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海に追われて

ー/ー



 夜の海に訪れたのは単なる気まぐれだった。

 夏の事だ。私はおばあちゃんの家に遊びに来ていた。二泊三日で、都内にある私の家から電車で二時間。港の近くにある家はちょっとした旅行だった。社会人になってから久しく訪れていなかったが、私は昔からおばあちゃんの家に行くのが好きだった。

 おばあちゃんに会えることもそうだが、木造二階建ての古い家をとても気に入っていたのだ。昔見たアニメの家みたいなタイル張りの浴槽やキラキラとした砂壁に都会にはないレトロな雰囲気を私は感じていた。二階からは海が見えて、波の音がするのも好ましかった。

 歩いて五分もしないところに海はあった。内海だから波は穏やかで、海水浴場もある。子供の頃、夏休みごとにおばあちゃんの家に遊びに行っていた私は海を眺めに行くのが好きだった。砂浜で貝殻を拾ったり、凧揚げをしたりする。潮風が髪をかき回すのは煩わしかったが、おばあちゃんの家のお風呂にすぐ入れたので不便をしたことはなかった。

 ただ、私は海の中には入らなかった。胸まで冷たい海水に浸かると身体を揺らす波が気持ち悪く、私はすぐに酔ってしまう。ぬめぬめと張り付いて来る塩水も、少し歩くと途端に足がつかなくなる浮遊感も苦手だった。私は小学生の時以来、海の中には入っていない。海は好きだが、私の楽しみ方は波打ち際まで行って遠くを眺めることだった。

 おばあちゃんの家に行ったその夜、私はコンビニへの道を歩いていた。メイク落としを忘れた私は、おばあちゃんの「きをつけてね」という言葉を背に、歩いて十分ほどの距離にあるお店へと早足で歩く。田舎ともいえる港町の終点駅は街灯が少ない。用事を済ませた私は急いで帰ろうとしていた。

 ふと顔を上げると反対側の道路の向こうにある海が見えた。街灯もないのに海は光って見える。路は暗かったが、海は月あかりを反射しているのかもしれない。昼間の海とは全く違う顔をした別の世界の場所のように思える。海を近くで見たい、と私は思った。海に来ることは滅多にできないし、夜の海ならばなおさらだ。夜にわざわざ海を見ようとした経験はなく、この瞬間を逃せば夜の海にはお目にかかれない気がしたのだった。おばあちゃんの家はすぐそこだから、少しだけ寄ってみても問題はないだろう。

 私は横断歩道のない道路を足早に横切り、目の前に広がっている海へと向かった。

 遠目には明るく見えた海だったが、夜の海は空との境界が全く見えずに真っ暗だった。月明かりだと思った反射はなく、私はどこか異空間に放り投げられたような気がしている。手を伸ばしてもどこにも届かない、黒い世界が広がっていた。

 波音だけが静かに聞こえている。

 もともと海は好きだったが、無を感じる今夜の海も好ましいと思った。波音は緊張感を和らげてくれる。通勤列車でむくんだ脚や仕事中に凝ってしまった肩、用事を作ることもなく過ぎていく週末なんかを忘れさせてくれるような音が耳の中に滑り込んでくる。

「好きだなあ、海」

 私はそう呟いて、波打ち際だと思われるところまで歩いてみた。柔らかな砂を踏んでサンダルがバランスを崩す。足の裏に砂が貼り付いてチクチクと刺される。足元が悪い状況は昼間と同じだが、暗闇にいるので余計に歩きにくさを感じる。

 波に足をつける予定はなかった。ある程度海に近づいたら私はおばあちゃんの家に戻るつもりだった。暗いしタオルもない。明日の夕方家に帰るのだから、サンダルが海水に浸かるのは避けたい。

 しかしながら、砂浜をゆっくりと歩く私の足はいつの間にか波打ち際の際まで行ってしまったらしい。ちゃぷという音がして、私は足を水の中に入れてしまったことに気が付く。冷たい海水がサンダルと脚の間に滑り込み、引き潮に合わせて水があった場所に泥が入り込んでくる。私はわっ、と声を揚げながら後ずさった。海に入るようなところまで近くに来ているとは思わず、予想外のことに私は驚く。

