表示設定
表示設定
目次 目次




第11話 最悪な寝覚め

ー/ー



 無駄に高い天井。
 色ガラスを嵌め込み過ぎて悪趣味の極みになってる大窓。
 やたらと豪華な装飾が施されている、星導の神アストライオスの像。
 ここは、教会内での『正義』が執行されるための場所だ。
 本来なら、な。
 両側から腕を掴まれて、更には背後から頭を掴まれて、無理矢理床に押し付けられている俺。
 正面と両側に並んでいる審議官の連中は、そんな俺を見てイヤらしい笑みを浮かべてやがる。
 クソ野郎共が。
 睨みつけるように見上げるが、審議官連中に俺の知った顔は一つもねぇ。
 当たり前だ。コイツは法廷ってな形を取ってはいるものの、実際には結果ありきの裁判なんだからな。
 邪魔者である俺を、吊るし上げて罰するための。
 今、この場所には、俺の味方なんてモンは一人も居ねぇんだ。
「神官、ゴオト・マンディアンは」
 そんな俺の心中とは裏腹に、淡々と判決文が読み上げられていく。
「回収と称した遺体の解体、教会の許可なき改葬を繰り返し、その過程において遺体の所持していた金品を不正に取得。並びに回収した遺体を金銭目的で売却した事実を確認した」
「おい待てコラ! 俺はそんなことはしてねぇ! 証言だってあるはずだろうがッ!!」
 声を荒らげるが、俺を押さえ付ける手の力が増しただけだった。
 周囲からの、侮蔑と嘲笑の視線が突き刺さる。
「これらの行為は死者の魂を穢し、教会の権威を貶し、更には神意を踏みにじる重大な背信行為である。よって本日付をもって聖職を剥奪し、教会籍を抹消。永久追放とする」
「死者の魂を穢して冒涜してんのはテメェらの方だろうがッッ! 神意どころか弱ぇ奴らの声も心も踏みにじりやがって!! 俺は知ってんだぞ、テメェらがどんな」
 喉から血が出そうになるくれぇに、声を張り上げる。だが、それは途中で遮られた。
 感情すらこもってねぇ一言で。
「黙らせろ」
 枢機卿の声。神ですら救えねぇような最低最悪の女狂いな年中発情期野郎。奴に迫られて泣かされた修道女は、数え切れねぇくらい居る。
「があっ」
 後頭部に強烈な衝撃と痛み。頭を蹴飛ばされたらしい。
 頭がぐらんぐらんして、分厚い金属の板を叩くような鈍い音が頭の中に響く。
「……ぎッ」
 俺の頭を押し付ける手の力が、更に強くなっていく。
 床に接している左の頬骨が、みしみしと音を立てた。
「不愉快極まりない男め。殺されないだけ有り難く思え」
 最悪女狂い野郎の声が、耳に届く。
 俺は、無力だ。
 コイツらを告発出来ていたなら、アイツの──俺の親友、ホークの遺体の行方を追えたかも知れねぇのに。
 詰めが甘かったのか? 裏切り者が居やがったのか?
