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5 刃物と血痕

ー/ー



 殺人現場となったレストラン〈オリーブの木陰〉はマイン川の南岸、ザクセンハウゼン地区にある。
 道すがら、ララは病気の女の子のことを考えた。

「あんなに小さいのに、可哀想ね」

 シェーファー主任警部がうなずく。

「国の補助は出るけど、治療費の負担は大きいみたいです。うちのボスも、親戚が病気で……」

 シェーファーは上司の話をはじめた。職場の人間と仕事を超えた付き合いがあるようだ。

 SO56課にはまだそこまでの親密さはない。ララは部下の勤務評定と適性を熟知しているが、家族のことは何も知らない。

 打ち解けられないのは自分だけで、チームメンバー同士はもう親しくなっているのかもしれないが。

「例の端末はどうですか?」
「コスタンティーニたちが解析をはじめたところ。私の予想よりも難航しそうなの」

 レストランは封鎖が一部解除されていた。今日は警察が従業員を呼んで供述の検証をしている。

 格子柄のテーブルクロス、漆喰の壁に古い街並みの白黒写真。地元の常連客が多そうな店だ。
 彫りの深い顔の若者が刑事と話していた。ララは近づいて身分を名乗った。

「ケマルさんですね。アニータの家で写真を見ました。ここで働きはじめてどのくらいですか?」
「半年ほどです」

 トルコ国籍の従業員、ケマル・カヤは内気そうな青年だった。

「遺体を見つけたときのことを再現していただけますか? あの晩、見たとおりに」
「友達とクラブに行くはずだったんです」

 何度も警察に説明したからか、受け答えは落ち着いている。

「でも、ここに財布を忘れちゃって。それで零時半頃に戻ってきました」

 ララとシェーファーは店の奥に入る彼の後に続いた。

「ワインが届いていたので、ついでに箱から出しておこうと思って」
「それで?」
「ハサミを捜してここへ入ったら……オリーヴァさんが倒れていて」

 倉庫を兼ねた休憩スペース。死体は運び出されたが、血だまりがまだ残っている。
 少し離れた場所に、別の乾いた血痕――上から数滴垂れたような。
 倒れた場所で襲われたなら、この血は不自然だ。

「スタッフで手や腕に怪我をしている人は?」
「いえ、誰も」
「オリーヴァさんと奥さんの関係はどうでした?」
「関係……ですか」

 ケマルが躊躇した。

「ここで言ったことは外部に漏れないから話してほしいの。奥さんを殴ることがあったのは知っている?」

「はい」柔和な顔が曇る。

 話しぶりから察するに、店の者も薄々勘づいていた。アニータは以前も顔に痣があり、そのたびに家で転んだと言っていたという。
 店の中にも争いの火種はあった。

「アニータはよく、もう我慢できないって」
「何がかしら?」
「わかりません。僕が行くと二人とも黙るので」
「オリーヴァさんは雇い主としてはどうでした? あなたがた従業員に対して、ですけど。声を荒げたりは?」
「えっと……」

