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04:穢れと光と

ー/ー



 アリセルは、ゆっくりと帰り路を歩いていた。

 木々の隙間から、夕陽が差している。風が吹き抜け、枝葉が揺れるたび、影が足元を滑っていく。誰もいない帰り道は、静かで、長かった。

 今日のことを思い返す。

 黒ずんだ床の汚れ。澱んだ臭気を孕む空気。頭を抱えて蹲る青年の姿。その何もかもが古びて、腐り逝くもののようで、現実味がなかった。

 けれど、確かにそこには人がいた。反応はなくとも、息をしていた。思い返すほどに気持ちが澱のように沈んでいく。痛みと呼ぶには小さく、言葉にするには曖昧な、重い感覚だ。

 やがて道の先に、川が見えてきた。アリセルは立ち止まり、手桶を傍らの草に置いて自分の袖口を見る。気がつけば、全身すっかり薄汚れており、しかも何だか臭う気がする。この川で水浴びしたら、最高に気持ち良いだろうと思ったが最後、靴を脱ぎ捨てた。そのまま一気に服を脱ぎ、シュミーズのまま川に足を入れた。
 
 清らかな川の水は、塔の中のすべての汚れや、淀んだ気分を流してくれるようだった。手ですくった水を高く放ると、水滴一つ一つが小さな宝石のようにキラキラと、日差しに反射して落ちていく。

 ひとしきり全身と服を洗ってから、川岸の浅瀬に戻る。水に濡れた下着が肌に張り付き、歩くたびに冷たく纏わりつく。川べりの大きな平たい石に腰を下ろし、髪を両手でぎゅっと絞った、そのとき。

「アリセル」
「ふぁ!?」

 唐突に、背後から声をかけられて、素っ頓狂な声が口をついて出た。恐る恐る振り返れば、案の定ユーグがそこに立っていた。

「ユーグ、なんでそこにっ!?」
「なんでって、仕事帰りだよ。アリセルは例の看守の仕事か?」
「そうよ、掃除凄く大変だったんだから思わず水浴びもしたくなるってなものでしょうだから後ろ向いてこっち見ないでっ」
「はいはい」

 アリセルは一気に早口で言い放った。ユーグは笑ってから後ろを向く。肌にまとわりつくシュミーズの冷たさに肩を竦めながらも、急いで服の袖に腕を通し、腰のリボンを締めた。髪を背でひとまとめにしてから、深く息をつく。

「……もういいよ。着たから」
「風邪ひくぞ」

 そう言って、ユーグが自分の上着をアリセルにかぶせる。彼の上着は太陽の名残を含んでいて、ひやりとした肌に優しかった。

「あ、ありがと」
「どういたしまして」

 ユーグはロバの手綱をとり、手桶を持って歩き出す。アリセルは半歩遅れて、彼の背を追った。

「どうだった? 初仕事は」
「掃除すごく頑張った」
「それだけ?」
「それだけって、すごくすごく大変だったのよ。しかも、まだ全然終わりそうにないの」

 この後、石床の汚れの削り落としをして、石灰を撒いて消毒して、壁の拭き取りして、窓掃除してと指折り数えるアリセルに「そんなにあるのか」と、ユーグは驚いた顔をする。

「ねっ、大変でしょ?」
「一人で全部できるのか?」
「うーん、どうかなあ」
「だったら俺が手伝おうか?」
「えっ!?」
「余計なお世話だったら、別にいいけどさ」
「ううん、ユーグそんな事ない。すごく助かるありがとう!!」

 思いがけない申し出に驚くと同時に、胸の奥がぱっと明るくなっていく。掃除の大変さもさることながら、ルネの痛ましい姿を、一人で見守るというのは辛くもあったのだ。それだけに、ユーグが一緒ならば、心強い。だがそこで、アリセルはハッとした。

「あ、でもどうしよう。私、ユーグにお給料払えないよ」
「そっか。それは困ったな。じゃあ手伝うのやめた」
「ええっ!? そうだ、お父様に相談してみるから、そしたらきっといくらかは……」
「嘘だよ。給料はいらないからさ。かわりに香草サンド作ってくれれば、それでいいよ」

 表面を軽く炙ったパンに、香草と塩漬け肉、野菜を挟んだ香草サンドは、アリセルの得意料理だ。何度かユーグに、差し入れをした時、喜んでくれたものだった。

「うんっ、それじゃあ明日、持っていくね。今、家にある野菜はキャベツでしょ、あとラディッシュに人参、セロリ……」
「えー俺セロリ嫌いなんだ」
「ワガママ言わないっ」

 ユーグの言葉に覆いかぶせるようにして、アリセルはぴしゃりと言う。

「はーい」

 不貞腐れた子どものような返事をするユーグが可笑しくて、くすくす笑いながら明日に思いを馳せる。出来ればルネにも、香草サンドを食べさせてあげたい。いや、彼にはそれよりももっと、消化の良い食べ物の方がいいか。例えば根菜のスープをしみ込ませた白パンや、ハーブ入りのミルク湯など。

