01

ー/ー



 その紙は、私の喉の代わりだった。

 すみれ色の紙の端を、指先でそっとなぞる。インクの匂いが、乾ききらない涙のように、まだ鼻の奥に甘く残っている。

 震えないように、深く、息を吸う。もう一度。それでも空気は薄く、浅く、喉をするりと通り抜けてゆくばかりで。

 大広間の空気は、冷たかった。息を吸う度、肺の奥に触れる、刃のような冷たさ。

 磨き上げられた大理石の床が、シャンデリアの蝋燭を余すところなく跳ね返し、私を否応なく照らしている。隠れる場所も、逃げる場所も、何もかも奪い取るかのような、煌々とした眩い光。

 まるで舞台の上に立たされているみたいだ、と思った。身体中に突き刺さる、針のように刺々しい無数の視線。嘲笑、侮蔑、畏怖――それらが少しずつ、皮膚の内側へ潜り込んでくる。

 壇上では、婚約者だったエドモンド様が、端正な顔に蔑笑を浮かべている。隣には義妹――リゼットが、蜜よりも甘く、毒よりも鮮やかな笑みを湛えて、寄り添っていた。

 薄いレースの手袋越しに、彼女の指が彼の腕へ絡む。清廉な白い花の裏側に、ひっそりと棘が隠れているみたいな、あの嗤い方。

「シルヴィ・ラヴァンド嬢との婚約を破棄し、新たにリゼット・ラヴァンド嬢を最愛の伴侶として迎える!」

 高らかな声と同時に、広間中から拍手が巻き起こった。初めから用意されていた、茶番の喝采。
 
 掌が掌へぶつかる乾いた音が、胸の中の何かを少しずつ砕いていく。砕けたものは、音を立てない。ただ、どろりとした暗いものに変じながら、胸の奥の深いところへ沈んでいくだけだ。深く、深く、静かに。

 こうなることは、分かっていた。大広間へと繋がる扉を潜る、そのずっと前から。だから、覚悟は出来ていた。諦めることも、全てを呑み込むことも。

 私は出来る限りゆっくりと深く息を吸い込み、そうして、片手に握っていた紙を胸の前に掲げた。愛用している藍色のインクで、考えに考え抜いた末に、たった一文だけを綴った、すみれ色の紙を。

『承知いたしました。どうか、お幸せに』

 何度も書き直して、やっと震えのない筆跡で書けた一枚だ。だから、これを見た二人には、きっと何も届かないだろう。それで良かった。私はただ静かに、表舞台から消えたいだけなのだから。

 だというのに――。

「ええ? 何ですの、それ。最後まで喋れないふりをなさるのですか? お義姉様」

 リゼットの嘲笑を含んだ声が、花びらを千切るみたいに弾んだ。

 嗅ぎ慣れた匂いが近付き、私は思わずドキリとする。華やかで甘い、それでいて爽やかさも併せ持つ、ゼラニウムのやさしい香り。それはエドモンド様がとても好んでいる花であり、そして――私が愛用している香水と同じ匂い。

 たじろいで一歩引こうとする足を、必死に押し留める。背後には、ひそひそとせせら嗤う参加者の人垣。逃げ場も、隠れ場もない。

「皆様、ご覧になって? お義姉様ったら、またこうして紙に隠れていらっしゃるの。いつもそう――汚い字を並べて、ご自分のお口では何ひとつ仰らないんですもの」

 リゼットの指先が、私の手の甲にそうっと触れる。ひやりとした、まるで皮膚の上を冷たい刃が滑ったような感触。
 
 刹那、背筋に震えが走り、私は反射的に手を引いた。

(触らないでっ……!)

 その言葉が喉の奥で形になりかけて、私はそれを、慌てて呑み下す。
 喋ってはいけない。罵られても、嘲笑われても。絶対に、口を開いてはいけない。言葉を発すれば、私はまた――。

