人魚と泳ぐ夏
ー/ー江の島を遠くに望む、神奈川県立蒼波高校。
野球もバスケもバレーもサッカーも強い、いわゆるスポーツ強豪校。
活躍は運動部だけではない。吹奏楽部や放送部も数々のコンクールで金賞を獲得しているし、
東京大学はじめ名門と呼ばれる大学への進学率も高い、まさに文武両道の名門校だ。
高校一年生の凪は、仮入部期間が終わるのを待つこともなく水泳部に入部した。
子供の頃から海もプールもお風呂も大好き、とにかく水の中にいればご機嫌だったと母は言う。
「うお座だからかしら? 水を得た魚……ならぬ『水を得た凪』よねぇ」
夏の暑い日、お風呂に水を張って、いつまでもチャポチャポと浸かっている凪を見て、父も母も『いつか人魚になっちゃうんじゃないか』と笑った。
部活帰り、凪は、疲れ切った身体を引きずるようにして駅まで坂道を登っていた。
地元の駅から自宅までは自転車があるけれども、学校から駅までは歩きなのだ。ツライしんどいツライ……。
「あー、喉乾いた……しんど、高校の練習マジしんど中学とはダンチ、ん? レベチ?」
中学では顧問もおじいちゃん先生で、みんなで仲良くきゃっきゃと楽しく泳いでいた。
それがどうだ、高校に入学したら、マジで何人か殺めていそうなコワモテのパンチパーマが竹刀を振り回して怒鳴り散らかしている。
4月5月はまだ良かった、プールには入れないから基礎トレがメインだった。それでも十分にツラかったのだけれども。
でも6月の後半からプールが使えるようになるとシゴキは地獄のシゴキにレベルアップした。
このまま水泳部続けていけるだろうか、へとへとの身体がメンタルまで弱らせてくる。
ふと、道端の生垣の影に、何かが動く気配を感じた。
ワンコかな? 可愛いワンコに癒されたい、とっさにそう考えた。
「ワンコ? ワンコなのかな。おいでー、怖くないよー」
そう声をかけた凪が目にしたのは、信じられない光景だった。
そこには、体長40センチほどの、異様に筋肉質な男……が倒れていた。
上半身はボディビルダーのようなムッキムキのシックスパック。
そして下半身は、銀色に輝く立派な魚の尾び……れ?
「……え、人魚? っていうか、ちっさ! しかも、ムキムキ……」
凪が呆然と立ち尽くしていると、そのマッチョ人魚は、カッと目を見開いた。
「おい、自分。ぼさっと見とる暇あったら水、水持ってきてくれや。干物になってまうわ……」
「しゃ、喋った!? しかも関西弁!?」
「なんや、人魚が関西弁喋ったらあかんのか。風評被害やで、ほんまに……」
いやいや、ツッコミどころがあり過ぎる。
人魚なのにムキムキで関西弁だ。男性だから人魚じゃなく半魚人と呼ぶべきなのだろうか?
「ごめん、今日お財布忘れちゃってお水買ってあげられない」
「かっーーー、今日日の女子高生ともあろうものが、水も買えないとは嘆かわしい。ほな、あれないんか、プイプイとか言うやつ」
「ごめんて。実は今日スマホも忘れちゃって。普段はちゃんとお財布もスマホも持ってるんだけど」
申し訳なさそうに胸の前で両手を合わせる凪にため息をついたムキムキ半魚人が言う。
「ほな、しゃあないか。はよ、帰るで、レッツラゴーや」
「え? 帰るって、うちに? 一緒に?」
「なんや、置いてくつもりか? 薄情にもほどがあるやろ」
結局、凪はその半魚人を放っておくことができず、干上がりそうだという彼に水筒の残りの貴重な水をかけ(生ぬるいと文句を言われつつ)、部活用の大きなバッグに押し込んで、そのまま自宅へ連れ帰った。
幸い、家には誰もいなかったので自室に『たらい』を持ち込み、そこに冷たい水を張った。
「おおきにな〜、自分命の恩人やで、ほんで、名前なんちゅうん?」
「えっと、凪です。半魚人さんは?」
「半魚人てーーー。ちゃうねん、ワイは人魚や。海の騎士や。半魚人は上半身が魚で、下半身は人やねん。見てみ、ワイのこの分厚い胸板、そして銀色に輝くウロコ、どこをどう見たって人魚やないかい。ワイの名前は、「保正丼や、品位を保つ、正しい、保正が苗字や。由緒正しい家柄やねん。ほんで丼はなぁ、爺さんが間違えて届けた言うとったわ。井戸の井にしよう思っとったのに、間違えて真ん中に点つけてもうた言うとったわ。でもええ名前やろ、保正丼」
(ポセイドン……じいちゃん、確信犯だよね?)
