Corpse Reviver 〜あの夏、助け合えなかった君へ〜
ー/ー 毎年、お盆の最終日に作るカクテルがある。
忘れられない人に思いを馳せる。それはかつての思慕であり、懺悔だった。
ちびりちびりと飲みながら、戸越俊輔は仕事場であるバーのカウンターで、小学生だった夏を思い出すのだ。
子供の頃、虫が嫌いだった俊輔にとって虫捕りに付き合わされるのは苦痛でしかなかった。
しかし子供の世界に存在するカーストは絶対で、最下層……とまでは言わないが、はっきりと断れない性格の俊輔がクラスのボスである信虎に逆らえるはずもなく、毎年夏休みになると近くの林に連れ出された。
最初は虫を捕るのが目的だったのだが、俊輔があまりにも怖がるものだから、その内目的は変わっていった。
「お前、また怖がって泣くんだろ」
「そ、そんなこと……」
「じゃあ、俺が探すから俊輔が捕まえろよな。逃したら許さねぇからな!」
虫捕り網を押し付けられ、顔が青ざめていく様子をニヤニヤしながら眺める信虎と子分たち。
結局その日も、突然飛び出した虫に驚き泣いてしまった俊輔を一人林に残して、信虎たちは走り去ったのだった。
「やーい、悔しかったカブトムシくらい捕まえて持ってこいよ!! 弱虫俊輔!!」
揶揄う笑い声を響かせながら、虫捕りはやめてサッカーをしに空き地へ移動する彼らの背中を見送る。
「カブトムシなんか、なにが良いんだ」
腕で目許を拭いながら、俊輔はなんとか林から抜け出す。八月の日差しは夕方になってもその威力を弱めることはなく、容赦なく俊輔の肌をジリジリと灼く。汗を拭っているのか、涙を拭っているのか、最早どちらか判断はつかなくなっていた。
もう家に帰ってしまおうと歩き始めた時、俯いた視界に女の子の足が入り込んだ。
顔を上げると、対峙してたのは三歳年上の橘千奈だ。
「俊輔くん、またあいつらに意地悪されたんでしょ?」
腕を組み、仁王立ちで彼女は信虎たちへの怒りを露わにする。そうして「俊輔くんが凄いってところ、見せつけてやりましょう」と自信満々に言い放った。
「それは無理だよ。カブトムシを捕まえて来いって言われちゃったけど、そんなの俺、一人じゃ近寄りもできない」
「私に任せて。カブトムシが集まる木があるの知ってる。私が捕まえてあげるから、俊輔くんはそれを持って行けばいいわ」
当時の千奈は頼れるお姉ちゃん的存在だった。俊輔が信虎に振り回されていると、決まって助け舟を出してくれるのだ。
「行きましょう!!」言いながら、俊輔の手を取り走り出す。
「裏山の中に穴場スポットがあるの、誰も知らないのよ」
無風だった二人の間を風がすり抜けていったが熱風と言ってもいいほどの暑さだった。
それでも俊輔の目には千奈を通して見る景色がとても爽やかなものに映った。
少し先にある向日葵畑も、まだ収穫期には早い稲穂も、田んぼの周りに流れる用水路でさえ輝いて見えた。
裏山に入ると千奈は迷いもせず、一本の木へと案内する。俊輔に限らず地元の子供なら普段から遊ぶ山であるにもかかわらず、何故この木に気付かなかったのだろうと不思議に思うほど、堂々と聳え立っていた。木の割れ目からはいかにもカブトムシが好きそうな蜜が溢れている。
「ほら、凄いでしょ。山道からは死角になってるの。明日の早朝、この山の入り口で待ち合わせね」
小指を絡めて上下に揺すりながら約束を交わす。それだけで、俊輔は救われた気持ちになった。
嫌いな虫捕りも、千奈と一緒なら楽しいものだと思える。
翌日が楽しみで、その夜はなかなか寝付けないほどだった。
しかし、約束の時間になっても千奈は現れなかった。
「おかしいな。約束を破る人じゃないのに」若干の不安が過ぎる。
千奈の住むアパートは知っている。ここから走ると十五分もかからないだろう。行ってみようか、でもすれ違いになったら……。悩んでいる間にも時間は過ぎていく。
体感で三十分ほど悩んだ末、俊輔はやはり千奈のアパートへ行ってみることにした。手に持っている虫捕り網のせいで思ようなスピードで走れないのがもどかしい。しかしそれ以上に、アパートに近づく程に胸騒ぎが大きく膨れ上がるのが気になった。
