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川遊び禁止の札が、毎朝一本ずつ増える

ー/ー



 喉の奥が、真夏の熱気で強ばった。

 川縁には、昨日より一本多く『遊泳禁止』の杉板が立っていた。泥の匂いがぬるく立ちのぼり、並んだ札のうち、いちばん端の一本だけが生木の冷たさを残している。指先でなぞると、まだ乾ききっていない木肌がひやりとした。

 十七本。

 昨日、手帳の余白にそう書いた。今朝はそこに、黙って一を足す。

 十八本。

 三十二歳という年齢は、故郷を懐かしむには若すぎて、変化を見過ごすには大人すぎた。子どもの頃の景色はまだ輪郭を保っているのに、その輪郭が今の現実とずれていることにも気づけてしまう。帰ってきて三日目の朝、俺は川沿いの細い道に立ち、札の数だけを何度も見直していた。

 母方の伯母が亡くなったのは、梅雨の終わりだった。四十九日を終え、県外に出た俺が片付けの手伝いに呼ばれた。伯母には子どもがいなかったし、家のことに顔を出せる身内も、平日を動ける人間も多くなかった。母は腰を悪くしていた。叔父は口ばかりで役に立たなかった。結果、今こうして真夏の村に戻ってきているのは俺一人だった。

 伯母の家は、昔から少し薄暗かった。南向きの縁側があっても、部屋の奥まで光が届ききらない。仏間には線香の匂いが残り、畳の表面には長年の湿り気が染みついている。襖を開けるたびに、空気の層が一枚ずつ剥がれるようだった。

 片付けは遅々として進まなかった。食器棚、押し入れ、仏壇の下の引き出し、台所の戸袋。どこを開けても、捨てるには少し惜しいものばかり出てくる。伯母は何でも取っておく人だった。輪ゴム、古い広告、薬袋、地元の広報誌、農協の封筒、盆踊りのうちわ、役目を終えた鍵。人の暮らしは、なくなった後に見ると、必要だったものより「たぶん必要ではなかったもの」の方が多い。

 けれど、朝だけは片付けの手を止めて川の方へ歩いた。理由は自分でもよく分からなかった。散歩かもしれないし、暑くなる前の涼しさを吸いに行っているだけかもしれない。だが本当は、二日前に最初の違和感を見つけてから、確認せずにはいられなくなっていたのだと思う。

 川に札が多すぎる。

 子どもの頃にも『遊泳禁止』の看板はあった。流れが急な場所、深みのある場所、橋の下。だが、それは危ない場所にだけ立っているものだった。今の札は違う。川沿いの土手に、等間隔でもなく、規則もなく、まるで思いついた場所に思いついた本数だけ突き立てられている。一本では足りないみたいに。何かを止めるには、一枚では心許ないみたいに。

 最初の朝は、十六本だった気がした。二日目には十七本。気のせいかもしれないと思ったから、三日目の今朝は数える前に、昨日の手帳を見た。その結果が、十八本だった。

 家に戻る途中、近所の駄菓子屋だった空き家の前で、近所の爺さんに会った。名前は小西といったはずだが、子どもの頃から皆「小西のじい」と呼んでいた。背中の曲がった、小柄な人だ。昔から蝉の鳴き方や雨雲の色で天気を当てるのが妙にうまかった。

「おう、帰っとったんか」
「はい。伯母の片付けで」
「そうか」

 小西のじいはそこで会話を終わらせてもよさそうな顔をした。けれど俺は、そのまま行かせたくなかった。

「川の札、増えてませんか」

 小西のじいは帽子のつばを上げ、俺の後ろの方――つまり川の方を一度だけ見た。

「夏やからやろ」
「そんな理由ですか」
「水はな、毎年、人を舐めるからな」

 答えになっていない。いや、答える気がないのだと、その言い方で分かった。

「昔からあんなにありました?」
「危ない川や。近寄らんのがいちばんや」

 それ以上は、押しても無駄だった。小西のじいは話を終えると、俺の横を通っていった。年寄り特有の遅い歩幅なのに、追いすがる余地のない歩き方だった。

 家に戻り、縁側で麦茶を飲みながら川の方を眺める。木立の向こうに水面は見えない。見えないのに、そこにあると分かる。村の夏は、子どもの頃からそうだった。見えないものの気配だけが、音と匂いで居場所を示す。蝉、遠くの草刈り機、泥を含んだぬるい風。