 サンダルの中に入り込む泥がざらざらとして不快だった。

「やだー、濡れちゃったよ」

 思わずついた悪態は大きな声だった。誰に届くこともない独り言。その声は遠くへと飛んでいき、やがて波音にかき消された。

 勘弁してほしいと思いながら、私は濡れた足でおばあちゃんの家に戻る。夜遅くに足とサンダルも洗わなければならない。私は明日の夕方までに乾くだろうかという心配をしていた。

 私の後ろからはざざーんという波の音が聞こえている。

 ***

 夕方までにサンダルは無事に乾き、私は二泊三日の小旅行から自宅に戻っていた。電車に揺られながら聞こえていた夜の波音は耳から離れず、都内に戻っても続いている。通勤列車で音楽を聴いている時も、仕事でパソコンを打ち込んでいる時も、寝る前も耳元であの打ち寄せるような音が聞こえているのである。最初は耳に残っているだけかと思ったが、家に帰ってきてから二週間たっても聞こえ続けており、さすがに辟易してきた。特に、夜寝る前に聞こえてくる音は大きくなるばかりで、私は睡眠不足で仕事に支障が出始めていた。

 耳鳴りのような波の音を聞きながら家に帰る。通勤の間に通る商店街からは生臭い匂いが漂ってきた。海の匂いだ。波の音も相まって、私は波打つ際にいるような感覚を覚えてぎょっとする。慌てて周囲を見渡すと。目の前には魚屋があった。確かに、ここには魚屋さんがあったな。この生臭い匂いはここからやってきたのだ……と、安堵した。少し覗いてみると、魚を捌いている最中のようだ。魚は新鮮そうに見えるが、でも食べる気はしなかった。

 気を取り直して家路をたどる。魚の匂いを嗅いで、反対に肉が食べたくなっていた。今日はコンビニで牛丼でも買って食べようか。肉ならば海のことは思い出さないだろう。私はそう思いながら歩く。生ぬるい風が頬を撫で、不意に潮の匂いが漂い始めた。魚屋の臭いがここまで追ってきたのだろうか。

 匂いは次第に強くなった。商店街から遠ざかっても一向に弱まらない強い匂い。それを振り切りたくて、私は早足になった。最寄りのコンビニの前も通りすぎ、追いかけられるようにして自分のマンションの部屋へと駆け込む。扉を閉めて臭いの元を断ち切ろうと音を立ててドアを閉めた。ふーっとため息をつく。ただでさえ波音に悩まされているのだ。幻臭にも悩まされるなんて勘弁してほしい。

 そう思って深呼吸をした。その時だった。

 潮の臭いがした。漂ってくる強い香りと共に、波音が聞こえた。

 部屋の中に海が存在しているかのようだった。

 その日以降、私は波音と潮風の臭いに悩まされることになった。ぷーんと塩っぽい臭いが鼻を突き、寝る前には波音が聞こえて離れない。まるで海が私の傍に近寄ってきているようだった。

「どうしたの? 元気なさそうだよ?」
「なんか、最近変な感じでね」

 少しの残業が終わって同僚に夕飯に誘われたその日、私は彼女に海の話をしていた。海に行った日から波の音が聞こえて離れてくれない。悩んでいるうちに今度は魚の匂いの幻臭までし始めた。周りがいつも海に囲まれているようで落ち着けず、いつか波にさらわれてしまうような不安感がある。

 まじめな同僚は私の話を遮らずに頷きながら聞いてくれた。自分でも馬鹿げた話に思えるが、彼女は話の腰を折らずに聞いてくれて私はホッとした。

「なんだか、海に恋されてる感じだね」
「恋されてる?」

 話が終わった後、同僚が頷く。私にだんだん近寄っているのはストーカーが距離を詰めているような印象があるのだという。こちらの気を知らない好意は不気味だ。同僚はその不愉快な感覚をマイナスの恋情と表現したのだ。

