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キオクトキロク

ー/ー



第一章:懐中時計の祈り

​ 視界が、熱くて痛い。
 何も見えない。
 ただ、暴力的なまでの白光がまぶたの裏を焼き、喉の奥が引き裂かれるように熱い。
 鼻を突くツンとした消毒液の匂いが、肺のすみずみまで侵食してくる。
 遠くで鳴り続ける機械の警告音が、弱り切った僕の心臓を逆なでするように、死のカウントダウンを刻んでいた。
​ ――ああ、僕はもう、終わるんだ。
​ まだ、誰の顔も知らない。
 空の色も、風の温度も、何一つ知らないのに。
​「……生存確率、〇・〇二パーセント。規定プロトコルに基づき、アーカイブへの登録を破棄。個体識別番号の付与を中断します」
​ 頭の上で、冷淡な合成音声が響く。看護ドローンの無機質な宣告だ。
 すべてが数値で管理されるこの国において、アーカイブ(記録)を拒絶されることは、公的にその存在を抹消されること。救う価値のない「エラー」として廃棄されることを意味していた。
 登録されなかった個体は、医療も教育も受けられない。存在しないのと同じだ。 
​「……させない。この子は、エラーじゃない」
​ 視界の端で、誰かの震える指が見えた。
 父さんだ。
 父さんは僕の消え入りそうな胸の上に、掌サイズの小さな「重み」を置いた。
​【ナインのログ:システム初動】
プロトコル「懐中時計の祈り」実行。
物理律動を開始します。
​ ――カチ。
​ その瞬間、身体の芯まで響くような振動が走った。
 冷たい電子信号じゃない。泥臭くて、力強い、鋼の歯車が噛み合う「生」の感触。
​ カチ、カチ、カチ。
​ 猫の姿をしたその塊から、僕の止まりかけていた心臓へ、正しいリズムが直接流し込まれてくる。
 熱い。さっきまでの痛みとは違う、命の熱だ。
​ ドクン!
​ 僕の胸が、初めて自らの意思で跳ねた。
 熱い空気が肺に満ち、僕は全身の力を振り絞って、自分をエラーだと切り捨てた世界に産声を叩きつけた。

​◆
​第二章:一番大きな日向

​ 三歳になった僕は、よく家の中の「一番大きな日向」を探して歩いた。
 隣の家の庭では、同年代の子供の傍らに、巨大で無機質な「成猫型」アーカイブキャットが鎮座していた。その猫は淡々と子供の成長を吸い上げ、サーバーへと送信し続けている。
​ けれど、僕の肩には常に、小さな子猫の姿をしたナインが磁石のように吸い付いていた。
​「ないん、おいで。いっしょに、ねんね」
​ 僕が絨毯にぺたんと座り込むと、ナインは心得たように膝に飛び乗った。
 クルン、と音もなく身を翻し、仰向けになって四肢を投げ出す――「ヘソ天」だ。
​「わぁ……ないん、おなか、ぽんぽん!」
​ 僕は冒険に出るような無邪気さで、膝の上のナインへ顔を寄せた。
 黄金色に輝くふかふかの腹毛に自らのハニーブロンドを紛れ込ませるようにして、深々と顔を埋める。
​「……ん、あったかい。いいにおい、する」
​ 天日干ししたリネンと、懐かしい機械オイルの匂いが混じり合った「父さんの匂い」。
 顔を左右に振るたび、ナインの柔らかな毛並みが頬を擽(くすぐ)る。
​ ナインは前足を僕の耳元へ伸ばし、そっと肉球を押し当てた。
 プニリとした感触の奥で、カチ、カチ、と命の時計が鳴っている。
​「ないん、トクトク、いってる……。ハルといっしょだね」
​ ナインの温もりに顔を埋めたまま、僕の呼吸は次第にナインのリズムと同期し、穏やかな眠りへと落ちていく。
 それはサーバーには決して送られない、二人だけの密やかな幸福だった。

