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第一話

ー/ー



「んじゃ、行ってくる」

 安全靴を履きながら、台所の方へと声をかける。  
 いつものルーティンだ。

 「は〜い! あんまり無理しないでね〜! えっと、ほら、なんだっけ…… そう! ご安全に!」

 「どこでそれ覚えたんだよ! ブルーカラーの仕事なんか、した事無いくせに」

 離れた場所からかけられた、妻の言葉に思わず苦笑する。

 「あなた電話で、いっつも会社の人に言ってるじゃない? だから真似したの!」

 「しっかり聞いてんだな…… 了解。 なら、里美(さとみ)も家で、ご安全になっ! お?茶々丸もご安全に! だよな。ママの事、頼むぞ!」

 時刻は、夜の十一時を少し回った所。

 玄関まで出迎えに来た飼い犬、シーズーの子である茶々丸(ちゃちゃまる)の身体をワシャワシャと粗く撫で、俺は玄関のドアを開け、まだ、昼の熱気の残る外へと歩き出した。

◇◆ 

 近くに借りている屋外駐車場……と言っても、単なる砂利が敷いてあるだけの場所だが、そこで俺は、自家用車に乗り込む。

 気付けば走行距離も、そろそろ8万キロを超えようかという軽自動車。

 以前は、片道約五十分の道のりを往復していたのだから、この車にも少し無理をさせている。

 「そろそろ車検か……また金、飛んでくわ。 世知辛い世の中だこと。 さて、向かうとしますか!」

 シート位置と室内のミラーの確認をして、シートベルトを締める。

 エンジンをかけた拍子に、再びバックミラーに写る自らの顔に、思わず声をかけてしまう。

 「お前は西条……西条太郎、人間だ! ……うん。 俺は、なんにも変わっちゃいない……」

 視線をフロントガラスへと戻し、俺はフットブレーキを解いて、目的地に向けてハンドルを切ると同時に、ゆっくりアクセルを踏み込んだ。

◆◇

 車を有料駐車場へと停めた俺は、薄暗い街灯が等間隔に並ぶ道を、一人歩く。

 途中から、緩やかな坂道に差し掛かる。

 俺は迷わずに、その道を登って行く事約十五分。

 静かな物音の中に、徐々に荒くなる自らの息遣いだけが、響く気がした。

 鼻腔の奥まで届く、木々の匂いがする空間を抜け、俺は少し開けた場所にたどり着く。

 右ポケットからスマホを取り出し、リダイヤル履歴から目当ての番号を探して、通話ボタンをタップする。

 (トゥルルルル……トゥルルルル………チャッ)

 決まって三度目の呼び出し音の前に出る相手。

 「……只今、現着」

 「了解した。近くに監視班が……」

 「いつも通りいるって事で。 毎度手回しが、行き届いてて、こちとら、感謝感激雨あられってとこですよ」

 相手の言葉をさえぎり、俺は皮肉で返す。

 妻には伝えていない、本当の……仕事。

 これから始まるのは、紛れもない命のやり取り。

 憎まれ口の一つも言いたくなる。

 「油断は禁物だ。 ……周囲に、一般人の侵入はさせないよう、配置は完了している」

 「とかなんとか言って、しっかり空からドローンで録画してんでしょ? ったく、俺にももう少し、組織の事、開示してくれても……」

 言葉の途中で、周囲の温度が下がっている事に気付く。

 「お出ましみたいです。 それじゃ」

 俺は通話をやめ、スマホをポケットへと戻す。

 それまで感じていた、太陽からの残り香が消え、自分の呼気から白い物が吐き出される。

 目の前に集まる黒い靄(もや)。

 俺は右足を少し後ろに引いて、両ひじを曲げ、脇を締めて胸の前で拳を握り込む。

 集まり出した靄(もや)は密度を高め、凝縮し……霧散した。

 目の前に現れたのは……怪異。

 身の丈で言えば、三メートルといった所か。
 赤銅色に包まれた体躯(たいく)。
 ご丁寧に、鉄で出来たような太い棒まで右手に握っていた。
 空想上の鬼。

 それが俺の目の前に具現化している。

 『我らの贄(にえ)はどこぞ?』

 毎回慣れない、頭に直接響く声。
 俺は何も答えない。

 『約定(やくじょう)の、贄(にえ)はどこぞ……』

 こいつら怪異は、いつも同じセリフから伝えてくる。

 俺は肩をすくめ、目の前の鬼に対し、言葉を投げつける。

 「うるせえチンピラ。 てめぇの惚れた恋女房、はいそうですかと差し出すバカは、いねぇだろうがっ!」

 思わず口から出た啖呵(たんか)だが、そのすぐ後、気付かれないように俺は、ゴクリと生唾(なまつば)を飲み込んだ。

 『人ごときに……なにが出来ようぞ!』

 目の前の鬼が、右手に持った金棒を振り上げ、こちらへと走り出す。

 (まずっ!)

