06
ー/ー 安心させようとしてくれていた、とはいえ――。確かに暫くは肩から力は抜けていたし、人でごった返す街中の様子――たとえば花を購入する親子や、テラスでティータイムを嗜む老婦人たち――を、穏やかに眺めていることも出来ていた。色とりどりのチューリップが花壇にたっぷりと植えられているところや、バルコニーに吊るされた洗濯物といった、何でもないものにさえ、ひとつひとつ。
けれども、いざ馬車が停まると、身体は瞬時に強張った。必死に意識を逸らそうとしても、脳裏には執拗に、父や継母たちのかんばせがくっきりと浮かんでくる。窓の外へ目を向ける勇気は、まだない。俯かせた顔を上げる勇気も、また。
しかしそんな私のことなどまるで気に留めることなく、キャビンの扉が自動的に開いた。やわらかな薫りに包まれていた車内に、外に溢れる、生活感の滲む風がするりと流れ込んでくる。それが益々、私を凍りつかせた。指の先から、心の奥まで。胸の内側から悲鳴が聞こえてくるのではないかと思うほど、身体中が恐怖で縛り付けられている。
そんな私の様子を見て取ってか、オルフェイン卿は先を急かそうとはしなかった。今までの彼ならば、ひとりでさっさと出て行ってもおかしくはないのに。彼は何も言わず、ただじっと私を見つめている。
降りなければいけない、と、分かっている。そう頭では分かっているのに、足はぴくりとも動こうとしない。
いつまでそうしていただろう。ほんの数秒だったかもしれないし、数分だったかもしれない。或いは、もっともっと長い時間だったかもしれない。長くも短くも感じられるような、まるで現実味のない、靄がかかったような曖昧な時間。
静かだった車内に、やがてごそりと、微かな衣擦れの音がした。壊れかけの人形のようにぎこちない動きで、ゆっくりと顔を上げると、オルフェイン卿と視線が交わった。
てっきり怒ってるだろうと思っていた。呆れてもいるだろう、とも。けれど彼の真紅の瞳は、ただただ真摯に私を映していた。その真っ直ぐさに、思わず心臓がどくりと小さく跳ね上がる。
どうしてこの人は――。そう思いかけた時、オルフェイン卿の右手がローブの内側から現れ、何かが私の腿の上に、半ば投げて寄越すように、ぽとりと落とされた。
転がり落ちてしまわぬよう、慌ててそれを拾い上げながら、ふと、昨夜の出来事を思い出す。言葉を発することを頑なに拒む私に、彼は今と同じように、手帳と万年筆を渡してくれた。
クロエさんは“どうしようもない人”と言っていたけれど。彼は存外、やさしい人なのかもしれない。ただ面倒くさがりで、些か粗暴なだけで。
そう思いながら、両手で拾い上げた“何か”に視線を落とすと、それは随分と高価そうな、美しいピアスだった。金色の輪の真ん中に、菱形にカットされた深く澄んだ水色の宝石が添えられ、その先に長方形の金の飾りが連なっている。
しかしよくよく見ていると、水色の宝石は"添えられている"のではなく、"浮いて"いた。細い糸で縛られているわけでも、硝子に嵌め込まれているのでもなく。ただただ微動だにせず、浮いていた。
「それつけてろ。絶対に外すなよ」
そう告げたオルフェイン卿の顔と、片方だけのピアスを交互に見遣り、私は理由が分からず首を傾げる。高価で特殊なものだということは、ひと目で分かったけれど。何故これを、私に渡したのだろう。しかも、“絶対に外すなよ”という言葉まで添えて。
ピアスという意表を突かれたせいでか、漸く動けるようになった右手で、手帳を開く。けれども、万年筆のキャップを外そうとするより先に、オルフェイン卿が口を開いた。
「お前の能力を制御する為に造った魔道具だ。実態がまだ掴めてねえから、正確な魔法陣は組み込めなかった。代わりに、俺の魔力を封じてある。それさえ身につけてりゃ、お前がどんなに喋っても何も起こらねえよ」
まるで何でもないことのような口調で語る彼の顔を凝視していると、ふと、あることに気が付いた。烏の濡れ羽色をした横髪に少し隠れてはいるけれど。隙間からは確かに、私の手元にあるのと同じピアスが、左耳につけられているのが見えた。