​◆
​第三章:送られなかった死

​ 十四歳になる直前、平穏な日々に終わりを告げる嵐の夜が訪れた。
​ 父さんは病床にあり、その傍らには塗装の剥げかけたアーカイブキャット『ゼロ』が控えていた。
 父さんが震える手で『ゼロ』の通信機能を物理的に切断する。
​「……ゼロ。私の死を、サーバーに送るな。この部屋の空気も、私の最期の言葉も、すべてお前の中だけで『墓』にしろ」
​ アーカイブキャットは、本来「共有」するための装置だ。
 しかし父さんは、自らの最期の吐息が効率的なデータとして吸い上げられることを拒絶した。
 僕が駆け寄ったとき、父さんは僕の胸にいるナインと、自分の足元にいるゼロを、交互に見つめた。
​「ハル、よく聞きなさい。この子は、私がお前に残す、最後の『嘘』だ。……記録に残らない死こそが、人間に残された、最後の贅沢なんだよ」
​ 父さんは僕の髪を愛おしそうに撫で、最後にナインへ、システムには記述できない「親の顔」を焼き付けた。
​「いいか、ナイン。ハルがいつか、自分の不完全さを呪う日が来る。この重さを、私からの束縛だと恨む日が来る。……その時、お前が焼くべきなのは、記録ではない」
「ハルの心を縛る、恐怖そのものだ。お前のリズムを、ハルの自由のために使え。それが、私の最後の『祈り』だ」
​ モニターが平坦な音を刻み始めた瞬間、ゼロは主人の指示通り自らを内側から焼き切り、レンズを静かに閉じた。
​ 父を失った絶望で、僕の心臓が激しく乱れる。肺がひっくり返るような喘鳴が漏れた。
 ナインは父さんの遺言を実行するように、その小さな身体を無理やり拡張し、圧倒的な重量で僕を床に固定した。
​「カチ、カチ、カチ!」
​ 必死に「生」のリズムを叩き込むその音だけが、静まり返った部屋に響いていた。
 “送られなかった死”が、僕の中に残った。

​◆

​第四章:未解決のエラー
​ 十四歳――全ての未登録個体が強制的に端末統合される「適合年齢」。
 その誕生日、ついに隠し通す限界が訪れた。
​『未登録個体を検知。標準端末へ移行します』
​ 当局からの警告。ナインの身体が、重厚な「成猫」の姿へと変貌を遂げる。
 他者と同じ、社会に組み込まれた「正しい端末」の形。だが僕にとってそれは、プライバシーを剥奪され、公的な資産として管理されることの宣告に他ならなかった。
​ 僕はその夜、自分を案じて近寄るナインを激しく突き飛ばした。
​「お前を見るたび、思い知らされるんだ! 僕は、機械がなきゃ死んでいた欠陥品だって!」
「父さんの憐れみも、お前のこの重さも……全部、全部、息が詰まるんだよ!」
​ 怒りに任せた咆哮の直後、心臓が悲鳴を上げた。視界が明滅し、膝が折れる。
 ナインは、弾かれたように僕の下へ滑り込んだ。
​【緊急エラー検知:ロジック強制上書き】
優先順位:彼の尊厳よりも、彼の鼓動。
​ ドスン、と背を叩き潰すような、圧倒的な「重み」。
 ナインは論理回路を焼き切り、当局への送信ログを遮断したまま、僕を床に固定してリズムを同期させた。
​「カチ、カチ、カチ――!」
​ 落ち着きを取り戻した僕は、ナインの首元に顔を埋め、声を殺して泣いた。
 ナインは、ざらりとした質感の舌で、僕の涙の味を確かめるように何度もなめ上げた。
 その生々しい感触だけが、管理されたデータではない「今ここにある生」を僕に教えていた。