「そんなことがあったら、大変だよ」

 話を聞いてくれた同僚が非現実的な話をして、私はちょっと落胆した。イメージの話だということは理解しているが、同じ人間であるぶん、私はストーカーの方がマシじゃないかと思ってしまった。

 気まずい気分を誤魔化すようにして、わたしはパスタをフォークに絡ませる。アンチョビやらいかすみやらは食べたくない。今日は動物性の味を感じられるカルボナーラにした。すっかり海の幸とは遠縁になっていた。

 甘い味を期待したパスタを口に入れた瞬間、口の中に塩辛い味が広がった。舌の中に痛さを感じて嫌な唾液が口の中から溢れてくる。まるで濃い塩水を口に入れられたかのような刺激に思わず噎せこむ。

「うぐっ、げほっ」
「ちょっと大丈夫!?」

 同僚が近づいて背中をさする。水を差し出されるが、私はその手を避けた。口の中に何かが入るのが怖かった。噎せこみが落ち着くまで待って、私は同僚にパスタソースの味を確かめて欲しいと頼んでいた。

「……海みたいな味がした」

 同僚が少しソースを舐める。

「ただのカルボナーラだよ」

 ノイローゼ気味なんじゃない? と同僚が再び水を進めてくれるが断る。潮の味がしたら怖いと言うと、同僚はまた連絡して、と慰めてくれた。

 ***

 同僚と夕飯を食べた帰り道、家へと向かう坂を上っていた。憂鬱だった。潮の香りは鼻を突き、家に帰ればきっと波の音で眠れないだろう。海に引っ張られているのか、今日は味覚もおかしくなってしまった。パスタを食べて以降ものを口にしていない。口の中も海に犯されるのが怖い。

 足取りは重く、私の歩みは緩慢だった。私を追うものがあればすぐに追いつかれてしまうだろう。

 鉛の枷が付けられたような私の足に何かが触れた。

 触れられた感覚は次第に足を包み込んでいく。靴の中がじゅわりと音を立てた。私は何かスポンジのような物を踏んだようだった。

 下を向くと、足元には水が薄く広がっていた。その端がゆらゆらと揺らめき泡立っている。水は道路の上で弾けながら前へ後ろへと動いている。私の足を巻き込んで寄せては返すうねりになり、足首から下はまるで波打ち際に突っ込んだようになっていた。

「えっ?」

 私は慌てて波から逃れるように何歩か踏み出した。そして後ろを見た。今まで登ってきた坂はなく、そこには見覚えのある海が広がっていた。おばあちゃんの家に行ったときに見た景色。真っ黒に吸い込まれそうな夜の海が広がっていた。

 ぞっとして鳥肌が立った。冷気が腕から上り肩から背中をかけていく。昔、海に浸かった時のような身体全体が冷たい水にまとわりつかれているような感覚を感じる。

 私は逃げるように走り出していた。アスファルトの坂はいつの間にか砂浜になり、私は足を取られながら駆ける。波は私に向かって手を伸ばしている。海に捕まれば戻ってこれない予感がする。

 何メートルかがむしゃらに走った後、私は砂浜に躓いて転んでしまった。身体が勢いよく砂に埋まる。顎や口の中に砂が飛び散り、私はぺっと唾を吐いた。

 ──逃げなきゃ。

 上半身を起こそうとしている私の周りにはすでに波が溢れてきていた。冷たい水がうつ伏せになった私を囲み、私の身体は半分ほど海水に浸かっていた。

「待って──」

 海は待たなかった。身体が飲まれ、すぐに頭も飲み込まれた。口の中に塩を突っ込まれたような、あのカルボナーラの味がする。口や鼻の中に塩水が入り込んでくる。目に海水が入り込んで何も見えない。