その視線に気が付いたのか、オルフェイン卿は左手で横髪をかきあげ、そこに輝くピアスをはっきりと晒す。そんな彼の口元には、にたりとした笑みが浮かんでいた。
「一応お前は、監視対象の“危険人物”だからな。居場所を把握する目的もある」
殿下のご命令である以上、魔塔を勝手に抜け出すつもりなど微塵もないのだけれど。確かに四六時中誰かが見張っているのは、万年人手不足であるらしい彼等には難しいのかもしれない。
邪な企みなどないので、身につけておく分には全然構わない。居場所を把握されて困ることは何もないのだから。
しかし――。ピアスを右耳につけながら、私はちらりと、オルフェイン卿の顔を上目で盗み見る。それよりも気になるのは、本当にこの魔道具が、制御の役割を果たしてくれるのだろうか、ということだった。
どんなに喋っても構わない、と彼は言っていたけれど。それを素直に信じられるかといえば、難しい。いくら造ったのが、"天才"と評される最強の魔術師であったとしても。
実際オルフェイン卿は、はっきりと言っていた。正確な魔法陣は組み込めなかった、と。だから彼の魔力を封じたのだ、と。
オルフェイン卿の実力を疑っているわけでは、決してない。けれども、胸の裡に渦巻く不安や疑念を拭い取ることは、どうしても出来そうになかった。
「つけたんなら、さっさと行くぞ」
ピアスに気を取られてしまっていたせいで、自分が置かれている今の状況が、これから起こり得るだろう物事が、すっかり頭から抜け落ちてしまっていた。
それらに対する意識が戻った途端に、恐怖がどっと押し寄せてくる。喉に何かが詰まってでもいるみたいに、息苦しい。
それでも行かなければ、と震える足を動かして、どうにか立ち上がる。扉から顔を出し、ステップに足をかけようとすると、先に降り立っていたオルフェイン卿が、そっと手を差し出してくれた。昨夜はそんなこと、してくれなかったのに。
昨日の彼と、今目の前にいる彼は別人なのだろうか。ほんの少しだけそう訝りながら、骨の張った大きな掌に、おずおずと手を添える。触れた皮膚は、思っていたよりも、とてもあたたかかった。
いざ地に両足をつき、ゆっくりと顔を上げる。そこには、これから向かい合わねばならない現実が、威圧的に立ちはだかっていた。
短く切り揃えられた生け垣と、先の尖った錬鉄製の柵。伯爵家の紋章が彫り込まれた石造りの門柱に挟まれるようにして設けられた、鉄製の格子扉。
その奥に広がるのは、中庭を三方から抱くようにして建つ白亜の邸だった。無論、公爵家や王城に比べれば、決して大きくはないけれど。それでも今の私には、その建物が何よりも大きな存在に見えてしまう。巷で囁かれる魔塔の噂そのままに、陰鬱で気味の悪い存在としても。
使用人は多くいるのだから、魔塔の馬車が門前に現れたことくらい、すぐに誰かしら気付くだろうに。門扉の前にも、その奥に微かに見える玄関先にも、人影はひとつも見当たらなかった。出迎える気など、毛頭ないらしい。
ただでさえ"化け物"であり、衆人環視の中で"危険人物"として連行されたのだ。厄介者とこれ以上関わり合いたくない、と両親が思うのも無理はない。
「おら、歩け。じっとしてたって、何にも終わんねえぞ」
再び足が竦みそうになる私の背を、オルフェイン卿がぽんと軽く押す。よろけるように二、三歩進んだところで、確かに彼の言う通りだ、と思った。いつまでもじっとしていたところで、何も終わりはしない。
いつもとは逆に、オルフェイン卿の前を歩きながら、胸の中で暴れまわる感情をどうにか鎮めようと、深く吸い込んだ息をゆっくりと吐き出す。
それでも、一歩、また一歩と門扉が近付いてくるにつれ、鼓動はどんどんと早さを増してゆく。両手が微かに震え、いつの間にか唇をきつく噛み締めていた。歯が薄い皮膚を突き破ってしまいそうなほど、強く。