 眼の前に散る赤。耳を引き裂く悲鳴。足元に走る罅の音。烈火の怒号、濡れた泣き声――頬に走った衝撃と、鋭い痛み。

「ねえ、どうして黙っているの? お義姉様」

 リゼットの蜜のような声が、奈落の底から無理矢理、私を現実へと引き戻す。

 まるで天使のようだ、と誰もが口を揃える愛らしい顔。ふっくらとしたやわらかなピンク色の唇は、“心優しい義妹”然と、美しく弧を描いている。

 けれども、濃い睫毛に囲まれたアンバー色の瞳だけは、私を蔑んでいた。
 “婚約者を取られた義姉”である私を。そして、喋ることの許されない“化け物”である私を。

 赤く彩られたリゼットの指先が、私の手の甲をするりと撫で、すみれ色の紙へ触れる。その瞬間、私にはすぐに分かった。分かってしまった。彼女が何を企んでいるのかを。今まで幾度も、同じ目に遭ってきたのだから。

「やめっ――」

 まろびかけた言葉を、本能的に喉の奥へ押し込む。
 それでも。たった、それだけの声でも。シャンデリアの蝋燭の炎が、風もないのにぶわりと揺れ、足元から何かが割れるような微かな音が響いた。

 茫然とする私を、リゼットはじっと上目で見つめていた。鈴を転がすような声で、愉しげにころころと嗤いながら。

 そうして彼女は、美しく整えられた指先で、すみれ色の紙を強引に奪い取った。――それが、私の裡に眠る獣を唯一抑え込む為のものだと、知っているはずなのに。

「今宵は、私の晴れ舞台ですのよ?」

 リゼットは目を細めたままゆっくりと紙を持ち上げ、まるで見せびらかすかのようにひらひらと振る。それを見た人垣から、嘲笑が波のように膨れ上がった。

 魔女、と誰かが囁く。化け物、と誰かが罵る。それらが大理石の大広間に反響して、鼓膜へ容赦なく突き刺さってくる。

 泣きたくなんてない。泣けば一層惨めになるだけだと分かっているのに。それでも視界が、じわじわと滲んでゆく。

 そんな私の心情など、とっくに見透かしているだろうに――いや、だからこそ、と言うべきか。リゼットが更に距離を詰め、私の顎へ、赤い指先を淑やかな動きで伸ばす。

 逃げ場なんて、どこにもない。ぐちゃぐちゃになった頭では、この状況を切り抜ける術がひとつも浮かばない。

「だから私、大好きなお義姉様にお祝いしていただきたいのです。文字なんかではなく、お義姉様のお声で、ちゃんと――」

 その瞬間、どこからともなく、パンッ、と手を打つ音がひとつ響いた。忽ち大広間が、水を打ったように静まり返る。

 そのせいで、人垣を強引に割って歩み寄ってくる人影の立てる足音が、やけに大きく耳に届いた。焦らず、乱れず、しかし、確たる意志と力強さを感じさせる足音。

「そこまでだ」

 真後ろから、落ち着きのある低い声が落ちてきた。

 私は弾かれたように顔を上げ、振り返る。
 リゼットも、エドモンド様も、そして、この大広間にいる全ての人々の視線が、私の背後へと吸い寄せられ――そして皆、私と同じように息を呑んだのが、気配で分かった。

 烏の濡れ羽色をした艷やかな長い髪の毛、滑らかな白い肌、永く濃い睫毛に縁取られた切れ長の目、その奥で妖しげな光を湛えた赤色の瞳。

「もう終いで良いだろ。茶番にいつまでも付き合ってられるほど、暇じゃねえんだよ、こっちは」

 そう言って、彼はひどく面倒臭そうに眉根を寄せると、半ば苛立たしげに前髪を掻き上げた。その乱雑な動きに合わせ、右肩に流された三つ編みの毛先が微かに揺れる。

 けれど誰も、そんなことには気付いていない。彼が纏うローブの左胸に飾られた輝きが、視線を逸らすことを許さないせいで。

 純金の縁取りにダイヤモンドを嵌め込んだ七芒星。それを背に、翼を雄々しく広げた黄金の鷹。鋭い眼差しを真正面に据えたその姿は、まるで今にも羽ばたきそうなほど精緻に刻み込まれている。

 それは、王家によって授けられた、“大魔術師”の証――。

「な、何故っ、こんな所にっ……!」

 切羽詰まったエドモンド様の声に、男は大仰に溜息をつきながら、両肩を僅かに竦めてみせた。

「たかだか侯爵家の嫡男如きが、そんな口を利いていいと思ってんのか」

 ガーネットを思わせる真紅の瞳に鋭く睨まれ、エドモンド様は口籠る。
 彼がそうなってしまうのも、無理もない。魔塔の頂きに立つ"大魔術師"とは、王家に認められた者だけが許される称号であり、その地位は、公爵と同等とされているのだから。

