03

ー/ー



 ――やめてっ!
 叫んでしまった、と気付いた時には、もう何もかもが遅かった。

 リゼットが抱えていたうさぎのぬいぐるみが、何の前触れもなく粉々に弾け飛んだ。やわらかな綿が舞い散り、人形が着ていた桃色のワンピースが、無惨に裂けて石畳に落ちる。所々に、真っ赤な血を染み込ませて。

 リゼットの悲鳴を聞いて、父と継母が血相を変えて駆け寄ってくる。私はその光景を、ただ茫然と見ていた。見ていることしか出来なかった。

 人形の破片を慌てて拾い集める侍女、真っ白く滑らかな指に滴る鮮血を拭い取る継母、叫ぶように泣き喚くリゼット。そして――。

 気づいた時には黒い影が視界を塞いでいた。父の体躯だと悟るより先に、頬に鋭い衝撃が走った。頬が、火でも浴びたように熱い。

 地に伏したまま、ゆっくりと目だけを上げる。そんな私を、誰も見ようとはしなかった。
 
 けども、ゼットだけが。彼女だけが、涙で濡れそぼった目のまま、密かに口角を――。


***


 首を絞められでもしているかのような息苦しさに襲われ、弾かれたように目を開ける。

 乱れた呼吸、今にも胸を突き破ってきそうな鼓動。額には薄っすらと汗が滲んでいた。半開きの唇が、わなわなと震えている。視界の何処にも、もうあの光景はないというのに。

 装飾ひとつない、真っ白な天井。疾うに夜は明けているのか、カーテンの細い隙間から差し込む朝陽が、天井に細い線を引いている。

 強張る身体から少しずつ緊張が――或いは恐怖が――抜けてゆくのを待ってから、私はのっそりと起き上がり、薄闇にこぼれる一筋の光に導かれるように窓辺へと歩み寄った。

 落ち着いた色の深緑色のカーテン。裾にだけ同色の糸でアカンサスの刺繍が施されたそれを、片側だけ恐る恐る開く。

 途端に飛び込んできたのは、思わず目を細めてしまうほど眩しい朝陽だった。白い木枠に嵌め込まれた窓の外は、突き抜けるほどに澄んだ青空と、緑豊かな庭園。端には小ぶりなパーゴラが配され、ぎっしりと巻き付いた蔓薔薇が小さな白い花を咲かせている。

 振り返ると、先ほどまで薄暗かった室内に、光が満ちていた。簡素だが清潔に整えられたベッド、花の絵柄が描きつけられた小ぶりなゲリドン、艶やかな飴色のシリンダーデスク、曇りひとつない鏡のついたドレッサー。

 その光景はどう見ても、普通の客室だった。ラヴァンド邸で私に与えられていた部屋より、よほど立派な部屋。それがまさか”魔塔"の中にある一室だなんて、果たして誰が思えるだろう。

(不気味な場所なのだろうと、思っていたのだけれど……)

 室内をくるりと見回し、私は息をゆっくりと吐き出す。背中に降り注ぐ朝陽が、あたたかくて気持ちが良い。身体のそこここに未だこびりつく悪夢の残渣を、やさしく洗い流してくれるような気がする。

 もう少しだけ、何も考えずに、このままいられたら――。
 そう思いながら窓に背を預けかけた瞬間、こんこん、と扉を叩く音が鳴った。思わず両肩がびくりと跳ね上がる。部屋に人が訪ねてくることなんて、実家にいた頃には一度もなかったから。

 でもここは、ラヴァンド邸ではなく、魔塔。物置部屋をどうにか掃除して整えた自室ではなく、客人用にと誂えられた部屋。

 まさか、オルフェイン卿だろうか――。昨夜馬車の中で見た端正な横顔を思い出し、私は慌てて自分の身体に視線を落とす。さすがに夜着のまま扉を開けるのは、曲がりなりにも伯爵家の娘としてはしたない。

 とはいえ、声を出すことの出来ない私に、返答をする術はなかった。手帳に文字を記したところで、それを見せるには扉を開ける必要がある。しかし、部屋中を見回しても、昨夜着ていたドレスどころか、お仕着せひとつ見当たらない。

