淡い切符で、さよならを
ー/ー うちの町には、恋より先に別れの練習をさせる女がいる。
「大貴、今週の日曜、空いてる?」
そう言って、楓夏は人に予定を聞く顔ではなく、避難誘導を始める顔をしていた。
「空いてるけど」
「よし。旧なぎさ駅の一日限りの駅舎公開、手伝って」
「今の『よし』、絶対こっちに拒否権なかったよな」
「気のせい」
楓夏は真顔で言い切った。口が固いくせに、押しの強さだけは夏の西日みたいに容赦がない。
旧なぎさ駅は、海沿いを走っていた小さな路面電車の終点だった。三年前に廃線になって、今は駅舎だけが公民館の倉庫みたいに使われている。
その駅で、商店街と町内会が合同で「さよならから始めよう」という、いかにも楓夏が考えそうな名前の催しをやるらしい。
倉庫から見つかった昔の記念乗車券――少し青みがかった、淡い切符を来場者に配って、裏に「この夏、さよならしたいもの」を書いてもらう。最後に改札箱へ入れて、みんなで新しい一歩を踏み出そう、という催しだった。
「夏っぽいのか、それ」
俺が聞くと、楓夏は腕を組んだ。
「夏は終わるでしょ」
「身もふたもないな」
「終わるから、始まる」
そう言われると、ちょっとだけそれっぽく聞こえるのが悔しい。
当日、旧なぎさ駅には、俺のほかに宙都と英利花もいた。
宙都は実行表を持って、開始十分前なのにすでに反省会みたいな顔をしていた。
「僕は準備段階で二つ失敗した。ひとつ、案内看板の矢印を左右逆に貼った。もうひとつ、冷麦の発注数を読み違えた。でも対策は済んでる」
「失敗の共有が早いな」
「早いほうが被害が少ない」
こだわりの強い男は、自己分析まで抜かりない。
一方、英利花は駅舎の黒板にでかでかと文字を書いていた。
『ようこそ! ひと夏の恋、受付中!』
「違う違う違う!」
俺と楓夏の声がそろった。
「え、だって集客にはキャッチーさが必要じゃん」
「恋の相談所じゃない! さよならしたいものを書く催し!」
「似たようなもんでしょ。恋はだいたい、さよならとセットだし」
英利花は裏表なく笑った。間違っているのに妙な説得力があるのが困る。
開場して三分で、受付には本当に若い男女が並び始めた。
「ここで出会えるって聞いて」
「海辺の駅で恋が始まるってSNSに」
「誰だ流したの!」
俺が叫ぶと、英利花が胸を張った。
「私」
「戦う相手が身内だった!」
楓夏は深いため息をついたあと、黒板の『恋』を素早く消して、『未練』に書き換えた。
『ようこそ! ひと夏の未練、受付中!』
「もっとダメだろ!」
「でも少し正確になった」
宙都が冷静にうなずくのが腹立たしい。
それでも、始まってみれば駅舎公開は妙に盛り上がった。
「夏休みの先延ばし癖にさよなら」
「十年前の元カレのTシャツにさよなら」
「毎年増えるおなかの浮き輪にさよなら」
淡い切符に書かれる内容は、悲壮感より笑いのほうが勝っていた。
改札箱に切符を入れるたび、駅舎の中に小さな拍手が起きる。誰かの決意って、見ず知らずでも少し応援したくなるらしい。
俺は受付で切符を配りながら、楓夏の動きを目で追っていた。
あいつは困っている人を見つけるのが異様に早い。子どもが迷えばしゃがんで目線を合わせるし、おばあさんが段差の前で止まれば、何も言われる前に腕を貸す。
誰かの役に立てる場所を見つけると、楓夏は本当に強い。
そのくせ、自分のことは全然しゃべらない。
昼すぎ、駅舎の隅で、楓夏が一枚の切符を見つめたまま動かなくなっていた。
表には『見本』、裏は真っ白だった。
「書かないのか」
声をかけると、楓夏は少しだけ肩を揺らした。
「あとで」
「秘密主義だな」
「口が固いって言って」
「自分で言うやつ初めて見た」
笑わせるつもりはなかったのに、楓夏はふっと笑った。珍しい。夏雲の切れ間みたいな、短い笑い方だった。