​◆

​第五章:一億秒の沈黙
​ 青年となった僕は、大学で「史学」を専攻した。
 アーカイブからこぼれ落ちた人々の「息遣い」を手繰り寄せるために。
​ 古びた羊皮紙の匂いが満ちる地下書庫。そこで僕はエマと出会った。
 エマのアーカイブキャット『キャロル』は完璧な優等生だったが、エマ自身は僕の傍らの異端な猫に目を止めた。
​「あなたの猫、素敵ね。……なんだか、とても一生懸命な音がする」
​ エマがナインの額をなでると、ナインは目を細めて懐中時計の音を誇らしげに響かせた。
 ある冬の夜、僕は初めて自分の秘密をエマに打ち明けた。
​「僕の鼓動は、ナインがいないと止まってしまう。僕は、初めから壊れているんだ」
​ エマはなにも言わず、僕の胸にそっと自分の手を当てた。
​「壊れてなんかいないわ。あなたの心臓は、この子と一緒に、世界で一番優しいリズムを刻んでいるもの」
​ エマは僕の唇に口づけを落とした。栗色の髪から、冬の風と微かな花の香りがした。
 僕の著作『一億秒の沈黙』は、父ルイスから受け継いだ「記録されない真実」を拾い上げる異端の書として、世界的な功績と称えられた。

​◆
​第六章:黄金の日々

​ 僕とエマの生活は、記録に残らない無数の小さな光に満ちていた。
 エマが焼くパンの香ばしい匂い。僕が書き上げた原稿を読み、彼女がこぼす柔らかな微笑み。
​ やがて、娘のアイリスが生まれた。
 アイリスの枕元には、社会のルールに従って巨大で無機質な「成猫型」のアーカイブキャットが配備された。その猫は、アイリスの成長を冷徹なレンズで捉えて即座にサーバーへ共有していく。
​ だが、アイリスは自分の猫よりも、父の胸でカチ、カチと不器用な音を立てるナインを好んだ。
​「パパのないん、重たいね。でも、トクトクって、パパの声がする!」
​ エマのキャロルが「記録」し、アイリスの猫が「管理」する中で、ナインだけは僕の心臓と物理的に共鳴し、誰にも共有されない「二人だけの体温」を刻み続けた。
​ ある雨の日、僕が発作で膝をついた時、アイリスは迷わずナインを僕の胸へと押し当てた。
​「ないん、パパをトクトクにして!」
​ 僕にとって「枷(かせ)」だった重さは、家族にとっては「命の確かな手応え」に変わっていた。
​ アイリスが巣立ち、やがてエマと二人きりになった静かな家で、僕たちは残りの時間をゆっくりと使い果たしていった。
​ カチ、カチ、カチ。
​ 十年、二十年。ナインが刻む音は、僕たちの肌に刻まれる皺(しわ)と同じように、抗えない時間の厚みとなって積み重なっていく。
 僕はその一秒一秒を掬(すく)い上げるようにして、ペンを走らせ続けた。
​ 僕が書き上げた、アーカイブからこぼれ落ちた名もなき人々の記録――『一億秒の沈黙』。
 それが世界的な称賛を浴びても、僕の心を満たしたのは、夜の書斎で隣に丸まるナインの熱量だけだった。
​ やがてエマが先に旅立ち、僕は彼女との「記録されない記憶」を胸に、人生の最後の一頁をめくる準備を始めた。

