照子と陽子、そして
ー/ー「そうじゃ。今回のお前たちの仕事を帳面につけておかねばのう」
照平爺さんが、思い出したように懐から古びたノートを取り出した。
その中に書かれているのは、無数の「正」の字。俺たちが人を救う仕事をするたび、その件数を爺さんが記録しているのだ。今回は俺と疾風、朝陽のページにそれぞれ一本ずつ線が足された。
――80年前に起こったルーシャとの戦争は、留守番の神たちの暗躍むなしく守吏里の敗戦で終わった。
しかし、歴史の裏で月の神と太陽の神はその後も生き延びていた。クンネチュㇷ゚は照子、ペケㇾチュㇷ゚は陽子と俗名を名乗り、戦後の混乱に乗じて人間社会に紛れ込んだのだ。そして戦時中に多くの人を殺めた罪の意識から、人命救助の活動に余生を捧げた。
彼女らが、奪った命の数に少しでも追いつけるようにと贖罪の数を記し始めたのが、このノートだ。その意思は始祖である二人がこの世を去った今も、彼女らの血を引く子孫に受け継がれている。
陽子は、孫――朝陽や疾風の父親に当たる――を見る前に世を去ったそうだが、照子は比較的長生きしたため、俺も小学生くらいまで世話になった記憶がある。照子が産んだ二人の子供のうち、一人がこの照平爺さん。そしてもう一人が、俺の父方の祖母だ。
後に太陽と月、その二つの血筋の人間が私設レスキュー隊として組織化したのが、俺たちコタンコㇿ・エージェンシー――国の守り神とされるコタンコㇿカムイの名が由来となっている。
照平爺さんは母親の形見ともいえるノートに記録を終えると、それを恭しく押し頂いた。朝陽も神妙な面持ちで合掌している。
「……母さんよ。若い世代が立派に育っとるので安心せい。わしももういつそっちへ行ってもええわい」
爺さんが冗談まじりにそんな発言をして、霞おばちゃんや俺の母に「まだ早いわよ」と嗜められている。朝陽はアハハと笑い、ユカㇻの途中からすでに飽きていた疾風は、ゴロゴロしながらスマホをいじり始めた。
「まあ、母さんも曾孫世代まで育ててから逝ったしな。わしも虎太郎たちの下の世代まで面倒見ねばならんかのお」
その発言に食らいついたのは、俺の母だった。
……これは嫌な流れだ。
「そうよ。そのためにも、お爺ちゃんからも言ってやってよ。虎太郎ってば、いい歳して浮いた話のひとつも聞かないんだから。私としては、朝陽ちゃんがお嫁に来てくれたら安心なんだけどなあ」
毎回、この類の会話がパターン化している。俺が無気力にスルーし、朝陽が適当に受け流すところまでがワンセットだ。
「あっはっは、お互い還暦くらいまで一人だったら考えようか」
「もおっ! この子はまた、そんなこと言ってはぐらかしてえ!」
俺以外の笑い声が響く中、照平爺さんがふと思い出したように掌をポンと打った。
「そういえばの、今年は母と陽子さんの法事が重なるじゃろ。うちの娘と孫が出席するって連絡があったぞい」
その情報に過敏に反応したのは、疾風だった。
「マジ!? 沙夜さんと有沙ちゃん、帰ってくんの!? 会いてええ!!」
スマホを投げ出すくらいの勢いで目を輝かせ、鼻から蒸気を吹き出している。
――そこそこ重い業を背負っているはずなのだが、俺たちの日常はこんな風に騒がしく、平穏だ。それは、子孫の世代には人並みの暮らしを送ってほしいと望んだ始祖たちの祈りの賜物なのだと思う。
ふと、囲炉裏の炎に照らされる朝陽の呑気な笑顔が目に入った。……別に、見ようと思って見たわけではないのだが。
空気を孕んだような黒いショートヘアや、黒目がちな瞳が実年齢よりもやや幼く見せるが、もし数値化するとしたら、おそらく平均よりかなりレベルの高い顔立ちと言えるのだろう。少なくとも、この女が足技一閃でヒグマの息の根を止めるなどと想像できる人間はいないと思う。
凶器でもあるその腿は瑞々しく、ついうっかり手を伸ばしてみたくなる衝動を誘い――
と、そこまで思い至ったところで炭が小さくパチッと爆ぜた。その音で、俺は何を考えているのかとふっと我に返った。
― 序章 了 ―
照平爺さんが、思い出したように懐から古びたノートを取り出した。
その中に書かれているのは、無数の「正」の字。俺たちが人を救う仕事をするたび、その件数を爺さんが記録しているのだ。今回は俺と疾風、朝陽のページにそれぞれ一本ずつ線が足された。