 この国に存在する“大魔術師”は、たったの二人だけ。その中で、黒髪に真紅の瞳をした人物といえば――ルシアン・オルフェイン。最年少で“大魔術師”の称号を得た、数百年に一度の天才魔術師だ。

「まあ、いい。そもそも、お前等に用はねえから」

 そう言いながら、オルフェイン卿はエドモンド様から目を逸らすと、そのまま流れるように、私へと視線を落とした。あまりに突然のことに、思わずごくりと唾を呑む。

 真っ赤な瞳だ。深く、美しい、透き通った宝石のような、真紅の瞳。

 怖い、と思った。心の裡を、全て見透かされているようで。
 けれど、どうしてだろう。その瞳をじっと見つめていると、込み上げかけていた涙が、すうっと胸の奥へ消えてゆく。

「――シルヴィ・ラヴァンド」

 唐突に名前を呼ばれ、びくりと両肩が震えた。面倒臭がっているようでも、苛立っているようでもない、淡々とした声。

「お前を、国家の定める“危険人物”として連行する」

 彼がそう告げた瞬間、堰を切ったように大広間がざわめく。

 けれどその喧騒は、不思議なほど、どこか遠い。分厚い膜の向こう側に閉じ込められてしまったみたいに。何も――何も、届かない。

 そんな私の双眸を真っ直ぐに見据えたまま、彼は口を開いた。感情の読めない、冷たい顔をして。

「これは王太子殿下直々の命だ。抵抗は許さん」

 どうして――。喉元まで込み上げた言葉は、無論、音となることなく胸の裡へ消えてゆく。

 エドモンド様がリゼットを愛していることは、知っていた。
 婚約を破棄するつもりでいることも、知っていた。
 今宵のパーティーが、二人の婚約発表の場であることも、知っていた。

 けれど――。部下らしき魔術師二人に両脇を挟まれ、出入り口へと続く赤いカーペットの上を歩きながら思う。けれど、まさか“危険人物”として連行されるだなんて。

 込み上げる不安で唇を噛み締めながら、横目でちらりと、傍を歩むオルフェイン卿の横顔を見上げる。そこにはやはり、感情のまるで読めない、無機質な表情が浮かんでいるだけだった。


