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何を犠牲にしても、初恋だけはぬるくしたくない

ー/ー



 俊樹は、売り上げより先に迷子へぶどうシャーベットを渡す男である。

「それ、無料配布じゃないからね」
 涼香が笑いながら言った。
 笑っているのに、ちゃんと釘も刺している。こういうところが涼香はうまい。周囲を明るくしながら、必要なことをきっちり通す。
「泣きそうだったし」
「わかるけど。せめて一個にして」
「二個あげると笑顔が倍になる」
「原価も倍になる」
 そう言ってから、涼香はまた笑った。
 怒るより先に笑ってくれる人は、だいたいずるい。

 八月の終わり、山あいの町の赤い葡萄畑では、毎年一度だけ夜の一般開放がある。
 ぶどう棚の上に赤い防鳥網がかかっていて、月が出ると畑全体がほんのり赤く見える。昼間は普通の畑なのに、夜だけ別の場所みたいになるのだ。
 その名も、「月夜の葡萄散歩」。
 町の観光協会にしては、めずらしく気取った名前だった。

 俊樹はその手伝いに来ていた。
 理由は単純で、人が足りないと聞いたからだ。利益がどうとか、自分の都合がどうとかは、あまり考えていない。考えないまま動いて、あとで焦る。
 昔からそうだ。

「俊樹くん、在庫表」
 麻渚がクリップボードを差し出してきた。
 麻渚は協会の若手で、クールでドライ、なのにチームで回すときは異様に強い。
「売店の冷蔵庫、上段にシャーベット、下段にゼリー。補充は三十分ごと。独断で配りすぎない」
「最後の一文だけ俺を見て言った?」
「気のせい」
「絶対違う」
「あと、焦って走ると転ぶから歩いて」
「子ども扱いだな」
「前科がある人には当然」
 言い返せなかった。先週、俊樹は段ボールを三つ抱えて走り、案内板ごと派手に倒れた。

 売店の隅では、温飛がスポーツドリンクを飲んでいた。
 温飛は改善点を見つけるのが早い。そのうえ、自分の体調管理に関しては執念深い。
「俊樹、水分足りてない。塩タブレットも食べて」
「まだ平気」
「平気って言う人から倒れる」
「でも今忙しいし」
「忙しいときほど飲む。自己犠牲は美徳じゃなくて事故」
 もっともなことを、こいつは毎回ちゃんともっともに言う。

 今日の目玉商品は、涼香が考えた新作ドリンクだった。
 赤ぶどうのシロップに炭酸を合わせ、凍らせた果肉を浮かべたもの。
 メニュー札には大きくこう書かれている。

『高鳴る初恋ソーダ』

「名前、どうにかならなかったのか」
 俊樹が言うと、涼香は両手を腰に当てた。
「だめ?」
「だめじゃないけど、注文するとき恥ずかしい」
「じゃあ俊樹くんが代わりに言ってみて」
「何を?」
「高鳴る初恋ソーダ、一杯ください」
「罰ゲームだろ」
「若者向けの映えは必要なの」
 その横で麻渚が無表情に言った。
「ちなみに私の案は『赤ぶどう炭酸試作三号』だった」
「そっちはそっちで売れない」
「でしょう」
 温飛がうなずく。
「ネーミングは涼香さんで正解。俊樹は黙って氷を運んで」

 開場は午後七時。
 空が濃い青から群青へ変わるころ、家族連れやカップルがぞろぞろやってきた。
 赤い葡萄畑の上には、丸に近い月が出ている。
 風が通るたび、棚の葉がひそひそ話すみたいに揺れた。

「わあ、ほんとに赤い」
「月、見える!」
「ソーダ、きれい!」
 客の声を聞くたび、涼香は嬉しそうに目を細める。
 ああいう顔をされると、もっと何かしたくなる。
 たぶん俊樹は、そういうところで簡単に動かされている。

 問題が起きたのは、開始から四十分後だった。

 売店裏の冷蔵車が、うんともすんとも言わなくなったのである。

「嘘でしょ」
 麻渚が初めて眉を寄せた。
 温飛はすぐしゃがみこんで配線を見る。
「冷却落ちてる。たぶん発電機側」
「シャーベット、あとどれくらい持つ?」
 涼香が聞く。
 温飛は冷静に答えた。
「保冷剤込みで三十分。月見ゼリーは一時間。初恋ソーダの果肉はもっと危ない」
 その瞬間、俊樹の中で何かが鳴った。

