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03:無音の牢獄

ー/ー



 生活の基本は、まず清潔な住まいにある。
 汚れは穢れとなり、そんな場所にいれば、誰だって病気になる。いかに栄養価の高い食事を与えられようと、健全さなど育めない。元王子の看守を任されたアリセルが、まず第一に思いついたのは、掃除だった。

 アリセルの住む村から、ルネが幽閉された塔まで、歩いて小一時間程。ロバの手綱を握り、先導しながらアリセルは呟いた。

「私が、もう少し小さかったら、キミの背中に乗って行くんだけどなぁ」

 ロバの片耳がピクリと動く。言葉を聞いているような反応が可愛らしくて、アリセルはロバの頭を撫でた。掃除道具を背に乗せて、従順に歩みを進めてくれるロバは、思えば忍耐強い動物だ。この忍耐強さを、自分も見習わなければと真剣に考える。
 
 草原に囲まれた、長閑な小道を歩き続ける。

 幽閉塔は遠目にも分かる程高く、天に向かって聳え立っていた。塔の入り口まで辿り着いた所で、ユーグから貰った指輪を紐に通して首にかける。髪をきっちりと結い直して、口元をスカーフで覆った。右手に雑巾を握り締め、大掃除の準備は万端だ。



「ルネ様、おはようございます。アリセルです」

 部屋にこもる臭気は相変わらずだ。アリセルはルネの元に歩み寄る。壁に全身を預け、深く項垂れた彼の顔を覗き込もうと、膝を屈めて見上げる。しかし長い前髪に隠されて、その顔立ちを見ることは叶わなかった。

「今日は、お掃除に来ました」

 返事はない。まるでアリセルの存在そのものに気が付いていないように、ルネは微動だにしなかった。

 扉を閉めると、音が吸い込まれるような静寂が訪れた。部屋の壁に沿い等間隔で並ぶ窓は、どれも、内側から薄い板が打ち付けられていた。
 アリセルはそのひとつに近づき、板に手を掛けて剥がす。奥から、薄汚れた窓ガラスが姿を現した。
 
 部屋の空気が動く。

 長い間滞っていたものが、ようやく動き出すような、そんな気配がした。桶から少しずつ床に水を撒き、モップを押し広げては引き、何度も繰り返して磨く。
 そんな中でも、ルネは相変わらず項垂れたままだった。彼からは生の気配が完全に抜け落ちており、まるでこの部屋にいるのは、自分だけのような気がしてくる。形だけそこにある、魂のない人形。

「……ルネ様、寒くないですか?」

 気付けば、そんな言葉が口からついて出た。あまりに静かなルネに不安を覚え、反応が欲しかったのかも知れない。しかし問いかけに、矢張り返事はない。

 ルネの髪には血がこびりつき、固まっていた。すでに乾ききり、時間が経ち放置されたその痕跡は生々しく、そして痛ましい。彼の傍らに膝をつき、そっと手を伸ばす。しかし肩に触れたその瞬間、ルネはまるで撃たれたかのように、ビクリと震えた。

「ごっ、ごめんなさい」

 髪にこびりついた血を、ぬぐってやりたい。ただそれだけだった。しかし思いがけない程、大きな反応に驚き、反射的に手を引っ込める。

「あの、血がついているから。痛くないかなと思って、だから、その……」

 何と続けて良いのか分からず、言い淀む。慌てるアリセルに、ルネは身体を固く強張らせて、頭を抱えて顔を覆い隠してしまう。彼にとって自分は恐怖の対象なのだと、アリセルは理解する。軽くルネに頭を下げてから、モップを取り直し、再度床をなぞり始めた。彼にこれ以上、負担はかけたくない。

 それでもこの場所が少しでも綺麗になる事は、ささやかな慰めになるかも知れない。人の手が入り、暮らしの痕跡が生まれれば、凍てついた心が僅かでも和らぐのではないか。いや、そうであって欲しい。

 祈りともつかない願いを込めて、アリセルは掃除を続ける。

 しばらくして、ふと、背後に視線のようなものを感じた。空気が、かすかに変わった気がして振り返る。ルネは頭を抱えたままだったが、ほんの少しだけ、肩の位置が変わっているようにも見えた。