遠くから救急車やパトカーのサイレンが聞こえる。
もしかして……まさか……そんなわけ……。不安を押し殺しながら虫捕り網を途中で投げ捨て全速力で走る。早朝だというのに既に太陽は高く昇っていて、Tシャツは汗でべっとりと肌に張り付いていた。
「千奈ちゃんのアパートだ」
古びたアパートの周りにパトカーと救急車が停まっている。黄色いテープが張られ、その周りに近所の人が集まっていた。
千奈ではないと信じたかったが、その願いは叶わなかった。息切れをしながら野次馬に紛れ、周りの会話に聞き耳を立てる。
「かわいそうに、虐待ですって」
「父子家庭だったわよね。暴力を振るう人には見えなかったわ」
「でも日頃から物騒な物音や怒鳴り声が聞こえてたって。今朝は早くからあまりにも酷かったものだから、警察に注意してもらおうと思って通報したんじゃない? 次はそうするって言ってたもの」
「昔からいる人ならともかく、他所から来た人に深入りするのも躊躇うわよねぇ」
千奈は地元の人ではなかった。去年の暮れに、両親の離婚を期に父親の仕事の都合でこの田舎町に引っ越してきたのだ。こんな辺鄙な場所に飛ばされるなんて、父親が悪いことをしでかしたに違いないと噂になっていたが、人柄のお陰で直ぐに消え去った。そのくらい、千奈の父親は『良い人』だった。
まさか子供を虐待しているなど、誰が思うだろうか。
(俺、千奈ちゃんのこと何も知らなかったんだ)
行き場のない憤りが心を蝕む。いつも助けてくれた千奈を自分も守ってあげたかった。
千奈はその日の内に、搬送先の病院で息を引き取った。お盆最終日のことだった。
俊輔は高校進学と同時に地元を離れ、都会に移り住んだ。故郷への未練は残っていない。
あれだけ嫌がっていた信虎とも学年が上がるほど自然と疎遠になり、穏やかな日々を送ったが、千奈と過ごした時間を忘れた日はなかった。
刑期を終え出所した父親はそのまま町を離れ、千奈の魂諸共どこかに消えてしまった。
彼女の欠片も残っていない場所には魅力を感じられなかった。とりわけ離れがたい友人がいるわけでもなかったため、単身地元を離れるのに躊躇いも葛藤もなかった。
むしろ誰も知らない場所へ来てから、ようやく深く呼吸が出来たように感じる。高校生になってからの俊輔は、自分でも驚くほど明朗な性格へと変貌を遂げた。
バーテンダーのバイトを始めたのは大学三回生になってすぐの頃で、大した理由はなく、同じ学部の友人に「バイトをしてくれる人を探している」と勧められたからだ。然程アルコールに強いわけでも興味があったわけでもなかったが、始めてみるとこれが思った以上に楽しかった。バーというのも良かった。居酒屋のように馬鹿騒ぎをする人が来る雰囲気ではなかったのだ。
俊輔自身、子供の頃のように引っ込み思案でもなくなり、高校生の頃から急に身長が伸びた上、母親譲りの中世的な顔立ちも相まっていつの間にか目立つ側の人間になっていた。毎日は楽しいが、やはり静かな時間のほうが好きだと感じる俊輔にとって、ここはオアシスみたいな場所となった。
当時の先輩バーテンダーは水野凛子という人で、年齢は二十代後半。昔はヤンチャしていたのだろうと思わせる、いい意味で自信家な人だった。俊輔が覚えきれないほどのカクテルを作り熟す手捌きはまるで魔法のようで、毎回食い入るように見ていた。
コープスリバイバーというカクテルを教えてくれたのも凛子だ。
「死者を甦らせるって名前なの。面白いでしょ。カクテル言葉は『死んでもあなたと永遠の愛を誓う』みたいな。今時の子は重いって感じるかしら?」
屈託のない笑みを見せる。
凛子はどこか千奈を彷彿とさせるオーラを漂わせていた。世話好きで、何もなかった俊輔にカクテルの魅力を教えてくれた。夢中になれるものと出会わせてくれた。それを言うと、それこそ重いと思われそうで伝えたことはないけれど、凛子との会話はいつも新鮮で煌めいている。