「何を犠牲にしても守る」
「待って、そういうときの俊樹くん、だいたい危ない」
 涼香が止めるより先に、俊樹は冷蔵車から保冷ボックスを抱えて走り出していた。

 ぶどう畑の斜面は、夜だと距離感が狂う。
 一段目はうまくいった。
 二段目で足を取られた。
 三段目で派手にすべった。

「わーっ!」
 叫びながら転んだ拍子に、ボックスのふたが開く。
 赤い果肉カップが空中でふわっと舞った。
 月明かりの下、飛び散るぶどうはちょっときれいで、かなり最悪だった。

「何を犠牲にしてもって、自分が真っ先に犠牲になってるじゃん」
 麻渚の声が飛んでくる。
「まだ全部は死んでない!」
「食材を戦場みたいに言わないで」
 温飛はすでに懐中電灯を口にくわえ、無事なカップと駄目なカップを仕分けていた。
「俊樹、擦り傷。消毒する」
「今それどころじゃ」
「ある」
 有無を言わせない声だった。

 涼香は転んだ俊樹の前にしゃがみこんだ。
「痛い?」
「ちょっと」
「ちょっとって顔じゃない」
「でも果肉が」
「果肉より先に俊樹くん」
 その言い方があまりにまっすぐで、俊樹は一瞬だけ黙った。
 月明かりのせいじゃない。
 たぶんそのとき、胸が変な音を立てた。

「いい? 何を犠牲にしても、で進めると大事な順番を間違えるの」
 涼香は優しい声で言った。
「うちのイベントは、誰か一人が無茶して守るものじゃないよ」
 麻渚がすぐ横から続ける。
「そう。チーム戦」
 温飛も保冷剤を差し込みながら言う。
「改善案ある。冷えてるものを売店一か所に集約、メニューを絞る。ゼリーは先に売る。ソーダの果肉は半量提供に変更。俊樹は座って消毒」
「最後だけ命令が強い」
「怪我人だから当然」

 そこからの三人は早かった。
 麻渚が導線を変え、売店前の列を整える。
 温飛が冷蔵状態の持つ順番を計算し、商品の優先順位を組み直す。
 涼香は客ひとりひとりに笑って説明しながら、「今日は特別仕様です」と自然に空気を明るく変えていく。

 俊樹は結局、椅子に座らされ、消毒された膝を見つめるしかなかった。
 役立ちたかったのに、足を引っぱった気がして、情けない。

 すると涼香が、紙コップを差し出してきた。
「はい」
「売り物」
「試作品。だから経費の心配はいらない」
 中には、少しだけ炭酸の弱い赤ぶどうソーダが入っていた。
 凍った果肉が月みたいに浮いている。

「名前、まだ恥ずかしい?」
 涼香が聞く。
「……まあ、少し」
「なんでこの名前にしたかわかる?」
「観光協会の暴走」
「ちがう」
 涼香は笑った。
「私、中学のとき初めてこの夜の畑を見たとき、ほんとに胸が高鳴ったの。月が出て、赤い葡萄畑が揺れてて、知らない町みたいに見えて」
 それから少しだけ声を落とす。
「今日、みんなにもそれを見せたかった」

 俊樹は紙コップを握ったまま、言葉が出なかった。
 利益とか、手間とか、そういう計算じゃなくて。
 ただ誰かに見せたい景色がある。
 その気持ちは、たぶん自分にもよくわかる。

「だから、俊樹くんが利益を気にしないで動くの、嫌いじゃないよ」
 涼香は言った。
「でもね。自分を雑に扱う人に、私はあんまり優しくできない」
「それ、怒ってる?」
「心配してる」
「そっちのほうが効くな……」
「効いて」
 涼香は笑った。

 その顔を見た瞬間、俊樹ははっきりわかった。
 さっき胸が鳴ったのは、転んだからじゃない。
 これはたぶん、ものすごく古典的で、ものすごく面倒で、でも少し嬉しいやつだ。

「あ」
「なに?」
「高鳴る初恋って、こういうことか」
 俊樹が言うと、涼香は目を丸くして、それから吹き出した。
「今わかったの?」
「俺、そういうの無知で」
「知ってる」
「じゃあ、今から学ぶ」
「前向きでよろしい」
 そこへ麻渚が無表情で割りこんできた。
「恋愛の学習は閉場後にして。今はゼリーが先」
 温飛もすぐ続く。
「あと俊樹、もう一回水飲んで」
「お前ら、空気読まないな」
「読んだうえで言ってる」
「チームだから」
 三人とも平然としていて、俊樹は笑うしかなかった。

