04

ー/ー



 魔力を持つ人間と持たない人間がいる、というのは、この国では当たり前の話だ。そして、魔術を扱えるのは、魔力を持った者だけだということも。誰もが常識として、子どもさえも知っている。

 魔力の有無は、ほぼ家系で決まると言われている。つまりは、遺伝。
 極稀に、魔力を持たない家系から魔力持ちの子どもが産まれることもあるけれど、それは滅多にあることではない。

 かくいうラヴァンド家も、魔力を持たない家系だった。遥か遠い家系図を遡ってみても、魔力を宿した人間は一人もいなかったという。それは、実母や継母の家系もまた同じであったと聞いている。

 御多分に漏れず私も、当然の如く魔力持ちではなかった。どう辿っても、そういう血筋ではないのだから。故に、オルフェイン卿の"魔力が全くない"という発言は正しい。

 だからこそ――。私は右手に握り締めた万年筆へ視線を落としながら思う。だからこそ、不可解なのだ。不可解で、そして、“化け物”と呼ばれる所以。

「いつから能力が顕れ始めたんだい?」

 モノクルを外し、柔らかな布でレンズを丁寧に拭きながら、カステル卿が問う。そんな彼の、僅かに伏せられた目元を見つめながら、カステル家といえば名門の魔術師一族であり、侯爵の地位も併せ持つ、由緒正しい家柄であることを思い出す。現当主は愛妻家であり、非常に家族仲が良いことでも知られている、とも。

 家族仲――。その言葉を虚しく頭の中で繰り返しながら、キャップを外した万年筆を薄桃色の頁に走らせる。

 何度も見ても、本当にやさしい色をした紙だとつくづく思う。無機質な真っ白でないからこそ、緊張を解きほぐしてくれるような色。それが今は、とても有り難い。

『六つの頃だったと思います』

 その日のことは、今でも鮮明に憶えている。匂いも、感触も、五感の全てが、まるで昨日起きた出来事のように。

 ちょうど六歳の誕生日を迎えたその日、私は物置小屋のような自室の窓辺で、母の形見であるペンダントを眺めていた。ほっそりとした銀製のチェーン、アカンサスの精緻な彫り込みが施された楕円形の台座。その中央には、窓から差し込むあたたかな陽光を浴びて神々しく輝く、澄んだピンク色のモルガナイト。

 それは私の、何にも代え難い宝物だった。物心ついた頃には既に亡くなっていた母が、唯一私に残してくれた形見。

 だから誕生日には、必ずこれをゆっくり眺めることにしていた。母はどんな人だったのだろう、と思いを馳せながら。私を産んでくれた母への感謝と、溢れんばかりの愛情を込めて。ただただ美しく煌めくモルガナイトを、じいっと。

 そのせいで——背後から近付いてくる存在に、私は気付けなかった。こっそりと扉が開かれた音も、床板を軋ませることなくそうっと近付いてくる足音にも。

 ――あら、すてきなものをおもちなのね、おねえさま。

 はっと気付いた時には既に、リゼットが隣に立っていた。私にぴたりと身体を寄せ、手元のペンダントを覗き込むようにして。まるで天使のように愛らしい顔には、満面の笑みが浮かんでいた。蜂蜜のように甘く、けれどその裏に、鋭く研いだ爪を隠しているような笑み。

 ――ねえ、それわたくしにくださらない?

 子どものものとはとても思えない、妖しく弧を描いた唇に、一瞬にして身体が凍りついた。リゼットの我儘は、今に始まったことではない。彼女が何かを欲しいとねだれば、父も継母もそれを必ず叶えてやる。それがたとえ私の持っていた絵本や服であったとしても。

 けれど、リゼットには私の持ち物になんて、まるで興味はないのだ。今まで奪われた絵本も服も人形も、父や継母、執事長や侍女たちの目の届かぬところで捨てていたことを、私は知っている。

 彼女はただ、私から“何か”を奪えれば、それで良いのだ。それで満足して、お終い。いつもそうだった。どんな時もそうだった。

 だから、このペンダントを本気で欲しがっているわけではないことは、容易に察しがついた。真剣に見つめていたせいで、それが私にとって“特別な物”だということを、彼女に気付かれてしまったのだろう。