 どうしたものかと、まごつきながら考え倦ねていると、もう一度、こんこん、と扉が叩かれた。しっかりと室内に響き渡る、けれど決して乱暴ではない音。

「シルヴィ様、お目覚めでしょうか」

 扉の向こう側から聞こえてきたのは、穏やかな女性の声だった。

 オルフェイン卿ではなかった、という安堵と、では誰だろうという戸惑いが、ほぼ同時に胸の中で混ざり合う。侍女――。まさか魔塔に“侍女”がいるだなんて、思わなかった。

 私は急いで扉へと駆け寄り、真鍮製のドアノブに手をかけようとして、ふと動きを止めた。オルフェイン卿ではないとはいえ、それでも夜着のまま人前に出るのは如何なものだろう。しかしこの部屋に、外に身に纏えるものはなにひとつない。

 どうしたものかと、扉の前に立ち尽くしたまま逡巡する。待って下さい、と、普通の人なら“声”でそう返せるだろう。けれど私には、それが出来ない。

 どれだけ考えても、しかし結局辿り着く答えはひとつしかなかった。私は胸の裡で溜息を吐き、ドアノブをそっと握り静かに回して、廊下が覗けるくらいの隙間だけ、細く開ける。夜着が完全に見えてしまわないように、扉の陰に身を半分隠しながら。

 最初に見えたのは、美しいエメラルドグリーンだった。長く濃い睫毛に囲まれた、丸みを帯びた目の真ん中で輝く、やさしい緑色。

「お初にお目にかかります、シルヴィ様。身の回りのお世話を仰せつかりました、クロエ・フルニエでございます」

 そう言って深々と頭を下げた彼女の、ひとつに結い上げられたセピア色の髪の毛が揺れる。

 細身の身体を包んでいるのは、白い襟とカフスが特徴的な黒いロングワンピースだ。魔塔の住人を想像して身構えていたけれど、その姿はどこからどう見ても、宮廷に仕える上級侍女のそれだった。

「それでは早速、お支度を進めさせていただきますね」

 理由が分からず戸惑う私をよそに、クロエと名乗った彼女は、満面の笑みのまま半開きの扉を――半ば強引に――押し開け、棒立ちの私の手を引いてドレッサーへと一直線に歩み寄った。

 そこからの彼女の仕事は、実に立派なものだった。少しの無駄もない、てきぱきとした手際の良さ。

 下ろし立てだというシャツとスカートを着せられ、襟の合わせ目には紫紺のリボンのついた金色のブローチ。寝癖のついたままの髪の毛には花の香油がたっぷりと塗り込まれ、猪毛のブラシで丁寧に丁寧に何度も梳いた後に、飾りの編み込みを施して整える。

 私はただ彼女になされるがままになる他なかった。鏡に映る自分の姿が、少しずつ変わってゆくのを、呆然と眺めながら。

 やがて一段落ついたところで、私は漸くゲリドンの上に置いていた手帳とペンを手に取った。万年筆のキャップを外し、薄桃色の頁にペンを走らせる私を見つめる彼女の視線には、それを不思議がる色はまるでない。

『これから、何処かへ行くのでしょうか?』

 翻した手帳にすぐさま視線を走らせ、クロエさんはふっと花が綻ぶようにやさしく微笑んだ。

「ええ。これから――」

 彼女がなにか言いかけたところで、どんどん、と扉を叩く音が鳴った。指の関節ではなく、拳で叩いたようなその音に、クロエさんの眉がほんの一瞬、ぴくりと動いたように見えたのは、果たして気の所為だろうか。

「おい、まだ終わんねえのか」

 聞こえてきたのは、オルフェイン卿の不機嫌そうな声だった。

「申し訳ございません、シルヴィ様。……ああいうどうしようもないお方なのです」

 釈明なのか諦めなのか判断のつかない一言とともに一礼し、クロエさんは足早に扉へと向かった。その凛と伸びた後ろ姿を、私は唖然としながら見つめる。言葉遣いこそ丁寧だったけれど、所々に棘が含まれているところからして、もしかしたら旧知の――それなりに親しい――間柄なのかもしれない、と思う。

 クロエさんの華奢な手が真鍮のドアノブを握り、扉を勢いよく開け放つ。その動作に、遠慮も躊躇いも、欠片もなかった。

「なんだよ。もう終わってんじゃん」

 案の定、クロエさんの頭上からひょっこりと顔を出したのは、オルフェイン卿だった。怒っているのか、それとも呆れているのか。眉間に、薄っすらと皺が寄っているのが遠目にも分かる。