門扉の前に辿り着き足を止めると、中庭の脇から誰かが姿を現したのが見えた。
きっちりと撫でつけられた白髪、丁寧に切り揃えられた髭、手本の如く正しく着こなされた黒の燕尾服。
ただそれだけで、近付いてくる人間が誰であるのか、遠目にもすぐに分かった。祖父の代から仕え、今もなお父から深い信頼を寄せられている――執事長の、アルベール・モンタン。
「これはこれは、ルシアン・オルフェイン卿ではございませんか。我が主に、何か御用でも?」
齢六十は超えているはずだというのに、相も変わらず、すっと背筋の伸びた佇まいは年齢を感じさせぬほど凛としていた。目元には皺が寄り、幾分瞼が垂れてはいるけれど、その下に覗く濃紺の瞳は、未だ衰えぬ威厳を湛えている。
そんな彼の視線は、前に立つ私にではなく、背後のオルフェイン卿にだけ向けられていた。まるで私の存在など、そこにないとでも言わんばかりに。
「こいつの荷物を取りに来た」
オルフェイン卿は淡々とした口調で、端的に告げる。“こいつ”と言い表したことで、敢えて私の存在を認めさせようとしているのだろうけど、それでも尚、アルベールの視線が私へ向けられることはなかった。
「大魔術師であらせられるオルフェイン卿が自ら足をお運び下さったというのに……誠に申し訳ございませんが、我が主より、"罪人は邸に一歩も入れさせるな"と命を受けておりまして」
罪人――。その一言に、思わず息を呑む。その言葉が指し示す人物など、私以外にはいないのだから。
アルベールのことを慕っていたわけでも、親しくしていたわけでもない。ただ、生前の母を知る数少ない人物として、他の使用人よりも特別に思ってはいた。
けれども、どうやらそれは、私だけだったようだ。もしかしたら、今まで"執事長"として私に接していた態度も、全て演技だったのかもしれない。
足元から何かが崩れてゆくような感覚に囚われ、胸の中がひどくざわつく。哀しいわけでも、苦しいわけでも、怒っているわけでもないのに。たとえるならそれは、底の知れない虚無――。
「はあ? 罪人? 誰のこと言ってんだ」
呆れを含んだオルフェイン卿の声でどうにか我に返り、私はぎゅっと掌をかたく握り締める。
罪人――確かにそうなのかもしれないと思う自分も、またいるのだ。魔力もなく、魔法陣もなく。得体の知れない危険な能力を持ち、そのせいで今まで様々な人や物を――意図的ではないとはいえ――傷つけてしまった私は、確かに"罪人"なのだろう、と。
「勿論、シルヴィ様のことでございます」
けれど、いざ実際に"言葉"として突きつけられると、どうしようもないほどに、きつく胸が締め付けられた。途端に目の奥が熱くなりそうで、慌てて視線を足元へ落とす。
そんな私の後頭部を、オルフェイン卿が一瞥したのが、気配で分かった。
「……クソにも程があるってもんだろ」
まるで独り言のような小さな呟きが背後から聞こえてきたかと思うと、次の瞬間、ぱちん、と指を弾く音が耳に届いた。それとともに、かさりと、何かが揺れるような微かな音も。
「此処へ来たのは、王太子殿下直々の指示だ。立ち入りを拒むというのなら、それは殿下の命に逆らうということになるが……さあ、どうする?」
はっとして顔を上げると、眼の前に一枚の紙が翳されていた。裏面しか見えないけれど、それでも王家の紋章が、殿下の署名が、うっすらと透けて見える。
「更に言うと、彼女は今、殿下の庇護下にあるんだが……で? 誰が"罪人"だって?」
まるで嘲笑うかのような、オルフェイン卿の声。ちらりと視線を上げると、翳された紙の向こう側で、アルベールが苦虫を噛み潰したように不快な顔をしていた。
常日頃から紳士然とし、使用人の模範として、誰よりも"規律"を体現したような存在であるアルベール。そんな彼が、こんなにも表情を歪めたのを、私は初めて見た。
「……畏まりました。中へご案内致します」
彼の一言で、重く閉ざされていた門扉が、ゆっくりと開かれる。その様をじっと見つめながら、私は胸の裡で、重々しい溜息をついた。
