#2 目撃者
ー/ー澄みきった青空を、白い雲がゆるやかに流れていた。
その下で、鐘が鳴る。ひとつ、またひとつと重なっていく音色は、朝の空気を震わせながら、ベルノ王国の首都ベルステラへ広がっていった。
ベルノ大聖堂の奥、祭壇の前に、ひとりの少女が跪いていた。純白のローブを纏い、静かに組まれた指先の先で、ステンドグラスを透った朝日が色彩を揺らしている。赤や青の光が床へ淡く落ち、その中で、陽光を梳いたような金髪が柔らかく輝いていた。
「………」
――エレナ・フィーレ・ヴィクトリアス――
ベルノ大聖堂に仕える、見習いの聖女。胸の前で重ねた手も、伏せられた睫毛も、波ひとつなく澄んでいる。
そんな彼女の祈りを、唐突な音が断ち切った。
ばたん、と大きく扉が開かれる。
厳かな空気を揺らすには十分すぎる音だったが、エレナはすぐには振り向かない。祈りの最後を丁寧に結び、そっと顔を上げてから、静かに立ち上がった。
「エレナ様。ご祈祷中に失礼します」
声をかけてきたのは、修道女のマリアンだった。やや息を急がせながらも、礼節を崩さぬ所作で一礼する。
「マリアン? どうしました?」
「どうやら、お客様のようです」
そう言って、マリアンは開いたままの大扉へ目を向けた。
次の瞬間、ひとりの男が転がり込むように駆け込んでくる。
「エ、エレナ様ァ!!」
顔は青ざめ、息は乱れ、まともに整った報告ができる状態には見えなかった。今にもその場へ崩れ落ちそうな勢いで、それでも男はエレナへ縋るような目を向ける。
「どうされました?」
エレナの声音は、いつも通り柔らかかった。
「グ、グ、グールが出たんです!!」
その言葉に、聖堂の空気がわずかに張った。
エレナが眉を寄せるより先に、マリアンが呟く。
「グール……ですか?」
「え、ええ!! 白くて巨大な……! 通常のグールの三倍は大きかったような……!」
男はなおも取り乱したまま叫ぶ。肩は上下し、視線も定まらない。見たものを思い出しただけで足が竦むのか、その膝は小刻みに震えていた。
「おかしいですね。グールは通常、緑色の個体が確認されています。それに――それは王国内での出来事なのですか?」
マリアンの問いは冷静だったが、男はその指摘にむしろさらに狼狽した。
「そ、そうに決まってます!! じゃなければ、こんなに慌てませんよ!!」
大聖堂の中に不似合いなほど切羽詰まった声が響く。
エレナは一歩、前に出た。
「どうか落ち着いてください。マリアンも、まずはお話を聞かなくては」
やわらかな声音だった。それだけで、場の揺れがふっと静まる。
「はっ、失礼しました」
マリアンが背筋を正す。男もまた荒い息の合間に、少しだけ我に返ったようだった。
「詳しく話を伺ってもよろしいですか?」
エレナが促すと、男は乱れた呼吸をどうにか整えながら、途切れ途切れに言葉を絞り出した。
「ついさっきです……! 商業区の方で、深い霧が出ていました……! そんな霧の中に、あ、あのグールがいたんです……! 逞しい肉体に、血管が浮かび上がってて……白目をギョロリと……! ひぃぃぃ」
思い出しただけで耐えきれなくなったのか、男は肩を震わせて顔を引きつらせる。
「………」
エレナはすぐには口を開かなかった。怯えた相手を急かさぬよう、まずはその姿を静かに見つめる。
『エレン、この人の話どう思う??』
『ふむ。この怯えた様子、演技ではないな』
『でも、グールが国に現れたとなったら、街はもっと騒がしくなるはず……』
ベルノ王国の出入り口は、騎士団が厳重に守っている。グールなど本来は街道や墓地で確認される程度の魔物だ。危険度も高くはない。少なくとも、王都の中心近くまで入り込めるような相手ではなかった。
まして、男が語ったのは通常種とも違う異様な個体だ。
「騎士団へ話しても、連中まるで信じちゃくれない! 霧の中で見た幻影だろう、疲れすぎでは、なんて言われる始末ですよ……!!」
吐き捨てるような声には、恐怖だけでなく悔しさも混じっていた。
「だから、エレナ様!! どうか、どうかエレンを派遣してください……!!」