 ……いや。全部、俺が間抜けだったせいだ。
 俺がもっと慎重に動いていれば。他の教会連中を簡単に信用したりしていなければ。
「……ゴオト」
 俺の真上で声がした。
 目だけを動かして視線を送れば、見たくもねぇ顔があった。
 司教。ブクブクと肥え太りやがった歩く脂肪の塊の豚野郎。
 俺は知ってんだ。大司教とコイツとその他大勢の奴らが結託して、教会に預けられた遺体を、裏の連中に売り捌いてやがるのを。
「どうだね、我々の『真の同朋』にならんか。そうすれば、お前の判決は取り消してやろう。勿論、永久追放処分も無しだ。お前の普段の素行も不問にしてやろう。大幅に譲歩してやってるのだ、悪い話ではないと思うのだがね」
 猫撫で声って、こんな感じなんだろう。不自然なくれぇに優しい声。
 おまけに気味の悪ぃニヤニヤとした笑みを浮かべてやがる。
 ああ、こうやって『お仲間』を増やしてたんだな、テメェらは。
「……断るに、決まってんだろ。テメェらの仲間になるくれぇなら、死んだ方がマシだ」
 押さえ付けられてる状態じゃ格好なんてつかねぇが、それでも俺は豚野郎の誘いを拒む。
 神意を踏みにじって、そしてアイツとの約束を反故にするようなことなんぞ、俺には出来る訳がねぇ。
「……全く以て理解が出来んな。師が痴れ者ならば、弟子も痴れ者だったか」
 後頭部から頭のてっぺんにかけてが一気に燃え上がるような、そんな感覚がした。
 まさか。
「俺の、師匠も?」
「優秀であったが、躾けられん犬は要らんのでな。虚偽の罪をでっち上げて神聖塔送りにしてやったのだ。異端審問官も嘆いておったぞ? 『どれだけ厳しく取り調べても認めぬものだから、つい激しく拷問してしまった』とな」
 耳にこびりつくような下品な笑い。
 怒りが限界を超えると逆に心が穏やかになっちまうってのは、どうやら本当らしい。
 今まさに、俺がその状態なんだからな。
「………………ろ」
 小さく呟く。
「今、何か言ったか?」
 豚野郎の顔が近付いてくる。
 奴の目を横目で睨みながら、俺は小さく、はっきりと言った。
「地獄に堕ちろ」
 その瞬間、俺の右頬に拳が叩き込まれる。
「……死ぬ一歩手前まで痛めつけてやれ。何なら殺しても構わん。神官の遺体は『裏』で高く売れるからな」
 猫撫で声から一転した、冷たい口調。それが本性かよ。
「ぐッ! ごっ、おぐッ、がほッ!」
 俺を押さえ付けていた3人が、豚野郎の言葉と同時に襲い掛かってくる。
 俺に避ける術なんてねぇ。殴られて、蹴られて、されたい放題だ。
 顔が、背中が、腕が、腹が、足が。痛みで満たされていく。
 まるで身代わりになるみてぇに、首に掛けていた祈祷具の鎖が弾けて、象徴(シンボル)が留め具ごと転がっていった。
 教会の象徴──八芒星を十字形に図案化したもの──は、豚野郎の靴に当たって止まる。
「……神官の癖に、こんな玩具同然の物を使っているとはな」
 止めろよ。
 それは、俺の師匠の、たった一つの形見なんだよ
 止めてくれよ、頼むから。
「もう貴様には必要ない物だろう? 教会という組織から永久追放された貴様には」
 豚野郎の靴が、『それ』を踏みつける。
 師匠の形見、陶器製の象徴(シンボル)は、粉々に砕け散った。
 俺の、目の前で。


 声にならねぇ叫びを上げながら、飛び起きた。
 全身汗塗れの最悪な目覚め。未だに体に震えが残ってやがる。
 思い出したくもねぇような昔のことを、久しぶりに夢に見ちまった。
