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6 鍵のかかった箱

ー/ー



 ブレナーはマインツの自宅とは別に、仕事で遅くなる日のためにヴィースバーデン市内に家を借りている。今夜もそこで会う約束だ。

 ララは庁舎に戻って一時間ほど書類仕事をした。ふと殺人現場から消えたハサミの件が頭に浮かんだ。

 アニータにも電話で尋ねたところ、少し前に購入したもので、最後に見たときは確かに倉庫にあったという。しかし州警察の捜索では見つからなかった。

 床の血痕と関係があるのだろうか。

 インターネットで商品画像を探すと、オレンジ色の万能ハサミで、刃渡りは八センチ。これで切り付けられたら医者が必要になるだろう。

 防御創なら手や腕に傷ができる。アニータの手に傷はなく、従業員も目立つ怪我はしていない。怪しい態度をみせた、あの料理人は気になるが。

 息をついてデスクトップ端末の電源を落とした。壁の時計を見ると、午後七時。続きは明日にしよう。

 オフィスのドアが開いて、鑑識技術者のクラウス・コスタンティーニが入ってきた。
 ララはちょうど端末の解析状況を知りたいと思っていたところだった。

「アプリのデータベースを取れたんで、明日から手動解析で鍵を探します。最悪で何週間か必要になるかもしれません」

 いつものことだが、ララは彼の話を理解できたかどうか自信がなかった。

「そのって今朝も言ってたけど、実際にはどういうもの?」

 クラウスは報告書をデスクに置いて来客用の椅子に腰を下ろした。

「暗号化通信っていうのは、手紙を細かく破って、鍵付きの箱で送るようなことです」
「鍵がないと読めないってこと?」
「そう。鍵は箱を開けて、破れた手紙を元に戻すために必要です。凄く複雑な鍵です。無理やりこじ開けようとしたら途方もない時間がかかる」
「なるほどね」

 難解な領域に突入しそうなので質問はやめておいた。

「暗号化の技術それ自体は珍しいものじゃないんです。僕らが普段使うチャットアプリもエンドツーエンド暗号化されてる。エレボスのほうが圧倒的に厄介だけど」
「とにかく、鍵がわかればチャット内容を読めるわけね」

 クラウスは言葉を探しながら、頬にかかる金髪をかきあげた。

「理論上は。でも周辺情報もとれてるんで、併せて分析します。全体を把握する手がかりになるので」

 ララは自分に届く嫌がらせのようなメールのことを考えた。

「その手がかりで通信相手はわかるの?」
「可能性はありますが、犯罪組織向けのガチなやつなんでほぼ確実にVPNを張ってる。駄目でも、データベースと照合して芋づる式に仲間を洗い出せる確率は高いですよ」
「メールの場合は?」

 彼はいっとき戸惑いをみせた。

「メール?」
「そう。差出人を特定することはできる?」

 痕跡を辿るということでは関連するテーマだったらしい。話の方向転換を不審に思ったふうもなく、クラウスは考えながら回転チェアを左右に揺らした。

「匿名アカウントだと厳しい。逆に大手プロバイダなら簡単にわかります。裁判所命令が要りますが……捜査に関することですか?」
「いいえ。じゃ、引き続きお願い。他に私が知っておくことは?」
「別件ですが……」

 クラウスの声は耳を素通りしていった。さっき届いたメールの文面が頭にこびりついている。

 ――あんたが彼といるのを見ると吐き気がする!

 頭から追い払おうとすると、かえって気になった。昨日からスマートフォンに通知が出るたびにどきりとする。
 ブレナーの声が蘇った。

 ――最近、マルティナが勘ぐってるみたいなんだ。

 彼の妻マルティナとは、ララは国際シンポジウムで紹介されたときから面識があった。
 ブレナーと会っているのを見られたのだろうか。どうやって業務用メールアドレスを調べたんだろう……

「ヴァイス?」

 ララは呼ばれて我に返った。クラウスにじっと見られていることに気がついた。

「何か問題があるんですか?」

 不倫相手の妻に報復されているかもしれないとは言えない。しかも相手は部門長のミヒャレル・ブレナー。
 それに、と思う。自分は組織犯罪捜査のリーダーだ。中傷にびくついているところなど見せられない。

「何でもないの。私……じゃなくて妹に変なメールが来るらしいの。ただの迷惑メールだろうけどね」
「そうなんですか」

 自分の部下について何も知らないことを、また思い出す。会話が業務の話だけなのは、あまりいいことではないだろう。
 連邦刑事庁(BKA)に移って四年目、初めて指揮を任されたチームだ。
 ララは咳払いした。

「家族って何かと放っておけないものよね。あなた、兄弟姉妹は?」

 クラウスの目が硬くなり、唇が引き結ばれた。

「いません」

 つっけんどんな返答にララは少し戸惑った。何か触れてはいけないことでも聞いただろうか。
 クラウスは気まずそうに腰を上げたが、すぐに微笑を向けてきた。そんな懸念を打ち消そうとするかのように。

