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ひきわり納豆と、思い出せない夏

ー/ー



 その夏、うちの商店街には「つまみ食い禁止令」が出た。

 墨で書かれた半紙が、魚屋と文房具屋のあいだにべたりと貼られた朝、僕は思わず二度見した。
『夏祭り準備中につき、無断のつまみ食いを固く禁ずる』
 署名は、小温。
 達筆すぎて、軽い罪状が妙に重い。

「朝から笑わせないでくれよ」
 僕が言うと、貼り紙の前で腕を組んでいた小温はきっぱり言った。
「笑いごとじゃないよ、悠都。昨日だけで焼きとうもろこし三本、唐揚げ七個、冷やしきゅうり二本分が消えたの」
「二本分って数え方、細かいな」
「細かく見るのが私の役目だから」
 正しいことを正しい顔で言うと、小温はほんとうに強い。

 商店街では三日後の夜に、海風通り夏祭りを開く予定だった。
 僕は弁当屋の息子というだけで、なぜか高校生手伝い班のまとめ役にされている。優先順位をつけるのは得意だ。得意というより、そうしないと店も家も回らないだけだけど。

「で、犯人は?」
 僕が聞くと、小温はじっと僕を見た。
「それを探すための禁止令」
「見せしめじゃん」
「抑止力」

 そこへ、商店街の端から派手な声が飛んできた。
「悠都ー! ちょっと来て!」
 振り向くと、瑞貴が手をぶんぶん振っていた。麦わら帽子、オレンジのワンピース、爪は夏の信号機みたいにきらきらしている。本人が迫力あるうえに、指先まで主張が激しい。

「今忙しい」
「知ってる。でももっと大事」
「その言い方で大事だったこと、あんまりないぞ」
「今日はあるの。ネイルサロンへ」
「は?」
「祭り当日、案内係の手元が暗いと見えないでしょ。蓄光ネイルを試したいの」
「それは、今すぐ?」
「今すぐ」
 瑞貴は胸を張った。
「目立つことは、町のためにもなるの」

 意味が通っているようで、半分くらいしか通っていない。
 でも、こういう押し切り方をされると、たいてい最後には瑞貴が勝つ。

「俺も行く?」
「荷物持ち」
「雑だな」
「感謝はしてる」
「口だけだろ」
「うん」

 小温がため息をついた。
「三十分で戻ってきて。つまみ食い犯の捜索会議、午後からだから」
「会議の名前が物騒なんだよ」
「あと、移動中の買い食いも禁止」
「誰に向けて言ってる?」
「主に瑞貴」
「ひどっ」
 瑞貴は言いながら、もう僕の腕を引っぱっていた。

 ネイルサロン「ルミエール」は、商店街の角の二階にある。
 冷房の効いた店内は別世界みたいで、僕は入った瞬間ちょっとだけ生き返った。
 店長さんが瑞貴の手を見て、嬉しそうに笑う。
「あら、今日は何色にする?」
「夜の案内用だから、暗いところで光る感じ。夏の海みたいな」
「それ、ほぼ全部盛りね」
 店長さんは慣れた顔でライトやらジェルやらを並べ始めた。

 僕は待合の椅子に座って、壁の貝殻の飾りを見ていた。
 そのとき、妙な感じがした。
 前にもここへ来たことがある気がしたのだ。
 でも思い出せない。
 椅子のきしみ方も、レモンみたいな甘い匂いも、知っているのに、その先だけ霧がかかっている。

「どうしたの」
 瑞貴が片手をライトに入れたまま聞いた。
「いや……前にもここ来たかなって」
「来たことあるよ」
「え?」
「あるけど、忘れてるならあとで」
「なんでそこで止めるんだよ」
「今しゃべると、私が思わせぶりな女みたいじゃん」
「今の時点でだいぶそうだよ」

 瑞貴はふふんと笑って、爪の先を乾かした。
 暗い場所で光るように、星みたいな細かいラメが入っているらしい。
 たしかに目立つ。目立ちたがり屋が全力で才能を使うと、ここまで迷いがないのかと感心した。

