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光のさざ波、ホタルと紡ぐ旋律

ー/ー






​ 夏の夜気(やき)は、バイオリンケースを背負った僕の身体に、ねっとりとまとわりついた。




 一体どのくらいの時間、ここでこうしていたのだろう。
 辺りはすっかり暗くなってしまった。


 この夏、僕の通うバイオリン教室のマスタークラスに特別招聘(しょうへい)された海外の有名講師からの言葉が、呪いのように頭の中で繰り返される。「君の音には、血が通っていない」


 この間のコンクールでの審査員たちからの総評もそうだ。

「譜面をなぞっているだけの作業。空虚(くうきょ)完璧(かんぺき)さ。……AI(エーアイ)かロボットか」

 そんな言葉が、僕の音楽という存在そのものを否定していく。

「鳴っているのは楽器の音だけで、そこに奏者の顔はない」
「テクニックのひけらかし。聴き手の心には届かない」
「楽譜の奴隷であり、表現を放棄している」
「磨き抜かれた機械的な響き。体温が感じられない。心に届く一音(いちおん)に欠けている」

 どの審査員も異口同音(いくどうおん)に、僕の音楽へ『NO』を突きつけた。


 上手に演奏すること、作曲者の意図を汲み、譜面通りに正確に、
 子供の頃からバイオリン教室ではそう叩き込まれてきた。

 でもそれだけでは、譜面通りに正確に演奏するだけでは駄目ということなんだろうか。


 子供の頃からバイオリンの練習ばかりで、こんな時、愚痴を言える友達も弱音を吐ける仲間もいない。
 学校では浮いた存在だし、バイオリン教室の仲間は厳密には仲間ではなくライバルだ。

 両親は今はヨーロッパで演奏旅行中。相談はできない。

 ピアニストの父とバイオリニストの母は、僕の教育にかかる費用には糸目をつけなかったけれども、それ故に、最近は顔を合わせるのも一年に二度か三度だ。通いのお手伝いさんもいるので、生活には何も不自由はない。


 ──豊かな表現というのは、一体どうすればいいのだろう。




 子供の頃、父と母に連れてきてもらったホタルの名所として有名な公園の、池のほとりの小さな東屋(あずまや)のベンチに座り、一人、(こうべ)を垂れる。

 ため息は、いくつもいくつも口から漏れて、夜の空気に飲み込まれて行った。
 
 さすがにそろそろ、帰ろう。

 ……この時間じゃお手伝いさんも帰っているだろうし、自宅に誰が待つわけでもないけれども、ここで、こうして座っていても何も解決はしない。今日習ったところをもう一度さらって、それから豊かな表現についても自分なりに考えてみよう。



 立ち上がった僕がふと池に目を向けると、水面(みなも)には、コンビニの袋や空き缶がプカプカと浮かんでいた。

「ひどいな……」

​ 誰に言うでもなく呟き、僕はバイオリンをベンチに置いた。


 幼い日の記憶にあるこの池は、数えきれないほどのホタルの光が瞬き、見上げれば空には満天の星が降っていた。
 どっちが本物の星でどっちがホタルなのか、その境界線すら溶けてしまったような光の渦に、ただただ心を奪われた。

 池に近づきすぎた僕を、父が笑いながら抱きしめ、肩車をしてくれた。
 空がもっと近くなり、僕は歓喜の声を上げた。


 それが今ではすっかり見る影もない。
 東屋の軒下に吊るされた灯籠(とうろう)もいくつかは切れてしまっている。


 とても放っておけず、僕は池の(ふち)に屈み込み、手の届く範囲のゴミを拾い上げ、東屋に設置されているゴミ箱へと捨てた。


 指先が泥で汚れたが、不思議と嫌な気分ではなかった。
 母に知られたらきっと嫌な顔をされてしまうけれども。

 小学校に入る時、母は学校に要望を出した。

 ドッチボールやバレー、バスケットなど指に怪我をするかもしれない球技は見学をさせてほしい、草むしりやゴミ拾いなども同じ理由で禁止された。多額の寄付をする両親の申し出を学校側が拒否する事はなかった。

