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#5 異形の弾力

ー/ー



 変異したグールとエレンが、真正面からぶつかった。

 踏み込みの一歩で、床石が砕ける。

 ただの魔物ではない。白く膨れ上がった巨体。濁った眼。垂れた肉と歪な骨格だけを見れば、鈍重な肉塊にしか映らない。だが、その足運びは異様なほど細かかった。巨腕を振るう直前、腰がわずかに沈む。肩の傾きに合わせて重心がずれ、次の軌道へ肉体全体が滑り込んでいく。

(……私の動きを、追っているな。この図体で、この緻密さか)

「グォォォォッ!!」

 濁った咆哮が水路に叩きつけられた。

 変異グールの右腕が、頭上から落ちる。鉄槌のような一撃。まともに受ければ、骨ごと潰れる。

 エレンは下がらない。

 半身を捻り、足裏で濡れた床を噛む。振り下ろされる巨腕へ回転蹴りを合わせた。止めるための蹴りではない。外へ弾く。力の芯を横へずらし、落下する軌道をわずかに逸らす。

 巨腕が水路の壁を抉った。

 その一瞬、胴が空いた隙にエレンの剣が走った。

「む……」

 だが。
 
 斬った感触ではなかった。

 刃が肉へ届くより先に、分厚い表層がぶよりとたわむ。衝撃を呑み込み、押し返す。柔らかい。だが、脆くない。切り裂くはずの力が、ぬめった弾力の中で鈍く殺されていく。

(……表層は脂か。いや、ただの脂ではないな。弾力で刃を殺し、その奥の筋肉で止めている。面倒な身体だ)

 白い皮膚がゴムのように歪み、その奥で太い筋肉がしなった。鈍い肉の塊に見えて、構造そのものが斬撃を受け流すようにできている。

 単純に斬り込むだけでは、届かない。

 そう判断するより早く、グールの腕がぬるりと伸びた。

 白い指が、エレンの足首を掴む。

「……!」

 水路の景色が反転した。

 人間ひとりを石ころのように振り回す膂力。濁った水飛沫が弧を描き、壁が横から迫る。エレンは抵抗しない。身体を固めず、掴まれた足を軸に力の流れへ乗った。

 投げられる方向へ、あえて身を預ける。

 衝突の寸前、靴裏が石壁に触れた。

 エレンは壁を蹴る。

 投げの勢いは殺さない。角度だけを変え、次の加速へつなぐ。弾かれた銀の影が、水路の空気を裂いて戻った。

『エレン、大丈夫!?』

「無論だ。この程度、どうにでも捌ける。——だが、厄介なのはあの弾力だな」

 着地した剣先が、濡れた床すれすれに落ちる。

 エレンは低く構え直した。

「まあ、斬って駄目なら突いてみろ、というところか」

 言葉の終わりに、二つの影が同時に動いた。

 変異グールの突進は、水路そのものを壊しながら迫ってくる。白い巨体が壁を削り、砕けた石片と汚水を撒き散らす。一本道の水路で、逃げ場は少ない。正面から受ければ、肉体ごと壁に塗り込められる。

 それでもエレンは、正面に立った。

 そして、消えた。

 いや、沈んだ。

 地を這うほど低く身を倒し、突進する巨体の下へ滑り込む。狙いは胴ではない。首でもない。あの質量を支える、足首。

 ただ一点。

 水面が裂けた。スライディングの速度に、剣の切っ先が重なる。刃はぬめる皮膚を割り、弾力を押し潰し、その奥へ届いた。

 今度は、違う。

 確かな手応えが返る。筋と骨の境目を断つ、乾いた芯のある感触。

 エレンは滑り抜けた勢いのまま身を起こし、剣先を払った。緑がかった血が水面に散る。

「なるほど。強度はこの程度か。——速度を乗せれば、斬れないこともないな」

 変異グールの喉の奥で、濁った唸りが転がった。

 裂かれた足首から血が垂れ、汚水に緑の筋を引く。痛みへの反応はある。動きにも乱れが出た。だが、止まらない。むしろ、床を踏む音が一段荒くなる。

 巨体がまた、前へ出た。

「その肉体があれば、戦闘で困ることはあるまい。——だが、所詮はグール。そこまでの知能はない、か」

 エレンは逃げない。

 自分の脚力だけでは、あの異様な肉へ深く通すには足りない。ならば、足りない分は相手に払わせる。迫る質量。走る速度。圧し潰そうとする力。そのすべてを、こちらの刃へ乗せる。