その直後、ひと騒動が起きた。
冷麦の追加分を運んできた町内会の軽トラが、駅前で立ち往生したのだ。しかも、英利花が「臨時・恋愛成就列」と書いた案内板を勝手に立てたせいで、人の流れがめちゃくちゃになった。
「どうしてそうなる!」
「面白いかなって!」
「今日は面白さの方向が全部ずれてる!」
俺は頭を抱えた。状況がいっぺんに押し寄せると、感情が交通渋滞を起こす。焦る、暑い、恥ずかしい、腹立つ、全部いっしょになって、何から処理すればいいかわからなくなる。
たぶん、昔の俺ならそこで固まっていた。
でも、そのとき宙都が言った。
「大貴、公平に見て優先順位を決めて。君、そういうとき、人の肩を持たずに判断できる」
楓夏も続けた。
「できるよ。限界、まだ先」
そんな雑な励ましあるか、と思った。
思ったのに、腹の底で何かが笑った。
「じゃあ、英利花! 面白いことした責任で、今すぐ人の列を海側と駅舎側に分けろ! 声が通るから誘導係!」
「了解! 責任の取り方が派手で助かる!」
「宙都は冷麦班の再配置! 数字は任せた!」
「任された」
「楓夏は段差のところ! 高齢の人が多い!」
「うん」
「俺は受付を整理する! 恋愛相談は受けません、未練の投函だけですって大きく言う!」
叫んでから、自分でちょっと笑ってしまった。
何だそれ。駅員でも僧侶でもないのに。
ところが、その一言が受けた。
列の先頭にいたおじさんが吹き出して、「未練の投函だけって、言い方がいいな」と笑った。笑いはすぐに広がる。駅舎の空気が少し軽くなる。
混乱していた人の流れが、ようやくほどけ始めた。
夕方、最後の投函が終わるころには、改札箱は淡い切符でいっぱいになっていた。
海風が駅舎を抜け、壁の古い時刻表を揺らす。
英利花は腕を組んで得意げだった。
「ほらね、恋の力で大盛況」
「未練の力だ」
「言い換えが暗いんだよ、大貴は」
「そもそも半分くらい君のせいで混んだんだけど」
「結果オーライ!」
「反省して」
「次回に活かす」
宙都がすかさずメモを取った。
「本当に活かしそうで怖いな」
片づけの最中、楓夏が急に言った。
「みんなに、話がある」
その声で、俺は昼の真っ白な切符を思い出した。
「夏休みが終わったら、私、町を出る」
英利花が、え、と目を丸くする。
宙都は一瞬だけ黙って、それから「進学?」と聞いた。
「うん。災害医療の勉強ができる学校。寮に入る」
楓夏はまっすぐ前を向いたまま言った。
「誰かの役に立てる仕事をしたい。前から決めてた。でも、この駅舎公開が終わるまでは言わないって決めてた」
「どうして」
俺が聞くと、楓夏は少し困った顔をした。
「たぶん、気を遣われるから。私はそういうの、ちょっと苦手」
「それで黙ってたのか」
「うん」
口が固いにもほどがある。
英利花が先に泣くかと思ったら、先に笑った。
「なにそれ、かっこつけすぎ。そういうのはもっと早く言って、みんなにアイスおごらせるべきでしょ」
「そこ?」
「そこ」
宙都も小さくうなずいた。
「発表のタイミングは最適じゃない。でも楓夏らしい」
「最適じゃないんだ」
「そこは公平に評価する」
俺は思わず吹き出した。
楓夏も、また少し笑った。
そのあと、改札箱の切符を整理していたら、一番下に、裏の書かれた見本の切符が混ざっていた。
楓夏の字だった。
『この町で、守られる側の自分にさよなら』
胸の奥が、熱いのに静かだった。
夏ってたぶん、こういう感じだ。うるさくて、まぶしくて、でも夕方になると急に本音を連れてくる。
帰り道、俺は駅舎の外で楓夏を呼び止めた。
「待て」
「なに」
「これ」
ポケットに残っていた最後の一枚を差し出す。配り損ねた、淡い切符。
「まだ書いてないなら、交換」
「交換?」
「そっちはもう投函しただろ。だから新しいの」
楓夏は切符を受け取って、首をかしげた。
