スーツの男
ー/ー 高校三年の二月。
大学受験に失敗し浪人が決まった憂鬱な春休み。
父は介護のため実家に帰省し、母もパートに出ており家には一人。
ギリギリ午前中といった遅めの起床を迎え、リビングへ出てカーテンを開く。
そこには、スーツ姿の男が一人こちらに背を向けて立っていた。
「はっ?」
男はベランダのフェンスを手で掴んでグッと体を持ち上げ、ズルリとその向こう側に落ちてゆく。
部屋は十二階、頭から落ちたらとてもじゃないが助からない。
あまりの驚きに数秒固まった後、慌てて掃き出し窓を開き、ベランダへ出てフェンスの向こう側を覗き込む。
しかしフェンスの高さの関係もあり真下がどうなっているかは見えない。
ただすぐ目の前歩道には人通りがあり、通行人に何かを気にするような素振りはなかった。
人が高層階から落下したにも関わらず、すぐ近くの人間が誰一人として目撃もせず、音にも気付かないなんてことはあり得るのか。
深呼吸をして一度冷静になり、着替えてから部屋を出て一階まで降り自室の真下を見に行く。
そこには何もなかった。人どころか物が落ちた形跡のようなものも何一つとして見当たらない。
寝起きの半睡状態で夢との区別がつかなくなっていたのだろう。
そう結論付けたものの、それにしては男が落ちてゆく瞬間が鮮明に脳裏に焼き付いて離れなかった。
部屋に戻っても何となく落ち着かず、彼は最低限の荷物だけ持って近所の古本屋やカラオケを回り時間を潰す。
そして夕方になり、母が帰って来る時間に合わせて帰路に付き、街路樹と住宅の間にマンションが見えたあたり。
ふと自身の部屋を見上げると、ベランダのフェンスを乗り越え黒い人影が落下した。
朝、部屋から窓越しに見た光景がはっきりと脳裏に蘇り、身の竦むような恐怖に思わず足が止まる。
そうしているうちに数分が経ち、
「あんた何やってるの」
後ろから声を掛けられびくりと振り返ると、自転車に乗った母が怪訝な表情でこちらを見ていた。
「いや、今うちのベランダから人が落ちて」
「は?見間違いじゃなくて?」
「多分……」
母と共にマンションの自室の下まで走ってゆく。
やはりそこには何も落ちてはいなかった。
「驚かさないでよ、全く。鳥か何かと見間違えたんでしょう」
ホッとしたような気疲れしたような、そんな風に息を吐いて母は自転車を駐輪場へ止めに行く。
あれは絶対に鳥なんかじゃない。
黒い服、スーツを着た人影、朝に見たのと同じモノ。
生者ではない何かだ。
けれど、それを母に何かを言う事はしなかった。
そもそも母はオカルトの類が好きではないし、言ったところで機嫌を損ねるだけなのは目に見えていたから。
ただ、こちらの何となく落ち着かない様子を気付いたのか、夕食の際に母があることを口にする。
「こないだノナカさんのところから飛び降りがあったから、そういうのに神経質になってるんでしょ、あんた」
「え、何それ?」
そんな話、彼は初耳だった。
ノナカさんは三つ隣の部屋に住む四人家族で、付き合いが深い訳という訳でもないが廊下ですれ違えば挨拶するくらいの関係。
「話さなかったっけ?ほらノナカさんとこにあんたと同じくらいの子がいたでしょ。先月、飛び降りて亡くなったの」
確かにノナカさんの家には自分より二つ年上の息子さんがいる。
既に仕事をしており、廊下ですれ違う際はいつもスーツを着込んでいた。
あの人が……
合点がいくと共に恐怖は虚しさに変わる。
それから一週間程が経った、夕方の買い物帰り。
マンションの廊下でノナカさんのところの息子さんとすれ違った。
スーツを姿で穏やかそうな表情の彼は、ぺこりと会釈をし自分の部屋の鍵を開け、扉を開けて中へ姿を消す。
ベランダに見たスーツの男とは何もかも違う、どう見ても生きた人間だ。
しばらくして帰宅した母に、
「こないだノナカさん所のお兄さんが飛び降りしたって言ってたじゃん?さっき廊下で会ったんだけど」
そう尋ねる。
母はすぐに違う違うと首を振った。
「亡くなったのは娘さんの方。あんたの一つ下の。高校が合わなかったのか、最近は引き籠るようになっちゃったらしくて全然姿見る事なかったけど。ほらよく挨拶してくれてたあの可愛らしい子、覚えてない?」
あの日以降、ベランダにスーツの男は見ていない。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
おすすめ作品を読み込み中です…
作者の他の作品
この作者の他作品はありません。
この作品と似た作品
似た傾向の作品は見つかりませんでした。
この作品を読んだ人が読んでいる作品
読者の傾向からおすすめできる作品がありませんでした。
おすすめ作品は現在準備中です。
おすすめ作品の取得に失敗しました。時間をおいて再度お試しください。