日の当たらない場所で、体当たりの恋をした
ー/ー「金棒が消えました」
夏休み最初の土曜の朝、美優は天気予報を読むみたいな落ち着いた声でそう言った。
けれど内容が穏やかじゃない。
「それはまずいな」
僕がうなずくと、美優はすぐにメモ帳を開いた。
「まずいです。今日の朝焼けの森案内で、鬼役が持つはずの金棒です」
「鬼役が丸腰ってこと?」
「丸腰です」
「鬼の面目が」
「面目より進行が困ります」
僕、隼也は、この町に引っ越してきて三か月になる。
知らないことは多い。というか、ほとんど知らない。
山の名前も、祭りの順番も、ラジオ体操の集合場所も、いまだに半分くらい怪しい。
ただ、わからないなら笑って走る、という方針だけは昔から一貫している。
今日の案内は、町の外れにある遊歩道「朝焼けの森」を、夜明け前から歩く夏の恒例だった。
森の奥にある展望台で朝日を見る。ただ歩くだけでは子どもが飽きるので、途中で「木陰鬼」という鬼役が出てきて、飴を配ったり、写真を撮ったりする。
木陰鬼は日の当たらない場所にしか現れない、という設定らしい。
ずいぶん都合のいい鬼だが、子どもには人気だと聞いた。
「金棒なんて、代わりになりそうな棒ならいくらでもあるだろ」
僕が言うと、美優はきっぱり首を振った。
「だめです。あれは先代の案内係だった私の祖父が作ったものです。軽くて丈夫で、子どもに当たっても痛くない。見た目だけは本格派。つまり高性能なんです」
「高性能の金棒って初めて聞いた」
「私もこの町でしか聞いたことありません」
「なら町の文化財に近いな」
「そこまでは言いませんけど、気持ちは近いです」
美優は何事も着実に進める。
準備表は分刻み、予備の飲み物は気温別、虫よけは肌の弱い人用と通常用で分けてある。
思慮深い人が本気を出すと、もう災害対策本部みたいになる。
その美優が、今日は目に見えて困っていた。
「最後に見たのは?」
「昨日の片づけのあと、道具小屋です」
「鍵は?」
「かけました」
「じゃあ、鬼が自立して歩いていった線は薄いな」
「最初からその線はありません」
そこへ、佳睦がアイスコーヒー片手に現れた。
「話は聞いたよ。金棒捜索だって?」
佳睦は僕らの一つ上で、町のことをよく知っている。人の気持ちにも敏感で、言いにくいことを言わせない空気を作るのがうまい。そのくせ趣味が妙に多い。
釣り、カメラ、革細工、星図、古道具集め。たぶん百年生きても飽きない。
「手伝ってくれるのか」
僕が聞くと、佳睦は肩から小さいバッグを下ろした。
「もちろん。こういうときのために、金属探知機を持ってきた」
「なんで持ってるんだよ」
「趣味」
「趣味が広すぎるだろ」
「大丈夫。木の金棒でも、中に補強の金具が入ってたら反応する」
佳睦はそう言って、得意げに黒い機械を掲げた。
朝から何に使うのかわからない機械が出てくる町、嫌いじゃない。
さらにそこへ、乃瑚が自転車で滑り込んできた。
「状況共有、今受けた。捜索範囲を分ける」
乃瑚は息を切らしながらも、すでに手帳を開いていた。
弱いところを見つけると、そこをちゃんと直していく人だ。最初は段取りで空回りすることも多かったらしいが、最近は調整役として右に出る人がいない。
「隼也は道具小屋から森の入口まで。美優は受付周りの再確認。佳睦さんは金属探知機。私は聞き込み」
「聞き込みって、町で金棒を?」
「この町なら、うっかり持っていく人が三人はいる」
「そんなに?」
いた。
一人目は、朝の草刈りに使えそうだと思った八百屋のおじさん。
二人目は、孫に見せたら喜ぶと思った駄菓子屋のおばあさん。
三人目は、護身用にちょうどいいと考えた旅館の女将。
「うっかりじゃない人が混ざってたな」
僕が言うと、乃瑚は真顔でうなずいた。
「だから聞き込みが必要」
正論だった。
しかし、どれも本物ではなかった。
似たような棒、ただの角材、野球のバット、傘の柄が太いやつ。町じゅうの「それっぽいもの」が集まっただけで、肝心の高性能金棒は出てこない。
