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1

ー/ー




 ――月が蒼い夜だった。
 空気がピリピリと痛いくらいに冷え込んでいて、肌寒い。


「本当に良かったんですか?」


 小さな明かりが灯っただけの狭い一室に案内され、井筒暁人(いづちあきひと)を見つめていた東雲蒼(しののめあお)はふいに口を開いた。


「僕の部屋なんかにのこのことついてきて」


 聞き慣れているはずの声が、なぜかいつもと違って聞こえる。突き放すようなニュアンスがあった。
 彼は学校にいる時と変わらず、綺麗な敬語のまま。
 心がざわついていた。


「……駄目、なのかよ」


 問いかける声がわずかに震えていることに、暁人自身も気付いてはいた。ただその理由を探りあてられなかっただけだ。
 蒼の瞳が自分を捉えているという事実に、暁人の体が仄かに熱を帯びる。


「……っ」


 気付いた時には、皺一つない白いベッドの上に押し倒されていた。
 覆いかぶさるようにのしかかってくる蒼の体は、驚くほど軽い。


「後悔……しませんか?」
「何を……」


 洩れた声が、思いのほか落ち着いていたことに暁人は戸惑っていた。
 確信めいたものはない。けれども予感は、確かにあった――。


 暁人と蒼は、高校のクラスメイトだった。話したことはあまりない。
 ただ、凛と響く流暢な敬語だけは嫌でも耳に入ってきた。クラスメイトに敬語で話すなんて、変わったヤツだと思っていた。
 端から見ると酷く他人行儀に見えるのに、口調が柔らかいせいか親しみやすい印象を与える。彼の周りには人が多かった。
 けれども暁人は、自分に対してだけ彼の接し方が違う気がしてならなかった。
 視線をわざとそらされているような気がする。自分と話す時だけは、柔らかいはずの丁寧語が酷く冷たく、よそよそしいものに感じられた。
 気のせいかもしれない。気のせいじゃないかもしれない。日を増すごとに疑心は募り、はっきりしないからこそ余計に苛立った。
 そんな時だった。今日。放課後。夕日の射す教室で帰り支度をしていた暁人に、蒼は声をかけてきた。


「井筒さん。この後予定、あります?」
「……あ?」


 思いがけない問いかけに、暁人は間の抜けた返答をする。


「少し付き合っていただけませんか?」
「いい、けど」


 何部にも所属しておらず、コンビニで漫画を立ち読みするくらいしか用がなかった暁人には、断る理由が特にない。
 二つ返事で頷いた。
 夕日が教室を緋色に染めているせいで、蒼の顔は影になっていて見えない。
 ただ、彼が自分を見ている。いつもそらされてばかりの視線が、まっすぐ自分を捉えている。
 その事実だけが、暁人の脳を揺さぶっていた。


 その夜の月は、なぜだか蒼かった。冷えた空気や、雲の加減だろうか。胸がざわざわする、不思議な夜だった。
 付き合ってくれと言うわりには行きたいところがあるわけではないらしく、暁人は仕方なく、蒼を近くのゲームセンターに連れていった。
 そこでシューティングゲームやらクレーンゲームを何度かやった後、家に来ないかと尋ねられた。
 その時からしていた、予感じみた何か。胸の内に湧き出た説明のつかない『何か』に、暁人はずっと気づかないふりをした。


「……ふ」


 一瞬だけ触れた蒼の唇は、思いのほか柔らかかった。
 暁人はおののき、華奢な体を押し返した。
 間近に蒼の顔がある。黒に見えていた彼の双眸は、ほんの少しだけ青みがかった不思議な色をしていた。そしてわずかに、何か翳りのようなものが垣間見えた気がした。


「……嫌ですか?」


 その目が憂いを帯びて、細められる。
 ――わからない。
 暁人は自分の気持ちに酷く狼狽した。
 わからない? そんな馬鹿な。こんなこと嫌に決まっている。
 蒼は同性のクラスメイトだ。友達ですらない。今日まで行動を共にすることはなかったし、用件以外の話すらまともにしたことがなかった相手。そんな相手と、どうして今、自分はこんな場所でこんなことをしているのか。
 暁人は蒼の、不思議な色の瞳を見つめた。
 なら、彼が異性ならばいいのだろうか。それも違う。自分は、誰とでも気安く寝るような質(たち)の男ではない。……わからない。
 暁人は焦燥に、きつく唇を噛みしめた。
 拒否することも受け入れることもできず、ただ長い沈黙だけが室内を満たす。
 もう一度キスされた。口内に舌を送りこまれ、その心地良さに目眩がしそうだ。
 ――違う。
 目を閉じた瞬間、脳内で何かが閃く。
 予感はしていたのだ。ならばなぜ、自分はここまで来たのだろう。なぜ逃げ出さなかった? 自分を誘った理由をなぜ尋ねなかった? この部屋での彼の最終忠告を、なぜ聞かなかった?
 それは自分が、その予感にわずかでも期待していたからではないのか?
 暁人は両手で蒼の肩を掴んだ。
 今だって、この体を弾き飛ばせない理由は――。