 伯母の家の片付けを再開したのは、昼を少し回ってからだった。仏間の押し入れの下段を空け、古い布団袋をどけ、衣装箱を持ち上げる。底の方で、何か硬いものが転がる音がした。箱を引き出し、手を差し込む。

 場違いな原色が指先に触れた。

 怪獣のソフビ人形だった。

 赤と青の塗装はところどころ剥げ、首が妙な角度に曲がっている。右腕の先だけ艶がなく、ざらついていた。そのざらつきに触れた瞬間、指先の皮膚が、二十年前の濁流を思い出した。

 小学校の低学年だった。梅雨明けの増水した川で、俺たちは遊んでいた。危ないから入るなと言われていたのに、何が危ないのか分からなかった。川というものは、近づけば叱られるものだったが、それ以上ではなかった。足首までなら、膝までなら、飛び石の上までなら。子どもはいつも、禁止の境目を少しだけ越えたがる。

 その日、俺はこのソフビを持っていた。何の怪獣だったかはもう覚えていない。友達と戦わせるつもりで川原へ持っていき、濡らし、泥をつけ、石にぶつけた。流れの早いところへ近づいたのも覚えている。そこで手から抜けた。赤い背中が一度だけ水面に浮かび、それから茶色い泡に飲まれて見えなくなった。

 追いかけようとして、誰かに肩を掴まれた。

 その後のことは、妙に曖昧だ。怒鳴り声。濡れた服。誰かが一人足りないと言った気がする。泣いていたのが誰だったか、泣いていたのが本当に子どもだったのかも、もうはっきりしない。

 ソフビを振ると、中空の胴から、からり、と小さな音がした。乾いた、軽い音だった。泥水を飲んだはずの玩具から鳴るような音ではない。

 しかも、泥一粒ついていない。

 もう一度、振った。からり、と同じ音がした。

 右腕のざらつきに親指を当てた。塗装が剥げた跡だ。石にぶつけた傷だった。川原の、あの石に。二十年前の夏に、俺が。

 傾けると、内側で何かが動く気配はなかった。水は入っていない。乾いたまま、ずっとここにいたみたいな音だった。

 次の動作が出てこなかった。窓の外で蝉が鳴いた。それだけが動いていた。

「……見つけたか」

 背後から声がして、心臓が一拍遅れて跳ねた。

 振り返ると、座敷の入口に古老が立っていた。伯母の従兄で、法事の日にも見かけた顔だった。名前は徳平さん、と誰かが呼んでいた。年齢は分からない。年寄りの年齢は、一定のところから先は年齢ではなく“昔からそういう人”になる。

 古老の目は、俺の手の中のソフビを見てもほとんど動かなかった。

「伯母さんに預けたままやったんやな」
「これ、川で流したやつです」
「そうやろな」

 その“そうやろな”には驚きも説明もなかった。ただ、長い間そこに置いてあった事実だけを受け入れている声音だった。

 俺は立ち上がった。

「札、増えてますよね」
「増えることもある」
「誰が立ててるんですか」
「さあな」

 とぼけているのではなく、本当に言わないのだとすぐに分かった。

「事故は三件しか記録にないんです」
「お前、数えたか」
「数えました」
「数えんでええ」

 古老は畳の縁を見たまま言った。

「あの川はな、数え直したぶんだけ、よう見える」

 意味が分からなかった。分からないのに、問い返しにくい言い方だった。答えを言う代わりに、答えへ近づくなと言う人間の声だった。

 古老が帰ったあと、俺は広報誌と地元紙を集めて縁側に並べた。昭和のもの、平成のもの、町村合併前の古い役場だより。川の事故の記事を拾う。三件。やはり三件だ。小学生の転落事故。釣り人の溺死。飲酒した若者の水難。どれも短い記事で、書きぶりは事務的だった。

  同じ夏の記事に、行方不明。転居。捜索打ち切り。校区外。帰省中。そんな言葉が妙に多い。死んだと書かれないもの。見つかったとも書かれないもの。名前があったのに、次の号ではなかったことみたいに消えるもの。

 数が合わない。

 そのズレだけが、紙の上でいやに生々しかった。

 夕方、買い物の帰りに川沿いを通ると、中学生らしい二人組が札の前で自転車を止めていた。片方が「こんなにあったっけ」と言い、もう片方が「毎年やん」と言った。毎年。それは、増えることに慣れている言い方だった。