昼前になるころには、蝉の声までせっかちになってきた。
美優は表情こそ崩さなかったが、ペンを持つ指先に少し力が入っていた。
「もう一度、道具小屋を見よう」
僕が言うと、美優は小さく首を振った。
「見ました。三回」
「四回目は新鮮だ」
「四回目で出てきたら怪談です」
「夏だからありだろ」
「私、今は怪談より現実的な奇跡がほしいです」
その言い方が、少しだけ弱く聞こえた。
僕は初めてそこで、美優が金棒そのものだけじゃなく、その向こうにあるものを気にしていると気づいた。
「おじいさんの?」
そう聞くと、美優は一瞬だけ黙った。
「……はい。祖父が最後に削ったのが、あの金棒でした。軽くて安全で、でも子どもが見たらちゃんと嬉しい形にするって、何日も木を削ってたんです」
「じゃあ、なおさら見つけないと」
「見つけます」
美優は即答した。
その声が強かったぶん、胸の奥にある焦りも見えた気がした。
佳睦が、しゃがみこんで地面を見ていた。
「ねえ、これ」
彼が指差したのは、道具小屋の裏に落ちていた細い木くずだった。
「削りかす?」
「うん。でも、これ、昨日ここで出た感じじゃない。湿ってるし、苔がついてる」
「苔?」
「森の北側の、日の当たらない場所の匂いがする」
「匂いでわかるのか」
「趣味で古い木を触ってるとね」
「また趣味!」
佳睦の感覚は半分くらい魔法だが、外れが少ない。
僕らはすぐに森の北側へ向かった。
朝焼けの森は、名前のわりに入口付近は木陰が濃い。特に北側の斜面には、古い炭焼き小屋の跡が残っていて、昼でも薄暗い。
子どもたちはそのあたりを「日の当たらない場所」と呼んで少し怖がる。
「そこに誰かが隠した?」
僕が聞くと、乃瑚が答えた。
「隠すなら、人が来にくい場所。持ち去る理由が悪意じゃなくても、置き忘れならあり得る」
「なるほど」
「あと隼也、根っこ多いから走らないで」
「任せろ」
言った直後に根っこへつまずいて、僕は見事に前のめりになった。
美優が反射で僕の腕をつかむ。
そのまま二人でよろけて、危うく斜面に転がるところだった。
「任せろ、の信用のなさがすごい」
美優が呆れたように言う。
「今のは地面が急に来た」
「最初からありました」
「体当たりで支えてくれたな」
「落ちたら面倒だからです」
「理由はどうでも、ちょっと嬉しい」
「今、そういう時間じゃありません」
でも、美優の耳が少し赤かった。
森の中だからじゃないと思う。
古い炭焼き小屋の跡は、苔むした石と半分壊れた屋根だけが残っていた。
佳睦の金属探知機が、急にぴ、と鳴る。
「反応あり」
「まじか!」
僕は勢いよく茂みをかき分けた。
その瞬間、足元から何かが飛び出してきて、僕は悲鳴をあげた。
「うわっ、鬼!」
「鶏」
乃瑚が即答した。
近所の誰かの鶏が、どういうわけか森で涼んでいたらしい。
心臓に悪い高性能だった。
「隼也、もう少し静かに」
美優が言いながら、小屋の奥にしゃがみこんだ。
その手が、すぐに止まる。
「あった」
声は小さかったけれど、確かだった。
薄暗い小屋の隅に、布でくるまれた金棒が置かれていた。
木の節にあわせて丁寧に色が塗られ、先端は丸く削ってある。近くで見るとたしかにかわいげがあるのに、ちゃんと鬼の道具に見える。
そして布の上には、子どもの字で書いた紙がのっていた。
『かってにもちだしてごめんなさい
ぼくもおにのやくをやってみたかったです
でもおもくなくて、なんかやさしいので
こわいおにになれませんでした
もどすのこわくてここにおきました
ゆうま』
四人で、しばらく黙った。
いちばん最初に息を吐いたのは、美優だった。
「優しいので、怖い鬼になれませんでした、か」
それを読んで、彼女は困ったように笑った。
「祖父らしい」
「怒るかと思った」
僕が言うと、美優は首を振った。
「たぶん怒りません。たぶん、『それでいい』って言います」
