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1話 癇癪から始まる朝(1)

ー/ー



「ぎゃあああああー!」
 秋晴れの日が窓より差す、暖かなプレイルーム。
 朝の穏やかな空気を切り裂く声と共に小さな体をひっくり返らせるのは、まだ三歳のあどけない女の子。
 拳を作って何度も何度も自分の頭を叩き、その声は喉が切れないかと心配になるほど大きく、苦痛に満ちた表情をしていている。
 周囲には女の子のお母さんも私達保育士も居るのに、それに慌てふためくことも、静止することもしない。
 ただ近くにあるおもちゃが仕舞ってあるプラスチックの箱を遠ざけて、他の子供が近付かないように気を付けることだけ。
 今、凛ちゃんに起きているのはパニックと呼ばれるもので、「いつも遊んでいるうさぎのぬいぐるみ」が別の子が使っていたことにより「いつものおもちゃ箱」にないことから、こうなってしまった。
 それなら別のおもちゃで良いと思われそうだけど、凛ちゃんにとってはこの「いつも遊んでいるうさぎのぬいぐるみ」が「いつものおもちゃ箱」にないことは何よりも不安なことであり、自分の頭を叩くことにより痛みで不安を軽減させている。
 だから今必要なのは、そんなことで泣くなと怒ることでも、別のおもちゃで遊ぼうと宥めることでも、痛いだろうと止めることでもない。ただ見守るだけ。
 今、凛ちゃんは一人戦っているのだから。

 ピピ、ピピ、ピピ。
 柱時計が指す時間は、八時五十五分。朝の会が始まる五分前となり、それを知らせるアラーム音が四十畳はあるであろう広いプレイルームに鳴り響く。
「はい、自由時間はおしまいです。お片付けをしましょう」
 子供達におばあちゃんみたいと慕われる、小林先生の包み込むような深みのある声が聞こえる。
 先生が指した先はプレイルームの端に掛けてある柱時計ではなく、タイムタイマーと呼ばれる平たい時計。
 一見すると普通の時計に見えるが、短針も長針も十二時を差したまま動くことのない特殊な仕様。
 これは普通の時計みたいに現在の時刻を教えてくれる機能ではなく、残り時間を知らせるタイマー時計。
 例えば十五分を測定したいなら針を3に合わせると十五分後にアラームが鳴り、針は0に戻っている。
 ただ音を鳴らすなら普通のタイマーで良いと思われそうだけど、このやり方の最大のメリットは目で見て残り時間を理解出来ること。
 まだ年齢的に時計は読めず、またここに来ている子供達は耳からの情報を得るのが難しいことが多く、このように目で見て情報を伝える視覚支援を中心に行っている。
 実際に分かりやすいのか、タイムタイマーをみた子供達は遊びの時間はおしまいと理解して、小林先生が持っている「おもちゃが箱に入っている絵」を見て、手にしているおもちゃを箱に仕舞うことが出来る。

 凛ちゃんは変わらずプレイルームの端でひっくり返ったまま、窓より差す日に向かい手をくるくると回している。それにより日の見え方が変わったり、手によって影ができ、それを見ることにより気持ちが落ち着いていくらしい。
 現に表情はどんどんと和らぎ声は段々と小さくなっていて、ジタバタさせていた手足は自然と止まっている。
 ずっとその様子を三歩離れた先で見守っていただけの私だけど、驚かせないようにと二歩ほど近付き、「おもちゃが無くてビックリしたね」、「ないこともあるよ」、「また今度遊ぼう」と、努めて穏やかに柔らかな表情を心掛けて声をかける。
 それを聞いていた凛ちゃんはこちらには顔を向けないも、「ないこともある」、「また遊ぶ」と一人で呟き唇をギュッと噛み締めて、また足をパタパタと動かし小さな手で耳を塞ぐ。
 まだ、受け入れるには時間がかかるようだ。

 また五分ほどが経ち、プレイルームにあったおもちゃは全て箱に戻る。片付けが終わったクラスの子達は、先生やお母さんと一緒にポツポツと部屋を出て行く。
 すると凛ちゃんはガバッと起き上がり、手を伸ばせば届く距離で待っていたお母さんと私に顔を向けたかと思えば大きな目をキョロキョロとさせて俯いてしまう。
 そこで私は一歩前に進み互いの手が触れる距離で、「朝の会に行こう」「お母さんと一緒」「お友達と一緒」と声をかける。

「うん」と返事をしてくれる声は穏やかで、強張っていた表情も和らいでいく。
 凛ちゃんのパーソナルスペースに、私が立ち入ることを許してくれた。
 普段は隣に居ても、チラリとこちらを見ては目を逸らすだけ。でもパニックを起こしている時は誰も寄せ付けず、宥めようとする声や頭を叩く手を止めようとするとより混乱し、その恐怖を和らげようと強く頭を叩き続けてしまう。
 だからこそ私達は、凛ちゃんが落ち着くまで見守ることしか出来ない。

「凛、行こう」
 ずっと見守ってくれていたのは、凛ちゃんのお母さん。低い視線を合わせる為に私同様にしゃがみ込み、にこやかに笑いかける。
 そんな差し出された手を凛ちゃんは握り、少し遅れて隣の遊戯室へと歩いて行く。