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 その紙は、私の喉の代わりだった。
 すみれ色の紙の端を、指先でそっとなぞる。インクの匂いが、乾ききらない涙のように、まだ鼻の奥に甘く残っている。
 震えないように、深く、息を吸う。もう一度。それでも空気は薄く、浅く、喉をするりと通り抜けてゆくばかりで。
 大広間の空気は、冷たかった。息を吸う度、肺の奥に触れる、刃のような冷たさ。
 磨き上げられた大理石の床が、シャンデリアの蝋燭を余すところなく跳ね返し、私を否応なく照らしている。隠れる場所も、逃げる場所も、何もかも奪い取るかのような、煌々とした眩い光。
 まるで舞台の上に立たされているみたいだ、と思った。身体中に突き刺さる、針のように刺々しい無数の視線。嘲笑、侮蔑、畏怖――それらが少しずつ、皮膚の内側へ潜り込んでくる。
 壇上では、婚約者だったエドモンド様が、端正な顔に蔑笑を浮かべている。隣には義妹――リゼットが、蜜よりも甘く、毒よりも鮮やかな笑みを湛えて、寄り添っていた。
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「シルヴィ・ラヴァンド嬢との婚約を破棄し、新たにリゼット・ラヴァンド嬢を最愛の伴侶として迎える!」
 高らかな声と同時に、広間中から拍手が巻き起こった。初めから用意されていた、茶番の喝采。
 掌が掌へぶつかる乾いた音が、胸の中の何かを少しずつ砕いていく。砕けたものは、音を立てない。ただ、どろりとした暗いものに変じながら、胸の奥の深いところへ沈んでいくだけだ。深く、深く、静かに。
 こうなることは、分かっていた。大広間へと繋がる扉を潜る、そのずっと前から。だから、覚悟は出来ていた。諦めることも、全てを呑み込むことも。
 私は出来る限りゆっくりと深く息を吸い込み、そうして、片手に握っていた紙を胸の前に掲げた。愛用している藍色のインクで、考えに考え抜いた末に、たった一文だけを綴った、すみれ色の紙を。
『承知いたしました。どうか、お幸せに』
 何度も書き直して、やっと震えのない筆跡で書けた一枚だ。だから、これを見た二人には、きっと何も届かないだろう。それで良かった。私はただ静かに、表舞台から消えたいだけなのだから。
 だというのに――。
「ええ? 何ですの、それ。最後まで喋れないふりをなさるのですか? お義姉様」
 リゼットの嘲笑を含んだ声が、花びらを千切るみたいに弾んだ。
 嗅ぎ慣れた匂いが近付き、私は思わずドキリとする。華やかで甘い、それでいて爽やかさも併せ持つ、ゼラニウムのやさしい香り。それはエドモンド様がとても好んでいる花であり、そして――私が愛用している香水と同じ匂い。
 たじろいで一歩引こうとする足を、必死に押し留める。背後には、ひそひそとせせら嗤う参加者の人垣。逃げ場も、隠れ場もない。
「皆様、ご覧になって? お義姉様ったら、またこうして紙に隠れていらっしゃるの。いつもそう――汚い字を並べて、ご自分のお口では何ひとつ仰らないんですもの」
 リゼットの指先が、私の手の甲にそうっと触れる。ひやりとした、まるで皮膚の上を冷たい刃が滑ったような感触。
 刹那、背筋に震えが走り、私は反射的に手を引いた。
(触らないでっ……!)
 その言葉が喉の奥で形になりかけて、私はそれを、慌てて呑み下す。
 喋ってはいけない。罵られても、嘲笑われても。絶対に、口を開いてはいけない。言葉を発すれば、私はまた――。
 眼の前に散る赤。耳を引き裂く悲鳴。足元に走る罅の音。烈火の怒号、濡れた泣き声――頬に走った衝撃と、鋭い痛み。
「ねえ、どうして黙っているの? お義姉様」
 リゼットの蜜のような声が、奈落の底から無理矢理、私を現実へと引き戻す。
 まるで天使のようだ、と誰もが口を揃える愛らしい顔。ふっくらとしたやわらかなピンク色の唇は、“心優しい義妹”然と、美しく弧を描いている。
 けれども、濃い睫毛に囲まれたアンバー色の瞳だけは、私を蔑んでいた。
 “婚約者を取られた義姉”である私を。そして、喋ることの許されない“化け物”である私を。
 赤く彩られたリゼットの指先が、私の手の甲をするりと撫で、すみれ色の紙へ触れる。その瞬間、私にはすぐに分かった。分かってしまった。彼女が何を企んでいるのかを。今まで幾度も、同じ目に遭ってきたのだから。
「やめっ――」
 まろびかけた言葉を、本能的に喉の奥へ押し込む。
 それでも。たった、それだけの声でも。シャンデリアの蝋燭の炎が、風もないのにぶわりと揺れ、足元から何かが割れるような微かな音が響いた。
 茫然とする私を、リゼットはじっと上目で見つめていた。鈴を転がすような声で、愉しげにころころと嗤いながら。
 そうして彼女は、美しく整えられた指先で、すみれ色の紙を強引に奪い取った。――それが、私の裡に眠る獣を唯一抑え込む為のものだと、知っているはずなのに。
