【3】
ー/ー
ぽつぽつと当たり障りのない会話を交わしながら歩いて、到着した公園に人影はない。
このあたりには公園や緑地が多いんだから、わざわざこんな何の取り柄もない、遊びも制限されるところを選ぶ必要ないからな。
入り口の、車両の侵入を防止するための曲線を描くポールを通り抜け、公園を囲うように伸びる植栽沿いに右方向へ二、三歩進んだところだった。
耀くんがいきなり立ち止まったのに、俺もつられてその場で足を止める。
「先生。……今から僕が話すことは、誰にも言わないでいただけますか?」
向き合うでもなく、横並びでもなく。俺より斜め半歩前に同じ方向を向いて立つ彼が、振り向かないままに口火を切った。
俺は今、試されている。俺がそう受け止めたことを、耀くんもわかっている、筈だ。
「……、……言わない。俺の信用に賭けて、絶対に口外しない」
俺の信用なんてものにどれほどの価値があるのかは自分でも疑問だが、耀くんは納得してくれたらしい。
「今朝、起きたら、……。……あの、目が覚めて起き上がって、ベッドから立ち上がろうとしたら、床に、……。半分ベッドの下に潜るみたいな形で、あ、あの──」
言いにくそうに、ひとつひとつの言葉を強引に絞り出すかのように話そうとする耀くんに、俺の方が心苦しくなって思わずストップを掛けてしまった。
「耀くん、どうしても打ち明けるのが辛いんなら無理しなくていい。誰にも言わないって約束しただろ? つまり、聞いても聞かなくても俺の中だけの問題なんだから」
一歩踏み出した俺は、耀くんの見るからに力が入った肩を軽く抱くようにしてそのまま公園の少し奥へ歩を進める。
目指す石造りのベンチの前に着くと彼を促し、少し隙間を開けて並んで腰掛けた。
ベンチの座面を彷徨うように撫でている、……何か縋るものを探り当てようとしているかのような彼の手の甲を上からそっと握る。
はっとしたように俺に顔を向け、そのまま固まったかのように数十秒。
戦慄くように震える耀くんの唇から、言葉が滑り出た。
「ナイフ、……。お、折り畳み、の、小さな、ナイフ、が。ベッドの下、に、落ちて、……」
「!」
咄嗟に洩れそうになった声を、精神力を振り絞って押し止めた。よくやった、俺!
──自画自賛してる場合じゃないんだが、くだらない茶々入れでもしてないとこの耐え難い緊迫に俺まで叫び出したくなるんだよ。
俺たちを包む、すさまじい緊張を孕んだこの空気に。
「僕、僕は本当にそんなもの持ってませんし、興味もない、なかったんです。本当に、先生」
涙の膜が張った、レンズの向こうの揺れる瞳。縋るような声。
「大丈夫、わかってる。信じてるから。耀くんを知ってる人なら、それは疑いもしないよ。だから落ち着いて。──もしできたら、もう少し詳しく教えてくれる?」
「わか、りません。何も、わからないんです。僕、……僕、おかしい、んじゃ」
無理もないが、いつになく動揺を見せる耀くんに俺はどう対処すればいいんだろう。
「それは、……おかしいなんて、そんな。部屋の中なら知らない人が入るってことはないだろうけど、何か、勘違いとか。あー、折り畳みなら小さいだろうし、文房具用に以前買ったとか、……それはないんだね。えっと」
俺には、何の役にも立たず慰めにさえならない、呆れるほど陳腐な言葉しか掛けられない。
自分の底の浅さが恨めしくなる。
「それに、ナ、ナイフだけじゃ、なくて。その時に、ベッドの下に何かあると思って引っ張り出したら紙袋で、その中に、服、が」
──服。あの、耀くんが選びそうにもない黒っぽい、朔、の?
そういえばそうだ。あのとき朔が来てた服は、到底耀くんの私服とは思えないんだから。
汐に聞いた事実。
耀くんは知らない、でも俺は知っている、いくつかのこと。教えるべきなんだろうか。本人には知る権利がある、んだろうか。
だけどどこから説明したらいいんだ? こんな現実離れした話、聞いただけで信じられるか?
君の中に別の人間が居るんだ、って? いきなり?
──俺には、言えない。
「……耀くん、とりあえず今日は帰ろう。送ってくよ。遅くなったらお母さんも心配するし。何かあったら、なくても少しでも不安なことがあったら、いつでも連絡してきていいから」
肩に手を掛けて俺が言うのに、耀くんは黙って首肯した。
俺の役立たずっぷりにがっかりしたのか、それとも一応聞いてもらっただけでも安心できたのか。彼の無表情からは何も読み取れなかった。
これは俺の、責任放棄、なんだろうか。
──途中で投げ出すくらいなら、最初から目を背けていた方がまだマシだった、のか?