 ――ペンダントなら、このまえおとうさまがプレゼントしてくださったじゃない。

 焦りや不安をどうにか押し殺しながら、努めて穏やかにそう返す。けれど、私の言葉を聞き終えるより先に、リゼットの色白の手がすっと視界を横切った。

 刹那、ペンダントに絡みついた華奢な手に、強い力で引っ張られた。無理矢理引き剥がそうとするような、乱暴な力。その荒々しい手つきだけで、彼女が決してこのペンダントを欲しがっているわけではないことは明白だった。

 ――わたくし、これがほしいの。とってもとってもほしくてたまらないの。

 彼女の辞書に、"諦める"という言葉はない。一度何かを望めば、それが手に入るまで決して引かない――そういう人間なのだ。それを今まで嫌というほど身をもって思い知ってきたからこそ、胸の奥が、じりじりと焦げるように熱くなる。

 助けを呼んだところで、味方になってくれる人など誰ひとりとしていない。みんなリゼットの側につくのは分かりきっている。

 だから、自分ひとりでどうにかしなければならない。このペンダントだけは――母の唯一の形見であるこのペンダントだけは、絶対に守り抜かなければ。

 けれども、リゼットは一向に諦める気はなさそうで、私が引き戻した分、更に粗暴な力で引っ張り返そうとする。このまま引き合いが続けば、繊細でほっそりとした銀製のチェーンは千切れてしまうだろう。どうにかしなければ、と考えている今にも、ぷつりと。

 ――おね、がい……やめっ……。

 ペンダントを見れば見るほど、身体中が熱くなる。頭の中は、ぐちゃぐちゃだった。リゼットを諌める余裕も、胸を埋め尽くす感情が何なのかを判別する余裕も、何もかもないほどに。

 それでも必死に抵抗する私を見て、リゼットはくすりと嗤った。心底愉しそうに。

 その笑みが瞳に強く映り込んだ瞬間、身体中を埋め尽くしていた熱が、一気に爆ぜた。今までに経験したことがないほど激しく、心臓が、どくんと大きく跳ね上がる。

 ――やめてっ!

 まるで自分のものとは思えない、燃えるような鋭い声が迸った瞬間――眼前に、真っ赤な何かが飛び散った。分厚い膜の向こう側で、リゼットの悲鳴がぼんやりと、輪郭をもたない音として聞こえてくる。

 その"赤い何か"が鮮血であることと、リゼットの手や腕に刃物で裂いたような切り傷が刻まれていると気付くのには、暫く時間がかかった。リゼットの悲鳴を聞き、血相を変えて部屋に駆け込んできた義母が眼の前に仁王立ちしても尚、その時の私はまだ状況が呑み込めずに、ただ茫然としていた。

 ――あの女の娘というだけで忌々しいというのにっ……!

 義母の、恨みのこもった叫びと共に頬を打たれ、勢いよく床に倒れ込む。その衝撃で握り締めていたペンダントが手から飛び出し、義母の足元へと転がった。大事な大事な、何にも代え難い、唯一の形見が。

 それを、義母は鼻息荒く踏みつけた。父からプレゼントされたと自慢していた、赤い靴で。まるで母の幻影を躙るかのように。

 結局、ペンダントはリゼットの手には渡らなかったけれども、私のもとへ戻ってくることもなかった。あのペンダントが母のものであると知っていた義母が、自らの手で、粉々になるまで打ち壊してしまったから。

 後になって気付いたのだけれど、傷を負ったのはリゼットだけではなかった。白壁やクローゼットの扉にも無数の痕がついていたし、元々年季物だったとはいえ、木製の簡素な椅子は足がもげ、背凭れや座板は跡形もないほどばらばらに散ってもいた。

 それが、私が初めて"化け物"の力を使った日の話だ。とはいえ、真実のままに語るのは、さすがに憚れた。家族のことを気遣ってではなく、ただ単に、恥ずべきことだと思ったから。

『姉妹喧嘩をしている最中に、私が怒ってしまって』

 だから頁には、そう簡潔に綴った。詳細を語っていないだけで、決して嘘ではない。

「へえ。姉妹喧嘩の末にねえ」

 そう言いながらカステル卿はモノクルを左目に嵌め、ゆっくりと背凭れに寄りかかった。

「ということは、"感情"が関係しているのかな」

 開け放した窓からあたたかな風がふわりと流れ込み、レースのカーテンを揺らす。少しささくれだった窓枠には、いつの間にか二羽の小鳥がとまっていた。茶と白の混じった羽色をした、つぶらな黒い瞳が愛らしい小鳥。

