとりが生活していく上では今の職場でも構わなかったが、ふたりで暮らすとなると話にならない給与であった。人に何かを勧める事が好きだった僕は広告代理店へ転職した。
 正社員として採用され、この会社で頑張っていこうとやる気も十分だった。今までと職種も変わり戸惑う事も多かった。
 毎日のような残業と休日出勤。家にいる時間より会社にいる時間の方があきらかに多い日々。このサイクルに疑問を持ち始めていた。
 ある日僕は会社で小さなミスを犯した。単純な確認ミスだった。
 その失敗を取り返そうと頑張るが、しばらくするとまた同じようなミスを繰り返してしまい自己嫌悪に陥った。
 自分はダメな人間だと思うようになっていた。
 会社に行かなければという気持ちと、行きたくないし何もしたくないという気持ち。二つの気持ちが毎朝頭の中でせめぎ合うようになっていた。
 次第に寝つきが悪くなり食欲もなくなった。みるみるやせ細っていく僕を見かねた美幸が、心療内科へ一緒に行こうと持ちかけてきた。正直行きたくなかったが、涙目で訴える美幸に申し訳なくなり訪ねることにした。
 僕はうつ病と診断された。
 薬を処方されたが飲む気になれなかった。それ以前に食欲もなかった。あの日以来病院にも行かなかった。親身になって言ってくれていた先生の言葉も頭に入らなかった。何もする気がなくひたすら布団の中で眠り続けた。
 必然的に会社は僕を解雇した。
 そんな僕の事を美幸は文句のひとつも言わず、僕の代わりにパートの仕事をするようになった。
 自分が情けなくて仕方なかった。仕事をしなきゃと頭は思うのに、身体は鉛のように重たく心の中は焦燥感でいっぱいだった。
 僕と一緒では美幸は幸せになれない。いなくなった方が良いのでは。いつしかそう思うようになっていた。
 僕は一度だけその思いを美幸に言った事があった。美幸は僕の頭を優しく撫でながら横に首を振って笑いかけてくれた。ほっとした自分が情けなく、またも自己嫌悪に陥った。
 無理に笑ってくれてる彼女の口元が震えていたのを僕は見ないふりをしていた。こんなんじゃいけないと思う気持ちだけが空回り、何も行動に移せない自分への自己嫌悪に押しつぶされる。そんな悪循環の毎日。
 そして気がつけば半年という時間が流れ、僕は今日久しぶりに家の外に出て散歩してきたのだった。キンモクセイの香りに誘われるといった小さなきっかけで。
「で、どこに行ってたの?」
 カルボナーラのパスタをフォークで巻き取りながら美幸が聞いてきた。
「子供の頃住んでた町をプラプラとね」
 ハッシュドビーフを口に運びながら僕は答える。
「へ~、直ちゃんが育った所か。見てみたいなぁ」
「別に特別な所はないよ。どこにでもある普通の所だよ」
「今度連れてってね」
「別に良いけど」
「やった」
 美幸はいつまでも僕を見ながらニヤニヤしている。
「なんだよ、そんなに嬉しいのかよ」
「うん、直ちゃんが少し元気になったみたいで嬉しい。ちゃんと帰ってきてくれた事も嬉しい」
 そんな照れくさい事を良く自然に言えるなと僕は感心する。
 気の利いたことを返したかった僕だったが、こんな言葉しか思い浮かばなかった。
「……ただいま」
「おかえり」
「このくだりはさっき済ませたよ」
「2回目だね」
 うなづく美幸。そして思い出したように続けた。
「あ、そうだ。どうしてキンモクセイなの?」
「ああ、それね。おまじないってのを教えてもらってさ」
「おまじない?」
「うん。美幸には相当苦労かけてきたから恩返しじゃないけど、やってあげようかなと」
「ふ~ん。どんなおまじないなの?」
「気持ちが軽くなる……みたいな感じ」
 僕は鉢植えを美幸の前に置いた。美幸は不思議そうな顔で僕の顔を見ている。
「もっと花に近づいて目を閉じて」
「こう?」
「そう。そうしたら今日までの半年間、思い浮かべて」
「……うん」
 本当に思い浮かべているのだろうか?見た目にはただ目をつぶっているにしか見えない。まぁいいかと、僕はそっと美幸の背中へと回った。
 気づかれていないようだ。僕はそのまま美幸の耳元に顔を近づけそっとおまじないを唱える。
「……きっと、大丈夫」
 動かない美幸。部屋の時間が止まったようだった。僕がやってもやっぱり効果ないかと少し後悔した。
 ゆっくり振り返る美幸。その瞳からは一筋の涙がこぼれ、それから堰を切って彼女は泣き出した。
 半年間一度も見せなかった、ずっと貯め込んでいた感情だった。
 もう大丈夫だからと彼女をそっと抱き寄せる。美幸はいつまでも泣いていた。
「心配かけたね」
 僕が言うと彼女は泣きながら首を横にふり「全然平気」涙声で答えてくれる。
 彼女の頭を撫でながら僕の気持ちはありがとうでいっぱいになった。
「でもね、本当は今日が一番心配したの。
急にいなくなっちゃったから、もしかしたら帰ってこないんじゃないかって」
 まぁ、半年間一歩も外に出なかったんだから、そう思われても仕方ないだろう。
「最初は探しに行こうと思ったんだけどね、だけどきっと帰ってくるって信じたの」
「で、こんなに色んなものつくってたの?」
 美幸はテーブルの上の料理を見て俯いてしまった。そんな美幸を見て僕は声を出して笑ってしまった。久しぶりに笑った気がする。
「あのね、今度は一緒に外を歩きたいな」
 泣きながら、笑いながら、照れながら。美幸は僕に言う。
「いいよ、これから夜の散歩でもしようか?」
 僕が答えると「今はこうしていたい」と美幸はからだを預けてきた。
 そして「直ちゃん、無理しないでね、少しずつゆっくりで大丈夫だから」とつぶやいた。
 部屋の中は今日という日のきっかけをくれた優しい甘い香りが包み込んでくれていた。
 僕は目を閉じてキンモクセイの香りを大きく吸い込む。
 そして心の中で今度は自分におまじないを唱え、胸に抱きしめた彼女に今日3度目となる言葉を告げた。
「ただいま」と。