 最後の一歩で、エレンの膝がわずかに沈んだ。

 狙いは、最も柔らかく、最も奥へ届く一点。

 ——目。

 交差の瞬間、銀閃が水路を裂いた。

 剣はほとんど抵抗を覚えないまま、白濁した眼球を貫く。その奥へ。さらに深く。柄元、鍔の手前まで沈み込む。

「ギョエェェェェェェェェッ!!」

 絶叫が水路を揺らした。

 濁った水面がびりびりと震え、天井の継ぎ目から細かな砂が落ちる。変異グールは顔を歪ませ、刺さった剣を抜こうとするように左腕を振り上げた。

「——っと。これは……痛そうだ」

 声だけは軽い。

 だが、深紅の瞳は一切揺れなかった。

「ははっ。そんなに抜いてほしいなら——お望み通り、抜いてやろう」

 エレンはグールの胸を蹴った。

 反動で身体が離れる。距離が開くのと同時に、剣が眼窩から一気に引き抜かれた。

 ぶちゅり、と湿った音が鳴る。

 緑の血が弧を描き、白い顔面を汚した。変異グールの巨体が大きく傾く。片目は潰れ、顔の半分がどろりと崩れていた。

 それでも、倒れない。

 片膝をつくだけで踏みとどまる。その異常な生命力が、水路の空気を一段重くした。

「今、楽にしてやる」

 エレンが歩み寄る。

 その一歩に合わせ、変異グールの腕が足元の瓦礫を掴んだ。砕けた壁材をまとめて握り込み、怒りのまま投げつける。

 速い。

 だが、直線だ。

 エレンの剣が短く閃いた。飛来した瓦礫が空中で割れ、細かな破片となって散る。頬のすぐ横を石片がかすめたが、歩みは止まらない。

「……よく暴れる」

 片膝をついたままなお抵抗する白い怪物を見据え、エレンはわずかに目を細めた。

(先ほどの突きは、手応えからして脳にまで届いたはず……。それでも動くか。肉体面に関しては、末恐ろしいな)