その言い方があまりに自然で、僕までその祖父を知っている気がした。
「じゃあ今年の木陰鬼も、怖くないほうがいいな」
僕が金棒を持ち上げると、意外なほど軽かった。
「ほんとだ。高性能だ」
「でしょう」
美優は少し誇らしそうに言った。
森を出るころには、東の空が白み始めていた。
朝焼けまで、あと少し。
受付に戻ると、乃瑚が参加者の列を整え、佳睦が子どもたちの緊張をほぐすようにカメラを見せていた。
誰も責める顔をしていない。
遅れを取り戻すために、必要なことをそれぞれがもう始めていた。
この三人、本当に強いなと僕は思った。
「隼也」
鬼のお面を渡しながら、美優が言う。
「鬼役、できますか」
「知識はない」
「知ってます」
「でも前向きさならある」
「それも知ってます」
「じゃあ、やる」
「お願いします」
僕は木陰鬼になった。
日の当たらない場所からぬっと出て、金棒を軽く振り、子どもたちに飴を配る。
本来なら少し怖がらせる役回りだったらしいが、最初の男の子が僕の金棒を見るなり叫んだ。
「それ、ゆうまんちの秘密基地にあったやつに似てる!」
列の後ろで、美優が額を押さえた。
どうやら持ち出した本人は、普通に参加していたらしい。
けれど当のゆうまは、僕を見るなり青ざめて、それから思い切ったように前へ出てきた。
「ごめんなさい!」
森じゅうに響く大声だった。
子どもは偉い。大人より先に腹をくくる瞬間がある。
僕はお面の下で笑って、金棒を差し出した。
「この金棒、やさしいだろ」
ゆうまがこくんとうなずく。
「だから今年の木陰鬼は、こわがらせるのをやめた。代わりに、ちゃんと謝れたやつを褒める鬼にした」
後ろで、佳睦が「いいね」と小さく言ったのが聞こえた。
ゆうまは泣きそうな顔で、それでも胸を張った。
僕は飴を二つ渡した。
「次に借りるときは、言ってからな」
「うん!」
「あと秘密基地は片づけろ」
「それはちょっとむずかしい」
「そこは頑張れ」
子どもたちが笑う。
つられて大人も笑う。
笑い声の向こうで、展望台の先から朝日がのぼった。
朝焼けの森に、ようやく光が差し込む。
案内が全部終わったあと、僕は鬼のお面を外して、美優の隣に座った。
汗だくで、足も棒みたいだったけれど、気分は悪くない。
「どうだった?」
僕が聞くと、美優は少し考えてから言った。
「予定からはかなり外れました」
「やっぱり」
「でも、いい朝でした」
それから彼女は、僕のほうを見た。
「隼也は高性能ではないですけど」
「悪口か?」
「ちがいます」
美優はふっと笑った。
「たぶん、ああいう場ではすごく役に立ちます」
「つまり?」
「持ち前のポジティブさを活かせた、ということです」
「それ、褒めてるな」
「はい」
「じゃあ、お礼に言っておく」
「何をですか」
「さっき森で支えてくれたやつ。あれ、体当たりの恋の始まりみたいでよかった」
「始まってません」
「じゃあ予約で」
「何の予約ですか」
「恋の」
「受け付けてません」
即答だった。
でも、美優は立ち上がる前に、ほんの少しだけ僕の袖をつまんだ。
「……ただ」
「ただ?」
「今度また転びそうになったら、支えるくらいはします」
「それ、かなり脈がある返事では?」
「山道限定です」
「じゃあ山道を増やそう」
「調子に乗らないでください」
そう言いながら、美優はもう笑っていた。
朝日が高くなると、さっきまで薄暗かった森の入口にも、少しだけ光が届いた。
日の当たらない場所だと思っていたところにも、時間をかければちゃんと朝は来るらしい。
そのことを、僕はこの町に来て初めて、少しだけ本気で信じた。
知らないことだらけでも、なくした金棒が戻ってくる朝はある。
やさしい鬼がいて、叱る前に褒める大人がいて、着実に物事を進める女の子が、最後に少しだけ笑ってくれる。
そんな夏なら、無知のままでも悪くない。
いや、できれば来年までには、もう少し賢くなっていたいけれど。
少なくとも次は、
金棒をなくさないくらいには。