 結局、イベントは特別仕様のまま最後まで走り切った。
 メニューが絞られたぶん回転はよくなり、「今日だけの限定感があっていい」と言う客までいた。
 閉場後、月は畑の真上に上がっていた。
 赤い防鳥網がやわらかく光って、葡萄畑は静かな海みたいに見える。

「ね」
 涼香が言った。
「ちゃんと見せられたでしょ」
「うん」
 俊樹は素直にうなずいた。
「すごかった。悔しいけど、あの名前で正解」
「悔しいんだ」
「ちょっと」
「じゃあ次の新作、名前つけてみる?」
「やめとく。たぶん『冷たいぶどうその一』とかになる」
「売れなさそう」
「でしょうね」

 少し離れたところで、麻渚が片づけ表を見ながら温飛に言った。
「発電機、来年までに更新」
「賛成。あと俊樹にヘッドライト」
「それも必要」
「俺、装備を増やされてない?」
「改善だから」
「愛だと思え」
「急に雑だな」
 月の下でそんなやりとりを聞きながら、俊樹は胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。

 何を犠牲にしても守りたい、なんて言い方は、きっと少し間違っている。
 本当に大事なものは、誰か一人が削れて守るものじゃない。
 転びそうになったら止めてくれる人がいて、足りないところを埋める人がいて、笑って前を向かせてくれる人がいる。
 たぶん恋も、そうやって始まる。

「涼香」
「なに?」
「閉場後なら、恋愛の学習してもいい?」
「内容による」
「まずは、その……次の月夜の当番も一緒にやりたい」
 涼香は数秒だけ黙ってから、ふっと笑った。
「それ、ずいぶん着実な誘い方だね」
「君の影響」
「悪くないかも」