「素敵だと思います。俺も作ってみたいです」
「そう言ってくれると思ってた。コープスリバイバーは四つのレシピがあるのよ。No.1からNo.4まで。一番人気なのはNo.2かな。基本はドライジンを20mlにリレブラン、コアントローにレモンジュース。最後にほんの少しだけアブサンを入れる……」
説明をしながらも、手際よくリキュールをシェイカーへ加えていく。氷を入れ、小気味よいリズムで音を鳴らしながらシェイクすると、カクテルグラスに乳白色のそれが注がれた。
「なんだか初恋のような幼さと甘さを感じる色ですね」
「あはは。私、俊輔のそういう感性好きよ。でも味はどうかしら」
差し出されたグラスを受け取ると、少量口に含んでみる。数種類のハーブの苦味とレモンジュースの爽やかなようでほろ苦い味と香りが口中に広がった。
「……大人の味でした」
顔を顰めた俊輔に、凛子は再び声を出して笑った。
その日、俊輔は千奈の話を凛子に聞かせた。明るい話ではないので世間話にするような内容ではない。けれど、何故か今、聞いて欲しいと思ってしまった。
凛子は頷きながら最後まで聞いてくれた。
「俊輔にとっての、初恋だったんだね」
そう言われて目を瞠る。
初恋……そんな風に考えたことはなかった。けれど言われてみてストンと心に落ちた気がする。
自分にとって、千奈は初恋の相手だったのだと。
「このカクテルを飲んで、急に千奈ちゃんを思い出したんです。守ってあげたかったし、俺に助けを求めて欲しかったって」
「充分、救いになってたんじゃない? 俊輔との時間そのものが」
父親の存在を忘れられる唯一のひと時だったのではないかと凛子は続けた。きっと千奈は引っ越して来る前は、友達も沢山いる明るい子供だったはずだ。それが突然知らない町で父親との二人暮らし。その人は自分に暴力を振る人で、千奈は逃げ場を求めていたのではないか。
そう言われて思い出してみれば、千奈はいつだって一人でいた。そうして一人で俊輔を助けに来てくれていたのだ。
孤独を感じていたのは俊輔だけではなかったということか。あの日、早朝に家を出ようとした千奈を見つけた父親は、千奈が警察へ逃げ込むと勘違いをして癇癪を起こしたのだと、後から噂で聞いた。自分と約束なんてしたから……長年、俊輔は千奈は自分のせいで命を絶たなければならなくなったと思い込んでいた。しかし本当は、千奈も俊輔を頼りに現実から逃げていたのかもしれない。少しでも長く外にいる時間を作りたかったのかもしれない。嫌だと言えない俊輔に自分の姿を重ねていたのかもしれないと、今になってそんな発想に至った。
お互い幼すぎて守りきれなかった。慰め励ますことでしか、生きる術を見つけられなかった。
コープスリバイバーからは、ほのかに薬に似た苦味を感じる。あの日の傷を癒してくれたみたいに体が軽くなった。偶然ではないと言っているかの如く、この日もお盆の最終日だった。
「ありがとうございます。凛子先輩のお陰で立ち直れそうです」
「話を聞いただけだけど、千奈ちゃんって子も俊輔が友達で幸せだったと思うよ」
「そうだと良いです」
涙は出なかった。千奈に贈る涙は全て流し切ってしまったのかもしれない。
凛子はそれから一年後に結婚し、海外へ移住した。
大学を卒業した俊輔はそのままバーで働き、今年で三年目になる。凛子と語り合った夜以来、前ほど千奈を思い出さなくなったが、それでもお盆の最終日になると、このカクテルを飲まずにはいられなかった。
閉店し、客が捌けた静かな店内で、一人あの日を思い出す。
千奈がよく着ていたピンクのワンピースは、お気に入りなのだろうと思っていたけれど、本当は必要最低限の服しか持っていなかったのかもしれない。けれど裏山まで走る彼女の背中、ふわふわと靡くスカートは、勇敢でカッコ良かった。
「ごめんね、ありがとう」自然と溢れた言葉はため息と混じって気化して消える。そうしてまだ残っている傷を癒すように、最後の一口を飲み込んだ。