そう思いながら曖昧に微笑んだ凪を一瞥して『たらい』の中にダイブしたムキムキ人魚の保正丼は、若干窮屈そうだ。
はみ出した広背筋がたらいの縁をきしませている。
膝(なのかどうかは甚だ疑問だが)を抱え、尾びれでパシャパシャとリズムを取りながらチャプチャプと寛いだ。
寛いだと思った瞬間に、大きな声で嘆き始めた。
「ああ、聖レーン……オレの愛しの恋人はどこに行ってもうたんや。ゲスな男に捕まって、不埒な真似されてへんやろか。あいつは美少女人魚やからな、心配で心臓止まりそうやわ、涙で身体の水分が足りひんくなる」
「はいはい、お水のおかわりね。……っていうか、誰なのよ、そのセイレーンちゃんって」
愛しの恋人? セイレーンってことは人魚ちゃんなんだろうか?
その時、ベッドの上に置き去りにされていた凪のスマホが震えた。
画面には、クラスメイトで部活仲間、入学式にやりあって以来、二人の小競り合いが若干クラスや部活での名物になりつつある湊の名前。
実は凪は、豪快に力強く泳ぐ湊に密かに想いを寄せていた。
プールから上がってきた後の首筋を伝う水滴と逞しい肩回りの筋肉、上腕二頭筋と胸筋を直視できないと思いながら、そっと盗み見る毎日だ。
「……凪? オレ、湊。突然ごめん。あ、あのさ、信じらんねーかもだけど、いやオレ自身もまだ信じられねーっていうか、半信半疑っていうか。お前さ……人魚って、信じるか?」
凪はたらいの中のマッチョを指差しながら、食い気味に叫んだ。
「信じる! 信じるよ湊!!」
だって今まさに目の前にいるのだ、関西弁を話すマッチョな人魚が。
「だよな、信じないよな。……って!! 信じるのかよっ」
「うん、信じる」
電話の向こうでふっと湊が微笑んだのが見えた気がした。実際はそんなわけないのだけれど。
「あのさ、実はさ、変な、変っつうか、あのー、人魚、……みたいなもんを拾っちまって……」
「えええ、もしかして、その人魚ちゃんって、セイレーンちゃんって言う?」
「そ、そう、そうだけど、お前、なんでこの子の名前……」
ピクッと身体を震わせた保正丼がたらいの水をザブンと溢れさせた。ちょ、部屋、水浸しにしたらお母さんに怒られるぅ……。
「なんやワレ誰や、そこに聖レーンがおるんかいっ、こん腐れ外道め!! セイちゃんに不埒な真似しくさったら、海に沈めて水深3000メートルまで引きずり回したるからな!」
なんという地獄耳なんだろう。そしてめちゃめちゃ口が悪い。ヤクザか。
「湊、詳しい説明は後にするけど、今ね、うちにもいるんだ、人魚。聖レーンちゃんの彼氏って本人は言ってる、『保正丼って知ってる?』って聖レーンちゃんに聞いて見てくれる?」
スマホに手を当てているらしく、声はくぐもっているが、どうやら彼女の方も保正丼に会いたがっているらしいことが伝わってきた。
漏れ聞こえてくる音が、『◎⚪︎っ!!🎵〜〜♡』みたいな感じだ。
「とりあえず二人を会わせてあげよう」
凪の提案に保正丼が目を輝かせる。
「ほんなら、学校のプールに連れてってくれへんか。あっこに海へと繋がる秘密の通路があんねん」
「湊、聞こえた? 学校のプールから海に帰れるみたい。この時間はまだ目立つだろうから、今夜一時頃、待ち合わせよう」
「オッケー、ってかお前、大丈夫かよ、そんな夜中に電車ねーだろ」
「大丈夫、チャリで行くし」
電車で一駅、水泳部で鍛えたこの脚力なら問題はないだろう。
「ま、まぁ、お前みたいなツルペタちゃん誰も襲わねーか」
「ひどっ、アホ湊、あんたこそ学校まで来る間に迷子になっちゃうんじゃないの、泣きそうになったら電話しなさいよ」
