魔の郷
ー/ー 僕は幼い頃、『両親』に連れられてこの郷に来た。しかし、郷からすれば、そんな僕は『他所者』だったのかも知れない。
この郷で、少し古びた家の一員となった日の記憶は、朧げではあるけれども残っている。ちょうど五歳くらい……かろうじて、物心のついている頃の出来事だった。
それ以前に暮らしていた施設は、居心地の良い場所ではなかった。否……当時はそうとは気付かずに、其処での生活を受け入れていたのだけれど、この郷に来て以降はそれまでとは打って代わり、毎日が楽しさに満ちたものとなった。だから、恐らくは、その施設は僕にとって良くない場所だったということなのだろう。
毎日のように、自然に溢れたこの郷を駆け回っていた。以前のような閉鎖された施設とは比べ物にならぬほどに恵まれた環境に、僕は心躍らせていた。
やがて、僕には『妹』ができた。そう……僕の『妹』である君は、僕を育ててくれている『両親』の本当の娘だった。だから、君が生まれた際には『両親』はもっと喜んでも良いはずだった。しかし、二人は何処か、浮かない顔をしていた。そしてその理由は、僕が成長するにつれて明らかとなった。
死に至る不眠症。それは、家族性に発症する病だった。
この郷で暮らす家系は、高い確率でその遺伝子を保有していた。初期症状は不眠や興奮状態であるが、やがて認知機能低下や運動失調、幻覚症状などを呈し、多くは発症から二年程度で死に至る。
それはイタリアの家系で見出される病気であり、この国ではごく少数の家系で見出されるのみであるけれど……『父』は君が生まれた翌年に、『母』はその五年後に発症したため、もうこの世にはいなかった。
そう。この郷には、死に至る不眠症の遺伝子を持つ者が多い……その事実は、この郷が世間から、何処か隔離に近い扱いを受けている所以かも知れなかった。つまり、郷の外の者は、進んで此処に立ち入ろうとはしない。郷は過疎化が進んでいる割には、ある歳以上に年配の者もいなかった。
だから、この場所は『魔の郷』と呼ばれているのだと聞いたこともある。何故なら、不眠症の進行の過程で訪れる幻覚症状や認知症状を呈する者が、部外者からは世にも恐ろしく、奇妙なもののように見えるからであり、ある年齢以上になると死に至ると噂される病の存在も、人々の恐怖心に拍車をかけたのだ。そして、皮肉なことには、そうした事情が生んだ噂のおかげで、郷は昔から変わらずに美しい環境を保持しているのであった。
郷から飛び出して自由になった……そう思っていた君は、都会で暮らし始めてから数年後に発症した。入眠困難と睡眠維持困難が発現……つまり、不眠症を発症したのだ。だから、都会に住み続けることは適わなくなり、この郷へと戻って来ることになった。
それでも、僕にはやはり、一般の人間と遜色なく、睡眠という過程が訪れた。そのことは、僕が君とは血が繋がっていないという現実を肯定していた。
目を開けると、前日までの感覚がリセットされる。確かに、前日の夜には聞こえていなかったのに……朝になって目を覚ますと、窓の外でさえずる小鳥の声が、僕の耳に心地良い韻を刻んでいた。
「おはよう」
軽やかに挨拶をする君は、両頬にえくぼをつくり、微笑んでいた。それはまるで、単に早起きをした『妹』の振舞で……出来ることなら、『早起きをしただけ』であって欲しかった。しかし、君の目の下で、前日よりも濃さを増す隈の存在が、そんな思い込みを否定した。
「なぁ。せめて、横になったらどう? 眠れなくても……少しは、疲れが取れるかも知れないよ」
無駄なことだと知りながらも、そう口に出さずにはいられない。すると、君は右手でぎゅっと左手を握り、何かの衝動を抑えるようにしながら、口を開いた。
「嫌よ。そんな無駄なことはしない。だって、横になっても病気の進行は変わらないでしょ?」
「いや、でも……」
言葉を続けようとする僕を遮るように、君は一枚の画用紙を見せてくれた。其処に描かれていたのは、前の夜の風景……火垂る袋から飛び出して、自由になった蛍であった。その絵はすぅっと、僕の意識を吸い込んだ。
それは、前日に見た火垂る袋の群生の絵ほどには華やかなものではなかった。煌びやかさもなくて、どちらかと言うと、儚さと物悲しさを感じさせるものだった。しかし、それは火垂る袋の群生の絵よりもさらに、僕の心に深く染み入った。
どうしてだろう? 絵の中の蛍と、君の笑顔が重なって……僕の目にはじんわりと、熱いものが滲んだのだ。
そんな僕の様子を認めた君は、柔らかく目を細めた。
「夜は、私の時間。精一杯に使って、私が生きた証をこの世界に刻み込むの。そう……たとえ、残り僅かな時間だとしても」
君の語った決意。僕にはそれを否定することも、それに抗うことも出来なかった。
何故なら、君は誰よりも真剣に、直向きに、自らの運命と向き合っているのだから。残り僅かな余命を燃やしているのだから……だから、僕は全力で君を支えることを誓った。たとえそれが、君の寿命を縮めることに繋がったとしても。