 想定よりも早い接近。

 振り下ろされる金棒を、俺はやっとの思いで右にかわす。

 が、鬼も急停止するや、こちらに振り返ると同時に左手を伸ばし、俺の左腕をがっしりとつかむ。

 「痛っ! 離せっ! このバカチンがっ!」

 俺は動く手足を盲滅法で鬼の腕に叩きつけるが、鬼にはまったく効いてる気配が感じられない。

 『所詮(しょせん)、人など我らからすれば塵芥(ちりあくた)……贄(にえ)の在り処(ありか)は、匂いをたどれば済むことよ……人間よ……自らの不明を嘆(なげ)いて、この地で果てよ』

 勝利を確信し、下卑た笑みを俺に向ける鬼。

 右手の金棒を捨て、鬼は俺の左手にその空いた手を添えて、まるで雑巾を扱うかのごとく、両手につかんだ左手を、前後に絞(しぼ)り上げてきた。

 「っ!う……うぅぅぅぁああああああっ!」

 (ぶちっ!)

 「あああああっ……」

 脳天を突き抜け、意識が飛びそうになるほどの激痛が左腕から広がる。

 「あああああっ……はあっ、はあっ……」

 左腕になんとか目を移すと、左ひじの先が消失している事を知った。

 吹き出る鮮血。

 視界がチカチカと点滅しているように感じる。心臓の鼓動に合わせて走る痛み。

 『どうじゃ……ぬしら人は、我らにとって土塊(つちくれ)程度の存在……慈悲を乞うても許さぬがの……』

 完全に自らの優位を確信したが故(ゆえ)の、脳内に響く言葉。

 鬼は、俺のちぎり取った左ひじから先を遠くへと投げ捨て、前かがみになって動けない俺の身体を、その両腕で抱き上げ、その胸へと抱きしめた。
 
「ぐぼぉっ!」

 俺の口から吐き出された吐瀉物(としゃぶつ)。 詰まる息。 きしむ骨。

 羽交い締めにして、そのまま絶命させるつもりなのは、嫌でもわかる。 

 だが……こいつは知らない。

 俺には、ただの人間には無い奥の手がある。

『ほうれ!この呪縛から……逃れてみよ!ほうれ!」

 苦しさの中で見上げた先にある鬼の表情には、愉悦(ゆえつ)さえ浮かんでいる。

 「……なぁっ! どうせ死ぬなら、俺を倒す相手の顔くらい……最後に近くで、見せてくれよ……」

 俺は最後の願いとばかりに、自分に出来る、精一杯情けない表情を浮かべ、鬼へと声をかけた。

 鬼は口から上あごから太い二本の牙を見せ、高らかに笑いながら、羽交い締めを緩め、俺の身体を抱きしめたまま、その顔を俺へと寄せる。

(勝機!)

 俺は鬼の鼻先で大口を開けて、その鼻に噛みつき、思い切りかじり取った。

 『ぬぅあああああっ!』

 叫ぶ鬼の声が闇夜に響く中、俺は口の中の肉片をグチャグチャと咀嚼し、ゴクリとのどを鳴らす。

 たまらず抱きしめていた俺を離し、その両腕で、鬼が顔面を押さえだす。

 「いだい……このバカ野郎がっ!はあっ、はあっ……こっからは俺の番だ、コラッ!」

 俺は鬼の左ふくらはぎを見定めダッシュをかける。

(動きを、止めるっ!)

 素早く鬼の足を両腕で抱きしめ、勢いのまま、ふくらはぎへとかぶりつく。

 それを手始めに、隙を見つけてはあちこちの部位を、目につく限りがむしゃらに貪(むさぼ)りつく。

 その肉の味は……形容しがたい。美味いはずもない。

 ただ、いくら怪異の肉を飲み込んだ所で、満感(ぼうまんかん)は無く、軽い胸焼けだけが余韻を残すだけ。

 そうしている内に、ふと意識を自分の左腕へと向けると、ちぎり取られたひじから先が、いつの間にか復元している。小さな傷さえ残さずに。

 いつの間にか、身体の動きも冴えてくる。

 その場で幼児のように暴れる鬼。

 その背中に回り込んだ俺は、両手で鬼の左腕へと飛び上がり、なんとか肩へと指先を伸ばして、更に上へとしがみつく。

 目の前にある鬼の首。

 なんとか振りほどこうと、めったやたらに拳を叩きつけてくるのも構わず、俺は深く深呼吸をして、その首元めがけ、精一杯口を開いて、上下の歯を深く深く突き立てた。

 (ファイナル……バイトってか!)