男は半ば祈るように叫んだ。
その名が出た瞬間、エレナの胸の内で、呆れたような声が返る。
『……エレン、ご指名だよ』
『やれやれ、またか。騎士団の連中め。体裁ばかりを気にして、国民の不安さえ汲み取れんとは』
小さく嘆息する気配が伝わってきて、エレナはほんの少しだけ口元を和らげた。
「……かしこまりました。必ずエレンを向かわせます」
「し、信じてくれるんですか……?」
男は顔を上げた。潤んだ目には、今にも涙が零れそうなほどの切実さが浮かんでいる。
「ええ、もちろんです。あとは聖堂騎士であるエレンに任せてください」
その一言で、男の張り詰めていたものがようやく緩んだ。
「ああ……! 神よ……! お導きありがとうございます……っ!」
何度も頭を下げたあと、男は大聖堂を後にした。先ほどまで取り乱していた背中はまだ頼りないが、それでも来た時よりは幾分ましに見える。
重い扉が閉じる音を聞いてから、マリアンが控えめに口を開いた。
「エレナ様、本当にこのような些事にエレン様を?」
「マリアン。些事だなんて、とんでもないですよ。彼の怯え方は尋常ではありませんでした」
穏やかな言い方だったが、その響きははっきりしていた。
「ですが……」
「ええ。もし本当にグールが街の中へ現れたのだとしたら、それは見過ごしていい話ではありません」
エレナは祭壇の方を一度だけ振り返る。朝の光は変わらず美しく差し込んでいた。
「なので、私はこれから冒険者ギルドへ行って、情報を集めてきます」
騎士団が動かないのなら、自分たちで確かめるしかない。
「マリアン、私の留守をお願いできますか?」
「もちろんです」
迷いのない返事が返る。
エレナは小さく頷くと、白いローブの裾を翻した。鐘の音はもう止んでいた。穏やかな朝の気配はまだ大聖堂に満ちている。けれど、その静けさの向こうで、確かに何かが動き始めていた。
その兆しを確かめるために、エレナは早足でギルドへ向かった。
その下で、鐘が鳴る。ひとつ、またひとつと重なっていく音色は、朝の空気を震わせながら、ベルノ王国の首都ベルステラへ広がっていった。
ベルノ大聖堂の奥、祭壇の前に、ひとりの少女が跪いていた。純白のローブを纏い、静かに組まれた指先の先で、ステンドグラスを透った朝日が色彩を揺らしている。赤や青の光が床へ淡く落ち、その中で、陽光を梳いたような金髪が柔らかく輝いていた。
「………」
――エレナ・フィーレ・ヴィクトリアス――
ベルノ大聖堂に仕える、見習いの聖女。胸の前で重ねた手も、伏せられた睫毛も、波ひとつなく澄んでいる。
そんな彼女の祈りを、唐突な音が断ち切った。
ばたん、と大きく扉が開かれる。
厳かな空気を揺らすには十分すぎる音だったが、エレナはすぐには振り向かない。祈りの最後を丁寧に結び、そっと顔を上げてから、静かに立ち上がった。
「エレナ様。ご祈祷中に失礼します」
声をかけてきたのは、修道女のマリアンだった。やや息を急がせながらも、礼節を崩さぬ所作で一礼する。
「マリアン? どうしました?」
「どうやら、お客様のようです」
そう言って、マリアンは開いたままの大扉へ目を向けた。
次の瞬間、ひとりの男が転がり込むように駆け込んでくる。
「エ、エレナ様ァ!!」
顔は青ざめ、息は乱れ、まともに整った報告ができる状態には見えなかった。今にもその場へ崩れ落ちそうな勢いで、それでも男はエレナへ縋るような目を向ける。
「どうされました?」
エレナの声音は、いつも通り柔らかかった。
「グ、グ、グールが出たんです!!」
その言葉に、聖堂の空気がわずかに張った。
エレナが眉を寄せるより先に、マリアンが呟く。
「グール……ですか?」
「え、ええ!! 白くて巨大な……! 通常のグールの三倍は大きかったような……!」
男はなおも取り乱したまま叫ぶ。肩は上下し、視線も定まらない。見たものを思い出しただけで足が竦むのか、その膝は小刻みに震えていた。
「おかしいですね。グールは通常、緑色の個体が確認されています。それに――それは王国内での出来事なのですか?」