 何故朝からそんな顔をされなければならないのだろう、と思うけれど。そんなこと、幾ら考えても分かるはずもない。

「終わってんなら、さっさと行くぞ」

 いったい何処へ、と問いたくとも、彼の眉間の皺が更に深まるのを見て、手帳を開く間すら与えてはくれないのだろうと悟った。

 気遣わしげに振り返ったクロエさんに、私は苦笑を返して、足を踏み出す。

 牢獄でこそないものの、"危険人物"として閉じ込められたのだから、ほぼ軟禁状態になるのだろうと思っていたのだけれど――。クロエさんの傍を通り過ぎざまに軽く頭を下げながら思う。まさかこの部屋から出ることを許されるだなんて、想像だにしていなかった。無論、オルフェイン卿という見張り付きだけれども。


***


「――なるほどねぇ」

 私は今、大きく口を開けている。医務室のような一室の窓辺に据えられた古い丸椅子に腰掛け、唇の両端が切れてしまいそうなほど大きく。まるで子供が大口でお菓子を頬張ろうとしているようなその様は、到底、淑女とは呼べない有様だった。そんな矜持など、諦めてしまわなければやっていられない。

 そんな私の、大きく――恥ずかしくてたまらなくなるほど大きく――開いた口の中を、ひとりの男性が、じいっと覗き込んでいる。

 さらりとやわらかそうな亜麻色の髪の毛と、切れ長の目。左側に嵌められたモノクルの向こう側には、一点を捉えたまま離れない灰色の瞳。

 オルフェイン卿と同じローブを着ているので、彼もまた魔術師であるのは間違いないのだろうけれど――。いったい何をされているのか、さっぱり分からない。

 初めは身体をくるりと一周――穴が開くのではと思うほどまじまじと――見て回り、それから喉の皮膚を隅から隅まで――後ろ髪に隠れた項まで――検め、そうして最後にこうして、口の中を覗かれている。恐らくは、咽頭までしっかりと。

「てっきり咽頭あたりに魔法陣があると思ってたんだけど、見当たらないね」

 そう言って、彼――ジルベール・カステルと名乗った男性――は、漸く口を閉ざすことを許してくれた。普段滅多に使わない部位を使ったせいか、口の周りが鈍い痛みを訴えている。

「口内にねえってことは、じゃあ何処にあるってんだよ」
「もしかしたらその奥……まあつまり、“見えない所”にあるのかもしれない」

 ほんの一瞬考えるふりをしてから、カステル卿はにこりと目を細めた。

「解剖、したいなあ」

 まるで悪意のない、寧ろやさしいと思えるような声音で紡がれた、全く以て似つかわしくない物騒な言葉に、私はぎょっと身体を強張らせる。聞き間違いだった――と、思いたい。

「やめとめ。牢屋にぶち込まれるぞ」
「分かっているよ。殿下の逆鱗には触れたくないからね」

 気味悪そうに顔を顰めるオルフェイン卿の横で、カステル卿はまるで何でもないことのようにくすくすと楽しそに笑った。一見純粋そうに見えるその笑顔も、先程の一言がまだ鼓膜の裏側に残っているせいか、どうしても、笑顔の奥に何かが潜んでいるように見えてしまう。

「しかしまあ……魔法陣が見当たらないのも不思議だけれど」

 そこで言葉を区切り、カステル卿は横目でちらりとオルフェイン卿の横顔を見上げた。その一瞥だけで、どうやら彼には意が伝わったらしい。――というより、もしかしたら初めから二人とも、同じ認識を持っていたのかもしれない、と思う。なんとなくだけれど、二人の間に、そんな空気が感じられたから。

「まったく、どうなってんだよ、お前は」

 オルフェイン卿が、近くに置かれていた革張りのソファにどさりと腰を下ろし、苛立たしげに前髪をかきあげた。私は言われた意味が分からず、小首を傾げる。どうなってんだ、と言われても。それは私の方が聞きたいくらいだ。

