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#3 入れ替わり

ー/ー



 冒険者ギルドの扉をくぐった瞬間、熱気がエレナを包んだ。

 真昼だというのに、広いホールは酒を飲み交わす冒険者たちで埋まっている。笑い声、怒鳴り声、椅子を引く音。卓上に叩きつけられるジョッキの重い響きが、断続的にホール全体を揺らしていた。首都ベルノ王国の依頼は尽きない。魔物討伐、護送任務、護衛、素材採集――仕事に困ることのない場所だからこそ、ここには常に人が集まり、常に騒がしい。

 聖堂で静けさに慣れた身には、なかなか刺激が強い空気だった。

(うっ……。お酒の匂い……強いよ……)

 エレナの鼻先がわずかに動く。けれど顔には出さない。穏やかな微笑みを保ったまま、受付へ向かって歩いていく。

 その姿に気づいた受付嬢が、ぱっと表情を明るくした。

「あら? エレナ様! 如何されました?」

「こんにちは。先程、とある男性の方が聖堂へ駆け込んで来まして……」

 そこまで言うと、受付嬢はすぐに察したらしい。

「……ああ。先程こちらにも来られましたよ。白くて巨大なグール、ですよね?」

「はい。その通りです」

 同じ話は、すでにここにも届いていたようだった。

「こちらでも、一応依頼の受理は行いました。現在、もの好きな冒険者が捜索に当たっていますけど、今のところ進展はありませんね」

 軽く肩をすくめるような口ぶり。

(もの好き、って。確かにあの人の話は、にわかには信じ難かったけど……皆がそう言うから、あの人は聖堂まで来たんじゃない……)

 胸の内でそう呟きながらも、エレナの顔色はひとつも動かない。けれど、もっと近い場所には、その小さな不満がきちんと伝わってしまっていたらしい。

『エレナ。顔に出ているぞ。不服だ、とな』

『そんな真似しないよ。あなただから分かるだけだってば』

『ふふ、まあな。さて、捜索には出ている様子だが……どの辺を探したのか聞いてもらえるか?』

 エレンの指摘に小さく息をついて、エレナは改めて受付嬢へ向き直った。

「現在、どの辺を捜索していますか?」

「えーっと、今は工業区の方みたいですね……」

 その返答を聞いた途端、胸の奥でエレンが短く鼻を鳴らす。

『確か、あの男がグールを発見したのは商業区だったな。となると、冒険者共では見つけることは不可能だろう』

 声には呆れが滲んでいた。

 目撃地点から外れた場所へ人を散らしているのなら、成果がないのも当然のこと。

 ギルドの喧騒は相変わらず続いている。酒気を含んだ笑い声の向こうで、依頼書が剥がされ、誰かが報酬の額に文句をつけ、別の誰かが豪快に笑い飛ばす。活気に満ちた場所のはずなのに、この話題だけ温度がずれていた。

 エレナは受付嬢の言葉を胸の中で整理しながら、視線をそっと落とす。

 商業区で深い霧。

 白く、巨大なグール。

 誰もまともに取り合わない現状。

 穏やかな昼下がりのはずが、話を追うほど薄い違和感が輪郭を持ち始めていた。

『エレン、前の依頼でグールを討伐した時あったよね。あの時って確か、沼地を捜索したよね』

『ああ。奴らは湿った場所や、人の血肉にありつける場所を住処とする。……ふむ。一箇所だけ臭う場所があるな。エレナ、夜には捜索を開始する。依頼を受けてくれ』

『わかった』

 エレナは小さく頷くと、受付嬢へ向き直る。

「受付嬢さん。この依頼、エレンに任せてもらえますか?」

「えっ? でも、グールですよ?」

 戸惑うのも無理はない。依頼書に並ぶ魔物の中で、グールは決して高位ではない。だからこそ妙だった。騎士団が動かず、冒険者も空振りを重ね、それでも目撃証言だけが消えずに残っている。

「ええ。彼ならきっと、この依頼を受けるはずです」

 静かな声音に、迷いはなかった。

 受付嬢もそれを感じ取ったらしく、すぐに表情を改める。

「かしこまりました。では、受理させていただきますね」

「ありがとうございます」
 
 ✦ ━━━━━━━━━━━━━━ ✦

 場面は夜へ。

 昼の喧騒が嘘のように薄れた商業区は、夜の帳の下でひっそりと沈んでいた。石造りの建物の隙間に暗がりが溜まり、等間隔に立つ街灯の明かりも、どこか頼りなく揺れている。人気の絶えた通りを抜けた先で、エレナは足を止めた。