 当然、周りとはうまくいかない。低学年の頃は「なんで奏多(かなた)くんだけ参加しないんだ」と言われたし、高学年になると「あいつはほら、トクベツ(・・・・)だから」とヒソヒソと噂された。


 コンクールで金賞を獲って、朝礼で表彰されても拍手はまばらで、どこか冷めた空気を感じた。

 次第に僕自身も「あいつらとは違う。僕は特別なんだ」と思うようになっていった。

 同年代の子供と遊んだりするよりもレッスンレッスン、そしてレッスンだった。

 誰よりも正確に、丁寧に、作曲者の意思通り、譜面に書かれている指示をそのまま音にした。



 そんな僕を見て両親は満足した笑顔を向け頭を撫でてくれた。


 僕が中学に入る頃から両親は頻繁に海外へ演奏旅行に行くようになった。寂しくないと言ったら嘘になるけれども、どこか誇らしい気持ちもあった。

 ビデオ通話で演奏をせがまれ、弾いて聞かせ、
 母からは指先の手入れを欠かさないようになどのアドバイスを受けたりもした。


 そんな母が、今の僕の指先を見たら眉をしかめるだろう。
 ドロドロのびちゃびちゃだ。どこかに水道はないか、キョロキョロと当たりを見回す。



​ その時、茂みの奥で何かが「ぽっ」と光った。
 見間違いかと思うほど淡い、翡翠色(ヒスイいろ)の光。


 そこには一人の少女が立っていた。

 先ほどまではいなかったはずだ。
 僕がこの東屋に来てから数時間は経っている。近づいてくる足音も聞こえなかった。

 透き通るような白い肌。幼い顔立ちには不釣り合いな、薄衣を(まと)ったような不思議な格好をしている。


​ 彼女は──僕がゴミを拾ってキレイになった水面──を見て、柔らかく微笑んだ。

 言葉はなかった。
 
 彼女の髪の先が淡く発光するのを見て、僕は息を呑む。
 驚きよりも先に、その美しさに目を奪われた。

 ホタルの精だ。

 直感的にそう思った。馬鹿げた話だとは思うけれども、
 彼女の儚げな姿、淡く光る髪の毛、とても人間とは思えなかった。
 
 見た目は、僕より二つ三つ年下の中学生くらいに見える。僕があまりにも凝視するから、彼女が少したじろいだ。


​「あ……ごめん。驚かせるつもりじゃなかったんだ」


​ ようやく口にした僕の言葉に、彼女は小さく首を振った。

 そして、僕がベンチに置いたバイオリンケースを指差し、弾いてほしいとせがむように首を傾げた。


 こんな寂れた場所で、言葉も通じない少女相手に? この僕が?

 けれど、今の僕には、完璧なホールよりもこの静かな池のほとりの方が、ふさわしい気がした。
 汚れた指先をハンカチでそっと拭って、バイオリンケースを開けた。


​ 楽器を取り出し、顎に当てる。
 弓が弦に触れた瞬間、彼女の瞳が期待に輝く。

 僕は、コンクールの課題曲を捨てた。

 今、この瞬間に自分が奏でたい音――この静かな水面に広がる、波紋のような音を紡ぎ出した。


​ 彼女は音のない拍手を送ってくれた。
 彼女が喜ぶたび、彼女の体温が上がるのか、彼女の髪の毛の先から周囲の暗闇を照らす光が強くなる。


 僕は、バイオリンをケースにしまいながら、「暗いから送って行くよ」と言葉にした。
 けれども振り向いた時にはすでに彼女の姿は夜の闇に吸い込まれてしまったみたいに消えていた。

 池の縁で、ほわっほわっと淡い光を放ちながらホタルが飛んでいた。




 次の日、僕は、学校を休んだ。

 そして、あの公園の東屋にビニール袋と目の細かい網を持って行った。
 池の水をすくうと網の中にいくつものゴミが入った。それをビニールに移し、また池の中を網ですくった。