 ちぎり取った首元の肉。

 鬼から飛び降り、吹き上がる鮮血の中、俺はひざまずく鬼に向かって、声をかけた。

 「人の大事なもん狙うなんざ……百年早いんだよっ! 正直、お前の事なんざぁこれっぽっちも食いたくはねぇんだが……これも因果(いんが)だ。 骨一つ残らず頂くわ。 安心しろよ。」

 『ぎ……ぎざま……もしや我らと……』

 言葉の途中で、俺は鬼の頭を、右足を回して力一杯蹴り飛ばした。

 「お前たちなんかと一緒にすんじゃねぇやっ! ったく、これだから怪異なんてのは……とにかく! お前は俺に、これから美味しく……かどうかは別問題だが、いただかれるんだから……覚悟しろよ!」

 俺はニヤリと広角をあげ、少し震えたように見える鬼へとゆっくり歩み寄ってゆく。

 ……最悪のフルコースを片付けた俺は、身体についた怪異の血を見て頭を振りつつ、自家用車のある有料駐車場へと戻った。

 車の横には、いつものように黒いスーツとサングラスをした一人の男が立っている。

 「……ご苦労様でした」

 その男から差し出された、今着ている、汚れた作業着と同一の一揃えと、裸のままの現金三万円。

「命かけてる割には、安くない?おれ、いっつも疑問なんだけど」

「私は、指示された通りの事だけしか出来ませんから……」

 俺の苦情に表情も変えず、男が答える。

 このやり取りも何回目だろうか。

 「んじゃ、帰りますよ?」

 黒スーツの男が、黙ってこちらを向いて腰を折る。

 俺は車を動かして料金を運転席から支払い、鈍い痛みを抱えたまま帰路に着いた。

◇◆ 

 「着替えよし。匂い消しもブリ撒いた。 コンビニで買ったデザートも……よしっ! って、浮気の偽装工作みたいで、何か後ろめたくなんだよな……」

 ブツブツ車内で言いつつ、俺は車から降りて家まで歩く。

 途中で着替え、血の匂いを霧散させ、荒れた心を現実に引き戻す為の、儀式となったコンビニでの買い物。

 今日は、二つ入ったイチゴのショートケーキだ。

 俺がこのような行為を、毎夜おこなっている事を、妻は知らない。 

 出来れば、ずっと知らないままでいて欲しい。

 一緒になる前に、互いの家族と共に出かけた先での、不幸な事故。

 両親を亡くし、悲しみに暮れていた日々。

 俺はそこで、謎の声によって、この不思議な力を授かった。

 怪異を……食い破り、滅する力。

 また、それに付随して、自らの肉体が復元する能力。

 どうせなら、超絶的な能力を授けてくれれば楽だったのにと、声の主に愚痴の一つも言いたくなるが……

 その後、少し間を置いて俺へと接触してきた謎の組織。

 未だに不明な点だらけだが、今はこいつらも、大事な収入源だ。

 わかっている事は一つだけ。

 俺の妻が、不思議なものに狙われている事。

 やっと笑顔を見せるようになった妻を、傷つけ、悲しませるものは許さない。

 ……絶対に。

 俺は改めて誓いを胸に刻み、自宅の玄関の鍵を開けた。

 「わふっ!」

 「お〜!茶々〜!出迎えご苦労様!ママは?」

 靴を脱ぎながら茶々丸を撫でる俺に、居間の方から声が届く。

 「お帰り〜!今日は何買ってきたの〜!」

 「ん? じゃじゃん! イチゴショートなり〜!」

 見えてもいないのに、俺は右手に持った小さなビニール袋を、高々とその場で上げた。


 「茶々に生クリームあげちゃダメよ〜!」

 「わかってるって! な、茶々?」

 すでにその場でグルグルと回り始める茶々丸。

 「さて、まずは朝の散歩かな?」

 朝日の登り始める頃、俺たちの夕刻が始まろうとしていた。


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「んじゃ、行ってくる」
 安全靴を履きながら、台所の方へと声をかける。  
 いつものルーティンだ。