​◆
​終章:鼓動のまゆ

​ 視界が、ゆっくりと光の中に溶けていく。
 身体が、あの日よりもずっと、ずっと重い。
 けれど、心は不思議と穏やかだった。
​ 雪のような白銀に変わった髪に、黄金色のナインがそっと顔を寄せているのがわかる。
​「ナイン。……不思議だね。この音を聞いていると、全部、今のことみたいに思い出すよ」
​ 僕は、かすれた声で相棒にささやいた。
​「あの日向の匂いも。エマと重ねた唇の熱さも。アイリスが僕の指を初めて握りしめた、あの驚くような力強さも。……全部、僕の中に、ちゃんとあるんだ」
​ 震える指先で、ナインの額をなでる。
 夕日に照らされた草原のように、柔らかい毛並み。掌に吸い付くような命の温もり。
​「……長い間、僕の時計でいてくれて、ありがとう」
​ カラン、と乾いた音がした。
 父さんから受け継いだ銀の懐中時計が、役目を終えたように床へ滑り落ちる。
​ それと同時に、僕の胸のリズムが、静かに凪(な)いでいった。
​ 視界が、ゆっくりと霞んでいく。
 けれどその時、僕の手の甲に「熱い雫」が落ちた。
​ ナイン。
 君は、泣いているのか。
​ デジタルデータが「ノイズ」として切り捨てるはずの、不合理で、温かい、人間のような涙を。
​【ナインの最終ログ】
継承プロトコル:永久破棄。
自らシャットダウンを実行。
​ ナインは、僕の功績を世界に残すことよりも、僕という「一人の人間」との記憶を抱えて消えることを選んだんだ。
 あの日、父さんが僕をシステムから隠してくれたように。
​ 最後に感じたのは、心地よい「重み」だった。
 ナインが黄金の琥珀となって、僕を優しく包み込んでいく。
​ もう、何も怖くない。
 僕は温かな繭(まゆ)の中で、一億秒の旅を終えた満足感とともに、深く、深い眠りについた。
​◆
​ 数十年後。屋敷の跡地で見つかった、巨大で美しい琥珀。
 一人の若者が、その不思議な輝きに魅せられて、そっと手を触れた。
​「……おい、聞こえるか?」
「ああ。……古い時計が、まだ動いてるみたいな音がする」
​ 琥珀の中で、白銀の髪の紳士と黄金の猫は、永遠に溶け合っている。
 中心で刻まれるリズムは、機械としては致命的なほど、ほんの僅かにズレていた。
​ 壊れたまま、狂ったまま、それでも誇らしげに。
 それは主人の幸福な一億秒を、誰にも渡さないための拒絶の音。
​ 若者が目を閉じると、鼻の奥にふっと、日向干ししたリネンの香りが過った。
​ ……それでも、その音は、泣きたくなるほど懐かしい。
 あの日の、鼓動みたいに。

(了)