 夢の中で殴られたせいか、例の騎士サマにやられた左頬がズキズキと痛む。
「ああ、クソ。最低にも程ってモンがあるだろ」
 独りごちながら、枕元に置いてある鞄に手を伸ばす。
 パイプと、金属製の煙草入れ。こんなときはヤニを吸うに限る。だが。
「切れてんじゃねぇかよ、クソったれが」
 煙草入れの中は空だった。そう言や、1週間くれぇ補充してなかったな。
 ヤニで誤魔化すのは諦めて、酒で気分を落ち着かせることにする。ちょうど、この間持って帰ってきた葡萄酒が残っていたはずだ。
 テーブルの上に置いてある褐色の瓶に手を伸ばすと、口でコルク栓を咥える。
 栓をそのまま明後日の方向に吐き飛ばし、瓶に直接口を付けて、中の葡萄酒を流し込んでいく。
 渋みと、少しだけ酸い匂い。空っぽの胃の中でたぷんと音がすりゃ、ようやく気分が落ち着いてきた。
「……はぁ」
 息と一緒に酒のにおいを吐き出せば、狭い室内に漂う汗の臭いと混じり合う。
 外から聞こえてくる、普段と変わらねぇ喧騒。今日はどの階層に潜るだの、昨日はこんな魔物に遭遇しただの、俺には到底関係ねぇような能天気な話題が耳に入ってきやがる。
 真っ暗な部屋。それはまるで、俺の心の中そのものみたいで。
 本当は分かってんだ。俺は、弱い人間だってことくれぇな。


 外は快晴だった。天気が良すぎて、軽く土埃が舞う程度には。
 まだ帰還報告をしてなかったことを思い出し、冒険者ギルドの方へと足を向ける。
 本当なら昨日のうちにやっとくべきだったんだが……まあ、こんなことだってあらぁな。
 街は、この間の雨のときが嘘みてぇに賑わっている。商店で買い物をする街の住人。土産物屋で品物を物色してる観光客らしき連中。武器屋の店先で、口論を繰り広げてやがる冒険者と主人。
 小せぇガキ共は今日も、勇者ごっこをしてやがる。今回は勇者が復活する場面か? 飽きねぇ連中だよな、全く。
 街の喧騒とざわめき。正直に言や、耳がヒリつく程度にゃうるさい。だが、このうるささに助けられてもいるんだ、俺は。
 歩を進めていきゃ、香ばしい良い匂いが漂ってきた。露店や屋台が立ち並んでる区域だ。
 香辛料をまぶした肉が焼ける音が響くと同時に、食欲を強烈に刺激する匂いが広がる。
 美味そうだ。でも、ちょっと待て俺。こんなモン食ったら胃もたれ不可避だぞ。
 隣の屋台では、麦の入ったとろみのあるスープが、鍋の中でグツグツと煮立っている。
 普段だったらコイツで安定なんだが、流石に葡萄酒で腹を満たした後だしな。液体に液体を重ねるような真似はしたくねぇ。
 そんなこんなで食い物の露店を素見(ひやか)しながら歩いてりゃ、少し先から香ばしくて甘い香りが漂ってきた。
 生地を輪っかの形に整えて茹でた後、炭火で焼いたパンだ。腹持ちがやたらと良いんだよな、コレ。
「親父!」
 忙しそうに動いていた店主に声を掛ける。
「この、肉桂(シナモン)まぶしてあるやつをひとつ」
「あ、ついでにケシの実がたくさん付いてるのもひとつね!」
 後ろから声がした。振り向いてみりゃ、ジュリアが居やがった。
「あいよ! 2つ合わせて銅貨7枚ね!」
 コイツはよぉ……。
「えっへへー、ありがと、ゴオト♪」
 ちゃっかりし過ぎだろうが。
「ったく。せめて胡麻のやつにしろ。俺より高ぇモン頼むんじゃねぇ」
「もぉ、たかが銅貨1枚の差じゃないの。大人がケチくさいこと言わないの!」
「テメェだって、世間様から見りゃ大人だろうが……」
