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9 凍りつく心

ー/ー



 バウマンは特殊部隊から移ってきた。デスクワークが不満なのはわかるが、露骨な反抗的態度の裏に何か隠れてはいないだろうか。たとえば家庭問題で荒れているとか。

 だとしても同情は湧いてこないが。

 ララは内心で溜め息をついた。いずれ話し合わないといけないだろう。

 書類に目を通し、サインが必要なものをまとめて横に置いた。

 胸のざわつきはバウマンのせいではない。
 異変に気づいたのは朝、玄関を出たとき。愛車のイビザのタイヤが潰れていたのだ。

 最悪!

 朝一でビデオ会議なのに。苛々しながら自動車連盟に電話した。

「すみません。タイヤがパンクしてしまって……」

 オペレーターと話しながら、ララの目はタイヤに釘付けになった。
 ぎざぎざの裂け目が二つ。

「あの、タイヤ、切られてるみたいなんです」

 会議は後日にずらしてもらった。
 昨夜はブレナーと会い、夜中に帰宅して車は家の前に駐めた。やられたのはそれから今朝までのあいだ。

 ブレナーは執務室にいた。青いシャツを身につけ、いつもどおり逞しく健康的だ。ララを見るなり、にやりと笑う。

「おはよう」

 完璧な微笑はすぐに曇った。

「どうかしたのか?」

 タイヤが刃物で切り裂かれていることは、やってきた警官も同意見だった。のこぎり状の大型ナイフの可能性があるという。

 ブレナーは眉間に皺を寄せた。
「組織がらみの脅しの線もありうるな」

 廊下を職員が通ったのでララは声を落とした。
「マルティナが今朝どこにいたか知ってる?」
「なぜそんなことを聞くんだ」
「昨夜は家にいた? 何時に寝室へ行った?」
「まさか彼女がやったと言うつもりじゃないだろう?」
「ミヒ、他にもあるの。彼女は私のメールアドレスも知ってる。教えたの?」
「落ち着いてくれ、いったい何の話だ」

 ララは届いたメールを見せた。ブレナーは表情を険しくしたが、首を横に振った。

「こんなことをする理由がない。考えすぎだ」
「でも自分で言ったじゃない、疑われてるって」
「この前会ったとき、車を運転しているところを見られたんだ。会議で遅くなると言ってあったから変に思ったようだ。でも作り話で切り抜けたよ」
「それで? マルティナは夜明け前に出かけなかった? ずっと家にいた?」
「あたりまえだ、こんな真似をする人間じゃない。メールの送信元を調べさせたらどうだ。きみの部下なら簡単だろう」

 心に氷が張った。彼が信頼を寄せる相手はララではなく、妻なのだ。
 嫉妬して言いがかりをつけているとでも思っているのだろうか。

「それは公私混同というものよ。私のチームは私に嫌がらせしてる人間を突き止めるためのものじゃないの」

 ドアの開く音が聞こえ、ララは口をつぐんだ。入ってきたのはシャルロッテだった。

「車両のナンバーですが、Uでヒットがありました」

 ブレナーに背を向け、検索結果の紙を受け取った。シュコダ・オクタヴィア、色はシルバー。

「シルバー? 映像では白に見えたけど」
「私もそう思ってました。夜間映像だし、光の加減じゃないでしょうか」

 所有者はリヒャルト・ヘンカーという男だった。
 シャルロッテが目を輝かせているのは車を特定できたからだけではなさそうだ。

「他にもわかったことがあるのね」
「はい。名前に見覚えがあって別のデータベースで照会をかけたら、要注意人物リストに載っている男でした」

 シャルロッテは声を弾ませた。

「コカイン密売グループと関係があり、内部情報ではンドランゲタとの接点も疑われています」

 イタリア南部カラーブリアが本拠地の犯罪組織、ンドランゲタは世界中にネットワークを張り巡らせ、ここドイツでも巨額の不正利益を上げる。年間十億ユーロにのぼる収益の要は麻薬密輸、特にコカインの取引だ。

 この車が事件と関係があり、所有者がマフィアと繋がっているなら。
 レストラン経営者の身に起きたことが、巨大な犯罪組織に生じた小さな綻びだとしたら。
 糸をたぐればンドランゲタの麻薬密輸ネットワークを壊滅できるかもしれない。
 だとすれば、この事件は長期にわたる戦略の序章だ。