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​ 視界が、熱くて痛い。
 何も見えない。
 ただ、暴力的なまでの白光がまぶたの裏を焼き、喉の奥が引き裂かれるように熱い。
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 遠くで鳴り続ける機械の警告音が、弱り切った僕の心臓を逆なでするように、死のカウントダウンを刻んでいた。
​ ――ああ、僕はもう、終わるんだ。
​ まだ、誰の顔も知らない。
 空の色も、風の温度も、何一つ知らないのに。
​「……生存確率、〇・〇二パーセント。規定プロトコルに基づき、アーカイブへの登録を破棄。個体識別番号の付与を中断します」
​ 頭の上で、冷淡な合成音声が響く。看護ドローンの無機質な宣告だ。
 すべてが数値で管理されるこの国において、アーカイブ(記録)を拒絶されることは、公的にその存在を抹消されること。救う価値のない「エラー」として廃棄されることを意味していた。
 登録されなかった個体は、医療も教育も受けられない。存在しないのと同じだ。 
​「……させない。この子は、エラーじゃない」
​ 視界の端で、誰かの震える指が見えた。
 父さんだ。
 父さんは僕の消え入りそうな胸の上に、掌サイズの小さな「重み」を置いた。
​【ナインのログ:システム初動】
プロトコル「懐中時計の祈り」実行。
物理律動を開始します。
​ ――カチ。
​ その瞬間、身体の芯まで響くような振動が走った。
 冷たい電子信号じゃない。泥臭くて、力強い、鋼の歯車が噛み合う「生」の感触。
​ カチ、カチ、カチ。
​ 猫の姿をしたその塊から、僕の止まりかけていた心臓へ、正しいリズムが直接流し込まれてくる。
 熱い。さっきまでの痛みとは違う、命の熱だ。
​ ドクン!
​ 僕の胸が、初めて自らの意思で跳ねた。
 熱い空気が肺に満ち、僕は全身の力を振り絞って、自分をエラーだと切り捨てた世界に産声を叩きつけた。
​◆
​第二章:一番大きな日向
​ 三歳になった僕は、よく家の中の「一番大きな日向」を探して歩いた。
 隣の家の庭では、同年代の子供の傍らに、巨大で無機質な「成猫型」アーカイブキャットが鎮座していた。その猫は淡々と子供の成長を吸い上げ、サーバーへと送信し続けている。
​ けれど、僕の肩には常に、小さな子猫の姿をしたナインが磁石のように吸い付いていた。
​「ないん、おいで。いっしょに、ねんね」
​ 僕が絨毯にぺたんと座り込むと、ナインは心得たように膝に飛び乗った。
 クルン、と音もなく身を翻し、仰向けになって四肢を投げ出す――「ヘソ天」だ。
​「わぁ……ないん、おなか、ぽんぽん!」
​ 僕は冒険に出るような無邪気さで、膝の上のナインへ顔を寄せた。
 黄金色に輝くふかふかの腹毛に自らのハニーブロンドを紛れ込ませるようにして、深々と顔を埋める。
​「……ん、あったかい。いいにおい、する」
​ 天日干ししたリネンと、懐かしい機械オイルの匂いが混じり合った「父さんの匂い」。
 顔を左右に振るたび、ナインの柔らかな毛並みが頬を擽(くすぐ)る。
​ ナインは前足を僕の耳元へ伸ばし、そっと肉球を押し当てた。
 プニリとした感触の奥で、カチ、カチ、と命の時計が鳴っている。
​「ないん、トクトク、いってる……。ハルといっしょだね」
​ ナインの温もりに顔を埋めたまま、僕の呼吸は次第にナインのリズムと同期し、穏やかな眠りへと落ちていく。
 それはサーバーには決して送られない、二人だけの密やかな幸福だった。
​◆
​第三章:送られなかった死
​ 十四歳になる直前、平穏な日々に終わりを告げる嵐の夜が訪れた。
​ 父さんは病床にあり、その傍らには塗装の剥げかけたアーカイブキャット『ゼロ』が控えていた。
 父さんが震える手で『ゼロ』の通信機能を物理的に切断する。
​「……ゼロ。私の死を、サーバーに送るな。この部屋の空気も、私の最期の言葉も、すべてお前の中だけで『墓』にしろ」
​ アーカイブキャットは、本来「共有」するための装置だ。
 しかし父さんは、自らの最期の吐息が効率的なデータとして吸い上げられることを拒絶した。