 俺の言い分を聞いているのかいねぇのか、手渡されたケシの実がまぶしてあるパンに、早速齧りついているジュリア。
 俺も肉桂がまぶしてあるパンを齧りながら、再びポツポツと歩き出す。
 口の中でモチモチとした食感を残しながら、胃の中に落ちていくパン。喉の奥に残っている葡萄酒の酸い余韻を、肉桂が消していく。
 並んで歩いてはいるが、俺もジュリアも無言だ。咀嚼音だけが、小さく漏れている。
 そんな中で先に口を開いたのは、ジュリアの方だった。
「……あのね、ゴオト。あたし、謝ろうかなって、思ってたの」



スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む 第12話 思わぬ再会


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



 無駄に高い天井。 色ガラスを嵌め込み過ぎて悪趣味の極みになってる大窓。
 やたらと豪華な装飾が施されている、星導の神アストライオスの像。
 ここは、教会内での『正義』が執行されるための場所だ。
 本来なら、な。
 両側から腕を掴まれて、更には背後から頭を掴まれて、無理矢理床に押し付けられている俺。
 正面と両側に並んでいる審議官の連中は、そんな俺を見てイヤらしい笑みを浮かべてやがる。
 クソ野郎共が。
 睨みつけるように見上げるが、審議官連中に俺の知った顔は一つもねぇ。
 当たり前だ。コイツは法廷ってな形を取ってはいるものの、実際には結果ありきの裁判なんだからな。
 邪魔者である俺を、吊るし上げて罰するための。
 今、この場所には、俺の味方なんてモンは一人も居ねぇんだ。
「神官、ゴオト・マンディアンは」
 そんな俺の心中とは裏腹に、淡々と判決文が読み上げられていく。
「回収と称した遺体の解体、教会の許可なき改葬を繰り返し、その過程において遺体の所持していた金品を不正に取得。並びに回収した遺体を金銭目的で売却した事実を確認した」
「おい待てコラ! 俺はそんなことはしてねぇ! 証言だってあるはずだろうがッ!!」
 声を荒らげるが、俺を押さえ付ける手の力が増しただけだった。
 周囲からの、侮蔑と嘲笑の視線が突き刺さる。
「これらの行為は死者の魂を穢し、教会の権威を貶し、更には神意を踏みにじる重大な背信行為である。よって本日付をもって聖職を剥奪し、教会籍を抹消。永久追放とする」
「死者の魂を穢して冒涜してんのはテメェらの方だろうがッッ! 神意どころか弱ぇ奴らの声も心も踏みにじりやがって!! 俺は知ってんだぞ、テメェらがどんな」
 喉から血が出そうになるくれぇに、声を張り上げる。だが、それは途中で遮られた。
 感情すらこもってねぇ一言で。
「黙らせろ」
 枢機卿の声。神ですら救えねぇような最低最悪の女狂いな年中発情期野郎。奴に迫られて泣かされた修道女は、数え切れねぇくらい居る。
「があっ」
 後頭部に強烈な衝撃と痛み。頭を蹴飛ばされたらしい。
 頭がぐらんぐらんして、分厚い金属の板を叩くような鈍い音が頭の中に響く。
「……ぎッ」
 俺の頭を押し付ける手の力が、更に強くなっていく。
 床に接している左の頬骨が、みしみしと音を立てた。
「不愉快極まりない男め。殺されないだけ有り難く思え」
 最悪女狂い野郎の声が、耳に届く。
 俺は、無力だ。
 コイツらを告発出来ていたなら、アイツの──俺の親友、ホークの遺体の行方を追えたかも知れねぇのに。
 詰めが甘かったのか? 裏切り者が居やがったのか?