 「は〜い! あんまり無理しないでね〜! えっと、ほら、なんだっけ…… そう! ご安全に!」
 「どこでそれ覚えたんだよ! ブルーカラーの仕事なんか、した事無いくせに」
 離れた場所からかけられた、妻の言葉に思わず苦笑する。
 「あなた電話で、いっつも会社の人に言ってるじゃない? だから真似したの!」
 「しっかり聞いてんだな…… 了解。 なら、里美(さとみ)も家で、ご安全になっ! お?茶々丸もご安全に! だよな。ママの事、頼むぞ!」
 時刻は、夜の十一時を少し回った所。
 玄関まで出迎えに来た飼い犬、シーズーの子である茶々丸(ちゃちゃまる)の身体をワシャワシャと粗く撫で、俺は玄関のドアを開け、まだ、昼の熱気の残る外へと歩き出した。
◇◆ 
 近くに借りている屋外駐車場……と言っても、単なる砂利が敷いてあるだけの場所だが、そこで俺は、自家用車に乗り込む。
 気付けば走行距離も、そろそろ8万キロを超えようかという軽自動車。
 以前は、片道約五十分の道のりを往復していたのだから、この車にも少し無理をさせている。
 「そろそろ車検か……また金、飛んでくわ。 世知辛い世の中だこと。 さて、向かうとしますか!」
 シート位置と室内のミラーの確認をして、シートベルトを締める。
 エンジンをかけた拍子に、再びバックミラーに写る自らの顔に、思わず声をかけてしまう。
 「お前は西条……西条太郎、人間だ! ……うん。 俺は、なんにも変わっちゃいない……」
 視線をフロントガラスへと戻し、俺はフットブレーキを解いて、目的地に向けてハンドルを切ると同時に、ゆっくりアクセルを踏み込んだ。
◆◇
 車を有料駐車場へと停めた俺は、薄暗い街灯が等間隔に並ぶ道を、一人歩く。
 途中から、緩やかな坂道に差し掛かる。
 俺は迷わずに、その道を登って行く事約十五分。
 静かな物音の中に、徐々に荒くなる自らの息遣いだけが、響く気がした。
 鼻腔の奥まで届く、木々の匂いがする空間を抜け、俺は少し開けた場所にたどり着く。
 右ポケットからスマホを取り出し、リダイヤル履歴から目当ての番号を探して、通話ボタンをタップする。
 (トゥルルルル……トゥルルルル………チャッ)
 決まって三度目の呼び出し音の前に出る相手。
 「……只今、現着」
 「了解した。近くに監視班が……」
 「いつも通りいるって事で。 毎度手回しが、行き届いてて、こちとら、感謝感激雨あられってとこですよ」
 相手の言葉をさえぎり、俺は皮肉で返す。
 妻には伝えていない、本当の……仕事。
 これから始まるのは、紛れもない命のやり取り。
 憎まれ口の一つも言いたくなる。
 「油断は禁物だ。 ……周囲に、一般人の侵入はさせないよう、配置は完了している」
 「とかなんとか言って、しっかり空からドローンで録画してんでしょ? ったく、俺にももう少し、組織の事、開示してくれても……」
 言葉の途中で、周囲の温度が下がっている事に気付く。
 「お出ましみたいです。 それじゃ」
 俺は通話をやめ、スマホをポケットへと戻す。
 それまで感じていた、太陽からの残り香が消え、自分の呼気から白い物が吐き出される。
 目の前に集まる黒い靄(もや)。
 俺は右足を少し後ろに引いて、両ひじを曲げ、脇を締めて胸の前で拳を握り込む。
 集まり出した靄(もや)は密度を高め、凝縮し……霧散した。
 目の前に現れたのは……怪異。
 身の丈で言えば、三メートルといった所か。
 赤銅色に包まれた体躯(たいく)。
 ご丁寧に、鉄で出来たような太い棒まで右手に握っていた。
 空想上の鬼。
 それが俺の目の前に具現化している。
 『我らの贄(にえ)はどこぞ?』
 毎回慣れない、頭に直接響く声。
 俺は何も答えない。
 『約定(やくじょう)の、贄(にえ)はどこぞ……』
 こいつら怪異は、いつも同じセリフから伝えてくる。
 俺は肩をすくめ、目の前の鬼に対し、言葉を投げつける。
