02

ー/ー



 どうしてこんなことに――。
 真紅の絨毯が敷かれた大階段を降り、豪奢に飾り立てられたエントランスホールを横切りながら、私は胸の裡で小さく溜息をつく。

 自分が“化け物”だということは分かっている。けれど、何故こうして連行されなければならないのだろう。しかも、王太子殿下直々のご命令で。私如きに、わざわざ大魔術師を派遣してまで。

 言葉が頭の中でぐるぐると廻るばかりで、幾ら考えても、理由がまるで分からない。

 ホールを歩んでくる私たちの姿を認め、荘厳な玄関扉の傍らに予め控えていたらしい魔術師の一人が、ゆっくりと扉を開く。蝋燭の落とす橙色の明かりと、空から降り注ぐ青白い月明かりとが、くっきりと分かれた境目。

 その先に広がるポルティコに一歩足を踏み出すと、やわらかな夜風がやさしく頬を撫でた。まるで慰めてくれてでもいるみたいに。

 ポルティコに繋がる末広がりの石階段を降りたところに、二頭立ての馬車が一輌、静かに佇んでいた。闇夜に隠れてしまいそうな黒塗りの、装飾どころか王家や魔塔の紋章すら施されていない、ただ頑丈そうなことだけが取り柄のような車体。

 月の青白い光に照らされたそれは、まるで罪人を閉じ込める檻のようだ、と思う。私のような“化け物”を閉じ込め、連れてゆくには正しくふさわしいものだ、とも。

 御者台の男は私たちが出てきても振り返らず、手綱を握ったまま前を向いていた。二頭の黒馬はどれも大人しく、鳴き声を漏らすどころか、僅かも身じろぐことすらしない。

 そんな彼等を横目に、相も変わらず両脇を魔術師たちに挟まれたまま、私はゆっくりとステップに足をかける。乗れ、と言われたわけではない。けれど、拒むことなど出来るはずがなかった。殿下の命令に逆らうことなど、決して。

 椅子に腰掛けると、後から乗り込んできたオルフェイン卿が、向かい側の座席にどさりと腰を下ろした。

 座り心地は良く、外装とは裏腹に、内装は上品に整えられているが、いかんせん車内はとても狭い。オルフェイン卿と私の膝の間には、広げた掌ひとつ分ほどの距離しかなく、思わず端に――壁にひっつくほど――身を寄せる。

 果たして私は、どこへ連れてゆかれるのだろう。王城だろうか、それとも魔塔だろうか、或いは――監獄だろうか。

 もしかしたら私は、明日の朝陽を拝むことなく、このままあの世へ逝かなくてはいけないのかもしれない。扉が閉まる音を聴きながら、私は膝の上でぎゅっと両手を握り締める。

 馬車が走りだしてから暫く経っても、オルフェイン卿は窓の外を眺めたまま口を開くことはなく、車内には重苦しい沈黙がどんよりと漂っている。だからといって、その沈黙を破る勇気など、無論私には微塵もない。

 車体が揺れる度に、革張りのシートが小さく軋む。窓の外では、人気のまるでない夜の街が音もなく流れていき、街灯の橙色が一定のリズムで車内を横切っては、薄闇の中に溶けるように消えてゆく。

 いつも肌身離さず持ち歩いていた愛用のペンも、分厚いノートも、全て自室の机の上に置いたままだ。あの一枚――すみれ色の紙一枚だけあれば、何の問題もなく、滞りなく全てが終わるだろうと思っていたし、あれ以上に語ることなんて何もなかったのだから。

 けれど今、私はそれらを持ってこなかったことを、ひどく後悔している。こんなことになるとは思いもしていなかったとはいえ、いざという時の備えを怠るべきではなかった。

 そうしていれば、彼に――ひどくつまらなさそうな顔をして窓の外を眺めているオルフェイン卿に、どうしてこうなってしまったのかを問うことが出来ただろうから。

 他にも訊きたいことは、山ほどある。
 殿下は何故、私が“化け物”であることを知っていたのか。この国にたった二人しかいない大魔術師の一人を、どうしてわざわざ派遣までしたのか。いったい私は、これからどこへ連れてゆかれ、どういう処遇を受けるのか。――明日の命はあるのだろうか。