「バッカ、毎日通ってるのに迷子なんかなるかよ。と、とにかく気をつけてこいよ。夜だし、変な奴が出るかもだし、物好きもいるかも知んねーんだからな」
電話を切ってため息を一つ……またやっちゃった、どうしてこう私は可愛くないことばかり言っちゃうんだろう。
一方その頃、湊の部屋。
いつもはバタフライで豪快に水をかき回している硬派な湊が、洗面器を前に真っ赤になっていた。
「なんで好きな女の子にツルペタとか言っちゃうのかなぁ、湊は」
「なっ、だっ、すっ、きって……」
「丸わかり〜♡」
「べ、別に、好き、とか、そういうんじゃねーよ、ただあいつが泳ぐ時のフォームがキレイだな、って」
「泳ぐ時のフォームなんてよっぽどずっと見てなきゃ、気づかないんだけどねぇ。ね、あたしの泳ぎはどう? 綺麗?」
手のひらより少し大きい程度の、恐ろしく美しい人魚――聖レーンが洗面器の中を優雅に泳いでみせる。
「キレイっつうか、その、ぽよんぽよん……って泳ぎにくくねーのかな、って」
「ヤバァ、湊ったらえっち。保正丼さまに言いつけてやる〜」
「いやっ、聖レーンちゃん、それだけは勘弁してくれ、凪のところにいる柄の悪い人魚だろ、普通に怖ぇーよ」
先ほどまで洗面器の中をスイスイ泳いでいたのに、『ここには一休みする岩場がないのよね』と頬を膨らませ、その後、湊に指先を洗面器に浸すように可愛くオネダリをした。
小首を傾げた絶世の美女、しかも人魚の、可愛いオネダリを断ることができる男子高校生がいるだろうか、いや、いるまい。習い立ての反語を頭に思い浮かべて一生懸命に気を反らす。
湊の指先には、上半身は極めて少ない布地の真っ青なビキニ、そして下半身は同じ色味の尾びれを持つ人魚が、その肢体を投げ出して器用にうたた寝をしていた。
(ちょ、……マジやばいって、指先に、ぽよんぽよんでぷるんぷるんって……これって、ほら、マズイよ)
とは言え、うたた寝している聖レーンから指を離すのは忍びない、人魚って溺れたりするんだろうか?
深夜0時を過ぎ、父と母が寝静まったのを確認した凪は、ボストンバッグの中に大きな寸胴鍋を詰め込み、自転車の荷台に縛り付けた。もちろんその中に水を半分くらい注いで、そこに保正丼をみちみちに詰めている。
「暴れないでよ。お鍋に蓋してないんだから、お水こぼれちゃうと大変なんだから」
「凪、段差や! 広背筋に響くやろがい! ワイを運搬すんのに鍋て、ワイはおかずやないねんぞ!」
「うるさい! 黙って! 不審者で通報されたらどうすんのよ!」
湊は、通学リュックを胸側にかけ、そこから顔を覗かせる聖レーンを大事に抱え、自転車を漕ぐ。
リュックの中には大会用の大きな大きなジャグが入っている。聖レーンにはそこに入ってもらった。
「湊さんの心臓の音、波の音みたいで落ち着きます……」
「……っ! そ、そうかな」
そんなうっとりした表情でそんなセリフ、好きな女の子に言われたわけじゃなくても顔がにやけてしまう。おまけに相手は美少女人魚だ、ぽよんぽよんのぷるんぷるんだ。あんなツルペタの凪とは全然違う。凪は……大丈夫だろうか、こんな時間に女の子一人で。やっぱり迎えに行けばよかった。帰りは送っていこう。っていうか、もし凪さえ良かったら、毎日だって……いや、違う、そうじゃない。
こんな夜中に待ち合わせなんて、もちろん初めてのシチュエーションだ。それだけで心臓が早鐘を打ちまくる。だからだ、この心臓はそう言うことだ。断じて、す、す、好きとかじゃない。誰に何を言われたわけでもないのに、心の中で一人で言い訳して顔を赤らめている湊を聖レーンが微笑みながら見つめていた。
暗く、静まり返った蒼波高校。海風が校舎を抜ける中、二人の影はプールサイドで合流した。