父は、継母は、義妹は――今この瞬間どこかで、此処に立つ私を、卑しく嗤いながら眺めているのだろうか。
けれども、いざ馬車が停まると、身体は瞬時に強張った。必死に意識を逸らそうとしても、脳裏には執拗に、父や継母たちのかんばせがくっきりと浮かんでくる。窓の外へ目を向ける勇気は、まだない。俯かせた顔を上げる勇気も、また。
しかしそんな私のことなどまるで気に留めることなく、キャビンの扉が自動的に開いた。やわらかな薫りに包まれていた車内に、外に溢れる、生活感の滲む風がするりと流れ込んでくる。それが益々、私を凍りつかせた。指の先から、心の奥まで。胸の内側から悲鳴が聞こえてくるのではないかと思うほど、身体中が恐怖で縛り付けられている。
そんな私の様子を見て取ってか、オルフェイン卿は先を急かそうとはしなかった。今までの彼ならば、ひとりでさっさと出て行ってもおかしくはないのに。彼は何も言わず、ただじっと私を見つめている。
降りなければいけない、と、分かっている。そう頭では分かっているのに、足はぴくりとも動こうとしない。
いつまでそうしていただろう。ほんの数秒だったかもしれないし、数分だったかもしれない。或いは、もっともっと長い時間だったかもしれない。長くも短くも感じられるような、まるで現実味のない、靄がかかったような曖昧な時間。
静かだった車内に、やがてごそりと、微かな衣擦れの音がした。壊れかけの人形のようにぎこちない動きで、ゆっくりと顔を上げると、オルフェイン卿と視線が交わった。
てっきり怒ってるだろうと思っていた。呆れてもいるだろう、とも。けれど彼の真紅の瞳は、ただただ真摯に私を映していた。その真っ直ぐさに、思わず心臓がどくりと小さく跳ね上がる。
どうしてこの人は――。そう思いかけた時、オルフェイン卿の右手がローブの内側から現れ、何かが私の腿の上に、半ば投げて寄越すように、ぽとりと落とされた。
転がり落ちてしまわぬよう、慌ててそれを拾い上げながら、ふと、昨夜の出来事を思い出す。言葉を発することを頑なに拒む私に、彼は今と同じように、手帳と万年筆を渡してくれた。
クロエさんは“どうしようもない人”と言っていたけれど。彼は存外、やさしい人なのかもしれない。ただ面倒くさがりで、些か粗暴なだけで。
そう思いながら、両手で拾い上げた“何か”に視線を落とすと、それは随分と高価そうな、美しいピアスだった。金色の輪の真ん中に、菱形にカットされた深く澄んだ水色の宝石が添えられ、その先に長方形の金の飾りが連なっている。
しかしよくよく見ていると、水色の宝石は"添えられている"のではなく、"浮いて"いた。細い糸で縛られているわけでも、硝子に嵌め込まれているのでもなく。ただただ微動だにせず、浮いていた。
「それつけてろ。絶対に外すなよ」
そう告げたオルフェイン卿の顔と、片方だけのピアスを交互に見遣り、私は理由が分からず首を傾げる。高価で特殊なものだということは、ひと目で分かったけれど。何故これを、私に渡したのだろう。しかも、“絶対に外すなよ”という言葉まで添えて。
ピアスという意表を突かれたせいでか、漸く動けるようになった右手で、手帳を開く。けれども、万年筆のキャップを外そうとするより先に、オルフェイン卿が口を開いた。
「お前の能力を制御する為に造った魔道具だ。実態がまだ掴めてねえから、正確な魔法陣は組み込めなかった。代わりに、俺の魔力を封じてある。それさえ身につけてりゃ、お前がどんなに喋っても何も起こらねえよ」
まるで何でもないことのような口調で語る彼の顔を凝視していると、ふと、あることに気が付いた。烏の濡れ羽色をした横髪に少し隠れてはいるけれど。隙間からは確かに、私の手元にあるのと同じピアスが、左耳につけられているのが見えた。
その視線に気が付いたのか、オルフェイン卿は左手で横髪をかきあげ、そこに輝くピアスをはっきりと晒す。そんな彼の口元には、にたりとした笑みが浮かんでいた。