 考えれば考えるほど、頭の中には次から次へと疑問が浮かんでくる。けれど、そのどれひとつとして、訊く術がない。喉の奥で言葉の形をした何かが積み上がっていくのに、それを外へ出す道が、今の私には何もなかった。

 馬車が石畳の継ぎ目を踏んだのか、車体がひときわ大きく揺れた。
 その瞬間、窓の外に人影が映る。魔塔に属する者だけが身につけることの許された、夜空を溶かし込んだような深色のローブ。フードを目深に被ったその人影は、馬車と並行するように馬を走らせながら、片手でコツン、と窓硝子を軽く叩いた。

「しつこい奴らだな」

 そう悪態を吐きながら、オルフェイン卿がほんの僅か窓を開ける。

「……で、何人だ」
「三人……いえ、四人です」

 まさかエドモンド様が、或いは、お父様や執事長のアルベールが――。

 一瞬、ほんの一瞬だけそう思いかけ、しかし私は小さな苦笑とともにその考えを打ち消す。リゼットを愛しているエドモンド様が、“化け物”に興味のないお父様が、そんな彼に忠実なアルベールが、私を追ってくるはずなんてない。

 そう分かっているくせに、ほんの僅かでも期待が胸を過ってしまうだなんて、我ながら救いようのない大馬鹿者だと思う。

「如何致しましょう」

 潜めた声の、短い遣り取り。二人の声の底に滲む不穏さだけが、ひしひしと肌に伝わってくる。

「始末だけはするな」
「……承知致しました」

 彼は僅かに頭を下げると、すぐさま馬車から離れ、夜の闇に切り取られた脇道へ、音もなく消えていった。

「随分となめられたもんだな」

 呆れを含んだ声で、独り言のように吐き捨てながら、オルフェイン卿は黒く塗られた指先で窓を下ろす。

 ――始末だけはするな。

 その言葉の意味を、私はうまく掴めないまま、ただ頭の中で繰り返す。歓迎すべき相手ではないのだろうということは、なんとか理解出来るけれども――。

 背もたれにゆったりと凭れ掛かりながら足を組むオルフェイン卿の、月明かりに照らされた端正な顔をちらりと盗み見ながら思う。

 いったい何が目的で近付いてきたのだろう。誰かの命でも狙っているのだろうか。それとも――。

「――訊きたいことがあるんだろ」

 唐突に声をかけられ、思わず両肩がびくりと震え上がる。真紅の瞳を真っ直ぐに向けられ、私はどぎまぎとしながら慌てて視線を逸らした。

 彼と目を合わせると、内側の深い部分に隠したことまで容易に見透かされてしまいそうで、なんとなく、落ち着かない。

 素直に頷くべきなのかどうなのか暫く迷って、結局私は、顔を小さく横に振った。訊きたいことは、もちろんたくさんある。けれども今ここには、私の喉の代わりとなって言葉を伝えてくれるペンも紙もない。

 そんな私の考えを、しかしオルフェイン卿はすっかり見抜いていたらしい。彼は深々と溜息を吐くと、一拍ほどの間を置いて、口を開いた。

「喋って良い」

 何を言われたのかすぐには理解することが出来ず、私は暫く、瞬きをすることも忘れた。全く知らない言葉を言われたような、聴いたような、そんな気がして。
 けれど、頭のどこかでは分かっているのか――胸の中で何かが、ぎゅっと硬く縮んだ。

「このキャビンには、防御魔法が張ってある。お前が喋ったくらいじゃ、びくともしねえよ」

 まるで何でもないことのように、彼はさらりと――どことなく面倒臭そうに――そう言ったけれど。私は狼狽えながら、膝の上で握り合わせた両手に力を込める。

 喋っていい、と言われても。喋れるかどうかと、喋って良いかどうかは、別の話だ。いくら防御魔法が施されているとはいっても。私には、自分の言葉が何をするかが分からない。
 