「多分、果てしないぞ、この作業」

 すくってもすくっても、汚れはなくならない。
 ……僕が積み重ねてきた、あの無機質な練習時間と同じだ。
 
 池の水をすくう度に、網の中には大量のゴミが入った。いつまで経ってもゴミはなくならない。どれだけゴミだらけなんだ。


 しばらくして、僕の腹がグゥーとなった。

 空腹を感じるなんて、最近ではあまりなかった。


 起きた後、顔を洗い、お手伝いさんによって用意された朝食を食べる。
 昼には学内にあるカフェテリアで昼食を食べた。僕はいつも一番軽いC定食と決めていた。サンドイッチかホットドックに小さなサラダとヨーグルトがついている。
 夜はもちろん用意された夕食を食べる。その時間にはもうお手伝いさんは帰ってしまっているので、食べ終わったら残した分も含めシンクへ置いておく。

 僕にとって食事はどこか機械的で、時間が来たから摂取する、というものだった。

 食べたくて食べているわけではないような、……空腹感も満腹感もよくわからない。
 それでも生きて行くために、滞りなくバイオリンの練習をするために、食事を口に運んだ。


 この空腹は久しぶりに身体を動かしたせいだろうか。

 夕方になる前に、僕は一度東屋を後にして、ファストフード店という場所へ足を運んだ。
 クラスメイトが「帰り寄ろうぜ」という会話を交わしているのを聞いたことがある。

 平日15時、まだ学校が終わる時間ではないはずなのに、店内にはたくさんの学生がいた。
 店員さんも特に僕を見咎める事はなかった。公園の水道で洗ったとはいえ、バイオリンケースを背負い、手に網を持った僕の姿はおかしかったと思うのだけれども。

 ざわめく店内にはいろいろな人がいた。

 金髪の男の子、ピンクの髪の女の子、くるくる巻き毛の、リーゼントの……。
 でも昨日、池のほとりで出会った少女みたいに発光する髪の毛の子はいなかった。当然か。


 これを食べたら、またあの公園へ行ってみよう。

 そう思いながら僕はハンバーガーを二個も食べた。一個では足りなくて、もう一個注文したのだ。


 夕方、あの東屋のベンチに腰掛け、暗くなるのを待った。
 夜になってしまい、今日はもう彼女には会えないのか、とがっかりした瞬間に、隣に座っている彼女に気がついた。

 一体いつの間に……でも嬉しかった。

 彼女は池を指差し、嬉しそうに笑った。声は聞こえなくても言わんとしていることはすぐに分かった。
 多分キレイにしてくれてありがとう、って言ってくれているんだろう。

「また休みの日にこの網を持ってきて、ゴミをすくうよ。何回も何回もやったらきっともっともっとキレイになるから。僕は昔、ここで、たくさんのホタルが飛ぶのを見たんだ。きっと池がキレイになったら、またホタルでいっぱいになるよ」

 彼女は嬉しそうに笑った。髪の毛の先がほわっと光った。
 そしてまたバイオリンケースを指差し、弾いてほしいとせがむように首を傾げた。


 学校の奴らも、厳しい講師も、ライバルたちも、酷評の審査員たちも、ここには誰もいない。
 ただ、僕の音楽に熱心に耳を傾けてくれる『彼女』だけがいる。

 僕は毎日公園に通い、彼女に演奏を聴いてもらった。
 休みの日には網で水底(みなぞこ)のゴミを拾った。

 彼女が暮らす(イケ)が少しでも快適になりますように、祈るような気持ちでゴミをすくい続けた。


 いつしか僕の音からは刺々しさが消え、水底に届くような、深く優しい響きが混じるようになっていた。


 自分だけがそう感じているのか、勘違いかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。
 



「君の音には、血が通っていない」

 あの日、そう厳しい言葉を浴びせた外国人の有名講師が目を閉じ、僕の演奏を聴いてくれた。
 そして演奏のあと立ち上がり、ブラボーと拍手を送ってくれた。

「短期間のうちの一体どうしたんだい? 奏多(ユー)にどんな心境の変化があった?」

 その言葉も確かに嬉しかったけれども、それよりも僕は今すぐにでもバイオリン教室を飛び出して、彼女に聴いて欲しかった。
 

 彼女の音のない拍手が聴きたかった。

 
 あの公園の東屋で僕はまた彼女の前で、彼女のためだけに音を紡いだ。

 彼女は目をつぶりうっとりとした表情で僕の音楽に身を任せていた。
 音に合わせて、髪の毛の先は静かに明滅を繰り返した。ほわっほわっと淡い光が、彼女の気持ちを伝えてくれているようだ。