 そんな二羽を静かに眺めながら、カステル卿は書類で散らばったデスクの、ほんの少しだけ顔を覗かせた飴色の天板に頬杖をついた。短く切り揃えられた爪先が、とん、とん、と一定の間隔で白い頬を軽く叩く。

 何かを考え込んでいるふうな彼の様子に、私は口を閉ざしてただ待つことしか出来なかった。恐らくは、オルフェイン卿も。

 庭に植えられた木々の若葉が、さわさわと心地良い音を奏でる。小鳥は互いに顔を寄せ合ったり、或いはきょろきょろと周りを見回したりと好き勝手に楽しんだ後、小さな――それでもしっかりとした骨格の――翼を広げて飛び立っていった。まるで若葉の音に誘われたみたいに。

 いつまで続くのだろう、と不安に思った沈黙は、しかし意外にもすぐに破られた。小鳥が飛び立っていったのと、ほぼ同時に。

「おばば様に訊いてみたらどうだい?」

 人好きのしそうな穏やかな微笑を湛えたまま振り返ったカステル卿に、視線を向けられた当のオルフェイン卿は、忽ち顔を顰めた。

「はあ? 何であのババアに」
「久しく会いに行っていないんだろう? 顔を見せるついでに、彼女を診てもらえば良いだけさ」

 そう言ってくすくすと笑うカステル卿を、オルフェイン卿は苦虫を噛み潰したような顔で睨めつける。

「ババアに会うのなんざ御免だ。こいつを診せたけりゃ、お前が連れてけよ」
「僕は“正しい路”を知らないから無理なんだよね」
「……ってかお前、何か心当たりがあって言ってんだろ」

 すっと尖った鋭い眼光に、しかしカステル卿は気にしたふうもなく、デスクの片隅に置かれた小さな細工人形に指をかけ、飄々と弄ぶ。

「さあ、どうだろう。何とも言えない。だから、おばば様に頼るべきだと、僕は判断しただけさ」

 指先からするりと滑り落ちた細工人形が、ころんと微かな音を立ててデスクの上に転がる。しかしカステル卿はそれを拾い上げることはせず、代わりにオルフェイン卿へと視線を移した。今までの穏やかさをまるで感じさせない、いっそ冷淡とも思える瞳で。