 そこにあったのは、地下水路へ続く封鎖扉。

 厚い鉄の扉は錆びつき、長いあいだ開けられていないことが一目で分かる。足元には黒ずんだ水の跡がこびりつき、隙間から漏れる空気は、たっぷりと湿り気を含んでいた。

『私が思うに、グールの住処にうってつけな場所。それはここだ』

「なるほど……地下水路。それにしても、この臭い……」

 言いながら、エレナは鼻を押さえる。分厚い扉の向こうから漂ってくるのは、淀んだ水と腐臭の混じった強烈な臭気だった。

『君は聖女だからな。このような臭いを嗅ぐ必要はない。ここからは、私の役目だ』

「いつもごめんね……。こんな役回りばかりやらせちゃって」

 ぽつりと零れたその声は、夜の静けさの中ではやけに素直に響いた。

 エレンは少しだけ間を置いてから、肩の力を抜くように返す。

『なに、気にすることはない。それに私は君の身体を借りている身だからな。故に、君と私の共同作業というやつさ』

 飾らない言葉だった。大仰な慰めではないし、気の利いた科白でもない。ただ事実をひとつ差し出しただけのような口ぶり。それでもエレナは唇をやわらかく結び、夜気を一度、深く吸い込んだ。

「ありがとう。エレン」

『ほら、交代だ』

 その一言に合わせるように、エレナの意識が静かに沈む。

 自分の輪郭が一歩後ろへ退き、代わりに、内に宿るもうひとつの魂が前面へと浮かび上がってくる。視界が切り替わる感覚は、何度経験しても不思議だった。見慣れたはずの夜の色が、少しだけ鋭く、少しだけ鮮明になる。