 その夜だった。

 祭りの最終準備で、商店街の店先に提灯を下げていたとき、いきなり町が暗くなった。
 ぶつん、という音が本当に聞こえた気がした。
 街灯も、自販機も、店の看板も消える。海のほうから吹く風だけが、暗い通りをするりと抜けた。

「停電!?」
「ブレーカーじゃない、通り全部だ!」
 あちこちで声が上がる。
 直喜が、工具箱を抱えて走ってきた。こいつはラジオだの懐中電灯だの手回し発電機だの、とにかく趣味が多い。
「変電所側っぽい。復旧、少しかかるかも」
「どれくらい?」
「わからん。でも祭り用の冷蔵庫、このままだとやばい」
 僕の背中に汗が伝った。

 冷蔵庫、屋台材料、商店街の高齢者、帰れなくなる子ども。
 頭の中に、やるべきことが一気に押し寄せる。
 優先順位をつけろ。
 いつもならそれで動けるのに、その夜はだめだった。
 暗闇を見た瞬間、胸の奥に変なざわつきが広がった。
 何か大事なことを忘れている。
 前にも、こんな夏の夜があった。
 暗くて、少し泣きそうで、誰かが――。

「悠都!」
 瑞貴の声で我に返る。
 彼女の爪が、暗闇の中でぼんやり青く光っていた。
 本当に、星みたいに。

「ぼーっとしない。今、誰から助ける?」
「……え」
「優先順位つけるの得意でしょ」
 迫力のある声が、妙にまっすぐ僕に届く。
 僕は息を吸った。
 そうだ。まずはそこからだ。

「人。先に人の安全確認。次に冷蔵庫。直喜、非常灯あるだけ集めて高齢の人が多い並びを回って」
「任せろ。友だちの家の工具箱まで借りる」
「小温! 子どもとお年寄りを公民館に集めて、人数確認!」
「わかった」
「瑞貴は――」
「目立てばいい?」
「そう。今日は全力で目立って」
「得意分野!」

 瑞貴は暗い通りの真ん中へ出ると、光る指先を高く上げた。
「みんな聞いて! 足元見えない人、こっち! 小さい子は手をつないで! パニックになる前に集まる!」
 声も見た目も派手だから、こういうとき異様に強い。
 人が自然と集まり始める。

 その間に、僕は店の冷蔵庫を確認して回った。
 氷を移す。ふたを開ける回数を減らす。店ごとに残り時間を書き出す。
 作業しているうちに、またあの妙な感覚が戻ってきた。
 何か、どこかに、停電のとき役立つものがあったはずだ。
 でも思い出せない。

「もしかして」
 直喜が言った。
「ルミエールの店長、でっかい充電式ライト持ってた気がする。前に模型の塗装見せてもらったとき見た」
「なんでネイルサロンで模型の話してるんだよ」
「趣味の縁」
「広いな、お前の縁」

 僕と瑞貴はすぐに二階へ駆け上がった。
 真っ暗なサロンのドアを開けると、昼に嗅いだレモンみたいな香りがした。
 そこで、不意に記憶がひらいた。

 小学生の夏。
 祭りの日。
 停電で泣きそうになって、迷子になって、僕はこの店の前にしゃがみこんでいた。
 そのとき、同じ年くらいの女の子が僕の手をつかんで言ったのだ。

『暗いときは、手を見ればいいよ。自分の星があれば平気』

 女の子はサンプル用の蓄光ジェルで、僕の親指の爪に小さな星を描いた。
 それから、泣きやまない僕に、自分が食べかけだったひきわり納豆の細巻きを半分くれた。
『おなかすいてると、余計にこわいんだよ』
 と、えらそうに言って。

 僕は呆然と瑞貴を見た。
「……お前か」
 暗闇の中で、瑞貴が肩をすくめる。
「やっと思い出した」
「なんで言わなかったんだよ」
「だって、思い出せない記憶を人から説明されるの、なんか悔しくない?」
「理屈はわかるけど今言う?」
「今だから」