 空を見上げれば茜色は薄れ、代わりに宵紺が増してゆく。かすかに光る一番星が、夜の始まりを告げていた。


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 アリセルは、ゆっくりと帰り路を歩いていた。
 木々の隙間から、夕陽が差している。風が吹き抜け、枝葉が揺れるたび、影が足元を滑っていく。誰もいない帰り道は、静かで、長かった。
 今日のことを思い返す。
 黒ずんだ床の汚れ。澱んだ臭気を孕む空気。頭を抱えて蹲る青年の姿。その何もかもが古びて、腐り逝くもののようで、現実味がなかった。
 けれど、確かにそこには人がいた。反応はなくとも、息をしていた。思い返すほどに気持ちが澱のように沈んでいく。痛みと呼ぶには小さく、言葉にするには曖昧な、重い感覚だ。
 やがて道の先に、川が見えてきた。アリセルは立ち止まり、手桶を傍らの草に置いて自分の袖口を見る。気がつけば、全身すっかり薄汚れており、しかも何だか臭う気がする。この川で水浴びしたら、最高に気持ち良いだろうと思ったが最後、靴を脱ぎ捨てた。そのまま一気に服を脱ぎ、シュミーズのまま川に足を入れた。
 清らかな川の水は、塔の中のすべての汚れや、淀んだ気分を流してくれるようだった。手ですくった水を高く放ると、水滴一つ一つが小さな宝石のようにキラキラと、日差しに反射して落ちていく。
 ひとしきり全身と服を洗ってから、川岸の浅瀬に戻る。水に濡れた下着が肌に張り付き、歩くたびに冷たく纏わりつく。川べりの大きな平たい石に腰を下ろし、髪を両手でぎゅっと絞った、そのとき。
「アリセル」
「ふぁ!?」
 唐突に、背後から声をかけられて、素っ頓狂な声が口をついて出た。恐る恐る振り返れば、案の定ユーグがそこに立っていた。
「ユーグ、なんでそこにっ!?」
「なんでって、仕事帰りだよ。アリセルは例の看守の仕事か?」
「そうよ、掃除凄く大変だったんだから思わず水浴びもしたくなるってなものでしょうだから後ろ向いてこっち見ないでっ」
「はいはい」
 アリセルは一気に早口で言い放った。ユーグは笑ってから後ろを向く。肌にまとわりつくシュミーズの冷たさに肩を竦めながらも、急いで服の袖に腕を通し、腰のリボンを締めた。髪を背でひとまとめにしてから、深く息をつく。
「……もういいよ。着たから」
「風邪ひくぞ」
 そう言って、ユーグが自分の上着をアリセルにかぶせる。彼の上着は太陽の名残を含んでいて、ひやりとした肌に優しかった。
「あ、ありがと」
「どういたしまして」
 ユーグはロバの手綱をとり、手桶を持って歩き出す。アリセルは半歩遅れて、彼の背を追った。
「どうだった? 初仕事は」
「掃除すごく頑張った」
「それだけ?」
「それだけって、すごくすごく大変だったのよ。しかも、まだ全然終わりそうにないの」
 この後、石床の汚れの削り落としをして、石灰を撒いて消毒して、壁の拭き取りして、窓掃除してと指折り数えるアリセルに「そんなにあるのか」と、ユーグは驚いた顔をする。
「ねっ、大変でしょ?」
「一人で全部できるのか?」
「うーん、どうかなあ」
「だったら俺が手伝おうか?」
「えっ!?」
「余計なお世話だったら、別にいいけどさ」
「ううん、ユーグそんな事ない。すごく助かるありがとう!!」
 思いがけない申し出に驚くと同時に、胸の奥がぱっと明るくなっていく。掃除の大変さもさることながら、ルネの痛ましい姿を、一人で見守るというのは辛くもあったのだ。それだけに、ユーグが一緒ならば、心強い。だがそこで、アリセルはハッとした。
「あ、でもどうしよう。私、ユーグにお給料払えないよ」
「そっか。それは困ったな。じゃあ手伝うのやめた」
「ええっ!? そうだ、お父様に相談してみるから、そしたらきっといくらかは……」
「嘘だよ。給料はいらないからさ。かわりに香草サンド作ってくれれば、それでいいよ」
 表面を軽く炙ったパンに、香草と塩漬け肉、野菜を挟んだ香草サンドは、アリセルの得意料理だ。何度かユーグに、差し入れをした時、喜んでくれたものだった。
「うんっ、それじゃあ明日、持っていくね。今、家にある野菜はキャベツでしょ、あとラディッシュに人参、セロリ……」
「えー俺セロリ嫌いなんだ」
「ワガママ言わないっ」
 ユーグの言葉に覆いかぶせるようにして、アリセルはぴしゃりと言う。
「はーい」
 不貞腐れた子どものような返事をするユーグが可笑しくて、くすくす笑いながら明日に思いを馳せる。出来ればルネにも、香草サンドを食べさせてあげたい。いや、彼にはそれよりももっと、消化の良い食べ物の方がいいか。例えば根菜のスープをしみ込ませた白パンや、ハーブ入りのミルク湯など。
 空を見上げれば茜色は薄れ、代わりに宵紺が増してゆく。かすかに光る一番星が、夜の始まりを告げていた。