 ケマルは言い淀んで店の外を見やった。そこでは別のスタッフらしき男が刑事の質問に答えている。

「何か気になるの?」

 男のほうも気づいたようだ。一瞬、ガラス越しに二人が睨み合ったように見えた。ケマルが先に目をそらした。

「いえ、別に。僕はオーナーとアニータにはよくしてもらってました。何も問題ありませんでした」

 ララは外に出て、ケマルが気にしていた男に近づいた。
「連邦の捜査官のヴァイスです。あなたは?」

「ドメニコ・メルロ」と男は答えた。「厨房で働いてる。警察が現場で話を聞きたいっていうから来た」

「いくつか質問させてください。事件の晩、何時までここにいましたか?」
「全部警察に話したんですけどね」

 黒いダウンジャケットの肩をすくめる。大柄で髭を生やしているせいか、前に立つと威圧感があった。

「翌週分の仕込みがあったんで、十一時少し前まで。オーナーは一人でバックヤードにいたよ。何も変わった様子はなかった」

 被害者とスタッフの関係をたずねたとき、ケマルはこの料理人を睨んでいたように見えた。何があるのだろう。

「あなたとオリーヴァさんの関係は良好でしたか?」

 ドメニコは顔をしかめてポケットに両手を突っ込んだ。
「問題ありませんでしたよ」

 本当だろうか。
 シェーファーが近くへ来て声を落とした。

「例の滴下血痕ですが、DNA鑑定の結果が出たそうです。被害者とは一致しません。別人です」

 倉庫の床の血痕のことだ。

「あそこで激しい争いがあったのは間違いなさそうね」
「鑑識は刃物の可能性をあげています。出血はさほど多くなかったようですが」
「凶器の燭台に付着していた血は?」
「被害者のDNAだけです」

 現場から血のついた刃物は発見されていない。ララはケマルを振り返った。

「ここへ来たとき、ハサミを捜していたと言いましたね」
「は、はい」
「どんなものですか?」

 質問の意図がわからない青年は怪訝な顔をした。

「ダンボールとかを切れる頑丈なやつです」
「見つかりましたか?」
「いえ。オリーヴァさんが倒れていたので、それどころではなくなったし……」

 血は簡単には拭き取れない。微量でも検出される。凶器から被害者の血液しか出ないなら、犯人は傷ついた手で攻撃したのではない。
 ならば負傷は殺害のあと? それとも現場にもう一人、他の人間がいた?

 少なくとも加害者が切り傷を負っている可能性が一気に高まった。

 ララは車に戻りながらスマートフォンを見やった。通知が二件。

[二十一時に、いつもの場所で]

 ブレナーだ。もう一つは新着メールだった。
______________
件名: (件名なし)
差出人: [email protected]
宛先: [email protected]
日付: 20XX年10月8日 12:30