 全ての感覚は海によって浸食された。そのまま、私は海に飲み込まれていったのだった。

 身体の中からはざーんという波の音が聞こえていた。


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 夜の海に訪れたのは単なる気まぐれだった。
 夏の事だ。私はおばあちゃんの家に遊びに来ていた。二泊三日で、都内にある私の家から電車で二時間。港の近くにある家はちょっとした旅行だった。社会人になってから久しく訪れていなかったが、私は昔からおばあちゃんの家に行くのが好きだった。
 おばあちゃんに会えることもそうだが、木造二階建ての古い家をとても気に入っていたのだ。昔見たアニメの家みたいなタイル張りの浴槽やキラキラとした砂壁に都会にはないレトロな雰囲気を私は感じていた。二階からは海が見えて、波の音がするのも好ましかった。
 歩いて五分もしないところに海はあった。内海だから波は穏やかで、海水浴場もある。子供の頃、夏休みごとにおばあちゃんの家に遊びに行っていた私は海を眺めに行くのが好きだった。砂浜で貝殻を拾ったり、凧揚げをしたりする。潮風が髪をかき回すのは煩わしかったが、おばあちゃんの家のお風呂にすぐ入れたので不便をしたことはなかった。
 ただ、私は海の中には入らなかった。胸まで冷たい海水に浸かると身体を揺らす波が気持ち悪く、私はすぐに酔ってしまう。ぬめぬめと張り付いて来る塩水も、少し歩くと途端に足がつかなくなる浮遊感も苦手だった。私は小学生の時以来、海の中には入っていない。海は好きだが、私の楽しみ方は波打ち際まで行って遠くを眺めることだった。
 おばあちゃんの家に行ったその夜、私はコンビニへの道を歩いていた。メイク落としを忘れた私は、おばあちゃんの「きをつけてね」という言葉を背に、歩いて十分ほどの距離にあるお店へと早足で歩く。田舎ともいえる港町の終点駅は街灯が少ない。用事を済ませた私は急いで帰ろうとしていた。
 ふと顔を上げると反対側の道路の向こうにある海が見えた。街灯もないのに海は光って見える。路は暗かったが、海は月あかりを反射しているのかもしれない。昼間の海とは全く違う顔をした別の世界の場所のように思える。海を近くで見たい、と私は思った。海に来ることは滅多にできないし、夜の海ならばなおさらだ。夜にわざわざ海を見ようとした経験はなく、この瞬間を逃せば夜の海にはお目にかかれない気がしたのだった。おばあちゃんの家はすぐそこだから、少しだけ寄ってみても問題はないだろう。
 私は横断歩道のない道路を足早に横切り、目の前に広がっている海へと向かった。
 遠目には明るく見えた海だったが、夜の海は空との境界が全く見えずに真っ暗だった。月明かりだと思った反射はなく、私はどこか異空間に放り投げられたような気がしている。手を伸ばしてもどこにも届かない、黒い世界が広がっていた。
 波音だけが静かに聞こえている。
 もともと海は好きだったが、無を感じる今夜の海も好ましいと思った。波音は緊張感を和らげてくれる。通勤列車でむくんだ脚や仕事中に凝ってしまった肩、用事を作ることもなく過ぎていく週末なんかを忘れさせてくれるような音が耳の中に滑り込んでくる。
「好きだなあ、海」
 私はそう呟いて、波打ち際だと思われるところまで歩いてみた。柔らかな砂を踏んでサンダルがバランスを崩す。足の裏に砂が貼り付いてチクチクと刺される。足元が悪い状況は昼間と同じだが、暗闇にいるので余計に歩きにくさを感じる。
 波に足をつける予定はなかった。ある程度海に近づいたら私はおばあちゃんの家に戻るつもりだった。暗いしタオルもない。明日の夕方家に帰るのだから、サンダルが海水に浸かるのは避けたい。