 自分でいうのもなんだけれども、僕が掃除を始めてから池はだいぶキレイになった。
 キレイな池にはゴミを投げ入れにくいのか、コンビニの袋や空き缶が浮かんでいるようなこともなくなってきた。

 この分だと、ここはまた昔みたいにホタルが飛び交う池になるかもしれない。
 でも、もしホタルの仲間が増えたら、彼女はそいつらとばかり遊んで、もう僕の演奏は聴いてくれなくなるかもしれない。

 胸がズキンと痛い。


 目をつぶり首を左右に思いっきり振る僕を彼女が心配そうに見上げた。



​「……もうすぐ、コンクールなんだ」

​ 僕は思い切って彼女に告げた。


 怖い、また審査員たちのがっかりした表情を見るのが。
 怖い、またあの総評を聞くのが、そしてそれを受け取った両親を落胆させてしまうのが。


 彼女はどこか悲しげに、でも力強く頷いた。
 
 そして僕の手に、そっと自分の手を重ねた。
 ひんやりと冷たい。けれど、その奥に消え入りそうな熱を感じた。
 
 彼女の髪が、今までで一番強く、黄金色(こがねいろ)に輝いた。


​「……生まれ変わったら、君とお話をしてみたい」

​ ふと漏れた僕の言葉に、彼女は目を見開き、そしてポロポロと涙を流した。
 その涙さえ、地面に落ちる前に光の粒となって消えていった。


 次の日も、その次の日も、彼女に会う事はできなかった。
 ゴミを拾っても、バイオリンを弾いても、もう彼女は姿を見せてくれない。僕の隣で微笑まない。音のない拍手も聞こえない。