あんたが彼といるのを見ると吐き気がする!
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 殺人現場となったレストラン〈オリーブの木陰〉はマイン川の南岸、ザクセンハウゼン地区にある。
 道すがら、ララは病気の女の子のことを考えた。
「あんなに小さいのに、可哀想ね」
 シェーファー主任警部がうなずく。
「国の補助は出るけど、治療費の負担は大きいみたいです。うちのボスも、親戚が病気で……」
 シェーファーは上司の話をはじめた。職場の人間と仕事を超えた付き合いがあるようだ。
 SO56課にはまだそこまでの親密さはない。ララは部下の勤務評定と適性を熟知しているが、家族のことは何も知らない。
 打ち解けられないのは自分だけで、チームメンバー同士はもう親しくなっているのかもしれないが。
「例の端末はどうですか?」
「コスタンティーニたちが解析をはじめたところ。私の予想よりも難航しそうなの」
 レストランは封鎖が一部解除されていた。今日は警察が従業員を呼んで供述の検証をしている。
 格子柄のテーブルクロス、漆喰の壁に古い街並みの白黒写真。地元の常連客が多そうな店だ。
 彫りの深い顔の若者が刑事と話していた。ララは近づいて身分を名乗った。
「ケマルさんですね。アニータの家で写真を見ました。ここで働きはじめてどのくらいですか?」
「半年ほどです」
 トルコ国籍の従業員、ケマル・カヤは内気そうな青年だった。
「遺体を見つけたときのことを再現していただけますか? あの晩、見たとおりに」
「友達とクラブに行くはずだったんです」
 何度も警察に説明したからか、受け答えは落ち着いている。
「でも、ここに財布を忘れちゃって。それで零時半頃に戻ってきました」
 ララとシェーファーは店の奥に入る彼の後に続いた。
「ワインが届いていたので、ついでに箱から出しておこうと思って」
「それで?」
「ハサミを捜してここへ入ったら……オリーヴァさんが倒れていて」
 倉庫を兼ねた休憩スペース。死体は運び出されたが、血だまりがまだ残っている。
 少し離れた場所に、別の乾いた血痕――上から数滴垂れたような。
 倒れた場所で襲われたなら、この血は不自然だ。
「スタッフで手や腕に怪我をしている人は?」
「いえ、誰も」
「オリーヴァさんと奥さんの関係はどうでした?」
「関係……ですか」
 ケマルが躊躇した。
「ここで言ったことは外部に漏れないから話してほしいの。奥さんを殴ることがあったのは知っている?」
「はい」柔和な顔が曇る。
 話しぶりから察するに、店の者も薄々勘づいていた。アニータは以前も顔に痣があり、そのたびに家で転んだと言っていたという。
 店の中にも争いの火種はあった。
「アニータはよく、もう我慢できないって」
「何がかしら?」
「わかりません。僕が行くと二人とも黙るので」
「オリーヴァさんは雇い主としてはどうでした? あなたがた従業員に対して、ですけど。声を荒げたりは?」
「えっと……」
 ケマルは言い淀んで店の外を見やった。そこでは別のスタッフらしき男が刑事の質問に答えている。
「何か気になるの?」
 男のほうも気づいたようだ。一瞬、ガラス越しに二人が睨み合ったように見えた。ケマルが先に目をそらした。
「いえ、別に。僕はオーナーとアニータにはよくしてもらってました。何も問題ありませんでした」
 ララは外に出て、ケマルが気にしていた男に近づいた。
「連邦の捜査官のヴァイスです。あなたは?」
「ドメニコ・メルロ」と男は答えた。「厨房で働いてる。警察が現場で話を聞きたいっていうから来た」
「いくつか質問させてください。事件の晩、何時までここにいましたか?」
「全部警察に話したんですけどね」
 黒いダウンジャケットの肩をすくめる。大柄で髭を生やしているせいか、前に立つと威圧感があった。
「翌週分の仕込みがあったんで、十一時少し前まで。オーナーは一人でバックヤードにいたよ。何も変わった様子はなかった」
 被害者とスタッフの関係をたずねたとき、ケマルはこの料理人を睨んでいたように見えた。何があるのだろう。
「あなたとオリーヴァさんの関係は良好でしたか?」
 ドメニコは顔をしかめてポケットに両手を突っ込んだ。
「問題ありませんでしたよ」
 本当だろうか。
 シェーファーが近くへ来て声を落とした。
「例の滴下血痕ですが、DNA鑑定の結果が出たそうです。被害者とは一致しません。別人です」
 倉庫の床の血痕のことだ。
「あそこで激しい争いがあったのは間違いなさそうね」
「鑑識は刃物の可能性をあげています。出血はさほど多くなかったようですが」
「凶器の燭台に付着していた血は?」
「被害者のDNAだけです」
 現場から血のついた刃物は発見されていない。ララはケマルを振り返った。
「ここへ来たとき、ハサミを捜していたと言いましたね」
「は、はい」
「どんなものですか?」
 質問の意図がわからない青年は怪訝な顔をした。
「ダンボールとかを切れる頑丈なやつです」
「見つかりましたか?」
「いえ。オリーヴァさんが倒れていたので、それどころではなくなったし……」
 血は簡単には拭き取れない。微量でも検出される。凶器から被害者の血液しか出ないなら、犯人は傷ついた手で攻撃したのではない。
 ならば負傷は殺害のあと? それとも現場にもう一人、他の人間がいた?
 少なくとも加害者が切り傷を負っている可能性が一気に高まった。
 ララは車に戻りながらスマートフォンを見やった。通知が二件。
[二十一時に、いつもの場所で]
 ブレナーだ。もう一つは新着メールだった。
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件名: (件名なし)
差出人: [email protected]
宛先: [email protected]
日付: 20XX年10月8日 12:30
あんたが彼といるのを見ると吐き気がする!
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