 ……いや。全部、俺が間抜けだったせいだ。
 俺がもっと慎重に動いていれば。他の教会連中を簡単に信用したりしていなければ。
「……ゴオト」
 俺の真上で声がした。
 目だけを動かして視線を送れば、見たくもねぇ顔があった。
 司教。ブクブクと肥え太りやがった歩く脂肪の塊の豚野郎。
 俺は知ってんだ。大司教とコイツとその他大勢の奴らが結託して、教会に預けられた遺体を、裏の連中に売り捌いてやがるのを。
「どうだね、我々の『真の同朋』にならんか。そうすれば、お前の判決は取り消してやろう。勿論、永久追放処分も無しだ。お前の普段の素行も不問にしてやろう。大幅に譲歩してやってるのだ、悪い話ではないと思うのだがね」
 猫撫で声って、こんな感じなんだろう。不自然なくれぇに優しい声。
 おまけに気味の悪ぃニヤニヤとした笑みを浮かべてやがる。
 ああ、こうやって『お仲間』を増やしてたんだな、テメェらは。
「……断るに、決まってんだろ。テメェらの仲間になるくれぇなら、死んだ方がマシだ」
 押さえ付けられてる状態じゃ格好なんてつかねぇが、それでも俺は豚野郎の誘いを拒む。
 神意を踏みにじって、そしてアイツとの約束を反故にするようなことなんぞ、俺には出来る訳がねぇ。
「……全く以て理解が出来んな。師が痴れ者ならば、弟子も痴れ者だったか」
 後頭部から頭のてっぺんにかけてが一気に燃え上がるような、そんな感覚がした。
 まさか。
「俺の、師匠も?」
「優秀であったが、躾けられん犬は要らんのでな。虚偽の罪をでっち上げて神聖塔送りにしてやったのだ。異端審問官も嘆いておったぞ? 『どれだけ厳しく取り調べても認めぬものだから、つい激しく拷問してしまった』とな」
 耳にこびりつくような下品な笑い。
 怒りが限界を超えると逆に心が穏やかになっちまうってのは、どうやら本当らしい。
 今まさに、俺がその状態なんだからな。
「………………ろ」
 小さく呟く。
「今、何か言ったか?」
 豚野郎の顔が近付いてくる。
 奴の目を横目で睨みながら、俺は小さく、はっきりと言った。
「地獄に堕ちろ」
 その瞬間、俺の右頬に拳が叩き込まれる。
「……死ぬ一歩手前まで痛めつけてやれ。何なら殺しても構わん。神官の遺体は『裏』で高く売れるからな」
 猫撫で声から一転した、冷たい口調。それが本性かよ。
「ぐッ! ごっ、おぐッ、がほッ!」
 俺を押さえ付けていた3人が、豚野郎の言葉と同時に襲い掛かってくる。
 俺に避ける術なんてねぇ。殴られて、蹴られて、されたい放題だ。
 顔が、背中が、腕が、腹が、足が。痛みで満たされていく。
 まるで身代わりになるみてぇに、首に掛けていた祈祷具の鎖が弾けて、象徴《シンボル》が留め具ごと転がっていった。
 教会の象徴──八芒星を十字形に図案化したもの──は、豚野郎の靴に当たって止まる。
「……神官の癖に、こんな玩具同然の物を使っているとはな」
 止めろよ。
 それは、俺の師匠の、たった一つの形見なんだよ
 止めてくれよ、頼むから。
「もう貴様には必要ない物だろう? 教会という組織から永久追放された貴様には」
 豚野郎の靴が、『それ』を踏みつける。
 師匠の形見、陶器製の象徴《シンボル》は、粉々に砕け散った。
 俺の、目の前で。
 声にならねぇ叫びを上げながら、飛び起きた。
 全身汗塗れの最悪な目覚め。未だに体に震えが残ってやがる。
 思い出したくもねぇような昔のことを、久しぶりに夢に見ちまった。
 夢の中で殴られたせいか、例の騎士サマにやられた左頬がズキズキと痛む。
「ああ、クソ。最低にも程ってモンがあるだろ」
 独りごちながら、枕元に置いてある鞄に手を伸ばす。
 パイプと、金属製の煙草入れ。こんなときはヤニを吸うに限る。だが。