 赤い葡萄畑の上で、月が少しだけ白く冴えた。
 俊樹はその夜、自分が何を守りたかったのか、ようやくちゃんと知った。

 シャーベットでも、ゼリーでもない。
 たぶんあの笑顔と、
 その笑顔がちゃんと続く夏の夜だ。


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 俊樹は、売り上げより先に迷子へぶどうシャーベットを渡す男である。
「それ、無料配布じゃないからね」
 涼香が笑いながら言った。
 笑っているのに、ちゃんと釘も刺している。こういうところが涼香はうまい。周囲を明るくしながら、必要なことをきっちり通す。
「泣きそうだったし」
「わかるけど。せめて一個にして」
「二個あげると笑顔が倍になる」
「原価も倍になる」
 そう言ってから、涼香はまた笑った。
 怒るより先に笑ってくれる人は、だいたいずるい。
 八月の終わり、山あいの町の赤い葡萄畑では、毎年一度だけ夜の一般開放がある。
 ぶどう棚の上に赤い防鳥網がかかっていて、月が出ると畑全体がほんのり赤く見える。昼間は普通の畑なのに、夜だけ別の場所みたいになるのだ。
 その名も、「月夜の葡萄散歩」。
 町の観光協会にしては、めずらしく気取った名前だった。
 俊樹はその手伝いに来ていた。
 理由は単純で、人が足りないと聞いたからだ。利益がどうとか、自分の都合がどうとかは、あまり考えていない。考えないまま動いて、あとで焦る。
 昔からそうだ。
「俊樹くん、在庫表」
 麻渚がクリップボードを差し出してきた。
 麻渚は協会の若手で、クールでドライ、なのにチームで回すときは異様に強い。
「売店の冷蔵庫、上段にシャーベット、下段にゼリー。補充は三十分ごと。独断で配りすぎない」
「最後の一文だけ俺を見て言った?」
「気のせい」
「絶対違う」
「あと、焦って走ると転ぶから歩いて」
「子ども扱いだな」
「前科がある人には当然」
 言い返せなかった。先週、俊樹は段ボールを三つ抱えて走り、案内板ごと派手に倒れた。
 売店の隅では、温飛がスポーツドリンクを飲んでいた。
 温飛は改善点を見つけるのが早い。そのうえ、自分の体調管理に関しては執念深い。
「俊樹、水分足りてない。塩タブレットも食べて」
「まだ平気」
「平気って言う人から倒れる」
「でも今忙しいし」
「忙しいときほど飲む。自己犠牲は美徳じゃなくて事故」
 もっともなことを、こいつは毎回ちゃんともっともに言う。
 今日の目玉商品は、涼香が考えた新作ドリンクだった。
 赤ぶどうのシロップに炭酸を合わせ、凍らせた果肉を浮かべたもの。
 メニュー札には大きくこう書かれている。
『高鳴る初恋ソーダ』
「名前、どうにかならなかったのか」
 俊樹が言うと、涼香は両手を腰に当てた。
「だめ?」
「だめじゃないけど、注文するとき恥ずかしい」
「じゃあ俊樹くんが代わりに言ってみて」
「何を?」
「高鳴る初恋ソーダ、一杯ください」
「罰ゲームだろ」
「若者向けの映えは必要なの」
 その横で麻渚が無表情に言った。
「ちなみに私の案は『赤ぶどう炭酸試作三号』だった」
「そっちはそっちで売れない」
「でしょう」
 温飛がうなずく。
「ネーミングは涼香さんで正解。俊樹は黙って氷を運んで」
 開場は午後七時。
 空が濃い青から群青へ変わるころ、家族連れやカップルがぞろぞろやってきた。
 赤い葡萄畑の上には、丸に近い月が出ている。
 風が通るたび、棚の葉がひそひそ話すみたいに揺れた。
「わあ、ほんとに赤い」
「月、見える!」
「ソーダ、きれい!」
 客の声を聞くたび、涼香は嬉しそうに目を細める。
 ああいう顔をされると、もっと何かしたくなる。
 たぶん俊樹は、そういうところで簡単に動かされている。
 問題が起きたのは、開始から四十分後だった。
 売店裏の冷蔵車が、うんともすんとも言わなくなったのである。
「嘘でしょ」
 麻渚が初めて眉を寄せた。
 温飛はすぐしゃがみこんで配線を見る。
「冷却落ちてる。たぶん発電機側」
「シャーベット、あとどれくらい持つ?」
 涼香が聞く。
 温飛は冷静に答えた。
「保冷剤込みで三十分。月見ゼリーは一時間。初恋ソーダの果肉はもっと危ない」
 その瞬間、俊樹の中で何かが鳴った。
「何を犠牲にしても守る」
「待って、そういうときの俊樹くん、だいたい危ない」
 涼香が止めるより先に、俊樹は冷蔵車から保冷ボックスを抱えて走り出していた。
 ぶどう畑の斜面は、夜だと距離感が狂う。
 一段目はうまくいった。
 二段目で足を取られた。
 三段目で派手にすべった。
「わーっ!」
 叫びながら転んだ拍子に、ボックスのふたが開く。
 赤い果肉カップが空中でふわっと舞った。
 月明かりの下、飛び散るぶどうはちょっときれいで、かなり最悪だった。
「何を犠牲にしてもって、自分が真っ先に犠牲になってるじゃん」
 麻渚の声が飛んでくる。
「まだ全部は死んでない!」
「食材を戦場みたいに言わないで」
 温飛はすでに懐中電灯を口にくわえ、無事なカップと駄目なカップを仕分けていた。
「俊樹、擦り傷。消毒する」
「今それどころじゃ」
「ある」