 僕が駆け寄ったとき、父さんは僕の胸にいるナインと、自分の足元にいるゼロを、交互に見つめた。
​「ハル、よく聞きなさい。この子は、私がお前に残す、最後の『嘘』だ。……記録に残らない死こそが、人間に残された、最後の贅沢なんだよ」
​ 父さんは僕の髪を愛おしそうに撫で、最後にナインへ、システムには記述できない「親の顔」を焼き付けた。
​「いいか、ナイン。ハルがいつか、自分の不完全さを呪う日が来る。この重さを、私からの束縛だと恨む日が来る。……その時、お前が焼くべきなのは、記録ではない」
「ハルの心を縛る、恐怖そのものだ。お前のリズムを、ハルの自由のために使え。それが、私の最後の『祈り』だ」
​ モニターが平坦な音を刻み始めた瞬間、ゼロは主人の指示通り自らを内側から焼き切り、レンズを静かに閉じた。
​ 父を失った絶望で、僕の心臓が激しく乱れる。肺がひっくり返るような喘鳴が漏れた。
 ナインは父さんの遺言を実行するように、その小さな身体を無理やり拡張し、圧倒的な重量で僕を床に固定した。
​「カチ、カチ、カチ!」
​ 必死に「生」のリズムを叩き込むその音だけが、静まり返った部屋に響いていた。
 “送られなかった死”が、僕の中に残った。
​◆
​第四章:未解決のエラー
​ 十四歳――全ての未登録個体が強制的に端末統合される「適合年齢」。
 その誕生日、ついに隠し通す限界が訪れた。
​『未登録個体を検知。標準端末へ移行します』
​ 当局からの警告。ナインの身体が、重厚な「成猫」の姿へと変貌を遂げる。
 他者と同じ、社会に組み込まれた「正しい端末」の形。だが僕にとってそれは、プライバシーを剥奪され、公的な資産として管理されることの宣告に他ならなかった。
​ 僕はその夜、自分を案じて近寄るナインを激しく突き飛ばした。
​「お前を見るたび、思い知らされるんだ! 僕は、機械がなきゃ死んでいた欠陥品だって!」
「父さんの憐れみも、お前のこの重さも……全部、全部、息が詰まるんだよ!」
​ 怒りに任せた咆哮の直後、心臓が悲鳴を上げた。視界が明滅し、膝が折れる。
 ナインは、弾かれたように僕の下へ滑り込んだ。
​【緊急エラー検知:ロジック強制上書き】
優先順位:彼の尊厳よりも、彼の鼓動。
​ ドスン、と背を叩き潰すような、圧倒的な「重み」。
 ナインは論理回路を焼き切り、当局への送信ログを遮断したまま、僕を床に固定してリズムを同期させた。
​「カチ、カチ、カチ――!」
​ 落ち着きを取り戻した僕は、ナインの首元に顔を埋め、声を殺して泣いた。
 ナインは、ざらりとした質感の舌で、僕の涙の味を確かめるように何度もなめ上げた。
 その生々しい感触だけが、管理されたデータではない「今ここにある生」を僕に教えていた。
​◆
​第五章:一億秒の沈黙
​ 青年となった僕は、大学で「史学」を専攻した。
 アーカイブからこぼれ落ちた人々の「息遣い」を手繰り寄せるために。
​ 古びた羊皮紙の匂いが満ちる地下書庫。そこで僕はエマと出会った。
 エマのアーカイブキャット『キャロル』は完璧な優等生だったが、エマ自身は僕の傍らの異端な猫に目を止めた。
​「あなたの猫、素敵ね。……なんだか、とても一生懸命な音がする」
​ エマがナインの額をなでると、ナインは目を細めて懐中時計の音を誇らしげに響かせた。
 ある冬の夜、僕は初めて自分の秘密をエマに打ち明けた。
​「僕の鼓動は、ナインがいないと止まってしまう。僕は、初めから壊れているんだ」
​ エマはなにも言わず、僕の胸にそっと自分の手を当てた。
​「壊れてなんかいないわ。あなたの心臓は、この子と一緒に、世界で一番優しいリズムを刻んでいるもの」
​ エマは僕の唇に口づけを落とした。栗色の髪から、冬の風と微かな花の香りがした。
 僕の著作『一億秒の沈黙』は、父ルイスから受け継いだ「記録されない真実」を拾い上げる異端の書として、世界的な功績と称えられた。
​◆
​第六章:黄金の日々
​ 僕とエマの生活は、記録に残らない無数の小さな光に満ちていた。
 エマが焼くパンの香ばしい匂い。僕が書き上げた原稿を読み、彼女がこぼす柔らかな微笑み。
​ やがて、娘のアイリスが生まれた。