 仮にキャビンは大丈夫だったとしても。この狭い車内で、向かいに座っている彼を傷付けずに済む保証なんて、どこにもないのだ。

「喋って良いっつってんだろ」

 彼は片眉を上げたが、私はもう一度、首を横に振る。唇をかたく引き結んで。

 今度は少し長い沈黙があった。馬車の車輪が、石畳を踏む音がする。小石が砕けたり跳ねたりする微かな音も。それくらい、静かな――本当に静かで、重たい沈黙。

 オルフェイン卿の赤い瞳は、ただじっと、窓の外を眺めていた。通り過ぎてゆく寝静まった街を、或いは、夜空にぽっかりと浮かんだ青白い月を。その横顔は、怒っているのとも、呆れているのとも、どちらとも取れない色をしていた。何故だか分からないけれど。

 やがて彼は、小さくひとつ、息を吐いた。今度ははっきりと、呆れていると分かる種類の息を。

「頑固な奴だなあ。面倒くせえ」

 彼がやれやれと肩を竦めた瞬間、空気がほんの少し揺れる。次の瞬間、膝の上にすとん、と微かな重みが落ちてきた。

 握り合わせていた両手にぶつかって転がり落ちそうになるその“何か”を、私は慌てて受け止める。手元を見下ろすとそれは、持ち運びのしやすそうな小ぶりの手帳と、何の装飾もないシンプルな――でも、いかにも書き心地の良さそうな――ペンだった。

 黒光りのする艷やかな万年筆の胴軸も、飴色をした革張りの表紙も、紙の質さえも――何もかも、手触りだけで分かる。これらがとても上等なものだということが。

 顔を上げると、いつの間にかこちらを向いていたオルフェイン卿と、目が合った。まるでガーネットのように美しい、真紅色の瞳。

「それで文句ねえだろ」

 投げやりにそう言い放ち、彼は大袈裟に溜息をつきながら長い脚を組み替えた。

 オルフェイン卿と手元の手帳を、私は戸惑いがちに見比べ、それからおずおずと、万年筆のキャップを外した。手帳の紙は、ほんのりとピンクがかったやさしい色をしている。今にもやわらかな花の薫りが漂ってきそうな、上品な色。

『私は、どこへ連れて行かれるのですか』

 最初の一頁目にペンを滑らせ、手帳を裏返してオルフェイン卿へと向ける。彼はそこに綴られた短い一文を一瞥すると、淡々とした表情のまま車窓の外へ目を遣った。

「魔塔だ」

 魔塔――。未だ見たことのない"魔塔"を想像しかけて、私はすぐに止めた。噂に聞くその姿は、陰鬱で不気味な、御伽噺の"魔王の城"のような――そういう話ばかりだったから。

 私はいったい、これからどうなってしまうのだろう――。どうにか気を逸らそうと、紙の空いたスペースに視線を落とし、微かに震えるペン先で、ゆっくりと文字を綴る。

 馬車の中は相変わらず静かだ。ペン先が紙を擦るほんの小さな音さえ、鼓膜に触れるほど。

 書き終えてなお、私はそれをオルフェイン卿に見せるかどうか、暫し悩んだ。返ってくる言葉が、何となく想像出来てしまうから。

 それでも――。ひとつ、深くゆっくりと息を吐き出して、私は手帳をもう一度オルフェイン卿へと向けた。先程よりも少し大きな文字で綴った、漆黒色の一文を。

『どうして、私なのですか』

 オルフェイン卿は、すぐには何も言わなかった。手帳の薄桃色の頁に綴られた文字をじっと見つめたまま。車窓から差し込む青白い月明かりが、彼の濃い睫毛の陰影を、滑らかな白い肌に落としている。

 窓の外で、石ころが跳ねる微かな音がした。街灯の橙色の灯火が、車内をゆっくりと横切る。

 長い長い、沈黙だった。息が詰まるほどの。
 やがて彼は、ふと手帳から目を上げた。赤い瞳が、真っ直ぐに私を捉える。思わずドキリとした、その瞬間――彼は漸く、ゆっくりと唇を開いた。

「お前が一番分かってんだろ」

 何も言い返せなかった。言い返せるはずが、ない。
 ただ万年筆を握り締め、かたく黙り込むことしか出来ない私を見つめたまま、オルフェイン卿は長い脚に頬杖をつき、にやりと嗤った。どこか愉しげに。