「一応お前は、監視対象の“危険人物”だからな。居場所を把握する目的もある」
殿下のご命令である以上、魔塔を勝手に抜け出すつもりなど微塵もないのだけれど。確かに四六時中誰かが見張っているのは、万年人手不足であるらしい彼等には難しいのかもしれない。
邪な企みなどないので、身につけておく分には全然構わない。居場所を把握されて困ることは何もないのだから。
しかし――。ピアスを右耳につけながら、私はちらりと、オルフェイン卿の顔を上目で盗み見る。それよりも気になるのは、本当にこの魔道具が、制御の役割を果たしてくれるのだろうか、ということだった。
どんなに喋っても構わない、と彼は言っていたけれど。それを素直に信じられるかといえば、難しい。いくら造ったのが、"天才"と評される最強の魔術師であったとしても。
実際オルフェイン卿は、はっきりと言っていた。正確な魔法陣は組み込めなかった、と。だから彼の魔力を封じたのだ、と。
オルフェイン卿の実力を疑っているわけでは、決してない。けれども、胸の裡に渦巻く不安や疑念を拭い取ることは、どうしても出来そうになかった。
「つけたんなら、さっさと行くぞ」
ピアスに気を取られてしまっていたせいで、自分が置かれている今の状況が、これから起こり得るだろう物事が、すっかり頭から抜け落ちてしまっていた。
それらに対する意識が戻った途端に、恐怖がどっと押し寄せてくる。喉に何かが詰まってでもいるみたいに、息苦しい。
それでも行かなければ、と震える足を動かして、どうにか立ち上がる。扉から顔を出し、ステップに足をかけようとすると、先に降り立っていたオルフェイン卿が、そっと手を差し出してくれた。昨夜はそんなこと、してくれなかったのに。
昨日の彼と、今目の前にいる彼は別人なのだろうか。ほんの少しだけそう訝りながら、骨の張った大きな掌に、おずおずと手を添える。触れた皮膚は、思っていたよりも、とてもあたたかかった。
いざ地に両足をつき、ゆっくりと顔を上げる。そこには、これから向かい合わねばならない現実が、威圧的に立ちはだかっていた。
短く切り揃えられた生け垣と、先の尖った錬鉄製の柵。伯爵家の紋章が彫り込まれた石造りの門柱に挟まれるようにして設けられた、鉄製の格子扉。
その奥に広がるのは、中庭を三方から抱くようにして建つ白亜の邸だった。無論、公爵家や王城に比べれば、決して大きくはないけれど。それでも今の私には、その建物が何よりも大きな存在に見えてしまう。巷で囁かれる魔塔の噂そのままに、陰鬱で気味の悪い存在としても。
使用人は多くいるのだから、魔塔の馬車が門前に現れたことくらい、すぐに誰かしら気付くだろうに。門扉の前にも、その奥に微かに見える玄関先にも、人影はひとつも見当たらなかった。出迎える気など、毛頭ないらしい。
ただでさえ"化け物"であり、衆人環視の中で"危険人物"として連行されたのだ。厄介者とこれ以上関わり合いたくない、と両親が思うのも無理はない。
「おら、歩け。じっとしてたって、何にも終わんねえぞ」
再び足が竦みそうになる私の背を、オルフェイン卿がぽんと軽く押す。よろけるように二、三歩進んだところで、確かに彼の言う通りだ、と思った。いつまでもじっとしていたところで、何も終わりはしない。
いつもとは逆に、オルフェイン卿の前を歩きながら、胸の中で暴れまわる感情をどうにか鎮めようと、深く吸い込んだ息をゆっくりと吐き出す。
それでも、一歩、また一歩と門扉が近付いてくるにつれ、鼓動はどんどんと早さを増してゆく。両手が微かに震え、いつの間にか唇をきつく噛み締めていた。歯が薄い皮膚を突き破ってしまいそうなほど、強く。
門扉の前に辿り着き足を止めると、中庭の脇から誰かが姿を現したのが見えた。
きっちりと撫でつけられた白髪、丁寧に切り揃えられた髭、手本の如く正しく着こなされた黒の燕尾服。