 アイリスの枕元には、社会のルールに従って巨大で無機質な「成猫型」のアーカイブキャットが配備された。その猫は、アイリスの成長を冷徹なレンズで捉えて即座にサーバーへ共有していく。
​ だが、アイリスは自分の猫よりも、父の胸でカチ、カチと不器用な音を立てるナインを好んだ。
​「パパのないん、重たいね。でも、トクトクって、パパの声がする!」
​ エマのキャロルが「記録」し、アイリスの猫が「管理」する中で、ナインだけは僕の心臓と物理的に共鳴し、誰にも共有されない「二人だけの体温」を刻み続けた。
​ ある雨の日、僕が発作で膝をついた時、アイリスは迷わずナインを僕の胸へと押し当てた。
​「ないん、パパをトクトクにして!」
​ 僕にとって「枷(かせ)」だった重さは、家族にとっては「命の確かな手応え」に変わっていた。
​ アイリスが巣立ち、やがてエマと二人きりになった静かな家で、僕たちは残りの時間をゆっくりと使い果たしていった。
​ カチ、カチ、カチ。
​ 十年、二十年。ナインが刻む音は、僕たちの肌に刻まれる皺(しわ)と同じように、抗えない時間の厚みとなって積み重なっていく。
 僕はその一秒一秒を掬(すく)い上げるようにして、ペンを走らせ続けた。
​ 僕が書き上げた、アーカイブからこぼれ落ちた名もなき人々の記録――『一億秒の沈黙』。
 それが世界的な称賛を浴びても、僕の心を満たしたのは、夜の書斎で隣に丸まるナインの熱量だけだった。
​ やがてエマが先に旅立ち、僕は彼女との「記録されない記憶」を胸に、人生の最後の一頁をめくる準備を始めた。
​◆
​終章:鼓動のまゆ
​ 視界が、ゆっくりと光の中に溶けていく。
 身体が、あの日よりもずっと、ずっと重い。
 けれど、心は不思議と穏やかだった。
​ 雪のような白銀に変わった髪に、黄金色のナインがそっと顔を寄せているのがわかる。
​「ナイン。……不思議だね。この音を聞いていると、全部、今のことみたいに思い出すよ」
​ 僕は、かすれた声で相棒にささやいた。
​「あの日向の匂いも。エマと重ねた唇の熱さも。アイリスが僕の指を初めて握りしめた、あの驚くような力強さも。……全部、僕の中に、ちゃんとあるんだ」
​ 震える指先で、ナインの額をなでる。
 夕日に照らされた草原のように、柔らかい毛並み。掌に吸い付くような命の温もり。
​「……長い間、僕の時計でいてくれて、ありがとう」
​ カラン、と乾いた音がした。
 父さんから受け継いだ銀の懐中時計が、役目を終えたように床へ滑り落ちる。
​ それと同時に、僕の胸のリズムが、静かに凪(な)いでいった。
​ 視界が、ゆっくりと霞んでいく。
 けれどその時、僕の手の甲に「熱い雫」が落ちた。
​ ナイン。
 君は、泣いているのか。
​ デジタルデータが「ノイズ」として切り捨てるはずの、不合理で、温かい、人間のような涙を。
​【ナインの最終ログ】
継承プロトコル:永久破棄。
自らシャットダウンを実行。
​ ナインは、僕の功績を世界に残すことよりも、僕という「一人の人間」との記憶を抱えて消えることを選んだんだ。
 あの日、父さんが僕をシステムから隠してくれたように。
​ 最後に感じたのは、心地よい「重み」だった。
 ナインが黄金の琥珀となって、僕を優しく包み込んでいく。
​ もう、何も怖くない。
 僕は温かな繭(まゆ)の中で、一億秒の旅を終えた満足感とともに、深く、深い眠りについた。
​◆
​ 数十年後。屋敷の跡地で見つかった、巨大で美しい琥珀。
 一人の若者が、その不思議な輝きに魅せられて、そっと手を触れた。
​「……おい、聞こえるか?」
「ああ。……古い時計が、まだ動いてるみたいな音がする」
​ 琥珀の中で、白銀の髪の紳士と黄金の猫は、永遠に溶け合っている。
 中心で刻まれるリズムは、機械としては致命的なほど、ほんの僅かにズレていた。
​ 壊れたまま、狂ったまま、それでも誇らしげに。
 それは主人の幸福な一億秒を、誰にも渡さないための拒絶の音。
​ 若者が目を閉じると、鼻の奥にふっと、日向干ししたリネンの香りが過った。
​ ……それでも、その音は、泣きたくなるほど懐かしい。
 あの日の、鼓動みたいに。
(了)