「じゃ、また明日」

 彼は廊下に出ていき、ガラスドアが閉まった。


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 ブレナーはマインツの自宅とは別に、仕事で遅くなる日のためにヴィースバーデン市内に家を借りている。今夜もそこで会う約束だ。
 ララは庁舎に戻って一時間ほど書類仕事をした。ふと殺人現場から消えたハサミの件が頭に浮かんだ。
 アニータにも電話で尋ねたところ、少し前に購入したもので、最後に見たときは確かに倉庫にあったという。しかし州警察の捜索では見つからなかった。
 床の血痕と関係があるのだろうか。
 インターネットで商品画像を探すと、オレンジ色の万能ハサミで、刃渡りは八センチ。これで切り付けられたら医者が必要になるだろう。
 防御創なら手や腕に傷ができる。アニータの手に傷はなく、従業員も目立つ怪我はしていない。怪しい態度をみせた、あの料理人は気になるが。
 息をついてデスクトップ端末の電源を落とした。壁の時計を見ると、午後七時。続きは明日にしよう。
 オフィスのドアが開いて、鑑識技術者のクラウス・コスタンティーニが入ってきた。
 ララはちょうど端末の解析状況を知りたいと思っていたところだった。
「アプリのデータベースを取れたんで、明日から手動解析で鍵を探します。最悪で何週間か必要になるかもしれません」
 いつものことだが、ララは彼の話を理解できたかどうか自信がなかった。
「その《《鍵》》って今朝も言ってたけど、実際にはどういうもの?」
 クラウスは報告書をデスクに置いて来客用の椅子に腰を下ろした。
「暗号化通信っていうのは、手紙を細かく破って、鍵付きの箱で送るようなことです」
「鍵がないと読めないってこと?」
「そう。鍵は箱を開けて、破れた手紙を元に戻すために必要です。凄く複雑な鍵です。無理やりこじ開けようとしたら途方もない時間がかかる」
「なるほどね」
 難解な領域に突入しそうなので質問はやめておいた。
「暗号化の技術それ自体は珍しいものじゃないんです。僕らが普段使うチャットアプリもエンドツーエンド暗号化されてる。エレボスのほうが圧倒的に厄介だけど」
「とにかく、鍵がわかればチャット内容を読めるわけね」
 クラウスは言葉を探しながら、頬にかかる金髪をかきあげた。
「理論上は。でも周辺情報もとれてるんで、併せて分析します。全体を把握する手がかりになるので」
 ララは自分に届く嫌がらせのようなメールのことを考えた。
「その手がかりで通信相手はわかるの?」
「可能性はありますが、犯罪組織向けのガチなやつなんでほぼ確実にVPNを張ってる。駄目でも、データベースと照合して芋づる式に仲間を洗い出せる確率は高いですよ」
「メールの場合は?」
 彼はいっとき戸惑いをみせた。
「メール?」
「そう。差出人を特定することはできる?」
 痕跡を辿るということでは関連するテーマだったらしい。話の方向転換を不審に思ったふうもなく、クラウスは考えながら回転チェアを左右に揺らした。
「匿名アカウントだと厳しい。逆に大手プロバイダなら簡単にわかります。裁判所命令が要りますが……捜査に関することですか?」
「いいえ。じゃ、引き続きお願い。他に私が知っておくことは?」
「別件ですが……」
 クラウスの声は耳を素通りしていった。さっき届いたメールの文面が頭にこびりついている。
 ――あんたが彼といるのを見ると吐き気がする!
 頭から追い払おうとすると、かえって気になった。昨日からスマートフォンに通知が出るたびにどきりとする。
 ブレナーの声が蘇った。
 ――最近、マルティナが勘ぐってるみたいなんだ。
 彼の妻マルティナとは、ララは国際シンポジウムで紹介されたときから面識があった。
 ブレナーと会っているのを見られたのだろうか。どうやって業務用メールアドレスを調べたんだろう……
「ヴァイス?」
 ララは呼ばれて我に返った。クラウスにじっと見られていることに気がついた。
「何か問題があるんですか?」
 不倫相手の妻に報復されているかもしれないとは言えない。しかも相手は部門長のミヒャレル・ブレナー。
 それに、と思う。自分は組織犯罪捜査のリーダーだ。中傷にびくついているところなど見せられない。
「何でもないの。私……じゃなくて妹に変なメールが来るらしいの。ただの迷惑メールだろうけどね」
「そうなんですか」
 自分の部下について何も知らないことを、また思い出す。会話が業務の話だけなのは、あまりいいことではないだろう。
 連邦刑事庁《BKA》に移って四年目、初めて指揮を任されたチームだ。
 ララは咳払いした。
「家族って何かと放っておけないものよね。あなた、兄弟姉妹は?」
 クラウスの目が硬くなり、唇が引き結ばれた。
「いません」
 つっけんどんな返答にララは少し戸惑った。何か触れてはいけないことでも聞いただろうか。
 クラウスは気まずそうに腰を上げたが、すぐに微笑を向けてきた。そんな懸念を打ち消そうとするかのように。
「じゃ、また明日」
 彼は廊下に出ていき、ガラスドアが閉まった。