 ──僕があんなこと言ったからなのか。




​ コンクール当日。

 ステージに立った僕は、審査員たちの顔を見なかった。
 ただ、あの静かな池と、ゴミを一つ拾うたびに喜んでくれた彼女の笑顔だけを思い浮かべた。


 弦を滑る弓は、僕の身体の一部だった。
 祈るように奏でた旋律は、ホールの隅々まで光となって満ちていく。


 演奏が終わった後、静寂が数秒続き、それから割れんばかりの拍手が降ってきた。


​ 結果も待たず、僕はあの公園へ走った。今日なら、会えるのではないか。
 そう思って、汗が目に入るのも構わず全速力で走り、東屋に辿り着いた。

​ 
 池は、鏡のように美しく澄み渡っていた。
 けれど、そこに彼女の姿はなかった。


 ベンチの上には、彼女が(まと)っていた薄布のような、透き通った羽衣がふわりと残されているだけ。
 
 僕は膝をついた。
 涙が後から後から(あふ)れ出して、僕の頬を流れた。


 短い夏。
 儚いホタルの命。わかっていたはずなのに……。



 羽衣を持ち上げると、その下に一枚の紙が挟まれていた。
 そこには子供が書いたような下手くそで(いびつ)な文字が残されていた。
 

​『きれいに してくれて ありがとう』
『また、あなたの おとを さがすね かならず みつけるから』


​ 秋の気配が混じる風が吹き抜け、
 僕の手の中で羽衣は無数の光の粒となって、夜空へと昇っていった。

 それはまるで、新しい星が生まれる瞬間のようだった。



​ ──翌年の夏。
 

 あのコンクールで金賞を獲った僕は小さなリサイタルを開いていた。


 ふと、客席の最前列を見る。
 大きな瞳を輝かせ、誰よりも熱心に僕のバイオリンを聴いている、中学生くらいの少女が座っていた。

 
 何処となく、彼女に面影が似ている。
 あの夜と同じように音のない拍手をしてくれたような気がした。


​ 彼女が僕の音を「見つけた」のかはわからない。



 でも、僕は確信を持って、彼女に向かって一番(いちばん)優しい旋律を贈った。











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 一体どのくらいの時間、ここでこうしていたのだろう。
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 そんな言葉が、僕の音楽という存在そのものを否定していく。
「鳴っているのは楽器の音だけで、そこに奏者の顔はない」
「テクニックのひけらかし。聴き手の心には届かない」
「楽譜の奴隷であり、表現を放棄している」
「磨き抜かれた機械的な響き。体温が感じられない。心に届く|一音《いちおん》に欠けている」
 どの審査員も|異口同音《いくどうおん》に、僕の音楽へ『NO』を突きつけた。
 上手に演奏すること、作曲者の意図を汲み、譜面通りに正確に、
 子供の頃からバイオリン教室ではそう叩き込まれてきた。
 でもそれだけでは、譜面通りに正確に演奏するだけでは駄目ということなんだろうか。
 子供の頃からバイオリンの練習ばかりで、こんな時、愚痴を言える友達も弱音を吐ける仲間もいない。
 学校では浮いた存在だし、バイオリン教室の仲間は厳密には仲間ではなくライバルだ。
 両親は今はヨーロッパで演奏旅行中。相談はできない。
 ピアニストの父とバイオリニストの母は、僕の教育にかかる費用には糸目をつけなかったけれども、それ故に、最近は顔を合わせるのも一年に二度か三度だ。通いのお手伝いさんもいるので、生活には何も不自由はない。
 ──豊かな表現というのは、一体どうすればいいのだろう。
 子供の頃、父と母に連れてきてもらったホタルの名所として有名な公園の、池のほとりの小さな|東屋《あずまや》のベンチに座り、一人、|首《こうべ》を垂れる。
 ため息は、いくつもいくつも口から漏れて、夜の空気に飲み込まれて行った。
 さすがにそろそろ、帰ろう。
 ……この時間じゃお手伝いさんも帰っているだろうし、自宅に誰が待つわけでもないけれども、ここで、こうして座っていても何も解決はしない。今日習ったところをもう一度さらって、それから豊かな表現についても自分なりに考えてみよう。