 しかしながら、砂浜をゆっくりと歩く私の足はいつの間にか波打ち際の際まで行ってしまったらしい。ちゃぷという音がして、私は足を水の中に入れてしまったことに気が付く。冷たい海水がサンダルと脚の間に滑り込み、引き潮に合わせて水があった場所に泥が入り込んでくる。私はわっ、と声を揚げながら後ずさった。海に入るようなところまで近くに来ているとは思わず、予想外のことに私は驚く。
 サンダルの中に入り込む泥がざらざらとして不快だった。
「やだー、濡れちゃったよ」
 思わずついた悪態は大きな声だった。誰に届くこともない独り言。その声は遠くへと飛んでいき、やがて波音にかき消された。
 勘弁してほしいと思いながら、私は濡れた足でおばあちゃんの家に戻る。夜遅くに足とサンダルも洗わなければならない。私は明日の夕方までに乾くだろうかという心配をしていた。
 私の後ろからはざざーんという波の音が聞こえている。
 ***
 夕方までにサンダルは無事に乾き、私は二泊三日の小旅行から自宅に戻っていた。電車に揺られながら聞こえていた夜の波音は耳から離れず、都内に戻っても続いている。通勤列車で音楽を聴いている時も、仕事でパソコンを打ち込んでいる時も、寝る前も耳元であの打ち寄せるような音が聞こえているのである。最初は耳に残っているだけかと思ったが、家に帰ってきてから二週間たっても聞こえ続けており、さすがに辟易してきた。特に、夜寝る前に聞こえてくる音は大きくなるばかりで、私は睡眠不足で仕事に支障が出始めていた。
 耳鳴りのような波の音を聞きながら家に帰る。通勤の間に通る商店街からは生臭い匂いが漂ってきた。海の匂いだ。波の音も相まって、私は波打つ際にいるような感覚を覚えてぎょっとする。慌てて周囲を見渡すと。目の前には魚屋があった。確かに、ここには魚屋さんがあったな。この生臭い匂いはここからやってきたのだ……と、安堵した。少し覗いてみると、魚を捌いている最中のようだ。魚は新鮮そうに見えるが、でも食べる気はしなかった。
 気を取り直して家路をたどる。魚の匂いを嗅いで、反対に肉が食べたくなっていた。今日はコンビニで牛丼でも買って食べようか。肉ならば海のことは思い出さないだろう。私はそう思いながら歩く。生ぬるい風が頬を撫で、不意に潮の匂いが漂い始めた。魚屋の臭いがここまで追ってきたのだろうか。
 匂いは次第に強くなった。商店街から遠ざかっても一向に弱まらない強い匂い。それを振り切りたくて、私は早足になった。最寄りのコンビニの前も通りすぎ、追いかけられるようにして自分のマンションの部屋へと駆け込む。扉を閉めて臭いの元を断ち切ろうと音を立ててドアを閉めた。ふーっとため息をつく。ただでさえ波音に悩まされているのだ。幻臭にも悩まされるなんて勘弁してほしい。
 そう思って深呼吸をした。その時だった。
 潮の臭いがした。漂ってくる強い香りと共に、波音が聞こえた。
 部屋の中に海が存在しているかのようだった。
 その日以降、私は波音と潮風の臭いに悩まされることになった。ぷーんと塩っぽい臭いが鼻を突き、寝る前には波音が聞こえて離れない。まるで海が私の傍に近寄ってきているようだった。
「どうしたの? 元気なさそうだよ?」
「なんか、最近変な感じでね」
 少しの残業が終わって同僚に夕飯に誘われたその日、私は彼女に海の話をしていた。海に行った日から波の音が聞こえて離れてくれない。悩んでいるうちに今度は魚の匂いの幻臭までし始めた。周りがいつも海に囲まれているようで落ち着けず、いつか波にさらわれてしまうような不安感がある。
 まじめな同僚は私の話を遮らずに頷きながら聞いてくれた。自分でも馬鹿げた話に思えるが、彼女は話の腰を折らずに聞いてくれて私はホッとした。
「なんだか、海に恋されてる感じだね」
「恋されてる?」