「大貴は何を書くの」
「もう決めた」
俺は自分の切符の裏を見せた。
『言えないままで済ませる自分にさよなら』
楓夏が黙る。
こういう沈黙は苦手だ。心臓がうるさい。逃げたくなる。でも今日は、逃げないと決めた。
「たぶん俺、今日までずっと、混乱するのを理由にしてた。気持ちが多いと何も言えなくなるから。でも、それだとたぶん、何も始まらない」
「……うん」
「だから言う。楓夏のこと、たぶん、かなり好きだ」
「たぶん?」
「すごく好きだ」
「訂正が早い」
「公平な再評価です」
言った瞬間、自分で何を言ってるんだと思ったが、楓夏が吹き出したので助かった。
しばらくして、楓夏は自分の新しい切符に何かを書いた。
そして、それを俺にだけ見せた。
『ひと夏の恋で終わらせる予定にさよなら』
潮風のせいじゃない。たぶん。
でも、その文字が少し揺れて見えた。
「ずるいな」
「なにが」
「返事がうまい」
「さよならの練習、ずっとしてたから」
「じゃあ今度は、始める練習だな」
「うん」
楓夏は切符を指先で弾いた。
「さよならから始めよう」
「その標語、まだ使うのか」
「いい言葉でしょ」
「悔しいけど」
駅舎の向こうで、遅れてきた花火が一発だけ上がった。
たぶん誰かのフライングだ。でも、この町ではそういう雑さも夏のうちだ。
改札箱の中には、たくさんのさよならが眠っている。
先延ばし癖も、古いTシャツも、守られるだけだった昨日も。
きっと明日になれば、全部いきなり消えるわけじゃない。
それでも、人は書いて、渡して、笑って、少しだけ前に進める。
だから夏はせわしい。
終わるくせに、始まりばかり増やしていく。
俺は楓夏の持つ淡い切符を見て、ようやく思った。
ああ、これはたしかに、恋より先に覚えるべきことなのかもしれない。
ちゃんと笑って、ちゃんと見送って、
そのあとで、ちゃんと好きになるための。
そんな夏だった。
「大貴、今週の日曜、空いてる?」
そう言って、楓夏は人に予定を聞く顔ではなく、避難誘導を始める顔をしていた。
「空いてるけど」
「よし。旧なぎさ駅の一日限りの駅舎公開、手伝って」
「今の『よし』、絶対こっちに拒否権なかったよな」
「気のせい」
楓夏は真顔で言い切った。口が固いくせに、押しの強さだけは夏の西日みたいに容赦がない。
旧なぎさ駅は、海沿いを走っていた小さな路面電車の終点だった。三年前に廃線になって、今は駅舎だけが公民館の倉庫みたいに使われている。
その駅で、商店街と町内会が合同で「さよならから始めよう」という、いかにも楓夏が考えそうな名前の催しをやるらしい。
倉庫から見つかった昔の記念乗車券――少し青みがかった、淡い切符を来場者に配って、裏に「この夏、さよならしたいもの」を書いてもらう。最後に改札箱へ入れて、みんなで新しい一歩を踏み出そう、という催しだった。
「夏っぽいのか、それ」
俺が聞くと、楓夏は腕を組んだ。
「夏は終わるでしょ」
「身もふたもないな」
「終わるから、始まる」
そう言われると、ちょっとだけそれっぽく聞こえるのが悔しい。
当日、旧なぎさ駅には、俺のほかに宙都と英利花もいた。
宙都は実行表を持って、開始十分前なのにすでに反省会みたいな顔をしていた。
「僕は準備段階で二つ失敗した。ひとつ、案内看板の矢印を左右逆に貼った。もうひとつ、冷麦の発注数を読み違えた。でも対策は済んでる」
「失敗の共有が早いな」
「早いほうが被害が少ない」
こだわりの強い男は、自己分析まで抜かりない。
一方、英利花は駅舎の黒板にでかでかと文字を書いていた。
『ようこそ! ひと夏の恋、受付中!』
「違う違う違う!」
俺と楓夏の声がそろった。
「え、だって集客にはキャッチーさが必要じゃん」
「恋の相談所じゃない! さよならしたいものを書く催し!」
「似たようなもんでしょ。恋はだいたい、さよならとセットだし」