 立ち上がった僕がふと池に目を向けると、|水面《みなも》には、コンビニの袋や空き缶がプカプカと浮かんでいた。
「ひどいな……」
​ 誰に言うでもなく呟き、僕はバイオリンをベンチに置いた。
 幼い日の記憶にあるこの池は、数えきれないほどのホタルの光が瞬き、見上げれば空には満天の星が降っていた。
 どっちが本物の星でどっちがホタルなのか、その境界線すら溶けてしまったような光の渦に、ただただ心を奪われた。
 池に近づきすぎた僕を、父が笑いながら抱きしめ、肩車をしてくれた。
 空がもっと近くなり、僕は歓喜の声を上げた。
 それが今ではすっかり見る影もない。
 東屋の軒下に吊るされた|灯籠《とうろう》もいくつかは切れてしまっている。
 とても放っておけず、僕は池の|縁《ふち》に屈み込み、手の届く範囲のゴミを拾い上げ、東屋に設置されているゴミ箱へと捨てた。
 指先が泥で汚れたが、不思議と嫌な気分ではなかった。
 母に知られたらきっと嫌な顔をされてしまうけれども。
 小学校に入る時、母は学校に要望を出した。
 ドッチボールやバレー、バスケットなど指に怪我をするかもしれない球技は見学をさせてほしい、草むしりやゴミ拾いなども同じ理由で禁止された。多額の寄付をする両親の申し出を学校側が拒否する事はなかった。
 当然、周りとはうまくいかない。低学年の頃は「なんで|奏多《かなた》くんだけ参加しないんだ」と言われたし、高学年になると「あいつはほら、|トクベツ《・・・・》だから」とヒソヒソと噂された。
 コンクールで金賞を獲って、朝礼で表彰されても拍手はまばらで、どこか冷めた空気を感じた。
 次第に僕自身も「あいつらとは違う。僕は特別なんだ」と思うようになっていった。
 同年代の子供と遊んだりするよりもレッスンレッスン、そしてレッスンだった。
 誰よりも正確に、丁寧に、作曲者の意思通り、譜面に書かれている指示をそのまま音にした。
 そんな僕を見て両親は満足した笑顔を向け頭を撫でてくれた。
 僕が中学に入る頃から両親は頻繁に海外へ演奏旅行に行くようになった。寂しくないと言ったら嘘になるけれども、どこか誇らしい気持ちもあった。
 ビデオ通話で演奏をせがまれ、弾いて聞かせ、
 母からは指先の手入れを欠かさないようになどのアドバイスを受けたりもした。
 そんな母が、今の僕の指先を見たら眉をしかめるだろう。
 ドロドロのびちゃびちゃだ。どこかに水道はないか、キョロキョロと当たりを見回す。
​ その時、茂みの奥で何かが「ぽっ」と光った。
 見間違いかと思うほど淡い、|翡翠色《ヒスイいろ》の光。
 そこには一人の少女が立っていた。
 先ほどまではいなかったはずだ。
 僕がこの東屋に来てから数時間は経っている。近づいてくる足音も聞こえなかった。
 透き通るような白い肌。幼い顔立ちには不釣り合いな、薄衣を|纏《まと》ったような不思議な格好をしている。
​ 彼女は──僕がゴミを拾ってキレイになった水面──を見て、柔らかく微笑んだ。
 言葉はなかった。
 彼女の髪の先が淡く発光するのを見て、僕は息を呑む。
 驚きよりも先に、その美しさに目を奪われた。
 ホタルの精だ。
 直感的にそう思った。馬鹿げた話だとは思うけれども、
 彼女の儚げな姿、淡く光る髪の毛、とても人間とは思えなかった。
 見た目は、僕より二つ三つ年下の中学生くらいに見える。僕があまりにも凝視するから、彼女が少したじろいだ。
​「あ……ごめん。驚かせるつもりじゃなかったんだ」
​ ようやく口にした僕の言葉に、彼女は小さく首を振った。
 そして、僕がベンチに置いたバイオリンケースを指差し、弾いてほしいとせがむように首を傾げた。
 こんな寂れた場所で、言葉も通じない少女相手に? この僕が?
 けれど、今の僕には、完璧なホールよりもこの静かな池のほとりの方が、ふさわしい気がした。
 汚れた指先をハンカチでそっと拭って、バイオリンケースを開けた。
​ 楽器を取り出し、顎に当てる。
 弓が弦に触れた瞬間、彼女の瞳が期待に輝く。
 僕は、コンクールの課題曲を捨てた。
 今、この瞬間に自分が奏でたい音――この静かな水面に広がる、波紋のような音を紡ぎ出した。
​ 彼女は音のない拍手を送ってくれた。