 変異グールの息が荒い。

 頭を垂れ、肩を上下させ、潰れた眼窩から緑の血を滴らせる。濁った水面に血が落ちるたび、薄い波紋が広がった。

 まだ、生きている。

 ならば、今度こそ落とすだけだ。

「ふっ!!!!」

 踏み込みと同時に、エレンの剣が上段から振り下ろされた。

 狙いは首筋。

 ぶ厚い白皮が裂ける。下の筋肉が刃を噛み、押し返そうと蠢いた。だが、角度は合っている。踏み込み、体重、腕の振り、刃の軌道。そのすべてが一点に重なった。

 抵抗する筋繊維が、一本ずつ断たれていく。

 ぶち、ぶち、と湿った断裂音が続いた。

 白い肉が裂ける。筋が切れる。刃を押し返していた力が、少しずつ弱まった。

 そして。

 最後の筋が、切れる。

 変異グールの首が宙を舞った。

 緑の血飛沫が噴き上がり、白い胴体が遅れて前のめりに崩れ落ちる。首は濁った水面を二度跳ね、壁際でようやく止まった。


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 変異したグールとエレンが、真正面からぶつかった。
 踏み込みの一歩で、床石が砕ける。
 ただの魔物ではない。白く膨れ上がった巨体。濁った眼。垂れた肉と歪な骨格だけを見れば、鈍重な肉塊にしか映らない。だが、その足運びは異様なほど細かかった。巨腕を振るう直前、腰がわずかに沈む。肩の傾きに合わせて重心がずれ、次の軌道へ肉体全体が滑り込んでいく。
(……私の動きを、追っているな。この図体で、この緻密さか)
「グォォォォッ!!」
 濁った咆哮が水路に叩きつけられた。
 変異グールの右腕が、頭上から落ちる。鉄槌のような一撃。まともに受ければ、骨ごと潰れる。
 エレンは下がらない。
 半身を捻り、足裏で濡れた床を噛む。振り下ろされる巨腕へ回転蹴りを合わせた。止めるための蹴りではない。外へ弾く。力の芯を横へずらし、落下する軌道をわずかに逸らす。
 巨腕が水路の壁を抉った。
 その一瞬、胴が空いた隙にエレンの剣が走った。
「む……」
 だが。
 斬った感触ではなかった。
 刃が肉へ届くより先に、分厚い表層がぶよりとたわむ。衝撃を呑み込み、押し返す。柔らかい。だが、脆くない。切り裂くはずの力が、ぬめった弾力の中で鈍く殺されていく。
(……表層は脂か。いや、ただの脂ではないな。弾力で刃を殺し、その奥の筋肉で止めている。面倒な身体だ)
 白い皮膚がゴムのように歪み、その奥で太い筋肉がしなった。鈍い肉の塊に見えて、構造そのものが斬撃を受け流すようにできている。
 単純に斬り込むだけでは、届かない。
 そう判断するより早く、グールの腕がぬるりと伸びた。
 白い指が、エレンの足首を掴む。
「……!」
 水路の景色が反転した。
 人間ひとりを石ころのように振り回す膂力。濁った水飛沫が弧を描き、壁が横から迫る。エレンは抵抗しない。身体を固めず、掴まれた足を軸に力の流れへ乗った。
 投げられる方向へ、あえて身を預ける。
 衝突の寸前、靴裏が石壁に触れた。
 エレンは壁を蹴る。
 投げの勢いは殺さない。角度だけを変え、次の加速へつなぐ。弾かれた銀の影が、水路の空気を裂いて戻った。
『エレン、大丈夫!?』
「無論だ。この程度、どうにでも捌ける。——だが、厄介なのはあの弾力だな」
 着地した剣先が、濡れた床すれすれに落ちる。
 エレンは低く構え直した。
「まあ、斬って駄目なら突いてみろ、というところか」
 言葉の終わりに、二つの影が同時に動いた。
 変異グールの突進は、水路そのものを壊しながら迫ってくる。白い巨体が壁を削り、砕けた石片と汚水を撒き散らす。一本道の水路で、逃げ場は少ない。正面から受ければ、肉体ごと壁に塗り込められる。
 それでもエレンは、正面に立った。
 そして、消えた。
 いや、沈んだ。
 地を這うほど低く身を倒し、突進する巨体の下へ滑り込む。狙いは胴ではない。首でもない。あの質量を支える、足首。
 ただ一点。
 水面が裂けた。スライディングの速度に、剣の切っ先が重なる。刃はぬめる皮膚を割り、弾力を押し潰し、その奥へ届いた。
 今度は、違う。
 確かな手応えが返る。筋と骨の境目を断つ、乾いた芯のある感触。
 エレンは滑り抜けた勢いのまま身を起こし、剣先を払った。緑がかった血が水面に散る。
「なるほど。強度はこの程度か。——速度を乗せれば、斬れないこともないな」
 変異グールの喉の奥で、濁った唸りが転がった。
 裂かれた足首から血が垂れ、汚水に緑の筋を引く。痛みへの反応はある。動きにも乱れが出た。だが、止まらない。むしろ、床を踏む音が一段荒くなる。
 巨体がまた、前へ出た。
「その肉体があれば、戦闘で困ることはあるまい。——だが、所詮はグール。そこまでの知能はない、か」
 エレンは逃げない。
 自分の脚力だけでは、あの異様な肉へ深く通すには足りない。ならば、足りない分は相手に払わせる。迫る質量。走る速度。圧し潰そうとする力。そのすべてを、こちらの刃へ乗せる。
 最後の一歩で、エレンの膝がわずかに沈んだ。
 狙いは、最も柔らかく、最も奥へ届く一点。
 ——目。
 交差の瞬間、銀閃が水路を裂いた。
 剣はほとんど抵抗を覚えないまま、白濁した眼球を貫く。その奥へ。さらに深く。柄元、鍔の手前まで沈み込む。
「ギョエェェェェェェェェッ!!」
 絶叫が水路を揺らした。
 濁った水面がびりびりと震え、天井の継ぎ目から細かな砂が落ちる。変異グールは顔を歪ませ、刺さった剣を抜こうとするように左腕を振り上げた。
「——っと。これは……痛そうだ」
 声だけは軽い。
 だが、深紅の瞳は一切揺れなかった。
「ははっ。そんなに抜いてほしいなら——お望み通り、抜いてやろう」
 エレンはグールの胸を蹴った。
 反動で身体が離れる。距離が開くのと同時に、剣が眼窩から一気に引き抜かれた。
 ぶちゅり、と湿った音が鳴る。
 緑の血が弧を描き、白い顔面を汚した。変異グールの巨体が大きく傾く。片目は潰れ、顔の半分がどろりと崩れていた。
 それでも、倒れない。
 片膝をつくだけで踏みとどまる。その異常な生命力が、水路の空気を一段重くした。
「今、楽にしてやる」
 エレンが歩み寄る。
 その一歩に合わせ、変異グールの腕が足元の瓦礫を掴んだ。砕けた壁材をまとめて握り込み、怒りのまま投げつける。
 速い。
 だが、直線だ。
 エレンの剣が短く閃いた。飛来した瓦礫が空中で割れ、細かな破片となって散る。頬のすぐ横を石片がかすめたが、歩みは止まらない。
「……よく暴れる」
 片膝をついたままなお抵抗する白い怪物を見据え、エレンはわずかに目を細めた。
(先ほどの突きは、手応えからして脳にまで届いたはず……。それでも動くか。肉体面に関しては、末恐ろしいな)
 変異グールの息が荒い。
 頭を垂れ、肩を上下させ、潰れた眼窩から緑の血を滴らせる。濁った水面に血が落ちるたび、薄い波紋が広がった。
 まだ、生きている。
 ならば、今度こそ落とすだけだ。
「ふっ!!!!」
 踏み込みと同時に、エレンの剣が上段から振り下ろされた。
 狙いは首筋。
 ぶ厚い白皮が裂ける。下の筋肉が刃を噛み、押し返そうと蠢いた。だが、角度は合っている。踏み込み、体重、腕の振り、刃の軌道。そのすべてが一点に重なった。
 抵抗する筋繊維が、一本ずつ断たれていく。
 ぶち、ぶち、と湿った断裂音が続いた。
 白い肉が裂ける。筋が切れる。刃を押し返していた力が、少しずつ弱まった。
 そして。
 最後の筋が、切れる。
 変異グールの首が宙を舞った。
 緑の血飛沫が噴き上がり、白い胴体が遅れて前のめりに崩れ落ちる。首は濁った水面を二度跳ね、壁際でようやく止まった。