「事の次第によっては……色々大変なことになりそうだからね」


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 魔力を持つ人間と持たない人間がいる、というのは、この国では当たり前の話だ。そして、魔術を扱えるのは、魔力を持った者だけだということも。誰もが常識として、子どもさえも知っている。
 魔力の有無は、ほぼ家系で決まると言われている。つまりは、遺伝。
 極稀に、魔力を持たない家系から魔力持ちの子どもが産まれることもあるけれど、それは滅多にあることではない。
 かくいうラヴァンド家も、魔力を持たない家系だった。遥か遠い家系図を遡ってみても、魔力を宿した人間は一人もいなかったという。それは、実母や継母の家系もまた同じであったと聞いている。
 御多分に漏れず私も、当然の如く魔力持ちではなかった。どう辿っても、そういう血筋ではないのだから。故に、オルフェイン卿の"魔力が全くない"という発言は正しい。
 だからこそ――。私は右手に握り締めた万年筆へ視線を落としながら思う。だからこそ、不可解なのだ。不可解で、そして、“化け物”と呼ばれる所以。
「いつから能力が顕れ始めたんだい?」
 モノクルを外し、柔らかな布でレンズを丁寧に拭きながら、カステル卿が問う。そんな彼の、僅かに伏せられた目元を見つめながら、カステル家といえば名門の魔術師一族であり、侯爵の地位も併せ持つ、由緒正しい家柄であることを思い出す。現当主は愛妻家であり、非常に家族仲が良いことでも知られている、とも。
 家族仲――。その言葉を虚しく頭の中で繰り返しながら、キャップを外した万年筆を薄桃色の頁に走らせる。
 何度も見ても、本当にやさしい色をした紙だとつくづく思う。無機質な真っ白でないからこそ、緊張を解きほぐしてくれるような色。それが今は、とても有り難い。
『六つの頃だったと思います』
 その日のことは、今でも鮮明に憶えている。匂いも、感触も、五感の全てが、まるで昨日起きた出来事のように。
 ちょうど六歳の誕生日を迎えたその日、私は物置小屋のような自室の窓辺で、母の形見であるペンダントを眺めていた。ほっそりとした銀製のチェーン、アカンサスの精緻な彫り込みが施された楕円形の台座。その中央には、窓から差し込むあたたかな陽光を浴びて神々しく輝く、澄んだピンク色のモルガナイト。
 それは私の、何にも代え難い宝物だった。物心ついた頃には既に亡くなっていた母が、唯一私に残してくれた形見。
 だから誕生日には、必ずこれをゆっくり眺めることにしていた。母はどんな人だったのだろう、と思いを馳せながら。私を産んでくれた母への感謝と、溢れんばかりの愛情を込めて。ただただ美しく煌めくモルガナイトを、じいっと。
 そのせいで——背後から近付いてくる存在に、私は気付けなかった。こっそりと扉が開かれた音も、床板を軋ませることなくそうっと近付いてくる足音にも。
 ――あら、すてきなものをおもちなのね、おねえさま。
 はっと気付いた時には既に、リゼットが隣に立っていた。私にぴたりと身体を寄せ、手元のペンダントを覗き込むようにして。まるで天使のように愛らしい顔には、満面の笑みが浮かんでいた。蜂蜜のように甘く、けれどその裏に、鋭く研いだ爪を隠しているような笑み。
 ――ねえ、それわたくしにくださらない?
 子どものものとはとても思えない、妖しく弧を描いた唇に、一瞬にして身体が凍りついた。リゼットの我儘は、今に始まったことではない。彼女が何かを欲しいとねだれば、父も継母もそれを必ず叶えてやる。それがたとえ私の持っていた絵本や服であったとしても。
 けれど、リゼットには私の持ち物になんて、まるで興味はないのだ。今まで奪われた絵本も服も人形も、父や継母、執事長や侍女たちの目の届かぬところで捨てていたことを、私は知っている。
 彼女はただ、私から“何か”を奪えれば、それで良いのだ。それで満足して、お終い。いつもそうだった。どんな時もそうだった。
 だから、このペンダントを本気で欲しがっているわけではないことは、容易に察しがついた。真剣に見つめていたせいで、それが私にとって“特別な物”だということを、彼女に気付かれてしまったのだろう。
 ――ペンダントなら、このまえおとうさまがプレゼントしてくださったじゃない。
 焦りや不安をどうにか押し殺しながら、努めて穏やかにそう返す。けれど、私の言葉を聞き終えるより先に、リゼットの色白の手がすっと視界を横切った。
 刹那、ペンダントに絡みついた華奢な手に、強い力で引っ張られた。無理矢理引き剥がそうとするような、乱暴な力。その荒々しい手つきだけで、彼女が決してこのペンダントを欲しがっているわけではないことは明白だった。
 ――わたくし、これがほしいの。とってもとってもほしくてたまらないの。
 彼女の辞書に、"諦める"という言葉はない。一度何かを望めば、それが手に入るまで決して引かない――そういう人間なのだ。それを今まで嫌というほど身をもって思い知ってきたからこそ、胸の奥が、じりじりと焦げるように熱くなる。
 助けを呼んだところで、味方になってくれる人など誰ひとりとしていない。みんなリゼットの側につくのは分かりきっている。