 彼女が喜ぶたび、彼女の体温が上がるのか、彼女の髪の毛の先から周囲の暗闇を照らす光が強くなる。
 僕は、バイオリンをケースにしまいながら、「暗いから送って行くよ」と言葉にした。
 けれども振り向いた時にはすでに彼女の姿は夜の闇に吸い込まれてしまったみたいに消えていた。
 池の縁で、ほわっほわっと淡い光を放ちながらホタルが飛んでいた。
 次の日、僕は、学校を休んだ。
 そして、あの公園の東屋にビニール袋と目の細かい網を持って行った。
 池の水をすくうと網の中にいくつものゴミが入った。それをビニールに移し、また池の中を網ですくった。
「多分、果てしないぞ、この作業」
 すくってもすくっても、汚れはなくならない。
 ……僕が積み重ねてきた、あの無機質な練習時間と同じだ。
 池の水をすくう度に、網の中には大量のゴミが入った。いつまで経ってもゴミはなくならない。どれだけゴミだらけなんだ。
 しばらくして、僕の腹がグゥーとなった。
 空腹を感じるなんて、最近ではあまりなかった。
 起きた後、顔を洗い、お手伝いさんによって用意された朝食を食べる。
 昼には学内にあるカフェテリアで昼食を食べた。僕はいつも一番軽いC定食と決めていた。サンドイッチかホットドックに小さなサラダとヨーグルトがついている。
 夜はもちろん用意された夕食を食べる。その時間にはもうお手伝いさんは帰ってしまっているので、食べ終わったら残した分も含めシンクへ置いておく。
 僕にとって食事はどこか機械的で、時間が来たから摂取する、というものだった。
 食べたくて食べているわけではないような、……空腹感も満腹感もよくわからない。
 それでも生きて行くために、滞りなくバイオリンの練習をするために、食事を口に運んだ。
 この空腹は久しぶりに身体を動かしたせいだろうか。
 夕方になる前に、僕は一度東屋を後にして、ファストフード店という場所へ足を運んだ。
 クラスメイトが「帰り寄ろうぜ」という会話を交わしているのを聞いたことがある。
 平日15時、まだ学校が終わる時間ではないはずなのに、店内にはたくさんの学生がいた。
 店員さんも特に僕を見咎める事はなかった。公園の水道で洗ったとはいえ、バイオリンケースを背負い、手に網を持った僕の姿はおかしかったと思うのだけれども。
 ざわめく店内にはいろいろな人がいた。
 金髪の男の子、ピンクの髪の女の子、くるくる巻き毛の、リーゼントの……。
 でも昨日、池のほとりで出会った少女みたいに発光する髪の毛の子はいなかった。当然か。
 これを食べたら、またあの公園へ行ってみよう。
 そう思いながら僕はハンバーガーを二個も食べた。一個では足りなくて、もう一個注文したのだ。
 夕方、あの東屋のベンチに腰掛け、暗くなるのを待った。
 夜になってしまい、今日はもう彼女には会えないのか、とがっかりした瞬間に、隣に座っている彼女に気がついた。
 一体いつの間に……でも嬉しかった。
 彼女は池を指差し、嬉しそうに笑った。声は聞こえなくても言わんとしていることはすぐに分かった。
 多分キレイにしてくれてありがとう、って言ってくれているんだろう。
「また休みの日にこの網を持ってきて、ゴミをすくうよ。何回も何回もやったらきっともっともっとキレイになるから。僕は昔、ここで、たくさんのホタルが飛ぶのを見たんだ。きっと池がキレイになったら、またホタルでいっぱいになるよ」
 彼女は嬉しそうに笑った。髪の毛の先がほわっと光った。
 そしてまたバイオリンケースを指差し、弾いてほしいとせがむように首を傾げた。
 学校の奴らも、厳しい講師も、ライバルたちも、酷評の審査員たちも、ここには誰もいない。
 ただ、僕の音楽に熱心に耳を傾けてくれる『彼女』だけがいる。
 僕は毎日公園に通い、彼女に演奏を聴いてもらった。
 休みの日には網で|水底《みなぞこ》のゴミを拾った。
 彼女が暮らす|家《イケ》が少しでも快適になりますように、祈るような気持ちでゴミをすくい続けた。
 いつしか僕の音からは刺々しさが消え、水底に届くような、深く優しい響きが混じるようになっていた。
 自分だけがそう感じているのか、勘違いかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。