 それから瑞貴は、棚の奥から大きな充電ライトを二台引っぱり出した。
「店長、停電多いからって買ってた」
「ナイス」
「でしょ」
 彼女は少しだけ笑って、それから僕の親指をつかんだ。
「動かないで」
「は?」
「一個だけ塗る」
 小さな筆で、爪にちょんと何かを乗せる。
 数秒後、僕の親指の先に、青白い星が浮かんだ。

「応急処置」
 瑞貴が言う。
「また忘れても、今日は見れば思い出せる」

 下へ戻ると、小温が公民館の前で新しい貼り紙を書いていた。
『つまみ食い禁止令 一時保留』
「保留?」
 僕が聞くと、小温はうなずいた。
「泣いてる子が三人。おなかすいてるって」
「正しい判断」
「でしょ」
 珍しく小温が少しだけ笑った。

 僕はみんなに聞こえるように言った。
「祭り用の納豆巻きとおにぎり、先に配る! 無断のつまみ食いは禁止。でも、必要な人が食べるのは別だ!」
 どこかから拍手が起きた。
 直喜が懐中電灯を肩に挟んだまま叫ぶ。
「ひきわり納豆、こんな形で主役になるとは!」
「お前、嬉しそうだな」
「趣味で発酵食品もやってるからな」
「守備範囲どうなってるんだよ」

 暗い公民館で、子どもたちが納豆巻きを頬張る。
 商店街のおじさんたちが氷を運ぶ。
 瑞貴の光る爪が人を導いて、直喜の集めたライトが廊下を照らし、小温が名簿を持って最後まで人数を確認する。
 停電した街の真ん中で、僕はようやく息をつけた。

 復旧したのは、日付が変わる少し前だった。
 提灯がいっせいに灯って、誰かが「おお」と声をあげる。
 遅れてきた祭りみたいな光だった。

 帰り際、商店街の掲示板には、小温の新しい貼り紙が増えていた。

『つまみ食い禁止令
 ただし、困っている人を助けるための味見は可』

「味見って言い換えれば、だいぶやさしいな」
 僕が言うと、小温は胸を張った。
「厳しさにも改定は必要だから」
 直喜がうんうんとうなずく。
「いい夜だったな。大変だったけど、仲間って感じした」
 こいつはほんとうに、そういうことを照れなく言う。

 最後に、瑞貴が僕の前へ手を出した。
「ほら」
 光る爪が四本、夜風の中に浮かぶ。
「今日の主役」
「自分で言うな」
「実際そうでしょ」
「否定はしない」
「素直でよろしい」

 僕は少し迷ってから、自分の親指を見せた。
 青白い小さな星が、まだ消えずに残っている。

「思い出したよ」
「納豆巻きのこと?」
「そこもだけど」
「そこ“も”なんだ」
「暗いときは、手を見ればいいって言ったの、お前だった」
 瑞貴は一瞬だけ目を丸くして、それから、ふっと笑った。
「十年越し。遅い」
「悪い。けど、忘れてた分はこれから覚える」
「そういう真面目な返し、ずるいんだよね」
「一貫して努力するのが取り柄なんだ」
「知ってる」

 通りの向こうで、復旧した街灯が波みたいに並んでいた。
 けれど僕には、そのどれよりも先に、目の前の指先が光って見えた。

 停電した街で見つけたのは、失くしものじゃなかったのかもしれない。
 忘れていたのに、ちゃんと残っていたもの。
 夏の夜の暗さに負けないくらい、笑えて、頼れて、少しまぶしい記憶だ。

「瑞貴」
「なに」
「祭りが終わったら、またネイルサロン付き合う」
「荷物持ち?」
「それでもいい」
「ふーん」
 彼女はいたずらっぽく笑って、光る手で僕の親指をこつんとつついた。
「じゃあ次は、もっと目立つやつにする」
「夏じゅう消えないくらいの?」
「それ、いいね」

 海風が吹いて、提灯が小さく揺れた。
 その下で僕は思った。
 たぶん夏は、何かをなくす季節じゃない。
 暗くなったときに、誰の光を頼りにするのか、ちゃんと知る季節なんだ。