「今宵は、私の晴れ舞台ですのよ?」
 リゼットは目を細めたままゆっくりと紙を持ち上げ、まるで見せびらかすかのようにひらひらと振る。それを見た人垣から、嘲笑が波のように膨れ上がった。
 魔女、と誰かが囁く。化け物、と誰かが罵る。それらが大理石の大広間に反響して、鼓膜へ容赦なく突き刺さってくる。
 泣きたくなんてない。泣けば一層惨めになるだけだと分かっているのに。それでも視界が、じわじわと滲んでゆく。
 そんな私の心情など、とっくに見透かしているだろうに――いや、だからこそ、と言うべきか。リゼットが更に距離を詰め、私の顎へ、赤い指先を淑やかな動きで伸ばす。
 逃げ場なんて、どこにもない。ぐちゃぐちゃになった頭では、この状況を切り抜ける術がひとつも浮かばない。
「だから私、大好きなお義姉様にお祝いしていただきたいのです。文字なんかではなく、お義姉様のお声で、ちゃんと――」
 その瞬間、どこからともなく、パンッ、と手を打つ音がひとつ響いた。忽ち大広間が、水を打ったように静まり返る。
 そのせいで、人垣を強引に割って歩み寄ってくる人影の立てる足音が、やけに大きく耳に届いた。焦らず、乱れず、しかし、確たる意志と力強さを感じさせる足音。
「そこまでだ」
 真後ろから、落ち着きのある低い声が落ちてきた。
 私は弾かれたように顔を上げ、振り返る。
 リゼットも、エドモンド様も、そして、この大広間にいる全ての人々の視線が、私の背後へと吸い寄せられ――そして皆、私と同じように息を呑んだのが、気配で分かった。
 烏の濡れ羽色をした艷やかな長い髪の毛、滑らかな白い肌、永く濃い睫毛に縁取られた切れ長の目、その奥で妖しげな光を湛えた赤色の瞳。
「もう終いで良いだろ。茶番にいつまでも付き合ってられるほど、暇じゃねえんだよ、こっちは」
 そう言って、彼はひどく面倒臭そうに眉根を寄せると、半ば苛立たしげに前髪を掻き上げた。その乱雑な動きに合わせ、右肩に流された三つ編みの毛先が微かに揺れる。
 けれど誰も、そんなことには気付いていない。彼が纏うローブの左胸に飾られた輝きが、視線を逸らすことを許さないせいで。
 純金の縁取りにダイヤモンドを嵌め込んだ七芒星。それを背に、翼を雄々しく広げた黄金の鷹。鋭い眼差しを真正面に据えたその姿は、まるで今にも羽ばたきそうなほど精緻に刻み込まれている。
 それは、王家によって授けられた、“大魔術師”の証――。
「な、何故っ、こんな所にっ……!」
 切羽詰まったエドモンド様の声に、男は大仰に溜息をつきながら、両肩を僅かに竦めてみせた。
「たかだか侯爵家の嫡男如きが、そんな口を利いていいと思ってんのか」
 ガーネットを思わせる真紅の瞳に鋭く睨まれ、エドモンド様は口籠る。
 彼がそうなってしまうのも、無理もない。魔塔の頂きに立つ"大魔術師"とは、王家に認められた者だけが許される称号であり、その地位は、公爵と同等とされているのだから。
 この国に存在する“大魔術師”は、たったの二人だけ。その中で、黒髪に真紅の瞳をした人物といえば――ルシアン・オルフェイン。最年少で“大魔術師”の称号を得た、数百年に一度の天才魔術師だ。
「まあ、いい。そもそも、お前等に用はねえから」
 そう言いながら、オルフェイン卿はエドモンド様から目を逸らすと、そのまま流れるように、私へと視線を落とした。あまりに突然のことに、思わずごくりと唾を呑む。
 真っ赤な瞳だ。深く、美しい、透き通った宝石のような、真紅の瞳。
 怖い、と思った。心の裡を、全て見透かされているようで。
 けれど、どうしてだろう。その瞳をじっと見つめていると、込み上げかけていた涙が、すうっと胸の奥へ消えてゆく。
「――シルヴィ・ラヴァンド」
 唐突に名前を呼ばれ、びくりと両肩が震えた。面倒臭がっているようでも、苛立っているようでもない、淡々とした声。
「お前を、国家の定める“危険人物”として連行する」
 彼がそう告げた瞬間、堰を切ったように大広間がざわめく。
 けれどその喧騒は、不思議なほど、どこか遠い。分厚い膜の向こう側に閉じ込められてしまったみたいに。何も――何も、届かない。
 そんな私の双眸を真っ直ぐに見据えたまま、彼は口を開いた。感情の読めない、冷たい顔をして。
「これは王太子殿下直々の命だ。抵抗は許さん」
 どうして――。喉元まで込み上げた言葉は、無論、音となることなく胸の裡へ消えてゆく。
 エドモンド様がリゼットを愛していることは、知っていた。
 婚約を破棄するつもりでいることも、知っていた。
 今宵のパーティーが、二人の婚約発表の場であることも、知っていた。
 けれど――。部下らしき魔術師二人に両脇を挟まれ、出入り口へと続く赤いカーペットの上を歩きながら思う。けれど、まさか“危険人物”として連行されるだなんて。
 込み上げる不安で唇を噛み締めながら、横目でちらりと、傍を歩むオルフェイン卿の横顔を見上げる。そこにはやはり、感情のまるで読めない、無機質な表情が浮かんでいるだけだった。