「くそっ……」


 暁人は無理矢理唇を離し、蒼の体をベッドへと押し返した。
 その上にまたがり、蒼を見つめる。
 薄い色の口元は、不敵に笑んでいた。
 窓から漏れてくる月明かりを反射し、青白く艶めかしい喉元が暁人を誘う。
 駄目だと思った。これ以上深みにはまったら、きっと引き返せない。
 けれども自分の体はすでに、雄の反応を呼び起こされていた。
 激しい葛藤に、暁人の顔が切なげに歪む。
 蒼は暁人の下で体を横たえたまま、掬うように暁人の表情を見定めている。
 ふいに細い手が伸び、暁人の頬に触れた。
 たった一つのその仕草が、暁人がギリギリの場所でせき止めていた欲望を弾けさせる。理性が千切れる音が、聞こえた気がした。


「畜生……っ」


 絞り出すようにそれだけを吐き捨てる。それが最後だった。
 そのまま蒼の体に顔を埋める。
 何かが酷く高ぶっていた。悔しいのか、憎らしいのか、悲しいのか……愛しいのかわからない。
 衝動のままに抱いた体は、酷く甘美だ。
 暁人は目を閉じた。せり上がる背徳感から逃げたくて、どうしようもない。
 ……蒼い月のせいだ。
 言い訳を探すように、心の内で呟く。
 美しすぎる蒼い月が、心を惑わしかき乱していく。
 同性の男を抱くという、普段ならば及びもつかない境地に自分を導く。


 ――違いますよ。


 ふとそんな声が、暁人の耳に聞こえた気がした。
 ぞっとして、蒼を見下ろす。
 嬌声と共に喘ぐ肩。それでも彼は不敵な笑みを口元に浮かべ、暁人を見上げている。
 ほんの一瞬垣間見えた翳りはなりを潜ませ、小悪魔じみた表情(かお)をして、不思議な色の青い瞳は囁いていた。
 悪いのは月ではないと。自分の意志でここにいるのだと。