彼女の背中越しに見た景色は、今更に鮮やかに、俊輔の脳裏で煌めいている。
忘れられない人に思いを馳せる。それはかつての思慕であり、懺悔だった。
ちびりちびりと飲みながら、戸越俊輔は仕事場であるバーのカウンターで、小学生だった夏を思い出すのだ。
子供の頃、虫が嫌いだった俊輔にとって虫捕りに付き合わされるのは苦痛でしかなかった。
しかし子供の世界に存在するカーストは絶対で、最下層……とまでは言わないが、はっきりと断れない性格の俊輔がクラスのボスである信虎に逆らえるはずもなく、毎年夏休みになると近くの林に連れ出された。
最初は虫を捕るのが目的だったのだが、俊輔があまりにも怖がるものだから、その内目的は変わっていった。
「お前、また怖がって泣くんだろ」
「そ、そんなこと……」
「じゃあ、俺が探すから俊輔が捕まえろよな。逃したら許さねぇからな!」
虫捕り網を押し付けられ、顔が青ざめていく様子をニヤニヤしながら眺める信虎と子分たち。
結局その日も、突然飛び出した虫に驚き泣いてしまった俊輔を一人林に残して、信虎たちは走り去ったのだった。
「やーい、悔しかったカブトムシくらい捕まえて持ってこいよ!! 弱虫俊輔!!」
揶揄う笑い声を響かせながら、虫捕りはやめてサッカーをしに空き地へ移動する彼らの背中を見送る。
「カブトムシなんか、なにが良いんだ」
腕で目許を拭いながら、俊輔はなんとか林から抜け出す。八月の日差しは夕方になってもその威力を弱めることはなく、容赦なく俊輔の肌をジリジリと灼く。汗を拭っているのか、涙を拭っているのか、最早どちらか判断はつかなくなっていた。
もう家に帰ってしまおうと歩き始めた時、俯いた視界に女の子の足が入り込んだ。
顔を上げると、対峙してたのは三歳年上の橘千奈だ。
「俊輔くん、またあいつらに意地悪されたんでしょ?」
腕を組み、仁王立ちで彼女は信虎たちへの怒りを露わにする。そうして「俊輔くんが凄いってところ、見せつけてやりましょう」と自信満々に言い放った。
「それは無理だよ。カブトムシを捕まえて来いって言われちゃったけど、そんなの俺、一人じゃ近寄りもできない」
「私に任せて。カブトムシが集まる木があるの知ってる。私が捕まえてあげるから、俊輔くんはそれを持って行けばいいわ」
当時の千奈は頼れるお姉ちゃん的存在だった。俊輔が信虎に振り回されていると、決まって助け舟を出してくれるのだ。
「行きましょう!!」言いながら、俊輔の手を取り走り出す。
「裏山の中に穴場スポットがあるの、誰も知らないのよ」
無風だった二人の間を風がすり抜けていったが熱風と言ってもいいほどの暑さだった。
それでも俊輔の目には千奈を通して見る景色がとても爽やかなものに映った。
少し先にある向日葵畑も、まだ収穫期には早い稲穂も、田んぼの周りに流れる用水路でさえ輝いて見えた。
裏山に入ると千奈は迷いもせず、一本の木へと案内する。俊輔に限らず地元の子供なら普段から遊ぶ山であるにもかかわらず、何故この木に気付かなかったのだろうと不思議に思うほど、堂々と聳え立っていた。木の割れ目からはいかにもカブトムシが好きそうな蜜が溢れている。
「ほら、凄いでしょ。山道からは死角になってるの。明日の早朝、この山の入り口で待ち合わせね」
小指を絡めて上下に揺すりながら約束を交わす。それだけで、俊輔は救われた気持ちになった。
嫌いな虫捕りも、千奈と一緒なら楽しいものだと思える。
翌日が楽しみで、その夜はなかなか寝付けないほどだった。
しかし、約束の時間になっても千奈は現れなかった。
「おかしいな。約束を破る人じゃないのに」若干の不安が過ぎる。
千奈の住むアパートは知っている。ここから走ると十五分もかからないだろう。行ってみようか、でもすれ違いになったら……。悩んでいる間にも時間は過ぎていく。
体感で三十分ほど悩んだ末、俊輔はやはり千奈のアパートへ行ってみることにした。手に持っている虫捕り網のせいで思ようなスピードで走れないのがもどかしい。しかしそれ以上に、アパートに近づく程に胸騒ぎが大きく膨れ上がるのが気になった。