「――自分が“化け物”だ、ってこと」


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 どうしてこんなことに――。
 真紅の絨毯が敷かれた大階段を降り、豪奢に飾り立てられたエントランスホールを横切りながら、私は胸の裡で小さく溜息をつく。
 自分が“化け物”だということは分かっている。けれど、何故こうして連行されなければならないのだろう。しかも、王太子殿下直々のご命令で。私如きに、わざわざ大魔術師を派遣してまで。
 言葉が頭の中でぐるぐると廻るばかりで、幾ら考えても、理由がまるで分からない。
 ホールを歩んでくる私たちの姿を認め、荘厳な玄関扉の傍らに予め控えていたらしい魔術師の一人が、ゆっくりと扉を開く。蝋燭の落とす橙色の明かりと、空から降り注ぐ青白い月明かりとが、くっきりと分かれた境目。
 その先に広がるポルティコに一歩足を踏み出すと、やわらかな夜風がやさしく頬を撫でた。まるで慰めてくれてでもいるみたいに。
 ポルティコに繋がる末広がりの石階段を降りたところに、二頭立ての馬車が一輌、静かに佇んでいた。闇夜に隠れてしまいそうな黒塗りの、装飾どころか王家や魔塔の紋章すら施されていない、ただ頑丈そうなことだけが取り柄のような車体。
 月の青白い光に照らされたそれは、まるで罪人を閉じ込める檻のようだ、と思う。私のような“化け物”を閉じ込め、連れてゆくには正しくふさわしいものだ、とも。
 御者台の男は私たちが出てきても振り返らず、手綱を握ったまま前を向いていた。二頭の黒馬はどれも大人しく、鳴き声を漏らすどころか、僅かも身じろぐことすらしない。
 そんな彼等を横目に、相も変わらず両脇を魔術師たちに挟まれたまま、私はゆっくりとステップに足をかける。乗れ、と言われたわけではない。けれど、拒むことなど出来るはずがなかった。殿下の命令に逆らうことなど、決して。
 椅子に腰掛けると、後から乗り込んできたオルフェイン卿が、向かい側の座席にどさりと腰を下ろした。
 座り心地は良く、外装とは裏腹に、内装は上品に整えられているが、いかんせん車内はとても狭い。オルフェイン卿と私の膝の間には、広げた掌ひとつ分ほどの距離しかなく、思わず端に――壁にひっつくほど――身を寄せる。
 果たして私は、どこへ連れてゆかれるのだろう。王城だろうか、それとも魔塔だろうか、或いは――監獄だろうか。
 もしかしたら私は、明日の朝陽を拝むことなく、このままあの世へ逝かなくてはいけないのかもしれない。扉が閉まる音を聴きながら、私は膝の上でぎゅっと両手を握り締める。
 馬車が走りだしてから暫く経っても、オルフェイン卿は窓の外を眺めたまま口を開くことはなく、車内には重苦しい沈黙がどんよりと漂っている。だからといって、その沈黙を破る勇気など、無論私には微塵もない。
 車体が揺れる度に、革張りのシートが小さく軋む。窓の外では、人気のまるでない夜の街が音もなく流れていき、街灯の橙色が一定のリズムで車内を横切っては、薄闇の中に溶けるように消えてゆく。
 いつも肌身離さず持ち歩いていた愛用のペンも、分厚いノートも、全て自室の机の上に置いたままだ。あの一枚――すみれ色の紙一枚だけあれば、何の問題もなく、滞りなく全てが終わるだろうと思っていたし、あれ以上に語ることなんて何もなかったのだから。
 けれど今、私はそれらを持ってこなかったことを、ひどく後悔している。こんなことになるとは思いもしていなかったとはいえ、いざという時の備えを怠るべきではなかった。
 そうしていれば、彼に――ひどくつまらなさそうな顔をして窓の外を眺めているオルフェイン卿に、どうしてこうなってしまったのかを問うことが出来ただろうから。
 他にも訊きたいことは、山ほどある。