 ――僕たちは共犯である、と。




おわり


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 ――月が蒼い夜だった。
 空気がピリピリと痛いくらいに冷え込んでいて、肌寒い。
「本当に良かったんですか?」
 小さな明かりが灯っただけの狭い一室に案内され、井筒暁人(いづちあきひと)を見つめていた東雲蒼(しののめあお)はふいに口を開いた。
「僕の部屋なんかにのこのことついてきて」
 聞き慣れているはずの声が、なぜかいつもと違って聞こえる。突き放すようなニュアンスがあった。
 彼は学校にいる時と変わらず、綺麗な敬語のまま。
 心がざわついていた。
「……駄目、なのかよ」
 問いかける声がわずかに震えていることに、暁人自身も気付いてはいた。ただその理由を探りあてられなかっただけだ。
 蒼の瞳が自分を捉えているという事実に、暁人の体が仄かに熱を帯びる。
「……っ」
 気付いた時には、皺一つない白いベッドの上に押し倒されていた。
 覆いかぶさるようにのしかかってくる蒼の体は、驚くほど軽い。
「後悔……しませんか?」
「何を……」
 洩れた声が、思いのほか落ち着いていたことに暁人は戸惑っていた。
 確信めいたものはない。けれども予感は、確かにあった――。
 暁人と蒼は、高校のクラスメイトだった。話したことはあまりない。
 ただ、凛と響く流暢な敬語だけは嫌でも耳に入ってきた。クラスメイトに敬語で話すなんて、変わったヤツだと思っていた。
 端から見ると酷く他人行儀に見えるのに、口調が柔らかいせいか親しみやすい印象を与える。彼の周りには人が多かった。
 けれども暁人は、自分に対してだけ彼の接し方が違う気がしてならなかった。
 視線をわざとそらされているような気がする。自分と話す時だけは、柔らかいはずの丁寧語が酷く冷たく、よそよそしいものに感じられた。
 気のせいかもしれない。気のせいじゃないかもしれない。日を増すごとに疑心は募り、はっきりしないからこそ余計に苛立った。
 そんな時だった。今日。放課後。夕日の射す教室で帰り支度をしていた暁人に、蒼は声をかけてきた。
「井筒さん。この後予定、あります?」
「……あ?」
 思いがけない問いかけに、暁人は間の抜けた返答をする。
「少し付き合っていただけませんか?」
「いい、けど」
 何部にも所属しておらず、コンビニで漫画を立ち読みするくらいしか用がなかった暁人には、断る理由が特にない。
 二つ返事で頷いた。
 夕日が教室を緋色に染めているせいで、蒼の顔は影になっていて見えない。
 ただ、彼が自分を見ている。いつもそらされてばかりの視線が、まっすぐ自分を捉えている。
 その事実だけが、暁人の脳を揺さぶっていた。
 その夜の月は、なぜだか蒼かった。冷えた空気や、雲の加減だろうか。胸がざわざわする、不思議な夜だった。
 付き合ってくれと言うわりには行きたいところがあるわけではないらしく、暁人は仕方なく、蒼を近くのゲームセンターに連れていった。
 そこでシューティングゲームやらクレーンゲームを何度かやった後、家に来ないかと尋ねられた。
 その時からしていた、予感じみた何か。胸の内に湧き出た説明のつかない『何か』に、暁人はずっと気づかないふりをした。
「……ふ」
 一瞬だけ触れた蒼の唇は、思いのほか柔らかかった。
 暁人はおののき、華奢な体を押し返した。
 間近に蒼の顔がある。黒に見えていた彼の双眸は、ほんの少しだけ青みがかった不思議な色をしていた。そしてわずかに、何か翳りのようなものが垣間見えた気がした。
「……嫌ですか?」
 その目が憂いを帯びて、細められる。
 ――わからない。
 暁人は自分の気持ちに酷く狼狽した。
 わからない? そんな馬鹿な。こんなこと嫌に決まっている。
 蒼は同性のクラスメイトだ。友達ですらない。今日まで行動を共にすることはなかったし、用件以外の話すらまともにしたことがなかった相手。そんな相手と、どうして今、自分はこんな場所でこんなことをしているのか。
 暁人は蒼の、不思議な色の瞳を見つめた。
 なら、彼が異性ならばいいのだろうか。それも違う。自分は、誰とでも気安く寝るような質(たち)の男ではない。……わからない。
 暁人は焦燥に、きつく唇を噛みしめた。
 拒否することも受け入れることもできず、ただ長い沈黙だけが室内を満たす。
 もう一度キスされた。口内に舌を送りこまれ、その心地良さに目眩がしそうだ。
 ――違う。
 目を閉じた瞬間、脳内で何かが閃く。
 予感はしていたのだ。ならばなぜ、自分はここまで来たのだろう。なぜ逃げ出さなかった? 自分を誘った理由をなぜ尋ねなかった? この部屋での彼の最終忠告を、なぜ聞かなかった?
 それは自分が、その予感にわずかでも期待していたからではないのか?
 暁人は両手で蒼の肩を掴んだ。
 今だって、この体を弾き飛ばせない理由は――。
「くそっ……」
 暁人は無理矢理唇を離し、蒼の体をベッドへと押し返した。
 その上にまたがり、蒼を見つめる。
 薄い色の口元は、不敵に笑んでいた。
 窓から漏れてくる月明かりを反射し、青白く艶めかしい喉元が暁人を誘う。
 駄目だと思った。これ以上深みにはまったら、きっと引き返せない。
 けれども自分の体はすでに、雄の反応を呼び起こされていた。
 激しい葛藤に、暁人の顔が切なげに歪む。
 蒼は暁人の下で体を横たえたまま、掬うように暁人の表情を見定めている。
 ふいに細い手が伸び、暁人の頬に触れた。
 たった一つのその仕草が、暁人がギリギリの場所でせき止めていた欲望を弾けさせる。理性が千切れる音が、聞こえた気がした。
「畜生……っ」
 絞り出すようにそれだけを吐き捨てる。それが最後だった。
 そのまま蒼の体に顔を埋める。
 何かが酷く高ぶっていた。悔しいのか、憎らしいのか、悲しいのか……愛しいのかわからない。
 衝動のままに抱いた体は、酷く甘美だ。
 暁人は目を閉じた。せり上がる背徳感から逃げたくて、どうしようもない。
 ……蒼い月のせいだ。
 言い訳を探すように、心の内で呟く。
 美しすぎる蒼い月が、心を惑わしかき乱していく。
 同性の男を抱くという、普段ならば及びもつかない境地に自分を導く。
 ――違いますよ。
 ふとそんな声が、暁人の耳に聞こえた気がした。
 ぞっとして、蒼を見下ろす。
 嬌声と共に喘ぐ肩。それでも彼は不敵な笑みを口元に浮かべ、暁人を見上げている。
 ほんの一瞬垣間見えた翳りはなりを潜ませ、小悪魔じみた表情(かお)をして、不思議な色の青い瞳は囁いていた。
 悪いのは月ではないと。自分の意志でここにいるのだと。
 ――僕たちは共犯である、と。
おわり