「魔法陣がねえどころか――」

 鉛のように重たそうな溜息を深々と吐き出し、彼はソファの肘掛けに頬杖をついて、大きく舌打った。厄介事は御免だ、とでも言いたそうな顔をして。

「“化け物”のくせに魔力が全くねえなんて、あり得ねえだろ」


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 叫んでしまった、と気付いた時には、もう何もかもが遅かった。
 リゼットが抱えていたうさぎのぬいぐるみが、何の前触れもなく粉々に弾け飛んだ。やわらかな綿が舞い散り、人形が着ていた桃色のワンピースが、無惨に裂けて石畳に落ちる。所々に、真っ赤な血を染み込ませて。
 リゼットの悲鳴を聞いて、父と継母が血相を変えて駆け寄ってくる。私はその光景を、ただ茫然と見ていた。見ていることしか出来なかった。
 人形の破片を慌てて拾い集める侍女、真っ白く滑らかな指に滴る鮮血を拭い取る継母、叫ぶように泣き喚くリゼット。そして――。
 気づいた時には黒い影が視界を塞いでいた。父の体躯だと悟るより先に、頬に鋭い衝撃が走った。頬が、火でも浴びたように熱い。
 地に伏したまま、ゆっくりと目だけを上げる。そんな私を、誰も見ようとはしなかった。
 けども、ゼットだけが。彼女だけが、涙で濡れそぼった目のまま、密かに口角を――。
***
 首を絞められでもしているかのような息苦しさに襲われ、弾かれたように目を開ける。
 乱れた呼吸、今にも胸を突き破ってきそうな鼓動。額には薄っすらと汗が滲んでいた。半開きの唇が、わなわなと震えている。視界の何処にも、もうあの光景はないというのに。
 装飾ひとつない、真っ白な天井。疾うに夜は明けているのか、カーテンの細い隙間から差し込む朝陽が、天井に細い線を引いている。
 強張る身体から少しずつ緊張が――或いは恐怖が――抜けてゆくのを待ってから、私はのっそりと起き上がり、薄闇にこぼれる一筋の光に導かれるように窓辺へと歩み寄った。
 落ち着いた色の深緑色のカーテン。裾にだけ同色の糸でアカンサスの刺繍が施されたそれを、片側だけ恐る恐る開く。
 途端に飛び込んできたのは、思わず目を細めてしまうほど眩しい朝陽だった。白い木枠に嵌め込まれた窓の外は、突き抜けるほどに澄んだ青空と、緑豊かな庭園。端には小ぶりなパーゴラが配され、ぎっしりと巻き付いた蔓薔薇が小さな白い花を咲かせている。
 振り返ると、先ほどまで薄暗かった室内に、光が満ちていた。簡素だが清潔に整えられたベッド、花の絵柄が描きつけられた小ぶりなゲリドン、艶やかな飴色のシリンダーデスク、曇りひとつない鏡のついたドレッサー。
 その光景はどう見ても、普通の客室だった。ラヴァンド邸で私に与えられていた部屋より、よほど立派な部屋。それがまさか”魔塔"の中にある一室だなんて、果たして誰が思えるだろう。
(不気味な場所なのだろうと、思っていたのだけれど……)
 室内をくるりと見回し、私は息をゆっくりと吐き出す。背中に降り注ぐ朝陽が、あたたかくて気持ちが良い。身体のそこここに未だこびりつく悪夢の残渣を、やさしく洗い流してくれるような気がする。
 もう少しだけ、何も考えずに、このままいられたら――。
 そう思いながら窓に背を預けかけた瞬間、こんこん、と扉を叩く音が鳴った。思わず両肩がびくりと跳ね上がる。部屋に人が訪ねてくることなんて、実家にいた頃には一度もなかったから。
 でもここは、ラヴァンド邸ではなく、魔塔。物置部屋をどうにか掃除して整えた自室ではなく、客人用にと誂えられた部屋。
 まさか、オルフェイン卿だろうか――。昨夜馬車の中で見た端正な横顔を思い出し、私は慌てて自分の身体に視線を落とす。さすがに夜着のまま扉を開けるのは、曲がりなりにも伯爵家の娘としてはしたない。
 とはいえ、声を出すことの出来ない私に、返答をする術はなかった。手帳に文字を記したところで、それを見せるには扉を開ける必要がある。しかし、部屋中を見回しても、昨夜着ていたドレスどころか、お仕着せひとつ見当たらない。