 殿下は何故、私が“化け物”であることを知っていたのか。この国にたった二人しかいない大魔術師の一人を、どうしてわざわざ派遣までしたのか。いったい私は、これからどこへ連れてゆかれ、どういう処遇を受けるのか。――明日の命はあるのだろうか。
 考えれば考えるほど、頭の中には次から次へと疑問が浮かんでくる。けれど、そのどれひとつとして、訊く術がない。喉の奥で言葉の形をした何かが積み上がっていくのに、それを外へ出す道が、今の私には何もなかった。
 馬車が石畳の継ぎ目を踏んだのか、車体がひときわ大きく揺れた。
 その瞬間、窓の外に人影が映る。魔塔に属する者だけが身につけることの許された、夜空を溶かし込んだような深色のローブ。フードを目深に被ったその人影は、馬車と並行するように馬を走らせながら、片手でコツン、と窓硝子を軽く叩いた。
「しつこい奴らだな」
 そう悪態を吐きながら、オルフェイン卿がほんの僅か窓を開ける。
「……で、何人だ」
「三人……いえ、四人です」
 まさかエドモンド様が、或いは、お父様や執事長のアルベールが――。
 一瞬、ほんの一瞬だけそう思いかけ、しかし私は小さな苦笑とともにその考えを打ち消す。リゼットを愛しているエドモンド様が、“化け物”に興味のないお父様が、そんな彼に忠実なアルベールが、私を追ってくるはずなんてない。
 そう分かっているくせに、ほんの僅かでも期待が胸を過ってしまうだなんて、我ながら救いようのない大馬鹿者だと思う。
「如何致しましょう」
 潜めた声の、短い遣り取り。二人の声の底に滲む不穏さだけが、ひしひしと肌に伝わってくる。
「始末だけはするな」
「……承知致しました」
 彼は僅かに頭を下げると、すぐさま馬車から離れ、夜の闇に切り取られた脇道へ、音もなく消えていった。
「随分となめられたもんだな」
 呆れを含んだ声で、独り言のように吐き捨てながら、オルフェイン卿は黒く塗られた指先で窓を下ろす。
 ――始末だけはするな。
 その言葉の意味を、私はうまく掴めないまま、ただ頭の中で繰り返す。歓迎すべき相手ではないのだろうということは、なんとか理解出来るけれども――。
 背もたれにゆったりと凭れ掛かりながら足を組むオルフェイン卿の、月明かりに照らされた端正な顔をちらりと盗み見ながら思う。
 いったい何が目的で近付いてきたのだろう。誰かの命でも狙っているのだろうか。それとも――。
「――訊きたいことがあるんだろ」
 唐突に声をかけられ、思わず両肩がびくりと震え上がる。真紅の瞳を真っ直ぐに向けられ、私はどぎまぎとしながら慌てて視線を逸らした。
 彼と目を合わせると、内側の深い部分に隠したことまで容易に見透かされてしまいそうで、なんとなく、落ち着かない。
 素直に頷くべきなのかどうなのか暫く迷って、結局私は、顔を小さく横に振った。訊きたいことは、もちろんたくさんある。けれども今ここには、私の喉の代わりとなって言葉を伝えてくれるペンも紙もない。
 そんな私の考えを、しかしオルフェイン卿はすっかり見抜いていたらしい。彼は深々と溜息を吐くと、一拍ほどの間を置いて、口を開いた。
「喋って良い」
 何を言われたのかすぐには理解することが出来ず、私は暫く、瞬きをすることも忘れた。全く知らない言葉を言われたような、聴いたような、そんな気がして。
 けれど、頭のどこかでは分かっているのか――胸の中で何かが、ぎゅっと硬く縮んだ。
「このキャビンには、防御魔法が張ってある。お前が喋ったくらいじゃ、びくともしねえよ」
 まるで何でもないことのように、彼はさらりと――どことなく面倒臭そうに――そう言ったけれど。私は狼狽えながら、膝の上で握り合わせた両手に力を込める。
 喋っていい、と言われても。喋れるかどうかと、喋って良いかどうかは、別の話だ。いくら防御魔法が施されているとはいっても。私には、自分の言葉が何をするかが分からない。
