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8 黒猫、ハスキー、氷の女王

ー/ー



 水曜の午前十時半。
 シャルロッテ・ザイデルは自宅から持ってきたパンにチーズをはさんだ。
 朝は寝坊してコーヒーだけですませた。低血糖で死にそうだ。誰かが置いたケーキも一切れだけ取り、席に戻ると、隣の部屋で技術補佐のヤニック・ギーゼブレヒトがクラウスに紙カップのコーヒーを渡していた。

「ありがと、ヤニ」
「進展あった?」
「セッションキーっぽいのが四つ。一つは破損してる」

 二人は暗号化スマホを分析しているところだが、シャルロッテには彼らの会話こそが解読不能の暗号に思える。

「可変長エンコードかもな。独自レイヤー通ってない?」 
「うん、通ってる。これ受信者IDだな」
「構造が生きてるんじゃないか。うまくやれば再構築いけるぞ」

 ヤニックはキーを叩いた。

「試しにCyberChef(サイバーシェフ)に食わせてみる」

 ヤニックはシャルロッテが最も気兼ねしない同僚だ。長めの黒髪にスリム黒ジーンズ、一メートル九十センチの体を屈めてキーボードに向かう姿はおっとりした黒猫のよう。

 クラウスは最も興味をそそられる同僚だった。きりっとして優しそうで、透き通る青い目はシベリアン・ハスキーを彷彿とさせる。実際、正義感だけで吹雪の中を突っ走っていきそうだ。

 クールで仕事は完璧。けど集中するとまわりが見えなくなる。今もチョコバーの包み紙をポイと投げた。
 整った横顔は、ときどき昏い衝動に突き動かされているかに見える。

 ベッドでは変態かもしれない――シャルロッテはふと想像した。抑制されたマニアックな欲求が無頓着な振る舞いとして現れるとか。ありえるかな?

 つまるところ、ヤニックは心地よい距離感で安心を与えてくれ、クラウスは謎めいた佇まいで職業柄の分析欲を満たしてくれる。二人はシャルロッテにとって、それぞれ存在だった。

 サンドイッチをほおばり、端末に目を戻した。捜査協力して三日目。現場にいた不審な乗用車はまだ特定できていない。

 同じ時間帯の市内の映像を確認することにした。ザクセンハウゼン地区は監視がゆるいが、大きな交差点には警察の監視カメラがある。

 一つの映像がシャルロッテの目を引いた。

 ◇

「ザイデル、さっきの映像を皆にも説明して」

 ララ・ヴァイスが促した。シャルロッテはノートPCを会議室のディスプレイに繋げた。

「これは午前零時少し前のドライアイヒ通りです。例の不審車両と同型の車を発見しました」

 週末の大通り。白のシュコダ・オクタヴィアが交差点を直進し、マイン川にかかる橋を渡る。時刻は二十三時五十七分。

「この交差点は〈オリーブの木陰〉から車でちょうど五分。時間のつじつまが合います。同じ車の可能性はあると思います」
「ナンバーが映ってるのよね。FSに……O?」
「Oでは該当がありませんでした」
「Uかしら」

 眉根を寄せてディスプレイを睨むヴァイス。連邦刑事庁(BKA)に来る前は州警察にいた。現場をくぐってきた生え抜きの刑事だ。

「FSU6X3で照会してみて。だめなら似たプレートを全部洗うしかないわね」
「了解しましたっ」

 凜とした美貌にベリーショートの黒髪。心を見透かすような灰青色の目に見つめられ、シャルロッテはどきどきした。はあ……かっこよすぎる。
尊い(TOUTOI)」という、おたく系フォーラムで覚えた言葉が口から出そうになった。

「オリーヴァは暴力的で頻繁に口論していたようだけど、妻を容疑者扱いするのは早計」
 ヴァイスは手帳を閉じた。
「犯罪組織の線と並行して扱う方針よ。組織絡みなら素人か、見せしめの殺人ね」

 いつもヴァイスに突っかかるオスカー・バウマンが鼻で笑った。

「いわゆる女の直感ってやつですか?」

 はじめ、シャルロッテはバウマンを規律正しい軍人タイプかと思った。もう撤回している。どちらかというと、ドラマの型破り刑事っぽい。
 最後に大事件を解決するような華々しい活躍は期待できそうにないけれど。

 ヴァイスは彼をやけに長く見つめた。
「いいえ、状況から推測できるの。死体を放置するのはプロにしては杜撰すぎる。少なくとも口封じではない。女の勘がどうとか言う前に頭で考えたらどうかしら」