 夜、眠れなかった。

 仏間の時計の音が小さく耳に障った。エアコンは古く、部屋の隅だけ冷やしている。線香の残り香と畳の湿り気が混じり、皮膚の上に薄く張りつく。寝返りを打つたび、昼間のソフビの乾いた音が蘇った。

 十二時を回った頃、俺は起き上がった。懐中電灯だけ持って家を出る。川の方へ歩く。村の夜は、昔より暗くなった気がした。街灯が減ったからではない。光の届く場所だけがやけに浮いて、その外側が深く沈んでいる。

 川の音は、昼より近いところで鳴っていた。

 土手に上がると、白いものがいくつも縦に並んでいる。札だった。月明かりの中では文字が読めない。ただ板の白さだけが、暗い流れに逆らって立っている。

 昨日まで空いていた場所に、一本、増えていた。

 そこだけ土が柔らかい。懐中電灯を向けると、掘り返したばかりみたいに色が浅い。札の根元に触れると、木の新しい匂いがした。まるで今、立てたばかりのものみたいだった。

 人の気配はない。

 風もない。

 なのに、札だけが小さく鳴っていた。板の端どうしが、触れて離れて、かすかに鳴る。数を数える時の、指の腹みたいな音だった。

 その時、不意に、耳の奥で声が戻った。

 ――流されたの、一人やなかったやろ。

 誰の声だったか分からない。子どもの声にも聞こえたし、ひどく疲れた大人の声にも聞こえた。言葉だけが残っていたのかもしれない。俺が昔、聞いて、忘れたものが、今になって形だけ戻ってきたのかもしれない。

 翌朝、俺はもう手帳を開かなかった。

 数えれば、また増える気がした。

 それでも川沿いは通る。見ないふりはできない。札は昨日の位置に立っていた。新しい一本は、朝の白い光を受けて少しだけ浮いて見えた。根元の土はまだやわらかいままだった。