ただそれだけで、近付いてくる人間が誰であるのか、遠目にもすぐに分かった。祖父の代から仕え、今もなお父から深い信頼を寄せられている――執事長の、アルベール・モンタン。
「これはこれは、ルシアン・オルフェイン卿ではございませんか。我が主に、何か御用でも?」
齢六十は超えているはずだというのに、相も変わらず、すっと背筋の伸びた佇まいは年齢を感じさせぬほど凛としていた。目元には皺が寄り、幾分瞼が垂れてはいるけれど、その下に覗く濃紺の瞳は、未だ衰えぬ威厳を湛えている。
そんな彼の視線は、前に立つ私にではなく、背後のオルフェイン卿にだけ向けられていた。まるで私の存在など、そこにないとでも言わんばかりに。
「こいつの荷物を取りに来た」
オルフェイン卿は淡々とした口調で、端的に告げる。“こいつ”と言い表したことで、敢えて私の存在を認めさせようとしているのだろうけど、それでも尚、アルベールの視線が私へ向けられることはなかった。
「大魔術師であらせられるオルフェイン卿が自ら足をお運び下さったというのに……誠に申し訳ございませんが、我が主より、"罪人は邸に一歩も入れさせるな"と命を受けておりまして」
罪人――。その一言に、思わず息を呑む。その言葉が指し示す人物など、私以外にはいないのだから。
アルベールのことを慕っていたわけでも、親しくしていたわけでもない。ただ、生前の母を知る数少ない人物として、他の使用人よりも特別に思ってはいた。
けれども、どうやらそれは、私だけだったようだ。もしかしたら、今まで"執事長"として私に接していた態度も、全て演技だったのかもしれない。
足元から何かが崩れてゆくような感覚に囚われ、胸の中がひどくざわつく。哀しいわけでも、苦しいわけでも、怒っているわけでもないのに。たとえるならそれは、底の知れない虚無――。
「はあ? 罪人? 誰のこと言ってんだ」
呆れを含んだオルフェイン卿の声でどうにか我に返り、私はぎゅっと掌をかたく握り締める。
罪人――確かにそうなのかもしれないと思う自分も、またいるのだ。魔力もなく、魔法陣もなく。得体の知れない危険な能力を持ち、そのせいで今まで様々な人や物を――意図的ではないとはいえ――傷つけてしまった私は、確かに"罪人"なのだろう、と。
「勿論、シルヴィ様のことでございます」
けれど、いざ実際に"言葉"として突きつけられると、どうしようもないほどに、きつく胸が締め付けられた。途端に目の奥が熱くなりそうで、慌てて視線を足元へ落とす。
そんな私の後頭部を、オルフェイン卿が一瞥したのが、気配で分かった。
「……クソにも程があるってもんだろ」
まるで独り言のような小さな呟きが背後から聞こえてきたかと思うと、次の瞬間、ぱちん、と指を弾く音が耳に届いた。それとともに、かさりと、何かが揺れるような微かな音も。
「此処へ来たのは、王太子殿下直々の指示だ。立ち入りを拒むというのなら、それは殿下の命に逆らうということになるが……さあ、どうする?」
はっとして顔を上げると、眼の前に一枚の紙が翳されていた。裏面しか見えないけれど、それでも王家の紋章が、殿下の署名が、うっすらと透けて見える。
「更に言うと、彼女は今、殿下の庇護下にあるんだが……で? 誰が"罪人"だって?」
まるで嘲笑うかのような、オルフェイン卿の声。ちらりと視線を上げると、翳された紙の向こう側で、アルベールが苦虫を噛み潰したように不快な顔をしていた。
常日頃から紳士然とし、使用人の模範として、誰よりも"規律"を体現したような存在であるアルベール。そんな彼が、こんなにも表情を歪めたのを、私は初めて見た。
「……畏まりました。中へご案内致します」
彼の一言で、重く閉ざされていた門扉が、ゆっくりと開かれる。その様をじっと見つめながら、私は胸の裡で、重々しい溜息をついた。
父は、継母は、義妹は――今この瞬間どこかで、此処に立つ私を、卑しく嗤いながら眺めているのだろうか。
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