「君の音には、血が通っていない」
 あの日、そう厳しい言葉を浴びせた外国人の有名講師が目を閉じ、僕の演奏を聴いてくれた。
 そして演奏のあと立ち上がり、ブラボーと拍手を送ってくれた。
「短期間のうちの一体どうしたんだい? |奏多《ユー》にどんな心境の変化があった?」
 その言葉も確かに嬉しかったけれども、それよりも僕は今すぐにでもバイオリン教室を飛び出して、彼女に聴いて欲しかった。
 彼女の音のない拍手が聴きたかった。
 あの公園の東屋で僕はまた彼女の前で、彼女のためだけに音を紡いだ。
 彼女は目をつぶりうっとりとした表情で僕の音楽に身を任せていた。
 音に合わせて、髪の毛の先は静かに明滅を繰り返した。ほわっほわっと淡い光が、彼女の気持ちを伝えてくれているようだ。
 自分でいうのもなんだけれども、僕が掃除を始めてから池はだいぶキレイになった。
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 この分だと、ここはまた昔みたいにホタルが飛び交う池になるかもしれない。
 でも、もしホタルの仲間が増えたら、彼女はそいつらとばかり遊んで、もう僕の演奏は聴いてくれなくなるかもしれない。
 胸がズキンと痛い。
 目をつぶり首を左右に思いっきり振る僕を彼女が心配そうに見上げた。
​「……もうすぐ、コンクールなんだ」
​ 僕は思い切って彼女に告げた。
 怖い、また審査員たちのがっかりした表情を見るのが。
 怖い、またあの総評を聞くのが、そしてそれを受け取った両親を落胆させてしまうのが。
 彼女はどこか悲しげに、でも力強く頷いた。
 そして僕の手に、そっと自分の手を重ねた。
 ひんやりと冷たい。けれど、その奥に消え入りそうな熱を感じた。
 彼女の髪が、今までで一番強く、|黄金色《こがねいろ》に輝いた。
​「……生まれ変わったら、君とお話をしてみたい」
​ ふと漏れた僕の言葉に、彼女は目を見開き、そしてポロポロと涙を流した。
 その涙さえ、地面に落ちる前に光の粒となって消えていった。
 次の日も、その次の日も、彼女に会う事はできなかった。
 ゴミを拾っても、バイオリンを弾いても、もう彼女は姿を見せてくれない。僕の隣で微笑まない。音のない拍手も聞こえない。
 ──僕があんなこと言ったからなのか。
​ コンクール当日。
 ステージに立った僕は、審査員たちの顔を見なかった。
 ただ、あの静かな池と、ゴミを一つ拾うたびに喜んでくれた彼女の笑顔だけを思い浮かべた。
 弦を滑る弓は、僕の身体の一部だった。
 祈るように奏でた旋律は、ホールの隅々まで光となって満ちていく。
 演奏が終わった後、静寂が数秒続き、それから割れんばかりの拍手が降ってきた。
​ 結果も待たず、僕はあの公園へ走った。今日なら、会えるのではないか。
 そう思って、汗が目に入るのも構わず全速力で走り、東屋に辿り着いた。
​ 
 池は、鏡のように美しく澄み渡っていた。
 けれど、そこに彼女の姿はなかった。
 ベンチの上には、彼女が|纏《まと》っていた薄布のような、透き通った羽衣がふわりと残されているだけ。
 僕は膝をついた。
 涙が後から後から|溢《あふ》れ出して、僕の頬を流れた。
 短い夏。
 儚いホタルの命。わかっていたはずなのに……。
 羽衣を持ち上げると、その下に一枚の紙が挟まれていた。
 そこには子供が書いたような下手くそで|歪《いびつ》な文字が残されていた。
​『きれいに してくれて ありがとう』
『また、あなたの おとを さがすね かならず みつけるから』
​ 秋の気配が混じる風が吹き抜け、
 僕の手の中で羽衣は無数の光の粒となって、夜空へと昇っていった。
 それはまるで、新しい星が生まれる瞬間のようだった。
​ ──翌年の夏。
 あのコンクールで金賞を獲った僕は小さなリサイタルを開いていた。
 ふと、客席の最前列を見る。
 大きな瞳を輝かせ、誰よりも熱心に僕のバイオリンを聴いている、中学生くらいの少女が座っていた。
 何処となく、彼女に面影が似ている。
 あの夜と同じように音のない拍手をしてくれたような気がした。
​ 彼女が僕の音を「見つけた」のかはわからない。
 でも、僕は確信を持って、彼女に向かって|一番《いちばん》優しい旋律を贈った。