遠くから救急車やパトカーのサイレンが聞こえる。
もしかして……まさか……そんなわけ……。不安を押し殺しながら虫捕り網を途中で投げ捨て全速力で走る。早朝だというのに既に太陽は高く昇っていて、Tシャツは汗でべっとりと肌に張り付いていた。
「千奈ちゃんのアパートだ」
古びたアパートの周りにパトカーと救急車が停まっている。黄色いテープが張られ、その周りに近所の人が集まっていた。
千奈ではないと信じたかったが、その願いは叶わなかった。息切れをしながら野次馬に紛れ、周りの会話に聞き耳を立てる。
「かわいそうに、虐待ですって」
「父子家庭だったわよね。暴力を振るう人には見えなかったわ」
「でも日頃から物騒な物音や怒鳴り声が聞こえてたって。今朝は早くからあまりにも酷かったものだから、警察に注意してもらおうと思って通報したんじゃない? 次はそうするって言ってたもの」
「昔からいる人ならともかく、他所から来た人に深入りするのも躊躇うわよねぇ」
千奈は地元の人ではなかった。去年の暮れに、両親の離婚を期に父親の仕事の都合でこの田舎町に引っ越してきたのだ。こんな辺鄙な場所に飛ばされるなんて、父親が悪いことをしでかしたに違いないと噂になっていたが、人柄のお陰で直ぐに消え去った。そのくらい、千奈の父親は『良い人』だった。
まさか子供を虐待しているなど、誰が思うだろうか。
(俺、千奈ちゃんのこと何も知らなかったんだ)
行き場のない憤りが心を蝕む。いつも助けてくれた千奈を自分も守ってあげたかった。
千奈はその日の内に、搬送先の病院で息を引き取った。お盆最終日のことだった。
俊輔は高校進学と同時に地元を離れ、都会に移り住んだ。故郷への未練は残っていない。
あれだけ嫌がっていた信虎とも学年が上がるほど自然と疎遠になり、穏やかな日々を送ったが、千奈と過ごした時間を忘れた日はなかった。
刑期を終え出所した父親はそのまま町を離れ、千奈の魂諸共どこかに消えてしまった。
彼女の欠片も残っていない場所には魅力を感じられなかった。とりわけ離れがたい友人がいるわけでもなかったため、単身地元を離れるのに躊躇いも葛藤もなかった。
むしろ誰も知らない場所へ来てから、ようやく深く呼吸が出来たように感じる。高校生になってからの俊輔は、自分でも驚くほど明朗な性格へと変貌を遂げた。
バーテンダーのバイトを始めたのは大学三回生になってすぐの頃で、大した理由はなく、同じ学部の友人に「バイトをしてくれる人を探している」と勧められたからだ。然程アルコールに強いわけでも興味があったわけでもなかったが、始めてみるとこれが思った以上に楽しかった。バーというのも良かった。居酒屋のように馬鹿騒ぎをする人が来る雰囲気ではなかったのだ。
俊輔自身、子供の頃のように引っ込み思案でもなくなり、高校生の頃から急に身長が伸びた上、母親譲りの中世的な顔立ちも相まっていつの間にか目立つ側の人間になっていた。毎日は楽しいが、やはり静かな時間のほうが好きだと感じる俊輔にとって、ここはオアシスみたいな場所となった。
当時の先輩バーテンダーは水野凛子という人で、年齢は二十代後半。昔はヤンチャしていたのだろうと思わせる、いい意味で自信家な人だった。俊輔が覚えきれないほどのカクテルを作り熟す手捌きはまるで魔法のようで、毎回食い入るように見ていた。
コープスリバイバーというカクテルを教えてくれたのも凛子だ。
「死者を甦らせるって名前なの。面白いでしょ。カクテル言葉は『死んでもあなたと永遠の愛を誓う』みたいな。今時の子は重いって感じるかしら?」
屈託のない笑みを見せる。
凛子はどこか千奈を彷彿とさせるオーラを漂わせていた。世話好きで、何もなかった俊輔にカクテルの魅力を教えてくれた。夢中になれるものと出会わせてくれた。それを言うと、それこそ重いと思われそうで伝えたことはないけれど、凛子との会話はいつも新鮮で煌めいている。
「素敵だと思います。俺も作ってみたいです」