 だから、自分ひとりでどうにかしなければならない。このペンダントだけは――母の唯一の形見であるこのペンダントだけは、絶対に守り抜かなければ。
 けれども、リゼットは一向に諦める気はなさそうで、私が引き戻した分、更に粗暴な力で引っ張り返そうとする。このまま引き合いが続けば、繊細でほっそりとした銀製のチェーンは千切れてしまうだろう。どうにかしなければ、と考えている今にも、ぷつりと。
 ――おね、がい……やめっ……。
 ペンダントを見れば見るほど、身体中が熱くなる。頭の中は、ぐちゃぐちゃだった。リゼットを諌める余裕も、胸を埋め尽くす感情が何なのかを判別する余裕も、何もかもないほどに。
 それでも必死に抵抗する私を見て、リゼットはくすりと嗤った。心底愉しそうに。
 その笑みが瞳に強く映り込んだ瞬間、身体中を埋め尽くしていた熱が、一気に爆ぜた。今までに経験したことがないほど激しく、心臓が、どくんと大きく跳ね上がる。
 ――やめてっ!
 まるで自分のものとは思えない、燃えるような鋭い声が迸った瞬間――眼前に、真っ赤な何かが飛び散った。分厚い膜の向こう側で、リゼットの悲鳴がぼんやりと、輪郭をもたない音として聞こえてくる。
 その"赤い何か"が鮮血であることと、リゼットの手や腕に刃物で裂いたような切り傷が刻まれていると気付くのには、暫く時間がかかった。リゼットの悲鳴を聞き、血相を変えて部屋に駆け込んできた義母が眼の前に仁王立ちしても尚、その時の私はまだ状況が呑み込めずに、ただ茫然としていた。
 ――あの女の娘というだけで忌々しいというのにっ……!
 義母の、恨みのこもった叫びと共に頬を打たれ、勢いよく床に倒れ込む。その衝撃で握り締めていたペンダントが手から飛び出し、義母の足元へと転がった。大事な大事な、何にも代え難い、唯一の形見が。
 それを、義母は鼻息荒く踏みつけた。父からプレゼントされたと自慢していた、赤い靴で。まるで母の幻影を躙るかのように。
 結局、ペンダントはリゼットの手には渡らなかったけれども、私のもとへ戻ってくることもなかった。あのペンダントが母のものであると知っていた義母が、自らの手で、粉々になるまで打ち壊してしまったから。
 後になって気付いたのだけれど、傷を負ったのはリゼットだけではなかった。白壁やクローゼットの扉にも無数の痕がついていたし、元々年季物だったとはいえ、木製の簡素な椅子は足がもげ、背凭れや座板は跡形もないほどばらばらに散ってもいた。
 それが、私が初めて"化け物"の力を使った日の話だ。とはいえ、真実のままに語るのは、さすがに憚れた。家族のことを気遣ってではなく、ただ単に、恥ずべきことだと思ったから。
『姉妹喧嘩をしている最中に、私が怒ってしまって』
 だから頁には、そう簡潔に綴った。詳細を語っていないだけで、決して嘘ではない。
「へえ。姉妹喧嘩の末にねえ」
 そう言いながらカステル卿はモノクルを左目に嵌め、ゆっくりと背凭れに寄りかかった。
「ということは、"感情"が関係しているのかな」
 開け放した窓からあたたかな風がふわりと流れ込み、レースのカーテンを揺らす。少しささくれだった窓枠には、いつの間にか二羽の小鳥がとまっていた。茶と白の混じった羽色をした、つぶらな黒い瞳が愛らしい小鳥。
 そんな二羽を静かに眺めながら、カステル卿は書類で散らばったデスクの、ほんの少しだけ顔を覗かせた飴色の天板に頬杖をついた。短く切り揃えられた爪先が、とん、とん、と一定の間隔で白い頬を軽く叩く。
 何かを考え込んでいるふうな彼の様子に、私は口を閉ざしてただ待つことしか出来なかった。恐らくは、オルフェイン卿も。
 庭に植えられた木々の若葉が、さわさわと心地良い音を奏でる。小鳥は互いに顔を寄せ合ったり、或いはきょろきょろと周りを見回したりと好き勝手に楽しんだ後、小さな――それでもしっかりとした骨格の――翼を広げて飛び立っていった。まるで若葉の音に誘われたみたいに。
 いつまで続くのだろう、と不安に思った沈黙は、しかし意外にもすぐに破られた。小鳥が飛び立っていったのと、ほぼ同時に。
「おばば様に訊いてみたらどうだい?」
 人好きのしそうな穏やかな微笑を湛えたまま振り返ったカステル卿に、視線を向けられた当のオルフェイン卿は、忽ち顔を顰めた。
「はあ? 何であのババアに」
「久しく会いに行っていないんだろう? 顔を見せるついでに、彼女を診てもらえば良いだけさ」
 そう言ってくすくすと笑うカステル卿を、オルフェイン卿は苦虫を噛み潰したような顔で睨めつける。
「ババアに会うのなんざ御免だ。こいつを診せたけりゃ、お前が連れてけよ」
「僕は“正しい路”を知らないから無理なんだよね」
「……ってかお前、何か心当たりがあって言ってんだろ」
 すっと尖った鋭い眼光に、しかしカステル卿は気にしたふうもなく、デスクの片隅に置かれた小さな細工人形に指をかけ、飄々と弄ぶ。
「さあ、どうだろう。何とも言えない。だから、おばば様に頼るべきだと、僕は判断しただけさ」
 指先からするりと滑り落ちた細工人形が、ころんと微かな音を立ててデスクの上に転がる。しかしカステル卿はそれを拾い上げることはせず、代わりにオルフェイン卿へと視線を移した。今までの穏やかさをまるで感じさせない、いっそ冷淡とも思える瞳で。
「事の次第によっては……色々大変なことになりそうだからね」