 仮にキャビンは大丈夫だったとしても。この狭い車内で、向かいに座っている彼を傷付けずに済む保証なんて、どこにもないのだ。
「喋って良いっつってんだろ」
 彼は片眉を上げたが、私はもう一度、首を横に振る。唇をかたく引き結んで。
 今度は少し長い沈黙があった。馬車の車輪が、石畳を踏む音がする。小石が砕けたり跳ねたりする微かな音も。それくらい、静かな――本当に静かで、重たい沈黙。
 オルフェイン卿の赤い瞳は、ただじっと、窓の外を眺めていた。通り過ぎてゆく寝静まった街を、或いは、夜空にぽっかりと浮かんだ青白い月を。その横顔は、怒っているのとも、呆れているのとも、どちらとも取れない色をしていた。何故だか分からないけれど。
 やがて彼は、小さくひとつ、息を吐いた。今度ははっきりと、呆れていると分かる種類の息を。
「頑固な奴だなあ。面倒くせえ」
 彼がやれやれと肩を竦めた瞬間、空気がほんの少し揺れる。次の瞬間、膝の上にすとん、と微かな重みが落ちてきた。
 握り合わせていた両手にぶつかって転がり落ちそうになるその“何か”を、私は慌てて受け止める。手元を見下ろすとそれは、持ち運びのしやすそうな小ぶりの手帳と、何の装飾もないシンプルな――でも、いかにも書き心地の良さそうな――ペンだった。
 黒光りのする艷やかな万年筆の胴軸も、飴色をした革張りの表紙も、紙の質さえも――何もかも、手触りだけで分かる。これらがとても上等なものだということが。
 顔を上げると、いつの間にかこちらを向いていたオルフェイン卿と、目が合った。まるでガーネットのように美しい、真紅色の瞳。
「それで文句ねえだろ」
 投げやりにそう言い放ち、彼は大袈裟に溜息をつきながら長い脚を組み替えた。
 オルフェイン卿と手元の手帳を、私は戸惑いがちに見比べ、それからおずおずと、万年筆のキャップを外した。手帳の紙は、ほんのりとピンクがかったやさしい色をしている。今にもやわらかな花の薫りが漂ってきそうな、上品な色。
『私は、どこへ連れて行かれるのですか』
 最初の一頁目にペンを滑らせ、手帳を裏返してオルフェイン卿へと向ける。彼はそこに綴られた短い一文を一瞥すると、淡々とした表情のまま車窓の外へ目を遣った。
「魔塔だ」
 魔塔――。未だ見たことのない"魔塔"を想像しかけて、私はすぐに止めた。噂に聞くその姿は、陰鬱で不気味な、御伽噺の"魔王の城"のような――そういう話ばかりだったから。
 私はいったい、これからどうなってしまうのだろう――。どうにか気を逸らそうと、紙の空いたスペースに視線を落とし、微かに震えるペン先で、ゆっくりと文字を綴る。
 馬車の中は相変わらず静かだ。ペン先が紙を擦るほんの小さな音さえ、鼓膜に触れるほど。
 書き終えてなお、私はそれをオルフェイン卿に見せるかどうか、暫し悩んだ。返ってくる言葉が、何となく想像出来てしまうから。
 それでも――。ひとつ、深くゆっくりと息を吐き出して、私は手帳をもう一度オルフェイン卿へと向けた。先程よりも少し大きな文字で綴った、漆黒色の一文を。
『どうして、私なのですか』
 オルフェイン卿は、すぐには何も言わなかった。手帳の薄桃色の頁に綴られた文字をじっと見つめたまま。車窓から差し込む青白い月明かりが、彼の濃い睫毛の陰影を、滑らかな白い肌に落としている。
 窓の外で、石ころが跳ねる微かな音がした。街灯の橙色の灯火が、車内をゆっくりと横切る。
 長い長い、沈黙だった。息が詰まるほどの。
 やがて彼は、ふと手帳から目を上げた。赤い瞳が、真っ直ぐに私を捉える。思わずドキリとした、その瞬間――彼は漸く、ゆっくりと唇を開いた。
「お前が一番分かってんだろ」
 何も言い返せなかった。言い返せるはずが、ない。
 ただ万年筆を握り締め、かたく黙り込むことしか出来ない私を見つめたまま、オルフェイン卿は長い脚に頬杖をつき、にやりと嗤った。どこか愉しげに。
「――自分が“化け物”だ、ってこと」