 村を出る前、最後にもう一度だけ振り返る。

 札は風もないのに、かすかに鳴った。

 昨日まで名もなかった誰かが、今朝、俺の記憶の中で息を吹き返した。

 十八本目だった。


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 喉の奥が、真夏の熱気で強ばった。
 川縁には、昨日より一本多く『遊泳禁止』の杉板が立っていた。泥の匂いがぬるく立ちのぼり、並んだ札のうち、いちばん端の一本だけが生木の冷たさを残している。指先でなぞると、まだ乾ききっていない木肌がひやりとした。
 十七本。
 昨日、手帳の余白にそう書いた。今朝はそこに、黙って一を足す。
 十八本。
 三十二歳という年齢は、故郷を懐かしむには若すぎて、変化を見過ごすには大人すぎた。子どもの頃の景色はまだ輪郭を保っているのに、その輪郭が今の現実とずれていることにも気づけてしまう。帰ってきて三日目の朝、俺は川沿いの細い道に立ち、札の数だけを何度も見直していた。
 母方の伯母が亡くなったのは、梅雨の終わりだった。四十九日を終え、県外に出た俺が片付けの手伝いに呼ばれた。伯母には子どもがいなかったし、家のことに顔を出せる身内も、平日を動ける人間も多くなかった。母は腰を悪くしていた。叔父は口ばかりで役に立たなかった。結果、今こうして真夏の村に戻ってきているのは俺一人だった。
 伯母の家は、昔から少し薄暗かった。南向きの縁側があっても、部屋の奥まで光が届ききらない。仏間には線香の匂いが残り、畳の表面には長年の湿り気が染みついている。襖を開けるたびに、空気の層が一枚ずつ剥がれるようだった。
 片付けは遅々として進まなかった。食器棚、押し入れ、仏壇の下の引き出し、台所の戸袋。どこを開けても、捨てるには少し惜しいものばかり出てくる。伯母は何でも取っておく人だった。輪ゴム、古い広告、薬袋、地元の広報誌、農協の封筒、盆踊りのうちわ、役目を終えた鍵。人の暮らしは、なくなった後に見ると、必要だったものより「たぶん必要ではなかったもの」の方が多い。
 けれど、朝だけは片付けの手を止めて川の方へ歩いた。理由は自分でもよく分からなかった。散歩かもしれないし、暑くなる前の涼しさを吸いに行っているだけかもしれない。だが本当は、二日前に最初の違和感を見つけてから、確認せずにはいられなくなっていたのだと思う。
 川に札が多すぎる。
 子どもの頃にも『遊泳禁止』の看板はあった。流れが急な場所、深みのある場所、橋の下。だが、それは危ない場所にだけ立っているものだった。今の札は違う。川沿いの土手に、等間隔でもなく、規則もなく、まるで思いついた場所に思いついた本数だけ突き立てられている。一本では足りないみたいに。何かを止めるには、一枚では心許ないみたいに。
 最初の朝は、十六本だった気がした。二日目には十七本。気のせいかもしれないと思ったから、三日目の今朝は数える前に、昨日の手帳を見た。その結果が、十八本だった。
 家に戻る途中、近所の駄菓子屋だった空き家の前で、近所の爺さんに会った。名前は小西といったはずだが、子どもの頃から皆「小西のじい」と呼んでいた。背中の曲がった、小柄な人だ。昔から蝉の鳴き方や雨雲の色で天気を当てるのが妙にうまかった。
「おう、帰っとったんか」
「はい。伯母の片付けで」
「そうか」
 小西のじいはそこで会話を終わらせてもよさそうな顔をした。けれど俺は、そのまま行かせたくなかった。
「川の札、増えてませんか」
 小西のじいは帽子のつばを上げ、俺の後ろの方――つまり川の方を一度だけ見た。
「夏やからやろ」
「そんな理由ですか」
「水はな、毎年、人を舐めるからな」
 答えになっていない。いや、答える気がないのだと、その言い方で分かった。
「昔からあんなにありました?」
「危ない川や。近寄らんのがいちばんや」
 それ以上は、押しても無駄だった。小西のじいは話を終えると、俺の横を通っていった。年寄り特有の遅い歩幅なのに、追いすがる余地のない歩き方だった。
 家に戻り、縁側で麦茶を飲みながら川の方を眺める。木立の向こうに水面は見えない。見えないのに、そこにあると分かる。村の夏は、子どもの頃からそうだった。見えないものの気配だけが、音と匂いで居場所を示す。蝉、遠くの草刈り機、泥を含んだぬるい風。
 伯母の家の片付けを再開したのは、昼を少し回ってからだった。仏間の押し入れの下段を空け、古い布団袋をどけ、衣装箱を持ち上げる。底の方で、何か硬いものが転がる音がした。箱を引き出し、手を差し込む。
 場違いな原色が指先に触れた。
 怪獣のソフビ人形だった。
 赤と青の塗装はところどころ剥げ、首が妙な角度に曲がっている。右腕の先だけ艶がなく、ざらついていた。そのざらつきに触れた瞬間、指先の皮膚が、二十年前の濁流を思い出した。
 小学校の低学年だった。梅雨明けの増水した川で、俺たちは遊んでいた。危ないから入るなと言われていたのに、何が危ないのか分からなかった。川というものは、近づけば叱られるものだったが、それ以上ではなかった。足首までなら、膝までなら、飛び石の上までなら。子どもはいつも、禁止の境目を少しだけ越えたがる。