 だから今年の夏祭りは、きっと去年より少しだけうまくいく。
 少なくとも、ひきわり納豆の細巻きは、もう勝手には減らない。

 減るとしたら。
 それはたぶん、瑞貴が堂々と食べるぶんだけだ。


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 墨で書かれた半紙が、魚屋と文房具屋のあいだにべたりと貼られた朝、僕は思わず二度見した。
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 署名は、小温。
 達筆すぎて、軽い罪状が妙に重い。
「朝から笑わせないでくれよ」
 僕が言うと、貼り紙の前で腕を組んでいた小温はきっぱり言った。
「笑いごとじゃないよ、悠都。昨日だけで焼きとうもろこし三本、唐揚げ七個、冷やしきゅうり二本分が消えたの」
「二本分って数え方、細かいな」
「細かく見るのが私の役目だから」
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 僕は弁当屋の息子というだけで、なぜか高校生手伝い班のまとめ役にされている。優先順位をつけるのは得意だ。得意というより、そうしないと店も家も回らないだけだけど。
「で、犯人は?」
 僕が聞くと、小温はじっと僕を見た。
「それを探すための禁止令」
「見せしめじゃん」
「抑止力」
 そこへ、商店街の端から派手な声が飛んできた。
「悠都ー! ちょっと来て!」
 振り向くと、瑞貴が手をぶんぶん振っていた。麦わら帽子、オレンジのワンピース、爪は夏の信号機みたいにきらきらしている。本人が迫力あるうえに、指先まで主張が激しい。
「今忙しい」
「知ってる。でももっと大事」
「その言い方で大事だったこと、あんまりないぞ」
「今日はあるの。ネイルサロンへ」
「は?」
「祭り当日、案内係の手元が暗いと見えないでしょ。蓄光ネイルを試したいの」
「それは、今すぐ?」
「今すぐ」
 瑞貴は胸を張った。
「目立つことは、町のためにもなるの」
 意味が通っているようで、半分くらいしか通っていない。
 でも、こういう押し切り方をされると、たいてい最後には瑞貴が勝つ。
「俺も行く?」
「荷物持ち」
「雑だな」
「感謝はしてる」
「口だけだろ」
「うん」
 小温がため息をついた。
「三十分で戻ってきて。つまみ食い犯の捜索会議、午後からだから」
「会議の名前が物騒なんだよ」
「あと、移動中の買い食いも禁止」
「誰に向けて言ってる?」
「主に瑞貴」
「ひどっ」
 瑞貴は言いながら、もう僕の腕を引っぱっていた。
 ネイルサロン「ルミエール」は、商店街の角の二階にある。
 冷房の効いた店内は別世界みたいで、僕は入った瞬間ちょっとだけ生き返った。
 店長さんが瑞貴の手を見て、嬉しそうに笑う。
「あら、今日は何色にする?」
「夜の案内用だから、暗いところで光る感じ。夏の海みたいな」
「それ、ほぼ全部盛りね」
 店長さんは慣れた顔でライトやらジェルやらを並べ始めた。
 僕は待合の椅子に座って、壁の貝殻の飾りを見ていた。
 そのとき、妙な感じがした。
 前にもここへ来たことがある気がしたのだ。
 でも思い出せない。
 椅子のきしみ方も、レモンみたいな甘い匂いも、知っているのに、その先だけ霧がかかっている。
「どうしたの」
 瑞貴が片手をライトに入れたまま聞いた。
「いや……前にもここ来たかなって」
「来たことあるよ」
「え?」
「あるけど、忘れてるならあとで」
「なんでそこで止めるんだよ」
「今しゃべると、私が思わせぶりな女みたいじゃん」
「今の時点でだいぶそうだよ」
 瑞貴はふふんと笑って、爪の先を乾かした。
 暗い場所で光るように、星みたいな細かいラメが入っているらしい。
