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虫博士

ー/ー



 久しぶりの休日だったのだけれど、僕は時間を持て余していた。仕事をしている間には、休日が恋しくて仕方がなかったのに、いざ休みとなると、為すべきことが思いつかなかった。だから、気紛れに家を出て、周辺をぶらりと歩いていたのだ。そのため、気紛れにふらりと此処へ現れて地面の水を吸う青筋揚羽に、妙な親近感を抱いた。
「何だか、僕みたいだな」
 そんな言葉が口から溢れる。
 子供の頃には、僕は昆虫が大好きだった。クラスの誰よりも昆虫についてよく知っていたので、『虫博士』なんていう渾名を付けられていた。
 しかし、大人になるにつれて、その興味は徐々になくなっていった。周囲の刺激に慣れてゆくうちに、他のことに削がれて、昆虫に向ける興味の濃度は薄くなったようだ。そう……人間関係に仕事、そして恋愛。昆虫以外の多くの事柄が人生を彩って、大人になった僕は『虫博士』ではなく、『普通』のカテゴリに含まれる会社員になった。
 アスファルトに止まっていた青筋揚羽は、ふわりと飛び立った。僕の視線は、自然に其方に吸い寄せられる。ひらり、ひらりと空中を上下しながら、その蝶は公園へと入って行った。お行儀よく門から入る其奴に倣い、僕も公園の地面を踏み締めた。
 自宅の近郊にある公園。此処を訪れるのも、実に久しぶりのことであった。実家とも近い距離にあるので、小学生時代は放課後によく寄り道をしていたが……改めて考えると、公園に入るのも、その頃以来のことかも知れなかった。
 木陰のベンチは、昔から変わらぬ場所にあった。幼い頃には気がつかなかったが、それは其処に適うほどにアンティークで、公園の風景に溶け込んでいた。公園とともに年を重ねることで、その場所に適った様相を呈するようになったのかも知れない。
 僕は、そのベンチに腰を掛けた。木の葉を揺らす爽やかな風が頬を抜ける。枝にとまった小鳥のさえずる声が、耳に心地よく響いた。
 そうしていると、自らが公園の自然と一体となるような感覚にとらわれた。僕の五感が、其処の空気に、音に、風景に、溶け込んでゆく。それはまるで、幼い頃に戻ったような懐かしい感覚であり、暫くの間、僕はその心地に身を任せていた。
 だが、僕の視覚は、公園の風景の中で泳ぐ二つの影をとらえた。
 目の前でひらり、ひらりと二匹の黒い蝶が追いかけっこを始めたのだ。それは、青条揚羽だった。強い日差しを受けて、羽の青筋模様が輝いていた。恐らく、雄と雌のつがいなのであろう。
 ふと、考えてみた。この青条揚羽のように気ままに飛ぶことができるのは、一体、どのような気分なのだろうか。
 風に吹かれて上下左右に揺れながら、不安定に、だがしかし、しなやかに飛ぶ。それは心地良いことかも知れないし、毎日のように飛んでいると、特に何を感じることもなく、無意識のうちの振る舞いになっているのかも知れない。でも、僕の前で追いかけっこをする二匹の蝶は、優雅に飛び回っているように見えた。
 楽しげに舞い飛ぶ彼らを見る僕は、昔のことを思い出した。小学生時代……『虫博士』と呼ばれていた時のことだ。揚羽や青条揚羽の幼虫を見つけることが得意だった。だから、小学校のクラスでは『生物係』となり、教室の後ろ、ロッカーの上の飼育ケースにミカンやクスノキの枝と葉を入れて、蝶の幼虫を育てていた。
 女子の中には「気持ち悪い」と言う者もいたが、生物係は昆虫などを好む生徒で構成されていた。だから、生物係の皆は喜んでそれらの世話をしていた。幼虫が葉を食して少なくなる度に新しい枝を追加したし、適宜、霧吹きで湿らせた。その甲斐があって、夏が近づくと幼虫達は蛹となり、やがて、美しい蝶へと羽化したのだ。
 あの頃は『大人になる』ということは、幼虫から蝶へと進化することにも等しいと思っていた。そう……その過程で何か、画期的な変化がこの身に起こると思い込んでいた。
 だがしかし、実際には精神の齢は、子供の頃とそう変わらない。ただ、幼い頃より身体が少し大きくなっただけだ。
 いや……正確には、少年時代に抱いていた興味の幾つかが薄れてゆき、その代わりに他のことに関心を抱くようになっただけ、なのかも知れない。だけれども、どうも自分は、少年時代よりも無気力になっているような気がするのだった。
 そんな僕を冷やかすかのように、二匹の青条揚羽は交代に上下して、僕の前を飛び回る。蝶にとっては、羽化して飛び回れるようになったことは、やはり画期的な変化なのだろうか。そして、遥かに広がる世界に心を躍らせているのだろうか。
 二匹の蝶を見るも、答えを聞くことは敵わないけれども、それらは青い筋を輝かせながら、生き生きと飛んでいることは確かだった。