 「うるせえチンピラ。 てめぇの惚れた恋女房、はいそうですかと差し出すバカは、いねぇだろうがっ!」
 思わず口から出た啖呵(たんか)だが、そのすぐ後、気付かれないように俺は、ゴクリと生唾(なまつば)を飲み込んだ。
 『人ごときに……なにが出来ようぞ!』
 目の前の鬼が、右手に持った金棒を振り上げ、こちらへと走り出す。
 (まずっ!)
 想定よりも早い接近。
 振り下ろされる金棒を、俺はやっとの思いで右にかわす。
 が、鬼も急停止するや、こちらに振り返ると同時に左手を伸ばし、俺の左腕をがっしりとつかむ。
 「痛っ! 離せっ! このバカチンがっ!」
 俺は動く手足を盲滅法で鬼の腕に叩きつけるが、鬼にはまったく効いてる気配が感じられない。
 『所詮(しょせん)、人など我らからすれば塵芥(ちりあくた)……贄(にえ)の在り処(ありか)は、匂いをたどれば済むことよ……人間よ……自らの不明を嘆(なげ)いて、この地で果てよ』
 勝利を確信し、下卑た笑みを俺に向ける鬼。
 右手の金棒を捨て、鬼は俺の左手にその空いた手を添えて、まるで雑巾を扱うかのごとく、両手につかんだ左手を、前後に絞(しぼ)り上げてきた。
 「っ!う……うぅぅぅぁああああああっ!」
 (ぶちっ!)
 「あああああっ……」
 脳天を突き抜け、意識が飛びそうになるほどの激痛が左腕から広がる。
 「あああああっ……はあっ、はあっ……」
 左腕になんとか目を移すと、左ひじの先が消失している事を知った。
 吹き出る鮮血。
 視界がチカチカと点滅しているように感じる。心臓の鼓動に合わせて走る痛み。
 『どうじゃ……ぬしら人は、我らにとって土塊(つちくれ)程度の存在……慈悲を乞うても許さぬがの……』
 完全に自らの優位を確信したが故(ゆえ)の、脳内に響く言葉。
 鬼は、俺のちぎり取った左ひじから先を遠くへと投げ捨て、前かがみになって動けない俺の身体を、その両腕で抱き上げ、その胸へと抱きしめた。
「ぐぼぉっ!」
 俺の口から吐き出された吐瀉物(としゃぶつ)。 詰まる息。 きしむ骨。
 羽交い締めにして、そのまま絶命させるつもりなのは、嫌でもわかる。 
 だが……こいつは知らない。
 俺には、ただの人間には無い奥の手がある。
『ほうれ!この呪縛から……逃れてみよ!ほうれ!」
 苦しさの中で見上げた先にある鬼の表情には、愉悦(ゆえつ)さえ浮かんでいる。
 「……なぁっ! どうせ死ぬなら、俺を倒す相手の顔くらい……最後に近くで、見せてくれよ……」
 俺は最後の願いとばかりに、自分に出来る、精一杯情けない表情を浮かべ、鬼へと声をかけた。
 鬼は口から上あごから太い二本の牙を見せ、高らかに笑いながら、羽交い締めを緩め、俺の身体を抱きしめたまま、その顔を俺へと寄せる。
(勝機!)
 俺は鬼の鼻先で大口を開けて、その鼻に噛みつき、思い切りかじり取った。
 『ぬぅあああああっ!』
 叫ぶ鬼の声が闇夜に響く中、俺は口の中の肉片をグチャグチャと咀嚼し、ゴクリとのどを鳴らす。
 たまらず抱きしめていた俺を離し、その両腕で、鬼が顔面を押さえだす。
 「いだい……このバカ野郎がっ!はあっ、はあっ……こっからは俺の番だ、コラッ!」
 俺は鬼の左ふくらはぎを見定めダッシュをかける。
(動きを、止めるっ!)
 素早く鬼の足を両腕で抱きしめ、勢いのまま、ふくらはぎへとかぶりつく。
 それを手始めに、隙を見つけてはあちこちの部位を、目につく限りがむしゃらに貪(むさぼ)りつく。
 その肉の味は……形容しがたい。美味いはずもない。
 ただ、いくら怪異の肉を飲み込んだ所で、満感(ぼうまんかん)は無く、軽い胸焼けだけが余韻を残すだけ。
 そうしている内に、ふと意識を自分の左腕へと向けると、ちぎり取られたひじから先が、いつの間にか復元している。小さな傷さえ残さずに。
 いつの間にか、身体の動きも冴えてくる。
 その場で幼児のように暴れる鬼。