 たしかに目立つ。目立ちたがり屋が全力で才能を使うと、ここまで迷いがないのかと感心した。
 その夜だった。
 祭りの最終準備で、商店街の店先に提灯を下げていたとき、いきなり町が暗くなった。
 ぶつん、という音が本当に聞こえた気がした。
 街灯も、自販機も、店の看板も消える。海のほうから吹く風だけが、暗い通りをするりと抜けた。
「停電!?」
「ブレーカーじゃない、通り全部だ!」
 あちこちで声が上がる。
 直喜が、工具箱を抱えて走ってきた。こいつはラジオだの懐中電灯だの手回し発電機だの、とにかく趣味が多い。
「変電所側っぽい。復旧、少しかかるかも」
「どれくらい?」
「わからん。でも祭り用の冷蔵庫、このままだとやばい」
 僕の背中に汗が伝った。
 冷蔵庫、屋台材料、商店街の高齢者、帰れなくなる子ども。
 頭の中に、やるべきことが一気に押し寄せる。
 優先順位をつけろ。
 いつもならそれで動けるのに、その夜はだめだった。
 暗闇を見た瞬間、胸の奥に変なざわつきが広がった。
 何か大事なことを忘れている。
 前にも、こんな夏の夜があった。
 暗くて、少し泣きそうで、誰かが――。
「悠都!」
 瑞貴の声で我に返る。
 彼女の爪が、暗闇の中でぼんやり青く光っていた。
 本当に、星みたいに。
「ぼーっとしない。今、誰から助ける?」
「……え」
「優先順位つけるの得意でしょ」
 迫力のある声が、妙にまっすぐ僕に届く。
 僕は息を吸った。
 そうだ。まずはそこからだ。
「人。先に人の安全確認。次に冷蔵庫。直喜、非常灯あるだけ集めて高齢の人が多い並びを回って」
「任せろ。友だちの家の工具箱まで借りる」
「小温! 子どもとお年寄りを公民館に集めて、人数確認!」
「わかった」
「瑞貴は――」
「目立てばいい?」
「そう。今日は全力で目立って」
「得意分野!」
 瑞貴は暗い通りの真ん中へ出ると、光る指先を高く上げた。
「みんな聞いて! 足元見えない人、こっち! 小さい子は手をつないで! パニックになる前に集まる!」
 声も見た目も派手だから、こういうとき異様に強い。
 人が自然と集まり始める。
 その間に、僕は店の冷蔵庫を確認して回った。
 氷を移す。ふたを開ける回数を減らす。店ごとに残り時間を書き出す。
 作業しているうちに、またあの妙な感覚が戻ってきた。
 何か、どこかに、停電のとき役立つものがあったはずだ。
 でも思い出せない。
「もしかして」
 直喜が言った。
「ルミエールの店長、でっかい充電式ライト持ってた気がする。前に模型の塗装見せてもらったとき見た」
「なんでネイルサロンで模型の話してるんだよ」
「趣味の縁」
「広いな、お前の縁」
 僕と瑞貴はすぐに二階へ駆け上がった。
 真っ暗なサロンのドアを開けると、昼に嗅いだレモンみたいな香りがした。
 そこで、不意に記憶がひらいた。
 小学生の夏。
 祭りの日。
 停電で泣きそうになって、迷子になって、僕はこの店の前にしゃがみこんでいた。
 そのとき、同じ年くらいの女の子が僕の手をつかんで言ったのだ。
『暗いときは、手を見ればいいよ。自分の星があれば平気』
 女の子はサンプル用の蓄光ジェルで、僕の親指の爪に小さな星を描いた。
 それから、泣きやまない僕に、自分が食べかけだったひきわり納豆の細巻きを半分くれた。
『おなかすいてると、余計にこわいんだよ』
 と、えらそうに言って。
 僕は呆然と瑞貴を見た。
「……お前か」
 暗闇の中で、瑞貴が肩をすくめる。
「やっと思い出した」
「なんで言わなかったんだよ」
「だって、思い出せない記憶を人から説明されるの、なんか悔しくない?」
「理屈はわかるけど今言う?」
「今だから」
 それから瑞貴は、棚の奥から大きな充電ライトを二台引っぱり出した。
「店長、停電多いからって買ってた」