 その日、俺はこのソフビを持っていた。何の怪獣だったかはもう覚えていない。友達と戦わせるつもりで川原へ持っていき、濡らし、泥をつけ、石にぶつけた。流れの早いところへ近づいたのも覚えている。そこで手から抜けた。赤い背中が一度だけ水面に浮かび、それから茶色い泡に飲まれて見えなくなった。
 追いかけようとして、誰かに肩を掴まれた。
 その後のことは、妙に曖昧だ。怒鳴り声。濡れた服。誰かが一人足りないと言った気がする。泣いていたのが誰だったか、泣いていたのが本当に子どもだったのかも、もうはっきりしない。
 ソフビを振ると、中空の胴から、からり、と小さな音がした。乾いた、軽い音だった。泥水を飲んだはずの玩具から鳴るような音ではない。
 しかも、泥一粒ついていない。
 もう一度、振った。からり、と同じ音がした。
 右腕のざらつきに親指を当てた。塗装が剥げた跡だ。石にぶつけた傷だった。川原の、あの石に。二十年前の夏に、俺が。
 傾けると、内側で何かが動く気配はなかった。水は入っていない。乾いたまま、ずっとここにいたみたいな音だった。
 次の動作が出てこなかった。窓の外で蝉が鳴いた。それだけが動いていた。
「……見つけたか」
 背後から声がして、心臓が一拍遅れて跳ねた。
 振り返ると、座敷の入口に古老が立っていた。伯母の従兄で、法事の日にも見かけた顔だった。名前は徳平さん、と誰かが呼んでいた。年齢は分からない。年寄りの年齢は、一定のところから先は年齢ではなく“昔からそういう人”になる。
 古老の目は、俺の手の中のソフビを見てもほとんど動かなかった。
「伯母さんに預けたままやったんやな」
「これ、川で流したやつです」
「そうやろな」
 その“そうやろな”には驚きも説明もなかった。ただ、長い間そこに置いてあった事実だけを受け入れている声音だった。
 俺は立ち上がった。
「札、増えてますよね」
「増えることもある」
「誰が立ててるんですか」
「さあな」
 とぼけているのではなく、本当に言わないのだとすぐに分かった。
「事故は三件しか記録にないんです」
「お前、数えたか」
「数えました」
「数えんでええ」
 古老は畳の縁を見たまま言った。
「あの川はな、数え直したぶんだけ、よう見える」
 意味が分からなかった。分からないのに、問い返しにくい言い方だった。答えを言う代わりに、答えへ近づくなと言う人間の声だった。
 古老が帰ったあと、俺は広報誌と地元紙を集めて縁側に並べた。昭和のもの、平成のもの、町村合併前の古い役場だより。川の事故の記事を拾う。三件。やはり三件だ。小学生の転落事故。釣り人の溺死。飲酒した若者の水難。どれも短い記事で、書きぶりは事務的だった。
  同じ夏の記事に、行方不明。転居。捜索打ち切り。校区外。帰省中。そんな言葉が妙に多い。死んだと書かれないもの。見つかったとも書かれないもの。名前があったのに、次の号ではなかったことみたいに消えるもの。
 数が合わない。
 そのズレだけが、紙の上でいやに生々しかった。
 夕方、買い物の帰りに川沿いを通ると、中学生らしい二人組が札の前で自転車を止めていた。片方が「こんなにあったっけ」と言い、もう片方が「毎年やん」と言った。毎年。それは、増えることに慣れている言い方だった。
 夜、眠れなかった。
 仏間の時計の音が小さく耳に障った。エアコンは古く、部屋の隅だけ冷やしている。線香の残り香と畳の湿り気が混じり、皮膚の上に薄く張りつく。寝返りを打つたび、昼間のソフビの乾いた音が蘇った。
 十二時を回った頃、俺は起き上がった。懐中電灯だけ持って家を出る。川の方へ歩く。村の夜は、昔より暗くなった気がした。街灯が減ったからではない。光の届く場所だけがやけに浮いて、その外側が深く沈んでいる。
 川の音は、昼より近いところで鳴っていた。
 土手に上がると、白いものがいくつも縦に並んでいる。札だった。月明かりの中では文字が読めない。ただ板の白さだけが、暗い流れに逆らって立っている。
 昨日まで空いていた場所に、一本、増えていた。
 そこだけ土が柔らかい。懐中電灯を向けると、掘り返したばかりみたいに色が浅い。札の根元に触れると、木の新しい匂いがした。まるで今、立てたばかりのものみたいだった。
 人の気配はない。
 風もない。
 なのに、札だけが小さく鳴っていた。板の端どうしが、触れて離れて、かすかに鳴る。数を数える時の、指の腹みたいな音だった。
 その時、不意に、耳の奥で声が戻った。
 ――流されたの、一人やなかったやろ。
 誰の声だったか分からない。子どもの声にも聞こえたし、ひどく疲れた大人の声にも聞こえた。言葉だけが残っていたのかもしれない。俺が昔、聞いて、忘れたものが、今になって形だけ戻ってきたのかもしれない。
 翌朝、俺はもう手帳を開かなかった。
 数えれば、また増える気がした。
 それでも川沿いは通る。見ないふりはできない。札は昨日の位置に立っていた。新しい一本は、朝の白い光を受けて少しだけ浮いて見えた。根元の土はまだやわらかいままだった。
 村を出る前、最後にもう一度だけ振り返る。
 札は風もないのに、かすかに鳴った。
 昨日まで名もなかった誰かが、今朝、俺の記憶の中で息を吹き返した。
 十八本目だった。