 有無を言わせない声だった。
 涼香は転んだ俊樹の前にしゃがみこんだ。
「痛い?」
「ちょっと」
「ちょっとって顔じゃない」
「でも果肉が」
「果肉より先に俊樹くん」
 その言い方があまりにまっすぐで、俊樹は一瞬だけ黙った。
 月明かりのせいじゃない。
 たぶんそのとき、胸が変な音を立てた。
「いい? 何を犠牲にしても、で進めると大事な順番を間違えるの」
 涼香は優しい声で言った。
「うちのイベントは、誰か一人が無茶して守るものじゃないよ」
 麻渚がすぐ横から続ける。
「そう。チーム戦」
 温飛も保冷剤を差し込みながら言う。
「改善案ある。冷えてるものを売店一か所に集約、メニューを絞る。ゼリーは先に売る。ソーダの果肉は半量提供に変更。俊樹は座って消毒」
「最後だけ命令が強い」
「怪我人だから当然」
 そこからの三人は早かった。
 麻渚が導線を変え、売店前の列を整える。
 温飛が冷蔵状態の持つ順番を計算し、商品の優先順位を組み直す。
 涼香は客ひとりひとりに笑って説明しながら、「今日は特別仕様です」と自然に空気を明るく変えていく。
 俊樹は結局、椅子に座らされ、消毒された膝を見つめるしかなかった。
 役立ちたかったのに、足を引っぱった気がして、情けない。
 すると涼香が、紙コップを差し出してきた。
「はい」
「売り物」
「試作品。だから経費の心配はいらない」
 中には、少しだけ炭酸の弱い赤ぶどうソーダが入っていた。
 凍った果肉が月みたいに浮いている。
「名前、まだ恥ずかしい?」
 涼香が聞く。
「……まあ、少し」
「なんでこの名前にしたかわかる?」
「観光協会の暴走」
「ちがう」
 涼香は笑った。
「私、中学のとき初めてこの夜の畑を見たとき、ほんとに胸が高鳴ったの。月が出て、赤い葡萄畑が揺れてて、知らない町みたいに見えて」
 それから少しだけ声を落とす。
「今日、みんなにもそれを見せたかった」
 俊樹は紙コップを握ったまま、言葉が出なかった。
 利益とか、手間とか、そういう計算じゃなくて。
 ただ誰かに見せたい景色がある。
 その気持ちは、たぶん自分にもよくわかる。
「だから、俊樹くんが利益を気にしないで動くの、嫌いじゃないよ」
 涼香は言った。
「でもね。自分を雑に扱う人に、私はあんまり優しくできない」
「それ、怒ってる?」
「心配してる」
「そっちのほうが効くな……」
「効いて」
 涼香は笑った。
 その顔を見た瞬間、俊樹ははっきりわかった。
 さっき胸が鳴ったのは、転んだからじゃない。
 これはたぶん、ものすごく古典的で、ものすごく面倒で、でも少し嬉しいやつだ。
「あ」
「なに?」
「高鳴る初恋って、こういうことか」
 俊樹が言うと、涼香は目を丸くして、それから吹き出した。
「今わかったの?」
「俺、そういうの無知で」
「知ってる」
「じゃあ、今から学ぶ」
「前向きでよろしい」
 そこへ麻渚が無表情で割りこんできた。
「恋愛の学習は閉場後にして。今はゼリーが先」
 温飛もすぐ続く。
「あと俊樹、もう一回水飲んで」
「お前ら、空気読まないな」
「読んだうえで言ってる」
「チームだから」
 三人とも平然としていて、俊樹は笑うしかなかった。
 結局、イベントは特別仕様のまま最後まで走り切った。
 メニューが絞られたぶん回転はよくなり、「今日だけの限定感があっていい」と言う客までいた。
 閉場後、月は畑の真上に上がっていた。
 赤い防鳥網がやわらかく光って、葡萄畑は静かな海みたいに見える。
「ね」
 涼香が言った。
「ちゃんと見せられたでしょ」
「うん」
 俊樹は素直にうなずいた。
「すごかった。悔しいけど、あの名前で正解」
「悔しいんだ」
「ちょっと」
「じゃあ次の新作、名前つけてみる?」
「やめとく。たぶん『冷たいぶどうその一』とかになる」
「売れなさそう」
「でしょうね」
 少し離れたところで、麻渚が片づけ表を見ながら温飛に言った。
「発電機、来年までに更新」
「賛成。あと俊樹にヘッドライト」
「それも必要」
「俺、装備を増やされてない?」
「改善だから」
「愛だと思え」
「急に雑だな」
 月の下でそんなやりとりを聞きながら、俊樹は胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
 何を犠牲にしても守りたい、なんて言い方は、きっと少し間違っている。
 本当に大事なものは、誰か一人が削れて守るものじゃない。
 転びそうになったら止めてくれる人がいて、足りないところを埋める人がいて、笑って前を向かせてくれる人がいる。
 たぶん恋も、そうやって始まる。
「涼香」
「なに?」
「閉場後なら、恋愛の学習してもいい?」
「内容による」
「まずは、その……次の月夜の当番も一緒にやりたい」
 涼香は数秒だけ黙ってから、ふっと笑った。
「それ、ずいぶん着実な誘い方だね」
「君の影響」
「悪くないかも」
 赤い葡萄畑の上で、月が少しだけ白く冴えた。
 俊樹はその夜、自分が何を守りたかったのか、ようやくちゃんと知った。
 シャーベットでも、ゼリーでもない。
 たぶんあの笑顔と、
 その笑顔がちゃんと続く夏の夜だ。