夏休み最初の土曜の朝、美優は天気予報を読むみたいな落ち着いた声でそう言った。
けれど内容が穏やかじゃない。
「それはまずいな」
僕がうなずくと、美優はすぐにメモ帳を開いた。
「まずいです。今日の朝焼けの森案内で、鬼役が持つはずの金棒です」
「鬼役が丸腰ってこと?」
「丸腰です」
「鬼の面目が」
「面目より進行が困ります」
僕、隼也は、この町に引っ越してきて三か月になる。
知らないことは多い。というか、ほとんど知らない。
山の名前も、祭りの順番も、ラジオ体操の集合場所も、いまだに半分くらい怪しい。
ただ、わからないなら笑って走る、という方針だけは昔から一貫している。
今日の案内は、町の外れにある遊歩道「朝焼けの森」を、夜明け前から歩く夏の恒例だった。
森の奥にある展望台で朝日を見る。ただ歩くだけでは子どもが飽きるので、途中で「木陰鬼」という鬼役が出てきて、飴を配ったり、写真を撮ったりする。
木陰鬼は日の当たらない場所にしか現れない、という設定らしい。
ずいぶん都合のいい鬼だが、子どもには人気だと聞いた。
「金棒なんて、代わりになりそうな棒ならいくらでもあるだろ」
僕が言うと、美優はきっぱり首を振った。
「だめです。あれは先代の案内係だった私の祖父が作ったものです。軽くて丈夫で、子どもに当たっても痛くない。見た目だけは本格派。つまり高性能なんです」
「高性能の金棒って初めて聞いた」
「私もこの町でしか聞いたことありません」
「なら町の文化財に近いな」
「そこまでは言いませんけど、気持ちは近いです」
美優は何事も着実に進める。
準備表は分刻み、予備の飲み物は気温別、虫よけは肌の弱い人用と通常用で分けてある。
思慮深い人が本気を出すと、もう災害対策本部みたいになる。
その美優が、今日は目に見えて困っていた。
「最後に見たのは?」
「昨日の片づけのあと、道具小屋です」
「鍵は?」
「かけました」
「じゃあ、鬼が自立して歩いていった線は薄いな」
「最初からその線はありません」
そこへ、佳睦がアイスコーヒー片手に現れた。
「話は聞いたよ。金棒捜索だって?」
佳睦は僕らの一つ上で、町のことをよく知っている。人の気持ちにも敏感で、言いにくいことを言わせない空気を作るのがうまい。そのくせ趣味が妙に多い。
釣り、カメラ、革細工、星図、古道具集め。たぶん百年生きても飽きない。
「手伝ってくれるのか」
僕が聞くと、佳睦は肩から小さいバッグを下ろした。
「もちろん。こういうときのために、金属探知機を持ってきた」
「なんで持ってるんだよ」
「趣味」
「趣味が広すぎるだろ」
「大丈夫。木の金棒でも、中に補強の金具が入ってたら反応する」
佳睦はそう言って、得意げに黒い機械を掲げた。
朝から何に使うのかわからない機械が出てくる町、嫌いじゃない。
さらにそこへ、乃瑚が自転車で滑り込んできた。
「状況共有、今受けた。捜索範囲を分ける」
乃瑚は息を切らしながらも、すでに手帳を開いていた。
弱いところを見つけると、そこをちゃんと直していく人だ。最初は段取りで空回りすることも多かったらしいが、最近は調整役として右に出る人がいない。
「隼也は道具小屋から森の入口まで。美優は受付周りの再確認。佳睦さんは金属探知機。私は聞き込み」
「聞き込みって、町で金棒を?」
「この町なら、うっかり持っていく人が三人はいる」
「そんなに?」
いた。
一人目は、朝の草刈りに使えそうだと思った八百屋のおじさん。
二人目は、孫に見せたら喜ぶと思った駄菓子屋のおばあさん。
三人目は、護身用にちょうどいいと考えた旅館の女将。
「うっかりじゃない人が混ざってたな」
僕が言うと、乃瑚は真顔でうなずいた。
「だから聞き込みが必要」
正論だった。
しかし、どれも本物ではなかった。
似たような棒、ただの角材、野球のバット、傘の柄が太いやつ。町じゅうの「それっぽいもの」が集まっただけで、肝心の高性能金棒は出てこない。
昼前になるころには、蝉の声までせっかちになってきた。