 話が終わった後、同僚が頷く。私にだんだん近寄っているのはストーカーが距離を詰めているような印象があるのだという。こちらの気を知らない好意は不気味だ。同僚はその不愉快な感覚をマイナスの恋情と表現したのだ。
「そんなことがあったら、大変だよ」
 話を聞いてくれた同僚が非現実的な話をして、私はちょっと落胆した。イメージの話だということは理解しているが、同じ人間であるぶん、私はストーカーの方がマシじゃないかと思ってしまった。
 気まずい気分を誤魔化すようにして、わたしはパスタをフォークに絡ませる。アンチョビやらいかすみやらは食べたくない。今日は動物性の味を感じられるカルボナーラにした。すっかり海の幸とは遠縁になっていた。
 甘い味を期待したパスタを口に入れた瞬間、口の中に塩辛い味が広がった。舌の中に痛さを感じて嫌な唾液が口の中から溢れてくる。まるで濃い塩水を口に入れられたかのような刺激に思わず噎せこむ。
「うぐっ、げほっ」
「ちょっと大丈夫!?」
 同僚が近づいて背中をさする。水を差し出されるが、私はその手を避けた。口の中に何かが入るのが怖かった。噎せこみが落ち着くまで待って、私は同僚にパスタソースの味を確かめて欲しいと頼んでいた。
「……海みたいな味がした」
 同僚が少しソースを舐める。
「ただのカルボナーラだよ」
 ノイローゼ気味なんじゃない? と同僚が再び水を進めてくれるが断る。潮の味がしたら怖いと言うと、同僚はまた連絡して、と慰めてくれた。
 ***
 同僚と夕飯を食べた帰り道、家へと向かう坂を上っていた。憂鬱だった。潮の香りは鼻を突き、家に帰ればきっと波の音で眠れないだろう。海に引っ張られているのか、今日は味覚もおかしくなってしまった。パスタを食べて以降ものを口にしていない。口の中も海に犯されるのが怖い。
 足取りは重く、私の歩みは緩慢だった。私を追うものがあればすぐに追いつかれてしまうだろう。
 鉛の枷が付けられたような私の足に何かが触れた。
 触れられた感覚は次第に足を包み込んでいく。靴の中がじゅわりと音を立てた。私は何かスポンジのような物を踏んだようだった。
 下を向くと、足元には水が薄く広がっていた。その端がゆらゆらと揺らめき泡立っている。水は道路の上で弾けながら前へ後ろへと動いている。私の足を巻き込んで寄せては返すうねりになり、足首から下はまるで波打ち際に突っ込んだようになっていた。
「えっ?」
 私は慌てて波から逃れるように何歩か踏み出した。そして後ろを見た。今まで登ってきた坂はなく、そこには見覚えのある海が広がっていた。おばあちゃんの家に行ったときに見た景色。真っ黒に吸い込まれそうな夜の海が広がっていた。
 ぞっとして鳥肌が立った。冷気が腕から上り肩から背中をかけていく。昔、海に浸かった時のような身体全体が冷たい水にまとわりつかれているような感覚を感じる。
 私は逃げるように走り出していた。アスファルトの坂はいつの間にか砂浜になり、私は足を取られながら駆ける。波は私に向かって手を伸ばしている。海に捕まれば戻ってこれない予感がする。
 何メートルかがむしゃらに走った後、私は砂浜に躓いて転んでしまった。身体が勢いよく砂に埋まる。顎や口の中に砂が飛び散り、私はぺっと唾を吐いた。
 ──逃げなきゃ。
 上半身を起こそうとしている私の周りにはすでに波が溢れてきていた。冷たい水がうつ伏せになった私を囲み、私の身体は半分ほど海水に浸かっていた。
「待って──」
 海は待たなかった。身体が飲まれ、すぐに頭も飲み込まれた。口の中に塩を突っ込まれたような、あのカルボナーラの味がする。口や鼻の中に塩水が入り込んでくる。目に海水が入り込んで何も見えない。
 全ての感覚は海によって浸食された。そのまま、私は海に飲み込まれていったのだった。
 身体の中からはざーんという波の音が聞こえていた。