表示設定
表示設定
目次 目次




【2】①

ー/ー



「そんな馬鹿らしい……! 通るわけないだろ!」
 初めてこの計画を持ち掛けられたとき、怒りより呆れで声を荒げた海斗(かいと)に、相手はどこまでも真剣だった。
 国の、表向きは捜査機関、……おそらくは情報関係の管理的立場にいるらしい遠藤(えんどう)という男。
 あまりにも怒涛の展開に、記憶そのものが曖昧なのだ。
美杏(みあ)は現実の社会を知らない。ごく幼いころからずっとに閉じ込められて、歪んた英才教育を施されていた。……髙いIQだけに着目した偏った教育を。……常識そのものを知らないんだから大丈夫だ」
 明らかに異常なその事態について、何でもないように真顔で述べる彼に悔恨の念が襲って来る。
「俺がもっと早く見つけられたら良かったんだ! そうしたら──!」
 実の娘を実験材料としてしか見なかったあの男から、一日でも早く奪い返せていたら。
 物心もつかない娘を連れ去って姿を消した父親。
「この子は天才だ! 相応しい教育を与えないと!」
「……何言ってるの? 美杏はまだやっと二歳なのよ!? もし天才児なんだととしても、そういうのがわかるのはもう少し大きくなってからじゃないの?」
 一人盛り上がる父は、母が困惑して諫めるのにも聞く耳を持たなかった。
 研究者崩れだと常に自嘲していた父。彼に足りなかったのは、きっと知的能力だけではなかった筈だ。
「もういい! お前みたいな凡庸な女に育てられたら、せっかくの才能も台無しだ!」
 日々繰り広げられていた両親の口論は忘れられない。
 それが突然の父の暴挙で断ち切られたことも。
 海斗は当時十二歳だった。
 母は約一年前に病でこの世を去るその瞬間まで、いきなり引き離された娘のことを気に掛けていた。
 髪を伸ばしていたのも、母が喜んだからだ。心の何処かで海斗を美杏と重ねていたのだろう。
 年齢も性別さえ違う息子に、娘の面影を見出そうと彼女は必死だった。妹と色は多少違うが癖の具合がよく似た髪は、格好の材料だったに違いない。
 そう、海斗はずっと美杏に関する事情を聞かされて育った。
 幼い娘を守れなかった、と自分を責めて涙を流す母を慰めながら、父への憎悪と妹への思慕を募らせていた。
 決して自分には向けられない母の関心を、そうすることで無意識に埋めて意識を逸らし誤魔化したかったのだと今は思う。
 母亡き後、もう理由などないというのに髪を切る踏ん切りがつかなかったのも、きっと同じ。
 ようやく父の消息を突き止めたのは半年前のことだ。美杏を連れ出すだけならそこまで難題ではない。
 問題は、諸悪の根源の父の存在を消すことだった。
「美杏はまだ八歳だ。今ならきっと間に合う。……彼女に必要なのは『交換条件』を介さない愛情だよ。ただ甘やかすだけでは駄目だ。これは君にしかできない」