美優は表情こそ崩さなかったが、ペンを持つ指先に少し力が入っていた。
「もう一度、道具小屋を見よう」
僕が言うと、美優は小さく首を振った。
「見ました。三回」
「四回目は新鮮だ」
「四回目で出てきたら怪談です」
「夏だからありだろ」
「私、今は怪談より現実的な奇跡がほしいです」
その言い方が、少しだけ弱く聞こえた。
僕は初めてそこで、美優が金棒そのものだけじゃなく、その向こうにあるものを気にしていると気づいた。
「おじいさんの?」
そう聞くと、美優は一瞬だけ黙った。
「……はい。祖父が最後に削ったのが、あの金棒でした。軽くて安全で、でも子どもが見たらちゃんと嬉しい形にするって、何日も木を削ってたんです」
「じゃあ、なおさら見つけないと」
「見つけます」
美優は即答した。
その声が強かったぶん、胸の奥にある焦りも見えた気がした。
佳睦が、しゃがみこんで地面を見ていた。
「ねえ、これ」
彼が指差したのは、道具小屋の裏に落ちていた細い木くずだった。
「削りかす?」
「うん。でも、これ、昨日ここで出た感じじゃない。湿ってるし、苔がついてる」
「苔?」
「森の北側の、日の当たらない場所の匂いがする」
「匂いでわかるのか」
「趣味で古い木を触ってるとね」
「また趣味!」
佳睦の感覚は半分くらい魔法だが、外れが少ない。
僕らはすぐに森の北側へ向かった。
朝焼けの森は、名前のわりに入口付近は木陰が濃い。特に北側の斜面には、古い炭焼き小屋の跡が残っていて、昼でも薄暗い。
子どもたちはそのあたりを「日の当たらない場所」と呼んで少し怖がる。
「そこに誰かが隠した?」
僕が聞くと、乃瑚が答えた。
「隠すなら、人が来にくい場所。持ち去る理由が悪意じゃなくても、置き忘れならあり得る」
「なるほど」
「あと隼也、根っこ多いから走らないで」
「任せろ」
言った直後に根っこへつまずいて、僕は見事に前のめりになった。
美優が反射で僕の腕をつかむ。
そのまま二人でよろけて、危うく斜面に転がるところだった。
「任せろ、の信用のなさがすごい」
美優が呆れたように言う。
「今のは地面が急に来た」
「最初からありました」
「体当たりで支えてくれたな」
「落ちたら面倒だからです」
「理由はどうでも、ちょっと嬉しい」
「今、そういう時間じゃありません」
でも、美優の耳が少し赤かった。
森の中だからじゃないと思う。
古い炭焼き小屋の跡は、苔むした石と半分壊れた屋根だけが残っていた。
佳睦の金属探知機が、急にぴ、と鳴る。
「反応あり」
「まじか!」
僕は勢いよく茂みをかき分けた。
その瞬間、足元から何かが飛び出してきて、僕は悲鳴をあげた。
「うわっ、鬼!」
「鶏」
乃瑚が即答した。
近所の誰かの鶏が、どういうわけか森で涼んでいたらしい。
心臓に悪い高性能だった。
「隼也、もう少し静かに」
美優が言いながら、小屋の奥にしゃがみこんだ。
その手が、すぐに止まる。
「あった」
声は小さかったけれど、確かだった。
薄暗い小屋の隅に、布でくるまれた金棒が置かれていた。
木の節にあわせて丁寧に色が塗られ、先端は丸く削ってある。近くで見るとたしかにかわいげがあるのに、ちゃんと鬼の道具に見える。
そして布の上には、子どもの字で書いた紙がのっていた。
『かってにもちだしてごめんなさい
ぼくもおにのやくをやってみたかったです
でもおもくなくて、なんかやさしいので
こわいおにになれませんでした
もどすのこわくてここにおきました
ゆうま』
四人で、しばらく黙った。
いちばん最初に息を吐いたのは、美優だった。
「優しいので、怖い鬼になれませんでした、か」
それを読んで、彼女は困ったように笑った。
「祖父らしい」
「怒るかと思った」
僕が言うと、美優は首を振った。
「たぶん怒りません。たぶん、『それでいい』って言います」
その言い方があまりに自然で、僕までその祖父を知っている気がした。
「じゃあ今年の木陰鬼も、怖くないほうがいいな」