「セイちゃーーーん!!」
「保正丼さまーー!!」
プールの水面に二人が放たれると、保正丼は「たらい」の窮屈さを忘れさせるような、力強い泳ぎで聖レーンに駆け寄った。
マッチョと美少女。あまりにシュールな人魚カップルの再会を、凪と湊は少し離れた場所で、並んで見守った。
「……よかったね、湊」
「ああ。……正直、最初は怖かったけど」
保正丼が、水面から顔を出して言った。
「自分らも入り。どーせ下に水着、着とるんやろ。隠しても保正丼さまにはお見通しや」
「人魚と泳ぐなんてなかなか経験出来ないわよ、ほら、湊も凪ちゃんも」
促されるまま、服を脱ぎ、二人は夜のプールへ飛び込んだ。
昼間の喧騒が嘘のような、静まり返った水の底。
月明かりが水面を透過し、プールの底にゆらゆらと青白い網目模様を映し出している。
そこは、四人だけの特別な世界だった。
保正丼と聖レーンが、螺旋を描くように寄り添って泳ぐ。
その銀色の尾びれが水を打つたび、真珠のような泡が光の粒となって舞い上がった。
湊が力強いバタフライで隣を並走する。
いつもは重く感じる水が、今夜は驚くほど優しく身体を押し出してくれる。凪もまたしなやかなクロールで水の中を滑る。
ふと横をみると、聖レーンが凪の手を引くようにして並び、保正丼は湊の肩を叩くような仕草を見せて笑っている。
水泳部の練習では決して味わえない重力からもタイムからも解放された、自由な時間。
水の冷たさが心地良く、自分の心臓の音と、他の三人の鼓動が溶け合って行くような気がした。
水飛沫が月光を反射して、まるで夜空の星を蹴って泳いでいるような──それは、これまでの人生で一番、凪が「水と一体になれた」瞬間だった。
「なぁ、凪、オレさ……お前のクロールのフォーム、綺麗だなって、ずっと思ってたんだ」
凪の心臓が、湊の力強いバタフライのキックよりも、激しく跳ねた。
「……な、なにそれ。でもありがと……。私も、湊の泳ぎ……かっこいいなって、思ってる……よ」
「おう、自分ら。人魚のカップルの再会を手伝うた功徳は、いつか海が返してくれるわ。それより、自分らのその『歯がゆい空気』、なんとかならんのか? 見てるこっちが塩水飲みそうやわ」
「うるさいわね、もう! 早く海に帰りなさいよ!」
凪が照れ隠しに叫ぶ。
「ほなな。あ、せや湊、バタフライはもっと肩甲骨使えや! 記録伸びるで。ほんで好きな女の子のハートもGETや」
保正丼が親指をグッと立てて湊に向かってウインクをする。
「なっ、バッ、別に、オレは……す、……とかねーし」
プイッと横を向いてふて腐れる湊の頬に聖レーンがチュッとキスをした。
「湊、またね。凪、ちゅうの上書きしちゃってもいいのよ♡二人ともまた遊びに来るからね〜」
「セイちゃぁ〜ん、一人でくるのはあかんで、ちゃんとワイを誘ってや」
そう言いながら、二人はプールの排水溝へと吸い込まれ、海へと帰っていった。
保正丼の賑やかな関西弁が聞こえなくなり、静まり返ったプールサイド。
身体から立ち上る塩素の匂いと、遠くから聞こえる本物の波の音。
「……凪、あの、……オレさ、今日の帰り、送っていく、暗いし」
「ありがと」
いつもならポンポンと口をつく悪態が何も出てこない。プールは波紋ひとつない完全な凪だ。
「凪さえ良かったら、明日も、明後日も……送ってくから」
湊が、首筋の汗をぬぐいながら言った。
二人の距離は、昨日よりも少しだけ、確実に近くなっていた。
──夏は、まだ始まったばかりだ。
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