「うまく突き止めたわね」
「最近、監視者リストを更新したとき、ヘンカー(処刑人)という名字が珍しいので覚えていたんです」
「よく覚えていてくれたわ」

 目を合わせてうなずくと、シャルロッテは頬を染めてうつむいた。

 ◇

 一時間後、ララはフランクフルトへ向かった。刑事警察がリヒャルト・ヘンカーの所在を突き止めたのだ。

 ヘンカーは取調室の椅子に座り、両手をズボンのポケットに突っ込んでいた。いかつい石のような顔に、後頭部でまとめた赤い髪。身長二メートル以上ありそうな大男だ。

 カリン・シェーファー上級警部が権利を告知してたずねた。
「十月五日土曜日のことをうかがいます。深夜二十三時半頃、どちらにいましたか?」

「その晩は家にずっといたな」

 同行にはおとなしく応じたが、目つきはふてぶてしい。

「そうですか。あなたの車が映像に映っているんです。運転していたのはあなたじゃなかったんですか?」

 ヘンカーはわざとらしく腕を組んだ。皮膚に刃物の傷はない。
 あの殺人現場で負傷したのは誰だったんだろう。

「ちょっと待てよ、土曜日の晩? そういえば確かに出かけたな」
「どこへ行ったんですか?」
「犬を捜してたんだ」
「犬?」

 ヘンカーがニヤついて口元を歪める。
「そう、うちの犬が逃げたんだ。それであちこち捜してた」

 シェーファーが冷笑を浮かべた。
「やけに遠くまで捜しに行ったんですね。誰かと一緒でした?」
「一人だったよ。さて、帰ってもいいのかな?」

「もう少しお付き合いいただきます」

 シェーファーが写真を出した。殺人現場のレストランに近づくシルバーの車が写っている。

「これもあなたの車ではないですか?」

 ヘンカーは一瞥して首を横に振った。

「そっちは俺のじゃない。似た車なんて腐るほどあるだろうが。証拠でもあるのか? ナンバーも映ってないじゃねえか」

 ◇

 ヘンカーの話には少しも納得できるところがなかった。犬を捜していたというのも見え透いた嘘だ。警察で何を聞かれるか知っていたように見える。

 取調室を出たシェーファーが苛立ちをぶちまけた。
「相手するのも馬鹿馬鹿しい。犬だなんて、信じるとでも思ってるのかしら」

 男は殺害されたオーナーと面識はなく、レストランへも行ったことがないと主張した。

「どちらも同じ車ね。時間も場所もつじつまが合う」

 しかし同定の決め手がない。明るい交差点と違い、レストランの前の道は暗すぎた。犬を捜していたという供述を覆す証拠もない。

「車は押収できた?」
「ええ、鑑識が車内を調べています。でもきっと掃除済みですよ」

 そうだろうか? ヘンカーが犯人なら、なぜ車を手放さなかったのだろう。
 組織ぐるみの犯行なら使った車は解体業者に渡し、死体は処分して行方不明に見せかけるのが常套手段だ。