英利花は裏表なく笑った。間違っているのに妙な説得力があるのが困る。
開場して三分で、受付には本当に若い男女が並び始めた。
「ここで出会えるって聞いて」
「海辺の駅で恋が始まるってSNSに」
「誰だ流したの!」
俺が叫ぶと、英利花が胸を張った。
「私」
「戦う相手が身内だった!」
楓夏は深いため息をついたあと、黒板の『恋』を素早く消して、『未練』に書き換えた。
『ようこそ! ひと夏の未練、受付中!』
「もっとダメだろ!」
「でも少し正確になった」
宙都が冷静にうなずくのが腹立たしい。
それでも、始まってみれば駅舎公開は妙に盛り上がった。
「夏休みの先延ばし癖にさよなら」
「十年前の元カレのTシャツにさよなら」
「毎年増えるおなかの浮き輪にさよなら」
淡い切符に書かれる内容は、悲壮感より笑いのほうが勝っていた。
改札箱に切符を入れるたび、駅舎の中に小さな拍手が起きる。誰かの決意って、見ず知らずでも少し応援したくなるらしい。
俺は受付で切符を配りながら、楓夏の動きを目で追っていた。
あいつは困っている人を見つけるのが異様に早い。子どもが迷えばしゃがんで目線を合わせるし、おばあさんが段差の前で止まれば、何も言われる前に腕を貸す。
誰かの役に立てる場所を見つけると、楓夏は本当に強い。
そのくせ、自分のことは全然しゃべらない。
昼すぎ、駅舎の隅で、楓夏が一枚の切符を見つめたまま動かなくなっていた。
表には『見本』、裏は真っ白だった。
「書かないのか」
声をかけると、楓夏は少しだけ肩を揺らした。
「あとで」
「秘密主義だな」
「口が固いって言って」
「自分で言うやつ初めて見た」
笑わせるつもりはなかったのに、楓夏はふっと笑った。珍しい。夏雲の切れ間みたいな、短い笑い方だった。
その直後、ひと騒動が起きた。
冷麦の追加分を運んできた町内会の軽トラが、駅前で立ち往生したのだ。しかも、英利花が「臨時・恋愛成就列」と書いた案内板を勝手に立てたせいで、人の流れがめちゃくちゃになった。
「どうしてそうなる!」
「面白いかなって!」
「今日は面白さの方向が全部ずれてる!」
俺は頭を抱えた。状況がいっぺんに押し寄せると、感情が交通渋滞を起こす。焦る、暑い、恥ずかしい、腹立つ、全部いっしょになって、何から処理すればいいかわからなくなる。
たぶん、昔の俺ならそこで固まっていた。
でも、そのとき宙都が言った。
「大貴、公平に見て優先順位を決めて。君、そういうとき、人の肩を持たずに判断できる」
楓夏も続けた。
「できるよ。限界、まだ先」
そんな雑な励ましあるか、と思った。
思ったのに、腹の底で何かが笑った。
「じゃあ、英利花! 面白いことした責任で、今すぐ人の列を海側と駅舎側に分けろ! 声が通るから誘導係!」
「了解! 責任の取り方が派手で助かる!」
「宙都は冷麦班の再配置! 数字は任せた!」
「任された」
「楓夏は段差のところ! 高齢の人が多い!」
「うん」
「俺は受付を整理する! 恋愛相談は受けません、未練の投函だけですって大きく言う!」
叫んでから、自分でちょっと笑ってしまった。
何だそれ。駅員でも僧侶でもないのに。
ところが、その一言が受けた。
列の先頭にいたおじさんが吹き出して、「未練の投函だけって、言い方がいいな」と笑った。笑いはすぐに広がる。駅舎の空気が少し軽くなる。
混乱していた人の流れが、ようやくほどけ始めた。
夕方、最後の投函が終わるころには、改札箱は淡い切符でいっぱいになっていた。
海風が駅舎を抜け、壁の古い時刻表を揺らす。
英利花は腕を組んで得意げだった。
「ほらね、恋の力で大盛況」
「未練の力だ」
「言い換えが暗いんだよ、大貴は」
「そもそも半分くらい君のせいで混んだんだけど」
「結果オーライ!」
「反省して」
「次回に活かす」
宙都がすかさずメモを取った。