 その背中に回り込んだ俺は、両手で鬼の左腕へと飛び上がり、なんとか肩へと指先を伸ばして、更に上へとしがみつく。
 目の前にある鬼の首。
 なんとか振りほどこうと、めったやたらに拳を叩きつけてくるのも構わず、俺は深く深呼吸をして、その首元めがけ、精一杯口を開いて、上下の歯を深く深く突き立てた。
 (ファイナル……バイトってか!)
 ちぎり取った首元の肉。
 鬼から飛び降り、吹き上がる鮮血の中、俺はひざまずく鬼に向かって、声をかけた。
 「人の大事なもん狙うなんざ……百年早いんだよっ! 正直、お前の事なんざぁこれっぽっちも食いたくはねぇんだが……これも因果(いんが)だ。 骨一つ残らず頂くわ。 安心しろよ。」
 『ぎ……ぎざま……もしや我らと……』
 言葉の途中で、俺は鬼の頭を、右足を回して力一杯蹴り飛ばした。
 「お前たちなんかと一緒にすんじゃねぇやっ! ったく、これだから怪異なんてのは……とにかく! お前は俺に、これから美味しく……かどうかは別問題だが、いただかれるんだから……覚悟しろよ!」
 俺はニヤリと広角をあげ、少し震えたように見える鬼へとゆっくり歩み寄ってゆく。
 ……最悪のフルコースを片付けた俺は、身体についた怪異の血を見て頭を振りつつ、自家用車のある有料駐車場へと戻った。
 車の横には、いつものように黒いスーツとサングラスをした一人の男が立っている。
 「……ご苦労様でした」
 その男から差し出された、今着ている、汚れた作業着と同一の一揃えと、裸のままの現金三万円。
「命かけてる割には、安くない?おれ、いっつも疑問なんだけど」
「私は、指示された通りの事だけしか出来ませんから……」
 俺の苦情に表情も変えず、男が答える。
 このやり取りも何回目だろうか。
 「んじゃ、帰りますよ?」
 黒スーツの男が、黙ってこちらを向いて腰を折る。
 俺は車を動かして料金を運転席から支払い、鈍い痛みを抱えたまま帰路に着いた。
◇◆ 
 「着替えよし。匂い消しもブリ撒いた。 コンビニで買ったデザートも……よしっ! って、浮気の偽装工作みたいで、何か後ろめたくなんだよな……」
 ブツブツ車内で言いつつ、俺は車から降りて家まで歩く。
 途中で着替え、血の匂いを霧散させ、荒れた心を現実に引き戻す為の、儀式となったコンビニでの買い物。
 今日は、二つ入ったイチゴのショートケーキだ。
 俺がこのような行為を、毎夜おこなっている事を、妻は知らない。 
 出来れば、ずっと知らないままでいて欲しい。
 一緒になる前に、互いの家族と共に出かけた先での、不幸な事故。
 両親を亡くし、悲しみに暮れていた日々。
 俺はそこで、謎の声によって、この不思議な力を授かった。
 怪異を……食い破り、滅する力。
 また、それに付随して、自らの肉体が復元する能力。
 どうせなら、超絶的な能力を授けてくれれば楽だったのにと、声の主に愚痴の一つも言いたくなるが……
 その後、少し間を置いて俺へと接触してきた謎の組織。
 未だに不明な点だらけだが、今はこいつらも、大事な収入源だ。
 わかっている事は一つだけ。
 俺の妻が、不思議なものに狙われている事。
 やっと笑顔を見せるようになった妻を、傷つけ、悲しませるものは許さない。
 ……絶対に。
 俺は改めて誓いを胸に刻み、自宅の玄関の鍵を開けた。
 「わふっ!」
 「お〜!茶々〜!出迎えご苦労様!ママは?」
 靴を脱ぎながら茶々丸を撫でる俺に、居間の方から声が届く。
 「お帰り〜!今日は何買ってきたの〜!」
 「ん? じゃじゃん! イチゴショートなり〜!」
 見えてもいないのに、俺は右手に持った小さなビニール袋を、高々とその場で上げた。
 「茶々に生クリームあげちゃダメよ〜!」
 「わかってるって! な、茶々?」
 すでにその場でグルグルと回り始める茶々丸。
 「さて、まずは朝の散歩かな?」
 朝日の登り始める頃、俺たちの夕刻が始まろうとしていた。