 気配が変わる。

 穏やかな佇まいは影を潜め、代わりに立ち上がったのは、抜き身の刃に似た存在感だった。金髪は月光を受けて白銀へ変わり、碧い瞳に深い紅が宿る。

 同じ身体のはずが、そこに立つ者はもう別人に見えた。

 夜だけ現れる聖堂の騎士――エレン。

 鼻先をかすめる腐臭すら意に介さず、彼はゆっくりと目を細める。湿気の流れ、空気の淀み、扉の奥に潜む気配。そのひとつひとつを、指でなぞるように確かめていた。

「……さて、捜索を開始するぞ」

 低く落ちた声が、夜の地下水路の入口で静かに響いた。


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次のエピソードへ進む #4 巣の奥の親玉


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 冒険者ギルドの扉をくぐった瞬間、熱気がエレナを包んだ。
 真昼だというのに、広いホールは酒を飲み交わす冒険者たちで埋まっている。笑い声、怒鳴り声、椅子を引く音。卓上に叩きつけられるジョッキの重い響きが、断続的にホール全体を揺らしていた。首都ベルノ王国の依頼は尽きない。魔物討伐、護送任務、護衛、素材採集――仕事に困ることのない場所だからこそ、ここには常に人が集まり、常に騒がしい。
 聖堂で静けさに慣れた身には、なかなか刺激が強い空気だった。
(うっ……。お酒の匂い……強いよ……)
 エレナの鼻先がわずかに動く。けれど顔には出さない。穏やかな微笑みを保ったまま、受付へ向かって歩いていく。
 その姿に気づいた受付嬢が、ぱっと表情を明るくした。
「あら? エレナ様! 如何されました?」
「こんにちは。先程、とある男性の方が聖堂へ駆け込んで来まして……」
 そこまで言うと、受付嬢はすぐに察したらしい。
「……ああ。先程こちらにも来られましたよ。白くて巨大なグール、ですよね?」
「はい。その通りです」
 同じ話は、すでにここにも届いていたようだった。
「こちらでも、一応依頼の受理は行いました。現在、もの好きな冒険者が捜索に当たっていますけど、今のところ進展はありませんね」
 軽く肩をすくめるような口ぶり。
(もの好き、って。確かにあの人の話は、にわかには信じ難かったけど……皆がそう言うから、あの人は聖堂まで来たんじゃない……)
 胸の内でそう呟きながらも、エレナの顔色はひとつも動かない。けれど、もっと近い場所には、その小さな不満がきちんと伝わってしまっていたらしい。
『エレナ。顔に出ているぞ。不服だ、とな』
『そんな真似しないよ。あなただから分かるだけだってば』
『ふふ、まあな。さて、捜索には出ている様子だが……どの辺を探したのか聞いてもらえるか?』
 エレンの指摘に小さく息をついて、エレナは改めて受付嬢へ向き直った。
「現在、どの辺を捜索していますか?」
「えーっと、今は工業区の方みたいですね……」
 その返答を聞いた途端、胸の奥でエレンが短く鼻を鳴らす。
『確か、あの男がグールを発見したのは商業区だったな。となると、冒険者共では見つけることは不可能だろう』
 声には呆れが滲んでいた。
 目撃地点から外れた場所へ人を散らしているのなら、成果がないのも当然のこと。
 ギルドの喧騒は相変わらず続いている。酒気を含んだ笑い声の向こうで、依頼書が剥がされ、誰かが報酬の額に文句をつけ、別の誰かが豪快に笑い飛ばす。活気に満ちた場所のはずなのに、この話題だけ温度がずれていた。
 エレナは受付嬢の言葉を胸の中で整理しながら、視線をそっと落とす。
 商業区で深い霧。
 白く、巨大なグール。
 誰もまともに取り合わない現状。
 穏やかな昼下がりのはずが、話を追うほど薄い違和感が輪郭を持ち始めていた。
『エレン、前の依頼でグールを討伐した時あったよね。あの時って確か、沼地を捜索したよね』
『ああ。奴らは湿った場所や、人の血肉にありつける場所を住処とする。……ふむ。一箇所だけ臭う場所があるな。エレナ、夜には捜索を開始する。依頼を受けてくれ』
『わかった』
 エレナは小さく頷くと、受付嬢へ向き直る。
「受付嬢さん。この依頼、エレンに任せてもらえますか?」
「えっ? でも、グールですよ?」
 戸惑うのも無理はない。依頼書に並ぶ魔物の中で、グールは決して高位ではない。だからこそ妙だった。騎士団が動かず、冒険者も空振りを重ね、それでも目撃証言だけが消えずに残っている。
「ええ。彼ならきっと、この依頼を受けるはずです」
 静かな声音に、迷いはなかった。
 受付嬢もそれを感じ取ったらしく、すぐに表情を改める。
「かしこまりました。では、受理させていただきますね」
「ありがとうございます」
 ✦ ━━━━━━━━━━━━━━ ✦
 場面は夜へ。
 昼の喧騒が嘘のように薄れた商業区は、夜の帳の下でひっそりと沈んでいた。石造りの建物の隙間に暗がりが溜まり、等間隔に立つ街灯の明かりも、どこか頼りなく揺れている。人気の絶えた通りを抜けた先で、エレナは足を止めた。
 そこにあったのは、地下水路へ続く封鎖扉。
 厚い鉄の扉は錆びつき、長いあいだ開けられていないことが一目で分かる。足元には黒ずんだ水の跡がこびりつき、隙間から漏れる空気は、たっぷりと湿り気を含んでいた。
『私が思うに、グールの住処にうってつけな場所。それはここだ』
「なるほど……地下水路。それにしても、この臭い……」
 言いながら、エレナは鼻を押さえる。分厚い扉の向こうから漂ってくるのは、淀んだ水と腐臭の混じった強烈な臭気だった。
『君は聖女だからな。このような臭いを嗅ぐ必要はない。ここからは、私の役目だ』
「いつもごめんね……。こんな役回りばかりやらせちゃって」
 ぽつりと零れたその声は、夜の静けさの中ではやけに素直に響いた。
 エレンは少しだけ間を置いてから、肩の力を抜くように返す。
『なに、気にすることはない。それに私は君の身体を借りている身だからな。故に、君と私の共同作業というやつさ』
 飾らない言葉だった。大仰な慰めではないし、気の利いた科白でもない。ただ事実をひとつ差し出しただけのような口ぶり。それでもエレナは唇をやわらかく結び、夜気を一度、深く吸い込んだ。
「ありがとう。エレン」
『ほら、交代だ』
 その一言に合わせるように、エレナの意識が静かに沈む。
 自分の輪郭が一歩後ろへ退き、代わりに、内に宿るもうひとつの魂が前面へと浮かび上がってくる。視界が切り替わる感覚は、何度経験しても不思議だった。見慣れたはずの夜の色が、少しだけ鋭く、少しだけ鮮明になる。
 気配が変わる。
 穏やかな佇まいは影を潜め、代わりに立ち上がったのは、抜き身の刃に似た存在感だった。金髪は月光を受けて白銀へ変わり、碧い瞳に深い紅が宿る。
 同じ身体のはずが、そこに立つ者はもう別人に見えた。
 夜だけ現れる聖堂の騎士――エレン。
 鼻先をかすめる腐臭すら意に介さず、彼はゆっくりと目を細める。湿気の流れ、空気の淀み、扉の奥に潜む気配。そのひとつひとつを、指でなぞるように確かめていた。
「……さて、捜索を開始するぞ」
 低く落ちた声が、夜の地下水路の入口で静かに響いた。