 みんなが息を呑んで見守る前でバウマンは顔を真っ赤にした。面子(メンツ)をつぶされたのだ。


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 水曜の午前十時半。
 シャルロッテ・ザイデルは自宅から持ってきたパンにチーズをはさんだ。
 朝は寝坊してコーヒーだけですませた。低血糖で死にそうだ。誰かが置いたケーキも一切れだけ取り、席に戻ると、隣の部屋で技術補佐のヤニック・ギーゼブレヒトがクラウスに紙カップのコーヒーを渡していた。
「ありがと、ヤニ」
「進展あった?」
「セッションキーっぽいのが四つ。一つは破損してる」
 二人は暗号化スマホを分析しているところだが、シャルロッテには彼らの会話こそが解読不能の暗号に思える。
「可変長エンコードかもな。独自レイヤー通ってない?」 
「うん、通ってる。これ受信者IDだな」
「構造が生きてるんじゃないか。うまくやれば再構築いけるぞ」
 ヤニックはキーを叩いた。
「試しに|CyberChef《サイバーシェフ》に食わせてみる」
 ヤニックはシャルロッテが最も気兼ねしない同僚だ。長めの黒髪にスリム黒ジーンズ、一メートル九十センチの体を屈めてキーボードに向かう姿はおっとりした黒猫のよう。
 クラウスは最も興味をそそられる同僚だった。きりっとして優しそうで、透き通る青い目はシベリアン・ハスキーを彷彿とさせる。実際、正義感だけで吹雪の中を突っ走っていきそうだ。
 クールで仕事は完璧。けど集中するとまわりが見えなくなる。今もチョコバーの包み紙をポイと投げた。
 整った横顔は、ときどき昏い衝動に突き動かされているかに見える。
 ベッドでは変態かもしれない――シャルロッテはふと想像した。抑制されたマニアックな欲求が無頓着な振る舞いとして現れるとか。ありえるかな?
 つまるところ、ヤニックは心地よい距離感で安心を与えてくれ、クラウスは謎めいた佇まいで職業柄の分析欲を満たしてくれる。二人はシャルロッテにとって、それぞれ《《落ち着く》》存在だった。
 サンドイッチをほおばり、端末に目を戻した。捜査協力して三日目。現場にいた不審な乗用車はまだ特定できていない。
 同じ時間帯の市内の映像を確認することにした。ザクセンハウゼン地区は監視がゆるいが、大きな交差点には警察の監視カメラがある。
 一つの映像がシャルロッテの目を引いた。
 ◇
「ザイデル、さっきの映像を皆にも説明して」
 ララ・ヴァイスが促した。シャルロッテはノートPCを会議室のディスプレイに繋げた。
「これは午前零時少し前のドライアイヒ通りです。例の不審車両と同型の車を発見しました」
 週末の大通り。白のシュコダ・オクタヴィアが交差点を直進し、マイン川にかかる橋を渡る。時刻は二十三時五十七分。
「この交差点は〈オリーブの木陰〉から車でちょうど五分。時間のつじつまが合います。同じ車の可能性はあると思います」
「ナンバーが映ってるのよね。FSに……O?」
「Oでは該当がありませんでした」
「Uかしら」
 眉根を寄せてディスプレイを睨むヴァイス。連邦刑事庁《BKA》に来る前は州警察にいた。現場をくぐってきた生え抜きの刑事だ。
「FSU6X3で照会してみて。だめなら似たプレートを全部洗うしかないわね」
「了解しましたっ」
 凜とした美貌にベリーショートの黒髪。心を見透かすような灰青色の目に見つめられ、シャルロッテはどきどきした。はあ……かっこよすぎる。
「|尊い《TOUTOI》」という、おたく系フォーラムで覚えた言葉が口から出そうになった。
「オリーヴァは暴力的で頻繁に口論していたようだけど、妻を容疑者扱いするのは早計」
 ヴァイスは手帳を閉じた。
「犯罪組織の線と並行して扱う方針よ。組織絡みなら素人か、見せしめの殺人ね」
 いつもヴァイスに突っかかるオスカー・バウマンが鼻で笑った。
「いわゆる女の直感ってやつですか?」
 はじめ、シャルロッテはバウマンを規律正しい軍人タイプかと思った。もう撤回している。どちらかというと、ドラマの型破り刑事っぽい。
 最後に大事件を解決するような華々しい活躍は期待できそうにないけれど。
 ヴァイスは彼をやけに長く見つめた。
「いいえ、状況から推測できるの。死体を放置するのはプロにしては杜撰すぎる。少なくとも口封じではない。女の勘がどうとか言う前に頭で考えたらどうかしら」
 みんなが息を呑んで見守る前でバウマンは顔を真っ赤にした。面子《メンツ》をつぶされたのだ。