「そう言ってくれると思ってた。コープスリバイバーは四つのレシピがあるのよ。No.1からNo.4まで。一番人気なのはNo.2かな。基本はドライジンを20mlにリレブラン、コアントローにレモンジュース。最後にほんの少しだけアブサンを入れる……」
説明をしながらも、手際よくリキュールをシェイカーへ加えていく。氷を入れ、小気味よいリズムで音を鳴らしながらシェイクすると、カクテルグラスに乳白色のそれが注がれた。
「なんだか初恋のような幼さと甘さを感じる色ですね」
「あはは。私、俊輔のそういう感性好きよ。でも味はどうかしら」
差し出されたグラスを受け取ると、少量口に含んでみる。数種類のハーブの苦味とレモンジュースの爽やかなようでほろ苦い味と香りが口中に広がった。
「……大人の味でした」
顔を顰めた俊輔に、凛子は再び声を出して笑った。
その日、俊輔は千奈の話を凛子に聞かせた。明るい話ではないので世間話にするような内容ではない。けれど、何故か今、聞いて欲しいと思ってしまった。
凛子は頷きながら最後まで聞いてくれた。
「俊輔にとっての、初恋だったんだね」
そう言われて目を瞠る。
初恋……そんな風に考えたことはなかった。けれど言われてみてストンと心に落ちた気がする。
自分にとって、千奈は初恋の相手だったのだと。
「このカクテルを飲んで、急に千奈ちゃんを思い出したんです。守ってあげたかったし、俺に助けを求めて欲しかったって」
「充分、救いになってたんじゃない? 俊輔との時間そのものが」
父親の存在を忘れられる唯一のひと時だったのではないかと凛子は続けた。きっと千奈は引っ越して来る前は、友達も沢山いる明るい子供だったはずだ。それが突然知らない町で父親との二人暮らし。その人は自分に暴力を振る人で、千奈は逃げ場を求めていたのではないか。
そう言われて思い出してみれば、千奈はいつだって一人でいた。そうして一人で俊輔を助けに来てくれていたのだ。
孤独を感じていたのは俊輔だけではなかったということか。あの日、早朝に家を出ようとした千奈を見つけた父親は、千奈が警察へ逃げ込むと勘違いをして癇癪を起こしたのだと、後から噂で聞いた。自分と約束なんてしたから……長年、俊輔は千奈は自分のせいで命を絶たなければならなくなったと思い込んでいた。しかし本当は、千奈も俊輔を頼りに現実から逃げていたのかもしれない。少しでも長く外にいる時間を作りたかったのかもしれない。嫌だと言えない俊輔に自分の姿を重ねていたのかもしれないと、今になってそんな発想に至った。
お互い幼すぎて守りきれなかった。慰め励ますことでしか、生きる術を見つけられなかった。
コープスリバイバーからは、ほのかに薬に似た苦味を感じる。あの日の傷を癒してくれたみたいに体が軽くなった。偶然ではないと言っているかの如く、この日もお盆の最終日だった。
「ありがとうございます。凛子先輩のお陰で立ち直れそうです」
「話を聞いただけだけど、千奈ちゃんって子も俊輔が友達で幸せだったと思うよ」
「そうだと良いです」
涙は出なかった。千奈に贈る涙は全て流し切ってしまったのかもしれない。
凛子はそれから一年後に結婚し、海外へ移住した。
大学を卒業した俊輔はそのままバーで働き、今年で三年目になる。凛子と語り合った夜以来、前ほど千奈を思い出さなくなったが、それでもお盆の最終日になると、このカクテルを飲まずにはいられなかった。
閉店し、客が捌けた静かな店内で、一人あの日を思い出す。
千奈がよく着ていたピンクのワンピースは、お気に入りなのだろうと思っていたけれど、本当は必要最低限の服しか持っていなかったのかもしれない。けれど裏山まで走る彼女の背中、ふわふわと靡くスカートは、勇敢でカッコ良かった。
「ごめんね、ありがとう」自然と溢れた言葉はため息と混じって気化して消える。そうしてまだ残っている傷を癒すように、最後の一口を飲み込んだ。
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