 どうしたものかと、まごつきながら考え倦ねていると、もう一度、こんこん、と扉が叩かれた。しっかりと室内に響き渡る、けれど決して乱暴ではない音。
「シルヴィ様、お目覚めでしょうか」
 扉の向こう側から聞こえてきたのは、穏やかな女性の声だった。
 オルフェイン卿ではなかった、という安堵と、では誰だろうという戸惑いが、ほぼ同時に胸の中で混ざり合う。侍女――。まさか魔塔に“侍女”がいるだなんて、思わなかった。
 私は急いで扉へと駆け寄り、真鍮製のドアノブに手をかけようとして、ふと動きを止めた。オルフェイン卿ではないとはいえ、それでも夜着のまま人前に出るのは如何なものだろう。しかしこの部屋に、外に身に纏えるものはなにひとつない。
 どうしたものかと、扉の前に立ち尽くしたまま逡巡する。待って下さい、と、普通の人なら“声”でそう返せるだろう。けれど私には、それが出来ない。
 どれだけ考えても、しかし結局辿り着く答えはひとつしかなかった。私は胸の裡で溜息を吐き、ドアノブをそっと握り静かに回して、廊下が覗けるくらいの隙間だけ、細く開ける。夜着が完全に見えてしまわないように、扉の陰に身を半分隠しながら。
 最初に見えたのは、美しいエメラルドグリーンだった。長く濃い睫毛に囲まれた、丸みを帯びた目の真ん中で輝く、やさしい緑色。
「お初にお目にかかります、シルヴィ様。身の回りのお世話を仰せつかりました、クロエ・フルニエでございます」
 そう言って深々と頭を下げた彼女の、ひとつに結い上げられたセピア色の髪の毛が揺れる。
 細身の身体を包んでいるのは、白い襟とカフスが特徴的な黒いロングワンピースだ。魔塔の住人を想像して身構えていたけれど、その姿はどこからどう見ても、宮廷に仕える上級侍女のそれだった。
「それでは早速、お支度を進めさせていただきますね」
 理由が分からず戸惑う私をよそに、クロエと名乗った彼女は、満面の笑みのまま半開きの扉を――半ば強引に――押し開け、棒立ちの私の手を引いてドレッサーへと一直線に歩み寄った。
 そこからの彼女の仕事は、実に立派なものだった。少しの無駄もない、てきぱきとした手際の良さ。
 下ろし立てだというシャツとスカートを着せられ、襟の合わせ目には紫紺のリボンのついた金色のブローチ。寝癖のついたままの髪の毛には花の香油がたっぷりと塗り込まれ、猪毛のブラシで丁寧に丁寧に何度も梳いた後に、飾りの編み込みを施して整える。
 私はただ彼女になされるがままになる他なかった。鏡に映る自分の姿が、少しずつ変わってゆくのを、呆然と眺めながら。
 やがて一段落ついたところで、私は漸くゲリドンの上に置いていた手帳とペンを手に取った。万年筆のキャップを外し、薄桃色の頁にペンを走らせる私を見つめる彼女の視線には、それを不思議がる色はまるでない。
『これから、何処かへ行くのでしょうか?』
 翻した手帳にすぐさま視線を走らせ、クロエさんはふっと花が綻ぶようにやさしく微笑んだ。
「ええ。これから――」
 彼女がなにか言いかけたところで、どんどん、と扉を叩く音が鳴った。指の関節ではなく、拳で叩いたようなその音に、クロエさんの眉がほんの一瞬、ぴくりと動いたように見えたのは、果たして気の所為だろうか。
「おい、まだ終わんねえのか」
 聞こえてきたのは、オルフェイン卿の不機嫌そうな声だった。
「申し訳ございません、シルヴィ様。……ああいうどうしようもないお方なのです」
 釈明なのか諦めなのか判断のつかない一言とともに一礼し、クロエさんは足早に扉へと向かった。その凛と伸びた後ろ姿を、私は唖然としながら見つめる。言葉遣いこそ丁寧だったけれど、所々に棘が含まれているところからして、もしかしたら旧知の――それなりに親しい――間柄なのかもしれない、と思う。
 クロエさんの華奢な手が真鍮のドアノブを握り、扉を勢いよく開け放つ。その動作に、遠慮も躊躇いも、欠片もなかった。
「なんだよ。もう終わってんじゃん」
 案の定、クロエさんの頭上からひょっこりと顔を出したのは、オルフェイン卿だった。怒っているのか、それとも呆れているのか。眉間に、薄っすらと皺が寄っているのが遠目にも分かる。