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「ぎゃあああああー!」
 秋晴れの日が窓より差す、暖かなプレイルーム。
 朝の穏やかな空気を切り裂く声と共に小さな体をひっくり返らせるのは、まだ三歳のあどけない女の子。
 拳を作って何度も何度も自分の頭を叩き、その声は喉が切れないかと心配になるほど大きく、苦痛に満ちた表情をしていている。
 周囲には女の子のお母さんも私達保育士も居るのに、それに慌てふためくことも、静止することもしない。
 ただ近くにあるおもちゃが仕舞ってあるプラスチックの箱を遠ざけて、他の子供が近付かないように気を付けることだけ。
 今、凛ちゃんに起きているのはパニックと呼ばれるもので、「いつも遊んでいるうさぎのぬいぐるみ」が別の子が使っていたことにより「いつものおもちゃ箱」にないことから、こうなってしまった。
 それなら別のおもちゃで良いと思われそうだけど、凛ちゃんにとってはこの「いつも遊んでいるうさぎのぬいぐるみ」が「いつものおもちゃ箱」にないことは何よりも不安なことであり、自分の頭を叩くことにより痛みで不安を軽減させている。
 だから今必要なのは、そんなことで泣くなと怒ることでも、別のおもちゃで遊ぼうと宥めることでも、痛いだろうと止めることでもない。ただ見守るだけ。
 今、凛ちゃんは一人戦っているのだから。
 ピピ、ピピ、ピピ。
 柱時計が指す時間は、八時五十五分。朝の会が始まる五分前となり、それを知らせるアラーム音が四十畳はあるであろう広いプレイルームに鳴り響く。
「はい、自由時間はおしまいです。お片付けをしましょう」
 子供達におばあちゃんみたいと慕われる、小林先生の包み込むような深みのある声が聞こえる。
 先生が指した先はプレイルームの端に掛けてある柱時計ではなく、タイムタイマーと呼ばれる平たい時計。
 一見すると普通の時計に見えるが、短針も長針も十二時を差したまま動くことのない特殊な仕様。
 これは普通の時計みたいに現在の時刻を教えてくれる機能ではなく、残り時間を知らせるタイマー時計。
 例えば十五分を測定したいなら針を3に合わせると十五分後にアラームが鳴り、針は0に戻っている。
 ただ音を鳴らすなら普通のタイマーで良いと思われそうだけど、このやり方の最大のメリットは目で見て残り時間を理解出来ること。
 まだ年齢的に時計は読めず、またここに来ている子供達は耳からの情報を得るのが難しいことが多く、このように目で見て情報を伝える視覚支援を中心に行っている。
 実際に分かりやすいのか、タイムタイマーをみた子供達は遊びの時間はおしまいと理解して、小林先生が持っている「おもちゃが箱に入っている絵」を見て、手にしているおもちゃを箱に仕舞うことが出来る。
 凛ちゃんは変わらずプレイルームの端でひっくり返ったまま、窓より差す日に向かい手をくるくると回している。それにより日の見え方が変わったり、手によって影ができ、それを見ることにより気持ちが落ち着いていくらしい。
 現に表情はどんどんと和らぎ声は段々と小さくなっていて、ジタバタさせていた手足は自然と止まっている。
 ずっとその様子を三歩離れた先で見守っていただけの私だけど、驚かせないようにと二歩ほど近付き、「おもちゃが無くてビックリしたね」、「ないこともあるよ」、「また今度遊ぼう」と、努めて穏やかに柔らかな表情を心掛けて声をかける。
 それを聞いていた凛ちゃんはこちらには顔を向けないも、「ないこともある」、「また遊ぶ」と一人で呟き唇をギュッと噛み締めて、また足をパタパタと動かし小さな手で耳を塞ぐ。
 まだ、受け入れるには時間がかかるようだ。
 また五分ほどが経ち、プレイルームにあったおもちゃは全て箱に戻る。片付けが終わったクラスの子達は、先生やお母さんと一緒にポツポツと部屋を出て行く。
 すると凛ちゃんはガバッと起き上がり、手を伸ばせば届く距離で待っていたお母さんと私に顔を向けたかと思えば大きな目をキョロキョロとさせて俯いてしまう。
 そこで私は一歩前に進み互いの手が触れる距離で、「朝の会に行こう」「お母さんと一緒」「お友達と一緒」と声をかける。
「うん」と返事をしてくれる声は穏やかで、強張っていた表情も和らいでいく。
 凛ちゃんのパーソナルスペースに、私が立ち入ることを許してくれた。
 普段は隣に居ても、チラリとこちらを見ては目を逸らすだけ。でもパニックを起こしている時は誰も寄せ付けず、宥めようとする声や頭を叩く手を止めようとするとより混乱し、その恐怖を和らげようと強く頭を叩き続けてしまう。
 だからこそ私達は、凛ちゃんが落ち着くまで見守ることしか出来ない。
「凛、行こう」
 ずっと見守ってくれていたのは、凛ちゃんのお母さん。低い視線を合わせる為に私同様にしゃがみ込み、にこやかに笑いかける。
 そんな差し出された手を凛ちゃんは握り、少し遅れて隣の遊戯室へと歩いて行く。