表示設定
表示設定
目次 目次




冒険

ー/ー



「冒険をしない?」
 久しぶりにこの耳で、その問いを聞いた。
 君は昔と同じように、悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「もしも眠くなかったら、だけれど」
「眠くはないよ。どういう訳か、すっかりと目は冴えている」
「へぇ……」
 首を傾げながら、少しだけ訝しげな表情で「本当に?」と尋ねる。だから、負けず嫌いな僕は「ああ。全然、眠くない」と断言した。
「よし。じゃあ、冒険だ!」
 まるで子供のような口ぶりで号令をかける。そんな君を見ていると、僕達のみ、幼い頃の日々に戻ったかのような感覚に囚われた。
 幼い頃には、眠気に抗うことができなかったら負けだった。何故なら、夜、暗闇の中でしかできない楽しみや空想があったのだけれど、眠ってしまうと、その時間だけ損をすることになるからだ。そんな思いが、僕達に夜更かしをさせるように仕向けていた。
 そう。夜は不思議な時間だった。どれだけ、起きていようと……どれだけ、夜更かしをしようと目を開いていても、気が付けばいつの間にか、意識が途切れた。そうして、次に目を開いた時には、其処には穏やかな陽が射していた。夜という時間は過ぎ去り、朝が訪れていて、僕達はいつの間に眠りに落ちていたのか、分からなかった。夜の記憶の代わりに、ただ、睡眠不足の気怠さのみが体に残っていたのだ。
 月明かりを頼りに真っ暗な道を歩きながら、どちらから始めるともなく、そんな昔話をした。しかし、会話の種はそれだけではなくて、君の都会での暮らしがどうだったか、だとか、美術大学でどんな生活をしていたか、だとか……そんな華やかな話題も、君は楽しげに口にした。
「『お兄さん』も、美大に来れば良かったのに。とっても素敵で、楽しかったのよ」
「ああ……僕はいいよ。お前みたいに、絵の才能はないから」
「そんなことないわよ。私、好きよ?『お兄さん』の描く絵」
 暗闇に飲まれて、はっきりとは見えなかったけれど、僕にはよく分かった。君が、どんな表情をしているのか。
 幼い頃に僕の絵を見てくれた時と同じように、目を細めて、とろけそうな顔をしている。君が絵についての話をする時は、いつもそうだった。だから、君が夢を諦めて、この郷へ戻らざるを得なくなったのが、僕にとっては胸が締め付けられるほどに苦しいことだった。
「ところで、知っている?」
「うん?」
「この山道を進んでゆくとね……あるのよ。とっておきの場所が」
 昔から変わらないこの郷では、私達が子供の頃と変わらない景観が保全されている。だから……きっと、子供の頃に見た景色を見ることができる。
 君は、弾んだ声でそう語った。
 そして、その言葉を肯定するが如く、暫く足を動かした僕達の前には、絶景が広がっていた。そう……火垂る袋の群生する斜面。それは、月明かりに映し出されていた。白に桃色、紫、黄……様々な色をした釣鐘形の花が、ぼんやりと存在を醸していて、その所々には生命の光を灯す蛍が止まっていた。其処には、それまでに見たこともないほどに幻想的で美しい景色が広がっていた。
「すごい。綺麗……」
 この口から、思わず漏れる感嘆符。それは、蛍と火垂る袋の共存する空間に、微塵の違和感もなく溶け込んだ。
「火垂る袋って、似ているよね。この郷に……」
「えっ?」
 不意に君が口にした。その言葉の意図を、僕はすぐには理解できなかった。
 だから、君はゆっくりと噛み締めるように言葉を続けた。
「だって、この郷にいれば、何を知ることもなく、ずっと、綺麗な花を見ることができる。そして、自分自身の光で明るい場所に居続けることができる。でも……それって、自由ではないのよね」
 微かに声を震わせながら、君が語る。それは、僕のよく知る君の言葉ではないような気がして……意識が宙に浮くような不安定な感覚に囚われた。
 目の前に居るのは、確かに君だ。しかし、僕の知る君らしからぬ言葉を口にする。
心の内に刻まれる違和感の正体……その理由に、僕は覚えがあった。しかし、些末なその違和感にそっと蓋をして、僕達はただぼんやりと、蛍の輝かせる火垂る袋の群生を眺めていた。


スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む あの夜の風景


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



「冒険をしない?」
 久しぶりにこの耳で、その問いを聞いた。
 君は昔と同じように、悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「もしも眠くなかったら、だけれど」
「眠くはないよ。どういう訳か、すっかりと目は冴えている」
「へぇ……」
 首を傾げながら、少しだけ訝しげな表情で「本当に?」と尋ねる。だから、負けず嫌いな僕は「ああ。全然、眠くない」と断言した。
「よし。じゃあ、冒険だ!」
 まるで子供のような口ぶりで号令をかける。そんな君を見ていると、僕達のみ、幼い頃の日々に戻ったかのような感覚に囚われた。
 幼い頃には、眠気に抗うことができなかったら負けだった。何故なら、夜、暗闇の中でしかできない楽しみや空想があったのだけれど、眠ってしまうと、その時間だけ損をすることになるからだ。そんな思いが、僕達に夜更かしをさせるように仕向けていた。
 そう。夜は不思議な時間だった。どれだけ、起きていようと……どれだけ、夜更かしをしようと目を開いていても、気が付けばいつの間にか、意識が途切れた。そうして、次に目を開いた時には、其処には穏やかな陽が射していた。夜という時間は過ぎ去り、朝が訪れていて、僕達はいつの間に眠りに落ちていたのか、分からなかった。夜の記憶の代わりに、ただ、睡眠不足の気怠さのみが体に残っていたのだ。
 月明かりを頼りに真っ暗な道を歩きながら、どちらから始めるともなく、そんな昔話をした。しかし、会話の種はそれだけではなくて、君の都会での暮らしがどうだったか、だとか、美術大学でどんな生活をしていたか、だとか……そんな華やかな話題も、君は楽しげに口にした。
「『お兄さん』も、美大に来れば良かったのに。とっても素敵で、楽しかったのよ」
「ああ……僕はいいよ。お前みたいに、絵の才能はないから」
「そんなことないわよ。私、好きよ?『お兄さん』の描く絵」
 暗闇に飲まれて、はっきりとは見えなかったけれど、僕にはよく分かった。君が、どんな表情をしているのか。
 幼い頃に僕の絵を見てくれた時と同じように、目を細めて、とろけそうな顔をしている。君が絵についての話をする時は、いつもそうだった。だから、君が夢を諦めて、この郷へ戻らざるを得なくなったのが、僕にとっては胸が締め付けられるほどに苦しいことだった。
「ところで、知っている?」
「うん?」
「この山道を進んでゆくとね……あるのよ。とっておきの場所が」
 昔から変わらないこの郷では、私達が子供の頃と変わらない景観が保全されている。だから……きっと、子供の頃に見た景色を見ることができる。
 君は、弾んだ声でそう語った。
 そして、その言葉を肯定するが如く、暫く足を動かした僕達の前には、絶景が広がっていた。そう……火垂る袋の群生する斜面。それは、月明かりに映し出されていた。白に桃色、紫、黄……様々な色をした釣鐘形の花が、ぼんやりと存在を醸していて、その所々には生命の光を灯す蛍が止まっていた。其処には、それまでに見たこともないほどに幻想的で美しい景色が広がっていた。
「すごい。綺麗……」
 この口から、思わず漏れる感嘆符。それは、蛍と火垂る袋の共存する空間に、微塵の違和感もなく溶け込んだ。
「火垂る袋って、似ているよね。この郷に……」
「えっ?」
 不意に君が口にした。その言葉の意図を、僕はすぐには理解できなかった。
 だから、君はゆっくりと噛み締めるように言葉を続けた。
「だって、この郷にいれば、何を知ることもなく、ずっと、綺麗な花を見ることができる。そして、自分自身の光で明るい場所に居続けることができる。でも……それって、自由ではないのよね」
 微かに声を震わせながら、君が語る。それは、僕のよく知る君の言葉ではないような気がして……意識が宙に浮くような不安定な感覚に囚われた。
 目の前に居るのは、確かに君だ。しかし、僕の知る君らしからぬ言葉を口にする。
心の内に刻まれる違和感の正体……その理由に、僕は覚えがあった。しかし、些末なその違和感にそっと蓋をして、僕達はただぼんやりと、蛍の輝かせる火垂る袋の群生を眺めていた。