「本当に活かしそうで怖いな」
片づけの最中、楓夏が急に言った。
「みんなに、話がある」
その声で、俺は昼の真っ白な切符を思い出した。
「夏休みが終わったら、私、町を出る」
英利花が、え、と目を丸くする。
宙都は一瞬だけ黙って、それから「進学?」と聞いた。
「うん。災害医療の勉強ができる学校。寮に入る」
楓夏はまっすぐ前を向いたまま言った。
「誰かの役に立てる仕事をしたい。前から決めてた。でも、この駅舎公開が終わるまでは言わないって決めてた」
「どうして」
俺が聞くと、楓夏は少し困った顔をした。
「たぶん、気を遣われるから。私はそういうの、ちょっと苦手」
「それで黙ってたのか」
「うん」
口が固いにもほどがある。
英利花が先に泣くかと思ったら、先に笑った。
「なにそれ、かっこつけすぎ。そういうのはもっと早く言って、みんなにアイスおごらせるべきでしょ」
「そこ?」
「そこ」
宙都も小さくうなずいた。
「発表のタイミングは最適じゃない。でも楓夏らしい」
「最適じゃないんだ」
「そこは公平に評価する」
俺は思わず吹き出した。
楓夏も、また少し笑った。
そのあと、改札箱の切符を整理していたら、一番下に、裏の書かれた見本の切符が混ざっていた。
楓夏の字だった。
『この町で、守られる側の自分にさよなら』
胸の奥が、熱いのに静かだった。
夏ってたぶん、こういう感じだ。うるさくて、まぶしくて、でも夕方になると急に本音を連れてくる。
帰り道、俺は駅舎の外で楓夏を呼び止めた。
「待て」
「なに」
「これ」
ポケットに残っていた最後の一枚を差し出す。配り損ねた、淡い切符。
「まだ書いてないなら、交換」
「交換?」
「そっちはもう投函しただろ。だから新しいの」
楓夏は切符を受け取って、首をかしげた。
「大貴は何を書くの」
「もう決めた」
俺は自分の切符の裏を見せた。
『言えないままで済ませる自分にさよなら』
楓夏が黙る。
こういう沈黙は苦手だ。心臓がうるさい。逃げたくなる。でも今日は、逃げないと決めた。
「たぶん俺、今日までずっと、混乱するのを理由にしてた。気持ちが多いと何も言えなくなるから。でも、それだとたぶん、何も始まらない」
「……うん」
「だから言う。楓夏のこと、たぶん、かなり好きだ」
「たぶん?」
「すごく好きだ」
「訂正が早い」
「公平な再評価です」
言った瞬間、自分で何を言ってるんだと思ったが、楓夏が吹き出したので助かった。
しばらくして、楓夏は自分の新しい切符に何かを書いた。
そして、それを俺にだけ見せた。
『ひと夏の恋で終わらせる予定にさよなら』
潮風のせいじゃない。たぶん。
でも、その文字が少し揺れて見えた。
「ずるいな」
「なにが」
「返事がうまい」
「さよならの練習、ずっとしてたから」
「じゃあ今度は、始める練習だな」
「うん」
楓夏は切符を指先で弾いた。
「さよならから始めよう」
「その標語、まだ使うのか」
「いい言葉でしょ」
「悔しいけど」
駅舎の向こうで、遅れてきた花火が一発だけ上がった。
たぶん誰かのフライングだ。でも、この町ではそういう雑さも夏のうちだ。
改札箱の中には、たくさんのさよならが眠っている。
先延ばし癖も、古いTシャツも、守られるだけだった昨日も。
きっと明日になれば、全部いきなり消えるわけじゃない。
それでも、人は書いて、渡して、笑って、少しだけ前に進める。
だから夏はせわしい。
終わるくせに、始まりばかり増やしていく。
俺は楓夏の持つ淡い切符を見て、ようやく思った。
ああ、これはたしかに、恋より先に覚えるべきことなのかもしれない。
ちゃんと笑って、ちゃんと見送って、
そのあとで、ちゃんと好きになるための。
そんな夏だった。
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