僕が金棒を持ち上げると、意外なほど軽かった。
「ほんとだ。高性能だ」
「でしょう」
美優は少し誇らしそうに言った。
森を出るころには、東の空が白み始めていた。
朝焼けまで、あと少し。
受付に戻ると、乃瑚が参加者の列を整え、佳睦が子どもたちの緊張をほぐすようにカメラを見せていた。
誰も責める顔をしていない。
遅れを取り戻すために、必要なことをそれぞれがもう始めていた。
この三人、本当に強いなと僕は思った。
「隼也」
鬼のお面を渡しながら、美優が言う。
「鬼役、できますか」
「知識はない」
「知ってます」
「でも前向きさならある」
「それも知ってます」
「じゃあ、やる」
「お願いします」
僕は木陰鬼になった。
日の当たらない場所からぬっと出て、金棒を軽く振り、子どもたちに飴を配る。
本来なら少し怖がらせる役回りだったらしいが、最初の男の子が僕の金棒を見るなり叫んだ。
「それ、ゆうまんちの秘密基地にあったやつに似てる!」
列の後ろで、美優が額を押さえた。
どうやら持ち出した本人は、普通に参加していたらしい。
けれど当のゆうまは、僕を見るなり青ざめて、それから思い切ったように前へ出てきた。
「ごめんなさい!」
森じゅうに響く大声だった。
子どもは偉い。大人より先に腹をくくる瞬間がある。
僕はお面の下で笑って、金棒を差し出した。
「この金棒、やさしいだろ」
ゆうまがこくんとうなずく。
「だから今年の木陰鬼は、こわがらせるのをやめた。代わりに、ちゃんと謝れたやつを褒める鬼にした」
後ろで、佳睦が「いいね」と小さく言ったのが聞こえた。
ゆうまは泣きそうな顔で、それでも胸を張った。
僕は飴を二つ渡した。
「次に借りるときは、言ってからな」
「うん!」
「あと秘密基地は片づけろ」
「それはちょっとむずかしい」
「そこは頑張れ」
子どもたちが笑う。
つられて大人も笑う。
笑い声の向こうで、展望台の先から朝日がのぼった。
朝焼けの森に、ようやく光が差し込む。
案内が全部終わったあと、僕は鬼のお面を外して、美優の隣に座った。
汗だくで、足も棒みたいだったけれど、気分は悪くない。
「どうだった?」
僕が聞くと、美優は少し考えてから言った。
「予定からはかなり外れました」
「やっぱり」
「でも、いい朝でした」
それから彼女は、僕のほうを見た。
「隼也は高性能ではないですけど」
「悪口か?」
「ちがいます」
美優はふっと笑った。
「たぶん、ああいう場ではすごく役に立ちます」
「つまり?」
「持ち前のポジティブさを活かせた、ということです」
「それ、褒めてるな」
「はい」
「じゃあ、お礼に言っておく」
「何をですか」
「さっき森で支えてくれたやつ。あれ、体当たりの恋の始まりみたいでよかった」
「始まってません」
「じゃあ予約で」
「何の予約ですか」
「恋の」
「受け付けてません」
即答だった。
でも、美優は立ち上がる前に、ほんの少しだけ僕の袖をつまんだ。
「……ただ」
「ただ?」
「今度また転びそうになったら、支えるくらいはします」
「それ、かなり脈がある返事では?」
「山道限定です」
「じゃあ山道を増やそう」
「調子に乗らないでください」
そう言いながら、美優はもう笑っていた。
朝日が高くなると、さっきまで薄暗かった森の入口にも、少しだけ光が届いた。
日の当たらない場所だと思っていたところにも、時間をかければちゃんと朝は来るらしい。
そのことを、僕はこの町に来て初めて、少しだけ本気で信じた。
知らないことだらけでも、なくした金棒が戻ってくる朝はある。
やさしい鬼がいて、叱る前に褒める大人がいて、着実に物事を進める女の子が、最後に少しだけ笑ってくれる。
そんな夏なら、無知のままでも悪くない。
いや、できれば来年までには、もう少し賢くなっていたいけれど。
少なくとも次は、
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