――80年前に起こったルーシャとの戦争は、留守番の神たちの暗躍むなしく守吏里の敗戦で終わった。
しかし、歴史の裏で月の神と太陽の神はその後も生き延びていた。クンネチュㇷ゚は照子、ペケㇾチュㇷ゚は陽子と俗名を名乗り、戦後の混乱に乗じて人間社会に紛れ込んだのだ。そして戦時中に多くの人を殺めた罪の意識から、人命救助の活動に余生を捧げた。
彼女らが、奪った命の数に少しでも追いつけるようにと贖罪の数を記し始めたのが、このノートだ。その意思は始祖である二人がこの世を去った今も、彼女らの血を引く子孫に受け継がれている。
陽子は、孫――朝陽や疾風の父親に当たる――を見る前に世を去ったそうだが、照子は比較的長生きしたため、俺も小学生くらいまで世話になった記憶がある。照子が産んだ二人の子供のうち、一人がこの照平爺さん。そしてもう一人が、俺の父方の祖母だ。
後に太陽と月、その二つの血筋の人間が私設レスキュー隊として組織化したのが、俺たちコタンコㇿ・エージェンシー――国の守り神とされるコタンコㇿカムイの名が由来となっている。
照平爺さんは母親の形見ともいえるノートに記録を終えると、それを恭しく押し頂いた。朝陽も神妙な面持ちで合掌している。
「……母さんよ。若い世代が立派に育っとるので安心せい。わしももういつそっちへ行ってもええわい」
爺さんが冗談まじりにそんな発言をして、霞おばちゃんや俺の母に「まだ早いわよ」と嗜められている。朝陽はアハハと笑い、ユカㇻの途中からすでに飽きていた疾風は、ゴロゴロしながらスマホをいじり始めた。
「まあ、母さんも曾孫世代まで育ててから逝ったしな。わしも虎太郎たちの下の世代まで面倒見ねばならんかのお」
その発言に食らいついたのは、俺の母だった。
……これは嫌な流れだ。
「そうよ。そのためにも、お爺ちゃんからも言ってやってよ。虎太郎ってば、いい歳して浮いた話のひとつも聞かないんだから。私としては、朝陽ちゃんがお嫁に来てくれたら安心なんだけどなあ」
毎回、この類の会話がパターン化している。俺が無気力にスルーし、朝陽が適当に受け流すところまでがワンセットだ。
「あっはっは、お互い還暦くらいまで一人だったら考えようか」
「もおっ! この子はまた、そんなこと言ってはぐらかしてえ!」
俺以外の笑い声が響く中、照平爺さんがふと思い出したように掌をポンと打った。
「そういえばの、今年は母と陽子さんの法事が重なるじゃろ。うちの娘と孫が出席するって連絡があったぞい」
その情報に過敏に反応したのは、疾風だった。
「マジ!? 沙夜さんと有沙ちゃん、帰ってくんの!? 会いてええ!!」
スマホを投げ出すくらいの勢いで目を輝かせ、鼻から蒸気を吹き出している。
――そこそこ重い業を背負っているはずなのだが、俺たちの日常はこんな風に騒がしく、平穏だ。それは、子孫の世代には人並みの暮らしを送ってほしいと望んだ始祖たちの祈りの賜物なのだと思う。
ふと、囲炉裏の炎に照らされる朝陽の呑気な笑顔が目に入った。……別に、見ようと思って見たわけではないのだが。
空気を孕んだような黒いショートヘアや、黒目がちな瞳が実年齢よりもやや幼く見せるが、もし数値化するとしたら、おそらく平均よりかなりレベルの高い顔立ちと言えるのだろう。少なくとも、この女が足技一閃でヒグマの息の根を止めるなどと想像できる人間はいないと思う。
凶器でもあるその腿は瑞々しく、ついうっかり手を伸ばしてみたくなる衝動を誘い――
と、そこまで思い至ったところで炭が小さくパチッと爆ぜた。その音で、俺は何を考えているのかとふっと我に返った。
― 序章 了 ―
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
おすすめ作品を読み込み中です…
作者の他の作品
この作者の他作品はありません。
この作品と似た作品
似た傾向の作品は見つかりませんでした。
この作品を読んだ人が読んでいる作品
読者の傾向からおすすめできる作品がありませんでした。
おすすめ作品は現在準備中です。
おすすめ作品の取得に失敗しました。時間をおいて再度お試しください。