 気のせいだろうか。それとも一瞬だけでも、こちらを見たのだろうか。

 アリセルは目を伏せた。確かめる事はせず、再びモップを手にして、床をこすり続けたのだった。


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 生活の基本は、まず清潔な住まいにある。
 汚れは穢れとなり、そんな場所にいれば、誰だって病気になる。いかに栄養価の高い食事を与えられようと、健全さなど育めない。元王子の看守を任されたアリセルが、まず第一に思いついたのは、掃除だった。
 アリセルの住む村から、ルネが幽閉された塔まで、歩いて小一時間程。ロバの手綱を握り、先導しながらアリセルは呟いた。
「私が、もう少し小さかったら、キミの背中に乗って行くんだけどなぁ」
 ロバの片耳がピクリと動く。言葉を聞いているような反応が可愛らしくて、アリセルはロバの頭を撫でた。掃除道具を背に乗せて、従順に歩みを進めてくれるロバは、思えば忍耐強い動物だ。この忍耐強さを、自分も見習わなければと真剣に考える。
 草原に囲まれた、長閑な小道を歩き続ける。
 幽閉塔は遠目にも分かる程高く、天に向かって聳え立っていた。塔の入り口まで辿り着いた所で、ユーグから貰った指輪を紐に通して首にかける。髪をきっちりと結い直して、口元をスカーフで覆った。右手に雑巾を握り締め、大掃除の準備は万端だ。
「ルネ様、おはようございます。アリセルです」
 部屋にこもる臭気は相変わらずだ。アリセルはルネの元に歩み寄る。壁に全身を預け、深く項垂れた彼の顔を覗き込もうと、膝を屈めて見上げる。しかし長い前髪に隠されて、その顔立ちを見ることは叶わなかった。
「今日は、お掃除に来ました」
 返事はない。まるでアリセルの存在そのものに気が付いていないように、ルネは微動だにしなかった。
 扉を閉めると、音が吸い込まれるような静寂が訪れた。部屋の壁に沿い等間隔で並ぶ窓は、どれも、内側から薄い板が打ち付けられていた。
 アリセルはそのひとつに近づき、板に手を掛けて剥がす。奥から、薄汚れた窓ガラスが姿を現した。
 部屋の空気が動く。
 長い間滞っていたものが、ようやく動き出すような、そんな気配がした。桶から少しずつ床に水を撒き、モップを押し広げては引き、何度も繰り返して磨く。
 そんな中でも、ルネは相変わらず項垂れたままだった。彼からは生の気配が完全に抜け落ちており、まるでこの部屋にいるのは、自分だけのような気がしてくる。形だけそこにある、魂のない人形。
「……ルネ様、寒くないですか?」
 気付けば、そんな言葉が口からついて出た。あまりに静かなルネに不安を覚え、反応が欲しかったのかも知れない。しかし問いかけに、矢張り返事はない。
 ルネの髪には血がこびりつき、固まっていた。すでに乾ききり、時間が経ち放置されたその痕跡は生々しく、そして痛ましい。彼の傍らに膝をつき、そっと手を伸ばす。しかし肩に触れたその瞬間、ルネはまるで撃たれたかのように、ビクリと震えた。
「ごっ、ごめんなさい」
 髪にこびりついた血を、ぬぐってやりたい。ただそれだけだった。しかし思いがけない程、大きな反応に驚き、反射的に手を引っ込める。
「あの、血がついているから。痛くないかなと思って、だから、その……」
 何と続けて良いのか分からず、言い淀む。慌てるアリセルに、ルネは身体を固く強張らせて、頭を抱えて顔を覆い隠してしまう。彼にとって自分は恐怖の対象なのだと、アリセルは理解する。軽くルネに頭を下げてから、モップを取り直し、再度床をなぞり始めた。彼にこれ以上、負担はかけたくない。
 それでもこの場所が少しでも綺麗になる事は、ささやかな慰めになるかも知れない。人の手が入り、暮らしの痕跡が生まれれば、凍てついた心が僅かでも和らぐのではないか。いや、そうであって欲しい。
 祈りともつかない願いを込めて、アリセルは掃除を続ける。
 しばらくして、ふと、背後に視線のようなものを感じた。空気が、かすかに変わった気がして振り返る。ルネは頭を抱えたままだったが、ほんの少しだけ、肩の位置が変わっているようにも見えた。
 気のせいだろうか。それとも一瞬だけでも、こちらを見たのだろうか。
 アリセルは目を伏せた。確かめる事はせず、再びモップを手にして、床をこすり続けたのだった。