この郷で、少し古びた家の一員となった日の記憶は、朧げではあるけれども残っている。ちょうど五歳くらい……かろうじて、物心のついている頃の出来事だった。
それ以前に暮らしていた施設は、居心地の良い場所ではなかった。否……当時はそうとは気付かずに、其処での生活を受け入れていたのだけれど、この郷に来て以降はそれまでとは打って代わり、毎日が楽しさに満ちたものとなった。だから、恐らくは、その施設は僕にとって良くない場所だったということなのだろう。
毎日のように、自然に溢れたこの郷を駆け回っていた。以前のような閉鎖された施設とは比べ物にならぬほどに恵まれた環境に、僕は心躍らせていた。
やがて、僕には『妹』ができた。そう……僕の『妹』である君は、僕を育ててくれている『両親』の本当の娘だった。だから、君が生まれた際には『両親』はもっと喜んでも良いはずだった。しかし、二人は何処か、浮かない顔をしていた。そしてその理由は、僕が成長するにつれて明らかとなった。
死に至る不眠症。それは、家族性に発症する病だった。
この郷で暮らす家系は、高い確率でその遺伝子を保有していた。初期症状は不眠や興奮状態であるが、やがて認知機能低下や運動失調、幻覚症状などを呈し、多くは発症から二年程度で死に至る。
それはイタリアの家系で見出される病気であり、この国ではごく少数の家系で見出されるのみであるけれど……『父』は君が生まれた翌年に、『母』はその五年後に発症したため、もうこの世にはいなかった。
そう。この郷には、死に至る不眠症の遺伝子を持つ者が多い……その事実は、この郷が世間から、何処か隔離に近い扱いを受けている所以かも知れなかった。つまり、郷の外の者は、進んで此処に立ち入ろうとはしない。郷は過疎化が進んでいる割には、ある歳以上に年配の者もいなかった。
だから、この場所は『魔の郷』と呼ばれているのだと聞いたこともある。何故なら、不眠症の進行の過程で訪れる幻覚症状や認知症状を呈する者が、部外者からは世にも恐ろしく、奇妙なもののように見えるからであり、ある年齢以上になると死に至ると噂される病の存在も、人々の恐怖心に拍車をかけたのだ。そして、皮肉なことには、そうした事情が生んだ噂のおかげで、郷は昔から変わらずに美しい環境を保持しているのであった。
郷から飛び出して自由になった……そう思っていた君は、都会で暮らし始めてから数年後に発症した。入眠困難と睡眠維持困難が発現……つまり、不眠症を発症したのだ。だから、都会に住み続けることは適わなくなり、この郷へと戻って来ることになった。
それでも、僕にはやはり、一般の人間と遜色なく、睡眠という過程が訪れた。そのことは、僕が君とは血が繋がっていないという現実を肯定していた。
目を開けると、前日までの感覚がリセットされる。確かに、前日の夜には聞こえていなかったのに……朝になって目を覚ますと、窓の外でさえずる小鳥の声が、僕の耳に心地良い韻を刻んでいた。
「おはよう」
軽やかに挨拶をする君は、両頬にえくぼをつくり、微笑んでいた。それはまるで、単に早起きをした『妹』の振舞で……出来ることなら、『早起きをしただけ』であって欲しかった。しかし、君の目の下で、前日よりも濃さを増す隈の存在が、そんな思い込みを否定した。
「なぁ。せめて、横になったらどう? 眠れなくても……少しは、疲れが取れるかも知れないよ」
無駄なことだと知りながらも、そう口に出さずにはいられない。すると、君は右手でぎゅっと左手を握り、何かの衝動を抑えるようにしながら、口を開いた。
「嫌よ。そんな無駄なことはしない。だって、横になっても病気の進行は変わらないでしょ?」
「いや、でも……」
言葉を続けようとする僕を遮るように、君は一枚の画用紙を見せてくれた。其処に描かれていたのは、前の夜の風景……火垂る袋から飛び出して、自由になった蛍であった。その絵はすぅっと、僕の意識を吸い込んだ。
それは、前日に見た火垂る袋の群生の絵ほどには華やかなものではなかった。煌びやかさもなくて、どちらかと言うと、儚さと物悲しさを感じさせるものだった。しかし、それは火垂る袋の群生の絵よりもさらに、僕の心に深く染み入った。
どうしてだろう? 絵の中の蛍と、君の笑顔が重なって……僕の目にはじんわりと、熱いものが滲んだのだ。
そんな僕の様子を認めた君は、柔らかく目を細めた。
「夜は、私の時間。精一杯に使って、私が生きた証をこの世界に刻み込むの。そう……たとえ、残り僅かな時間だとしても」
君の語った決意。僕にはそれを否定することも、それに抗うことも出来なかった。
何故なら、君は誰よりも真剣に、直向きに、自らの運命と向き合っているのだから。残り僅かな余命を燃やしているのだから……だから、僕は全力で君を支えることを誓った。たとえそれが、君の寿命を縮めることに繋がったとしても。
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