「切れてんじゃねぇかよ、クソったれが」
 煙草入れの中は空だった。そう言や、1週間くれぇ補充してなかったな。
 ヤニで誤魔化すのは諦めて、酒で気分を落ち着かせることにする。ちょうど、この間持って帰ってきた葡萄酒が残っていたはずだ。
 テーブルの上に置いてある褐色の瓶に手を伸ばすと、口でコルク栓を咥える。
 栓をそのまま明後日の方向に吐き飛ばし、瓶に直接口を付けて、中の葡萄酒を流し込んでいく。
 渋みと、少しだけ酸い匂い。空っぽの胃の中でたぷんと音がすりゃ、ようやく気分が落ち着いてきた。
「……はぁ」
 息と一緒に酒のにおいを吐き出せば、狭い室内に漂う汗の臭いと混じり合う。
 外から聞こえてくる、普段と変わらねぇ喧騒。今日はどの階層に潜るだの、昨日はこんな魔物に遭遇しただの、俺には到底関係ねぇような能天気な話題が耳に入ってきやがる。
 真っ暗な部屋。それはまるで、俺の心の中そのものみたいで。
 本当は分かってんだ。俺は、弱い人間だってことくれぇな。
 外は快晴だった。天気が良すぎて、軽く土埃が舞う程度には。
 まだ帰還報告をしてなかったことを思い出し、冒険者ギルドの方へと足を向ける。
 本当なら昨日のうちにやっとくべきだったんだが……まあ、こんなことだってあらぁな。
 街は、この間の雨のときが嘘みてぇに賑わっている。商店で買い物をする街の住人。土産物屋で品物を物色してる観光客らしき連中。武器屋の店先で、口論を繰り広げてやがる冒険者と主人。
 小せぇガキ共は今日も、勇者ごっこをしてやがる。今回は勇者が復活する場面か? 飽きねぇ連中だよな、全く。
 街の喧騒とざわめき。正直に言や、耳がヒリつく程度にゃうるさい。だが、このうるささに助けられてもいるんだ、俺は。
 歩を進めていきゃ、香ばしい良い匂いが漂ってきた。露店や屋台が立ち並んでる区域だ。
 香辛料をまぶした肉が焼ける音が響くと同時に、食欲を強烈に刺激する匂いが広がる。
 美味そうだ。でも、ちょっと待て俺。こんなモン食ったら胃もたれ不可避だぞ。
 隣の屋台では、麦の入ったとろみのあるスープが、鍋の中でグツグツと煮立っている。
 普段だったらコイツで安定なんだが、流石に葡萄酒で腹を満たした後だしな。液体に液体を重ねるような真似はしたくねぇ。
 そんなこんなで食い物の露店を素見《ひやか》しながら歩いてりゃ、少し先から香ばしくて甘い香りが漂ってきた。
 生地を輪っかの形に整えて茹でた後、炭火で焼いたパンだ。腹持ちがやたらと良いんだよな、コレ。
「親父!」
 忙しそうに動いていた店主に声を掛ける。
「この、肉桂《シナモン》まぶしてあるやつをひとつ」
「あ、ついでにケシの実がたくさん付いてるのもひとつね!」
 後ろから声がした。振り向いてみりゃ、ジュリアが居やがった。
「あいよ! 2つ合わせて銅貨7枚ね!」
 コイツはよぉ……。
「えっへへー、ありがと、ゴオト♪」
 ちゃっかりし過ぎだろうが。
「ったく。せめて胡麻のやつにしろ。俺より高ぇモン頼むんじゃねぇ」
「もぉ、たかが銅貨1枚の差じゃないの。大人がケチくさいこと言わないの!」
「テメェだって、世間様から見りゃ大人だろうが……」
 俺の言い分を聞いているのかいねぇのか、手渡されたケシの実がまぶしてあるパンに、早速齧りついているジュリア。
 俺も肉桂がまぶしてあるパンを齧りながら、再びポツポツと歩き出す。
 口の中でモチモチとした食感を残しながら、胃の中に落ちていくパン。喉の奥に残っている葡萄酒の酸い余韻を、肉桂が消していく。
 並んで歩いてはいるが、俺もジュリアも無言だ。咀嚼音だけが、小さく漏れている。
 そんな中で先に口を開いたのは、ジュリアの方だった。
「……あのね、ゴオト。あたし、謝ろうかなって、思ってたの」