「ナイス」
「でしょ」
 彼女は少しだけ笑って、それから僕の親指をつかんだ。
「動かないで」
「は?」
「一個だけ塗る」
 小さな筆で、爪にちょんと何かを乗せる。
 数秒後、僕の親指の先に、青白い星が浮かんだ。
「応急処置」
 瑞貴が言う。
「また忘れても、今日は見れば思い出せる」
 下へ戻ると、小温が公民館の前で新しい貼り紙を書いていた。
『つまみ食い禁止令 一時保留』
「保留?」
 僕が聞くと、小温はうなずいた。
「泣いてる子が三人。おなかすいてるって」
「正しい判断」
「でしょ」
 珍しく小温が少しだけ笑った。
 僕はみんなに聞こえるように言った。
「祭り用の納豆巻きとおにぎり、先に配る! 無断のつまみ食いは禁止。でも、必要な人が食べるのは別だ!」
 どこかから拍手が起きた。
 直喜が懐中電灯を肩に挟んだまま叫ぶ。
「ひきわり納豆、こんな形で主役になるとは!」
「お前、嬉しそうだな」
「趣味で発酵食品もやってるからな」
「守備範囲どうなってるんだよ」
 暗い公民館で、子どもたちが納豆巻きを頬張る。
 商店街のおじさんたちが氷を運ぶ。
 瑞貴の光る爪が人を導いて、直喜の集めたライトが廊下を照らし、小温が名簿を持って最後まで人数を確認する。
 停電した街の真ん中で、僕はようやく息をつけた。
 復旧したのは、日付が変わる少し前だった。
 提灯がいっせいに灯って、誰かが「おお」と声をあげる。
 遅れてきた祭りみたいな光だった。
 帰り際、商店街の掲示板には、小温の新しい貼り紙が増えていた。
『つまみ食い禁止令
 ただし、困っている人を助けるための味見は可』
「味見って言い換えれば、だいぶやさしいな」
 僕が言うと、小温は胸を張った。
「厳しさにも改定は必要だから」
 直喜がうんうんとうなずく。
「いい夜だったな。大変だったけど、仲間って感じした」
 こいつはほんとうに、そういうことを照れなく言う。
 最後に、瑞貴が僕の前へ手を出した。
「ほら」
 光る爪が四本、夜風の中に浮かぶ。
「今日の主役」
「自分で言うな」
「実際そうでしょ」
「否定はしない」
「素直でよろしい」
 僕は少し迷ってから、自分の親指を見せた。
 青白い小さな星が、まだ消えずに残っている。
「思い出したよ」
「納豆巻きのこと?」
「そこもだけど」
「そこ“も”なんだ」
「暗いときは、手を見ればいいって言ったの、お前だった」
 瑞貴は一瞬だけ目を丸くして、それから、ふっと笑った。
「十年越し。遅い」
「悪い。けど、忘れてた分はこれから覚える」
「そういう真面目な返し、ずるいんだよね」
「一貫して努力するのが取り柄なんだ」
「知ってる」
 通りの向こうで、復旧した街灯が波みたいに並んでいた。
 けれど僕には、そのどれよりも先に、目の前の指先が光って見えた。
 停電した街で見つけたのは、失くしものじゃなかったのかもしれない。
 忘れていたのに、ちゃんと残っていたもの。
 夏の夜の暗さに負けないくらい、笑えて、頼れて、少しまぶしい記憶だ。
「瑞貴」
「なに」
「祭りが終わったら、またネイルサロン付き合う」
「荷物持ち?」
「それでもいい」
「ふーん」
 彼女はいたずらっぽく笑って、光る手で僕の親指をこつんとつついた。
「じゃあ次は、もっと目立つやつにする」
「夏じゅう消えないくらいの?」
「それ、いいね」
 海風が吹いて、提灯が小さく揺れた。
 その下で僕は思った。
 たぶん夏は、何かをなくす季節じゃない。
 暗くなったときに、誰の光を頼りにするのか、ちゃんと知る季節なんだ。
 だから今年の夏祭りは、きっと去年より少しだけうまくいく。
 少なくとも、ひきわり納豆の細巻きは、もう勝手には減らない。
 減るとしたら。
 それはたぶん、瑞貴が堂々と食べるぶんだけだ。