 考え込んで半ば自分の世界に没頭してしまっていた海斗に、男が言葉を繋ぐ。
 交換条件。「この問題が解けたら」「これが全部できたら」というのが、すべてにおける父のやり方だったという。
 食事を与える、遊びを許す。何かと引き換えにするものではない、当然のことでさえも。
「このまま治療を受けている病院で『対価を受け取って仕事をこなす』スタッフに囲まれて過ごすよりは、アンドロイド()との間に信頼関係を築く道を探る方が美杏の将来のためになる」
 そう彼は説得して来た。
「君にも伝えたが、美杏は大人の男を怖がる。『できなかった』時に父親に殴られていたからだろう。私も最初に顔を見せて以来接触できていないし、彼女に不要な負担を掛けてまで試みる気もない」
 だから「アンドロイド」なのだ、と彼は重々しく言葉を発する。海斗に、機械の身体と人口知能を持つ「人間ではない存在」になり切れ、と。
 父親を殺害して、妹を奪還した。
 それ自体は依然として正しかったという考えに揺るぎはない。生かしておいたら、あの男は確実に美杏を狙ったはずだ。
 けれど海斗は決して正義のヒーローではあり得ない。この法治国家では、単なる殺人犯に過ぎないこともきちんと理解していた。
 父との美杏を巡る攻防で、海斗は右脚のほぼすべてを失った。
 大振りな刃物と棒状の得物を振りかざす父に応戦した際、切り付けられ殴打されたのだ。
 深夜の襲撃でドアを破るのに手間取り、父に飛び起きて凶器を用意する余裕を与えてしまった。
 とにかく美杏を守って、父を始末することしか頭になかった。
 ベッドで眠っていた妹を包まった寝具の上から被さるように庇ったのは美杏に攻撃が及ぶと考えたからではない。
 父が敵意を、──殺意を向けたのは海斗だけだ。おそらくはそれが捨てた息子だと知る由もなく。
 ただ、彼女に見せたくなかったのだ。人が傷つけられる、……殺されるその現場を。
 ベッドの上、兄に結果的には拘束されたかのような闇の中で美杏は確実に目覚めていただろう。
 けれど、彼女の目に姿を晒さず痛みから漏れた唸り声以外に意味のある言葉も発しなかったことが、今となっては計画遂行の重要な要素なのは紛れもない事実だった。
 薄い寝具を隔ててこの身に感じた温もりを、海斗はこの先忘れることはない。あの時妹に感じた愛しさは、嘘偽りのない本心だ。
 我が身を守るのは二の次になってしまい、ナイフを持つ手が届かない無防備な右脚は執拗に切り裂かれ打ち据えられた。海斗はその痛みを堪えながら、どうにか振り向きざま父の喉を突き刺したのだ。
 もんどり打って床に倒れた父に、止めを刺したのは確実な筈なのによく覚えていなかった。


スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む 【2】②


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



「そんな馬鹿らしい……! 通るわけないだろ!」
 初めてこの計画を持ち掛けられたとき、怒りより呆れで声を荒げた|海斗《かいと》に、相手はどこまでも真剣だった。
 国の、表向きは捜査機関、……おそらくは情報関係の管理的立場にいるらしい|遠藤《えんどう》という男。
 あまりにも怒涛の展開に、記憶そのものが曖昧なのだ。
「|美杏《みあ》は現実の社会を知らない。ごく幼いころからずっと《《君の父親》》に閉じ込められて、歪んた英才教育を施されていた。……髙いIQだけに着目した偏った教育を。……常識そのものを知らないんだから大丈夫だ」
 明らかに異常なその事態について、何でもないように真顔で述べる彼に悔恨の念が襲って来る。
「俺がもっと早く見つけられたら良かったんだ! そうしたら──!」
 実の娘を実験材料としてしか見なかったあの男から、一日でも早く奪い返せていたら。
 物心もつかない娘を連れ去って姿を消した父親。
「この子は天才だ! 相応しい教育を与えないと!」
「……何言ってるの? 美杏はまだやっと二歳なのよ!? もし天才児なんだととしても、そういうのがわかるのはもう少し大きくなってからじゃないの?」
 一人盛り上がる父は、母が困惑して諫めるのにも聞く耳を持たなかった。
 研究者崩れだと常に自嘲していた父。彼に足りなかったのは、きっと知的能力だけではなかった筈だ。
「もういい! お前みたいな凡庸な女に育てられたら、せっかくの才能も台無しだ!」
 日々繰り広げられていた両親の口論は忘れられない。
 それが突然の父の暴挙で断ち切られたことも。
 海斗は当時十二歳だった。
 母は約一年前に病でこの世を去るその瞬間まで、いきなり引き離された娘のことを気に掛けていた。
 髪を伸ばしていたのも、母が喜んだからだ。心の何処かで海斗を美杏と重ねていたのだろう。
 年齢も性別さえ違う息子に、娘の面影を見出そうと彼女は必死だった。妹と色は多少違うが癖の具合がよく似た髪は、格好の材料だったに違いない。
 そう、海斗はずっと美杏に関する事情を聞かされて育った。
 幼い娘を守れなかった、と自分を責めて涙を流す母を慰めながら、父への憎悪と妹への思慕を募らせていた。
 決して自分には向けられない母の関心を、そうすることで無意識に埋めて意識を逸らし誤魔化したかったのだと今は思う。
 母亡き後、もう理由などないというのに髪を切る踏ん切りがつかなかったのも、きっと同じ。
 ようやく父の消息を突き止めたのは半年前のことだ。美杏を連れ出すだけならそこまで難題ではない。
 問題は、諸悪の根源の父の存在を消すことだった。
「美杏はまだ八歳だ。今ならきっと間に合う。……彼女に必要なのは『交換条件』を介さない愛情だよ。ただ甘やかすだけでは駄目だ。これは君にしかできない」
 考え込んで半ば自分の世界に没頭してしまっていた海斗に、男が言葉を繋ぐ。
 交換条件。「この問題が解けたら」「これが全部できたら」というのが、すべてにおける父のやり方だったという。
 食事を与える、遊びを許す。何かと引き換えにするものではない、当然のことでさえも。
「このまま治療を受けている病院で『対価を受け取って仕事をこなす』スタッフに囲まれて過ごすよりは、|アンドロイド《君》との間に信頼関係を築く道を探る方が美杏の将来のためになる」
 そう彼は説得して来た。
「君にも伝えたが、美杏は大人の男を怖がる。『できなかった』時に父親に殴られていたからだろう。私も最初に顔を見せて以来接触できていないし、彼女に不要な負担を掛けてまで試みる気もない」
 だから「アンドロイド」なのだ、と彼は重々しく言葉を発する。海斗に、機械の身体と人口知能を持つ「人間ではない存在」になり切れ、と。
 父親を殺害して、妹を奪還した。
 それ自体は依然として正しかったという考えに揺るぎはない。生かしておいたら、あの男は確実に美杏を狙ったはずだ。
 けれど海斗は決して正義のヒーローではあり得ない。この法治国家では、単なる殺人犯に過ぎないこともきちんと理解していた。
 父との美杏を巡る攻防で、海斗は右脚のほぼすべてを失った。
 大振りな刃物と棒状の得物を振りかざす父に応戦した際、切り付けられ殴打されたのだ。
 深夜の襲撃でドアを破るのに手間取り、父に飛び起きて凶器を用意する余裕を与えてしまった。
 とにかく美杏を守って、父を始末することしか頭になかった。
 ベッドで眠っていた妹を包まった寝具の上から被さるように庇ったのは美杏に攻撃が及ぶと考えたからではない。
 父が敵意を、──殺意を向けたのは海斗だけだ。おそらくはそれが捨てた息子だと知る由もなく。
 ただ、彼女に見せたくなかったのだ。人が傷つけられる、……殺されるその現場を。
 ベッドの上、兄に結果的には拘束されたかのような闇の中で美杏は確実に目覚めていただろう。
 けれど、彼女の目に姿を晒さず痛みから漏れた唸り声以外に意味のある言葉も発しなかったことが、今となっては計画遂行の重要な要素なのは紛れもない事実だった。
 薄い寝具を隔ててこの身に感じた温もりを、海斗はこの先忘れることはない。あの時妹に感じた愛しさは、嘘偽りのない本心だ。
 我が身を守るのは二の次になってしまい、ナイフを持つ手が届かない無防備な右脚は執拗に切り裂かれ打ち据えられた。海斗はその痛みを堪えながら、どうにか振り向きざま父の喉を突き刺したのだ。
 もんどり打って床に倒れた父に、止めを刺したのは確実な筈なのによく覚えていなかった。