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 久しぶりの休日だったのだけれど、僕は時間を持て余していた。仕事をしている間には、休日が恋しくて仕方がなかったのに、いざ休みとなると、為すべきことが思いつかなかった。だから、気紛れに家を出て、周辺をぶらりと歩いていたのだ。そのため、気紛れにふらりと此処へ現れて地面の水を吸う青筋揚羽に、妙な親近感を抱いた。
「何だか、僕みたいだな」
 そんな言葉が口から溢れる。
 子供の頃には、僕は昆虫が大好きだった。クラスの誰よりも昆虫についてよく知っていたので、『虫博士』なんていう渾名を付けられていた。
 しかし、大人になるにつれて、その興味は徐々になくなっていった。周囲の刺激に慣れてゆくうちに、他のことに削がれて、昆虫に向ける興味の濃度は薄くなったようだ。そう……人間関係に仕事、そして恋愛。昆虫以外の多くの事柄が人生を彩って、大人になった僕は『虫博士』ではなく、『普通』のカテゴリに含まれる会社員になった。
 アスファルトに止まっていた青筋揚羽は、ふわりと飛び立った。僕の視線は、自然に其方に吸い寄せられる。ひらり、ひらりと空中を上下しながら、その蝶は公園へと入って行った。お行儀よく門から入る其奴に倣い、僕も公園の地面を踏み締めた。
 自宅の近郊にある公園。此処を訪れるのも、実に久しぶりのことであった。実家とも近い距離にあるので、小学生時代は放課後によく寄り道をしていたが……改めて考えると、公園に入るのも、その頃以来のことかも知れなかった。
 木陰のベンチは、昔から変わらぬ場所にあった。幼い頃には気がつかなかったが、それは其処に適うほどにアンティークで、公園の風景に溶け込んでいた。公園とともに年を重ねることで、その場所に適った様相を呈するようになったのかも知れない。
 僕は、そのベンチに腰を掛けた。木の葉を揺らす爽やかな風が頬を抜ける。枝にとまった小鳥のさえずる声が、耳に心地よく響いた。
 そうしていると、自らが公園の自然と一体となるような感覚にとらわれた。僕の五感が、其処の空気に、音に、風景に、溶け込んでゆく。それはまるで、幼い頃に戻ったような懐かしい感覚であり、暫くの間、僕はその心地に身を任せていた。
 だが、僕の視覚は、公園の風景の中で泳ぐ二つの影をとらえた。
 目の前でひらり、ひらりと二匹の黒い蝶が追いかけっこを始めたのだ。それは、青条揚羽だった。強い日差しを受けて、羽の青筋模様が輝いていた。恐らく、雄と雌のつがいなのであろう。
 ふと、考えてみた。この青条揚羽のように気ままに飛ぶことができるのは、一体、どのような気分なのだろうか。
 風に吹かれて上下左右に揺れながら、不安定に、だがしかし、しなやかに飛ぶ。それは心地良いことかも知れないし、毎日のように飛んでいると、特に何を感じることもなく、無意識のうちの振る舞いになっているのかも知れない。でも、僕の前で追いかけっこをする二匹の蝶は、優雅に飛び回っているように見えた。
 楽しげに舞い飛ぶ彼らを見る僕は、昔のことを思い出した。小学生時代……『虫博士』と呼ばれていた時のことだ。揚羽や青条揚羽の幼虫を見つけることが得意だった。だから、小学校のクラスでは『生物係』となり、教室の後ろ、ロッカーの上の飼育ケースにミカンやクスノキの枝と葉を入れて、蝶の幼虫を育てていた。
 女子の中には「気持ち悪い」と言う者もいたが、生物係は昆虫などを好む生徒で構成されていた。だから、生物係の皆は喜んでそれらの世話をしていた。幼虫が葉を食して少なくなる度に新しい枝を追加したし、適宜、霧吹きで湿らせた。その甲斐があって、夏が近づくと幼虫達は蛹となり、やがて、美しい蝶へと羽化したのだ。
 あの頃は『大人になる』ということは、幼虫から蝶へと進化することにも等しいと思っていた。そう……その過程で何か、画期的な変化がこの身に起こると思い込んでいた。
 だがしかし、実際には精神の齢は、子供の頃とそう変わらない。ただ、幼い頃より身体が少し大きくなっただけだ。
 いや……正確には、少年時代に抱いていた興味の幾つかが薄れてゆき、その代わりに他のことに関心を抱くようになっただけ、なのかも知れない。だけれども、どうも自分は、少年時代よりも無気力になっているような気がするのだった。
 そんな僕を冷やかすかのように、二匹の青条揚羽は交代に上下して、僕の前を飛び回る。蝶にとっては、羽化して飛び回れるようになったことは、やはり画期的な変化なのだろうか。そして、遥かに広がる世界に心を躍らせているのだろうか。
 二匹の蝶を見るも、答えを聞くことは敵わないけれども、それらは青い筋を輝かせながら、生き生きと飛んでいることは確かだった。