 何故朝からそんな顔をされなければならないのだろう、と思うけれど。そんなこと、幾ら考えても分かるはずもない。
「終わってんなら、さっさと行くぞ」
 いったい何処へ、と問いたくとも、彼の眉間の皺が更に深まるのを見て、手帳を開く間すら与えてはくれないのだろうと悟った。
 気遣わしげに振り返ったクロエさんに、私は苦笑を返して、足を踏み出す。
 牢獄でこそないものの、"危険人物"として閉じ込められたのだから、ほぼ軟禁状態になるのだろうと思っていたのだけれど――。クロエさんの傍を通り過ぎざまに軽く頭を下げながら思う。まさかこの部屋から出ることを許されるだなんて、想像だにしていなかった。無論、オルフェイン卿という見張り付きだけれども。
***
「――なるほどねぇ」
 私は今、大きく口を開けている。医務室のような一室の窓辺に据えられた古い丸椅子に腰掛け、唇の両端が切れてしまいそうなほど大きく。まるで子供が大口でお菓子を頬張ろうとしているようなその様は、到底、淑女とは呼べない有様だった。そんな矜持など、諦めてしまわなければやっていられない。
 そんな私の、大きく――恥ずかしくてたまらなくなるほど大きく――開いた口の中を、ひとりの男性が、じいっと覗き込んでいる。
 さらりとやわらかそうな亜麻色の髪の毛と、切れ長の目。左側に嵌められたモノクルの向こう側には、一点を捉えたまま離れない灰色の瞳。
 オルフェイン卿と同じローブを着ているので、彼もまた魔術師であるのは間違いないのだろうけれど――。いったい何をされているのか、さっぱり分からない。
 初めは身体をくるりと一周――穴が開くのではと思うほどまじまじと――見て回り、それから喉の皮膚を隅から隅まで――後ろ髪に隠れた項まで――検め、そうして最後にこうして、口の中を覗かれている。恐らくは、咽頭までしっかりと。
「てっきり咽頭あたりに魔法陣があると思ってたんだけど、見当たらないね」
 そう言って、彼――ジルベール・カステルと名乗った男性――は、漸く口を閉ざすことを許してくれた。普段滅多に使わない部位を使ったせいか、口の周りが鈍い痛みを訴えている。
「口内にねえってことは、じゃあ何処にあるってんだよ」
「もしかしたらその奥……まあつまり、“見えない所”にあるのかもしれない」
 ほんの一瞬考えるふりをしてから、カステル卿はにこりと目を細めた。
「解剖、したいなあ」
 まるで悪意のない、寧ろやさしいと思えるような声音で紡がれた、全く以て似つかわしくない物騒な言葉に、私はぎょっと身体を強張らせる。聞き間違いだった――と、思いたい。
「やめとめ。牢屋にぶち込まれるぞ」
「分かっているよ。殿下の逆鱗には触れたくないからね」
 気味悪そうに顔を顰めるオルフェイン卿の横で、カステル卿はまるで何でもないことのようにくすくすと楽しそに笑った。一見純粋そうに見えるその笑顔も、先程の一言がまだ鼓膜の裏側に残っているせいか、どうしても、笑顔の奥に何かが潜んでいるように見えてしまう。
「しかしまあ……魔法陣が見当たらないのも不思議だけれど」
 そこで言葉を区切り、カステル卿は横目でちらりとオルフェイン卿の横顔を見上げた。その一瞥だけで、どうやら彼には意が伝わったらしい。――というより、もしかしたら初めから二人とも、同じ認識を持っていたのかもしれない、と思う。なんとなくだけれど、二人の間に、そんな空気が感じられたから。
「まったく、どうなってんだよ、お前は」
 オルフェイン卿が、近くに置かれていた革張りのソファにどさりと腰を下ろし、苛立たしげに前髪をかきあげた。私は言われた意味が分からず、小首を傾げる。どうなってんだ、と言われても。それは私の方が聞きたいくらいだ。
「魔法陣がねえどころか――」
 鉛のように重たそうな溜息を深々と吐き出し、彼はソファの肘掛けに頬杖をついて、大きく舌打った。厄介事は御免だ、とでも言いたそうな顔をして。
「“化け物”のくせに魔力が全くねえなんて、あり得ねえだろ」