 しかしザクセンハウゼンの事件は凶器ばかりか死体も置き去りで、隠蔽を試みた形跡がほとんどない。

 一方で、店の防犯カメラのスイッチはオフにされ、万能ハサミが消えている。

 パッチワークを複数の手で雑に縫い合わせたような、まとまりのなさ。 
 この事件にはどうもなところが多い。


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 バウマンは特殊部隊から移ってきた。デスクワークが不満なのはわかるが、露骨な反抗的態度の裏に何か隠れてはいないだろうか。たとえば家庭問題で荒れているとか。
 だとしても同情は湧いてこないが。
 ララは内心で溜め息をついた。いずれ話し合わないといけないだろう。
 書類に目を通し、サインが必要なものをまとめて横に置いた。
 胸のざわつきはバウマンのせいではない。
 異変に気づいたのは朝、玄関を出たとき。愛車のイビザのタイヤが潰れていたのだ。
 最悪!
 朝一でビデオ会議なのに。苛々しながら自動車連盟に電話した。
「すみません。タイヤがパンクしてしまって……」
 オペレーターと話しながら、ララの目はタイヤに釘付けになった。
 ぎざぎざの裂け目が二つ。
「あの、タイヤ、切られてるみたいなんです」
 会議は後日にずらしてもらった。
 昨夜はブレナーと会い、夜中に帰宅して車は家の前に駐めた。やられたのはそれから今朝までのあいだ。
 ブレナーは執務室にいた。青いシャツを身につけ、いつもどおり逞しく健康的だ。ララを見るなり、にやりと笑う。
「おはよう」
 完璧な微笑はすぐに曇った。
「どうかしたのか?」
 タイヤが刃物で切り裂かれていることは、やってきた警官も同意見だった。のこぎり状の大型ナイフの可能性があるという。
 ブレナーは眉間に皺を寄せた。
「組織がらみの脅しの線もありうるな」
 廊下を職員が通ったのでララは声を落とした。
「マルティナが今朝どこにいたか知ってる?」
「なぜそんなことを聞くんだ」
「昨夜は家にいた? 何時に寝室へ行った?」
「まさか彼女がやったと言うつもりじゃないだろう?」
「ミヒ、他にもあるの。彼女は私のメールアドレスも知ってる。教えたの?」
「落ち着いてくれ、いったい何の話だ」
 ララは届いたメールを見せた。ブレナーは表情を険しくしたが、首を横に振った。
「こんなことをする理由がない。考えすぎだ」
「でも自分で言ったじゃない、疑われてるって」
「この前会ったとき、車を運転しているところを見られたんだ。会議で遅くなると言ってあったから変に思ったようだ。でも作り話で切り抜けたよ」
「それで? マルティナは夜明け前に出かけなかった? ずっと家にいた?」
「あたりまえだ、こんな真似をする人間じゃない。メールの送信元を調べさせたらどうだ。きみの部下なら簡単だろう」
 心に氷が張った。彼が信頼を寄せる相手はララではなく、妻なのだ。
 嫉妬して言いがかりをつけているとでも思っているのだろうか。
「それは公私混同というものよ。私のチームは私に嫌がらせしてる人間を突き止めるためのものじゃないの」
 ドアの開く音が聞こえ、ララは口をつぐんだ。入ってきたのはシャルロッテだった。
「車両のナンバーですが、Uでヒットがありました」
 ブレナーに背を向け、検索結果の紙を受け取った。シュコダ・オクタヴィア、色はシルバー。
「シルバー? 映像では白に見えたけど」
「私もそう思ってました。夜間映像だし、光の加減じゃないでしょうか」
 所有者はリヒャルト・ヘンカーという男だった。
 シャルロッテが目を輝かせているのは車を特定できたからだけではなさそうだ。
「他にもわかったことがあるのね」
「はい。名前に見覚えがあって別のデータベースで照会をかけたら、要注意人物リストに載っている男でした」
 シャルロッテは声を弾ませた。
「コカイン密売グループと関係があり、内部情報ではンドランゲタとの接点も疑われています」
 イタリア南部カラーブリアが本拠地の犯罪組織、ンドランゲタは世界中にネットワークを張り巡らせ、ここドイツでも巨額の不正利益を上げる。年間十億ユーロにのぼる収益の要は麻薬密輸、特にコカインの取引だ。
 この車が事件と関係があり、所有者がマフィアと繋がっているなら。
 レストラン経営者の身に起きたことが、巨大な犯罪組織に生じた小さな綻びだとしたら。
 糸をたぐればンドランゲタの麻薬密輸ネットワークを壊滅できるかもしれない。
 だとすれば、この事件は長期にわたる戦略の序章だ。
「うまく突き止めたわね」
「最近、監視者リストを更新したとき、|ヘンカー《処刑人》という名字が珍しいので覚えていたんです」
「よく覚えていてくれたわ」
 目を合わせてうなずくと、シャルロッテは頬を染めてうつむいた。
 ◇
 一時間後、ララはフランクフルトへ向かった。刑事警察がリヒャルト・ヘンカーの所在を突き止めたのだ。
 ヘンカーは取調室の椅子に座り、両手をズボンのポケットに突っ込んでいた。いかつい石のような顔に、後頭部でまとめた赤い髪。身長二メートル以上ありそうな大男だ。
 カリン・シェーファー上級警部が権利を告知してたずねた。
「十月五日土曜日のことをうかがいます。深夜二十三時半頃、どちらにいましたか?」
「その晩は家にずっといたな」
 同行にはおとなしく応じたが、目つきはふてぶてしい。
「そうですか。あなたの車が映像に映っているんです。運転していたのはあなたじゃなかったんですか?」
 ヘンカーはわざとらしく腕を組んだ。皮膚に刃物の傷はない。
 あの殺人現場で負傷したのは誰だったんだろう。
「ちょっと待てよ、土曜日の晩? そういえば確かに出かけたな」
「どこへ行ったんですか?」
「犬を捜してたんだ」
「犬?」
 ヘンカーがニヤついて口元を歪める。
「そう、うちの犬が逃げたんだ。それであちこち捜してた」
 シェーファーが冷笑を浮かべた。
「やけに遠くまで捜しに行ったんですね。誰かと一緒でした?」
「一人だったよ。さて、帰ってもいいのかな?」
「もう少しお付き合いいただきます」
 シェーファーが写真を出した。殺人現場のレストランに近づくシルバーの車が写っている。
「これもあなたの車ではないですか?」
 ヘンカーは一瞥して首を横に振った。
「そっちは俺のじゃない。似た車なんて腐るほどあるだろうが。証拠でもあるのか? ナンバーも映ってないじゃねえか」
 ◇
 ヘンカーの話には少しも納得できるところがなかった。犬を捜していたというのも見え透いた嘘だ。警察で何を聞かれるか知っていたように見える。
 取調室を出たシェーファーが苛立ちをぶちまけた。
「相手するのも馬鹿馬鹿しい。犬だなんて、信じるとでも思ってるのかしら」
 男は殺害されたオーナーと面識はなく、レストランへも行ったことがないと主張した。
「どちらも同じ車ね。時間も場所もつじつまが合う」
 しかし同定の決め手がない。明るい交差点と違い、レストランの前の道は暗すぎた。犬を捜していたという供述を覆す証拠もない。
「車は押収できた?」
「ええ、鑑識が車内を調べています。でもきっと掃除済みですよ」
 そうだろうか? ヘンカーが犯人なら、なぜ車を手放さなかったのだろう。
 組織ぐるみの犯行なら使った車は解体業者に渡し、死体は処分して行方不明に見せかけるのが常套手段だ。
 しかしザクセンハウゼンの事件は凶器ばかりか死体も置き去りで、隠蔽を試みた形跡がほとんどない。
 一方で、店の防犯カメラのスイッチはオフにされ、万能ハサミが消えている。
 パッチワークを複数の手で雑に縫い合わせたような、まとまりのなさ。 
 この事件にはどうも《《いびつ》》なところが多い。