マリアンの問いは冷静だったが、男はその指摘にむしろさらに狼狽した。
「そ、そうに決まってます!! じゃなければ、こんなに慌てませんよ!!」
大聖堂の中に不似合いなほど切羽詰まった声が響く。
エレナは一歩、前に出た。
「どうか落ち着いてください。マリアンも、まずはお話を聞かなくては」
やわらかな声音だった。それだけで、場の揺れがふっと静まる。
「はっ、失礼しました」
マリアンが背筋を正す。男もまた荒い息の合間に、少しだけ我に返ったようだった。
「詳しく話を伺ってもよろしいですか?」
エレナが促すと、男は乱れた呼吸をどうにか整えながら、途切れ途切れに言葉を絞り出した。
「ついさっきです……! 商業区の方で、深い霧が出ていました……! そんな霧の中に、あ、あのグールがいたんです……! 逞しい肉体に、血管が浮かび上がってて……白目をギョロリと……! ひぃぃぃ」
思い出しただけで耐えきれなくなったのか、男は肩を震わせて顔を引きつらせる。
「………」
エレナはすぐには口を開かなかった。怯えた相手を急かさぬよう、まずはその姿を静かに見つめる。
『エレン、この人の話どう思う??』
『ふむ。この怯えた様子、演技ではないな』
『でも、グールが国に現れたとなったら、街はもっと騒がしくなるはず……』
ベルノ王国の出入り口は、騎士団が厳重に守っている。グールなど本来は街道や墓地で確認される程度の魔物だ。危険度も高くはない。少なくとも、王都の中心近くまで入り込めるような相手ではなかった。
まして、男が語ったのは通常種とも違う異様な個体だ。
「騎士団へ話しても、連中まるで信じちゃくれない! 霧の中で見た幻影だろう、疲れすぎでは、なんて言われる始末ですよ……!!」
吐き捨てるような声には、恐怖だけでなく悔しさも混じっていた。
「だから、エレナ様!! どうか、どうかエレンを派遣してください……!!」
男は半ば祈るように叫んだ。
その名が出た瞬間、エレナの胸の内で、呆れたような声が返る。
『……エレン、ご指名だよ』
『やれやれ、またか。騎士団の連中め。体裁ばかりを気にして、国民の不安さえ汲み取れんとは』
小さく嘆息する気配が伝わってきて、エレナはほんの少しだけ口元を和らげた。
「……かしこまりました。必ずエレンを向かわせます」
「し、信じてくれるんですか……?」
男は顔を上げた。潤んだ目には、今にも涙が零れそうなほどの切実さが浮かんでいる。
「ええ、もちろんです。あとは聖堂騎士であるエレンに任せてください」
その一言で、男の張り詰めていたものがようやく緩んだ。
「ああ……! 神よ……! お導きありがとうございます……っ!」
何度も頭を下げたあと、男は大聖堂を後にした。先ほどまで取り乱していた背中はまだ頼りないが、それでも来た時よりは幾分ましに見える。
重い扉が閉じる音を聞いてから、マリアンが控えめに口を開いた。
「エレナ様、本当にこのような些事にエレン様を?」
「マリアン。些事だなんて、とんでもないですよ。彼の怯え方は尋常ではありませんでした」
穏やかな言い方だったが、その響きははっきりしていた。
「ですが……」
「ええ。もし本当にグールが街の中へ現れたのだとしたら、それは見過ごしていい話ではありません」
エレナは祭壇の方を一度だけ振り返る。朝の光は変わらず美しく差し込んでいた。
「なので、私はこれから冒険者ギルドへ行って、情報を集めてきます」
騎士団が動かないのなら、自分たちで確かめるしかない。
「マリアン、私の留守をお願いできますか?」
「もちろんです」
迷いのない返事が返る。
エレナは小さく頷くと、白いローブの裾を翻した。鐘の音はもう止んでいた。穏やかな朝の気配はまだ大聖堂に満ちている。けれど、その静けさの向こうで、確かに何かが動き始めていた。
その兆しを確かめるために、エレナは早足でギルドへ向かった。
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