◇ ◇ ◇
公園で耀くんと話した二日後の休日。
部屋でだらだら過ごしていた俺の耳に、スマートフォンの着信音が届いた。これは通話だな、滅多に聞かないから忘れそうだけど。
そもそもの話、俺に電話してくる奴なんてほとんどいない。友人やなんかはメールやメッセージで事足りるからだ。
数少ない電話の相手である家族は、もっと遅い時間でないと掛けて来ない。
だから、おそらくこれは。
そんな風に頭の中で思いを巡らせながら、俺は音を頼りに何故かキッチンのシンク横に置きっぱなしにしていたスマホの元へ足早に向かう。
ディスプレイに浮かぶ予想通りの名を確かめた途端、俺は飛びつくようにスマホを手に取って応答ボタンを押していた。
「はい、牟礼です! 耀くん?」
「……あ、先生。僕、もう、無理……」
俺の耳に流れ込む、途切れ途切れの苦しそうな耀くんの声。
「耀くん! 今どこ?」
「……公園、あの、先生と……、あ、……来て、くれる……?」
今にも消え入りそうな弱々しい声が一瞬帯びる、微かな希望を見出したかのような響き。
「すぐ行く! 自転車で向かうから、──そう、十五分。待てるよね?」
考えるより先に言葉が飛び出していた。
行ってどうする。
心の中でそう思うのも事実だ。
だけど、行かなくてどうする! 耀くんに頼られたら応えたいんだよ。
もしかしたら、また後悔するだけの結果に終わるのかも知れないけど。
やっぱり俺は行ってしまうんだ。……行きたいんだ。これは俺の自己満足にすぎないんだろうか。だけど。
最初から無視しとけば、ってのは一歩踏み出す前にしか通用しない。だって俺はもう、走り出したんだから。それも自分から。
「せん、せ──」
涙声。もう言葉になっていない。
俺は彼に再度待つように念押しして、通話を終わらせる。
そしてスマホをポケットに突っ込んで、財布と鍵だけ掴んで部屋を飛び出した。
公園の前で急ブレーキで止まった俺は、パーキングする手間さえ惜しくてその場に自転車を放り出す。
ごめんなさい。許して、今は!
ポールを縫うようにして公園に足を踏み入れると、あちこちに点在する大きな木の向こうに広がるのは、燃える空。
左右を見回した俺の目に、探すでもなく飛び込んで来た耀くんの姿。ベンチの傍の木の幹に、もたれるように立っている。
駆け寄る俺を見ようともせずにだらんと手を下げて、……その右手に握られているものが朱く鈍く光った。
ナイフの、刃が。
「耀く、!」
俺の声が引き金になったのかはわからない。
彼はこちらに目線さえ寄越さなかったから。でもタイミングとしてはそう思ってしまうくらいだったんだ。
耀くんはナイフを持った手をゆっくり持ち上げて、──自分の顔の方に持って行く。
「止めろ! オレを殺すのか⁉ お前も一緒に死ぬんだぞ!」
耀くんが叫ぶ。……耀くんの身体が、口が、……別の自我、が。
首筋にぴたりと当てられた刃は、そのまま動かない。
ただじっと止めているわけではなく、柄を握った手を引いて切り裂こうとする耀くんと、それを押し止めようとする何か、誰か、……朔、が闘っている。
見えない火花が散るようなその緊張感が、少し離れた場所から見ている俺には手に取るように伝わって来た。
──どうしてわかるんだ。俺もどうかしてる、ってことなのか?
止めるべきなんだろうか。いや、他人が入ったことが悪い方向に作用したら。頭ではあれこれ考えつつも、俺はその場から動けない。
一触即発の空気が漂っている。
そのままいったいどれくらい経ったんだろう。
まだ空は朱い。おそらく俺の体感に反して、実際にはほんの僅かな時間だった筈だ。
ぱたん、と聞こえる筈のない音を耳が拾った気がした。それくらい機械的に、耀くんの右手がまた脱力して身体の横に下がる。
ナイフを持ったまま。
「……消した」
耀くんが呟く。耀くんの口が。
「違う、僕は、僕……」
「違わない。お前は朔を、……『もうひとりのお前』を消したんだ」
「ちがうちがうちがう! 僕はそんなの知らない! 僕は僕だ。五十嵐 耀だよ」
彼の中で、いったい何が起こっているのか。もう俺には見えない、理解できない。
……その方がいい、のかもしれないけど。
ただ一つ、確実なのは。この、俺の目に映ってる『耀くん』の身体の中に、耀くんと汐がいるってことだけだ。
──ついさっきまでは、耀くんと朔だった。そこに、……奥に汐もいたんだろうか。
夕陽の時間は汐のもの、だった筈だ。あとの二人を繋ぐ存在の。
彼ら『三人』のバランスが、──メカニズム、が崩れた……?
俺の前では、途切れることなく『会話』が繰り広げられてた。
頭の、あるいは心の中のじゃない。現実に、物理的に同じ口から吐き出される、同じ、……でも異質な声。二人分の。
「そうだ。五十嵐 耀。この身体の名前」
「オレ、……僕、だ。耀は、ぼく……」
耀くんが混乱している様子が手に取るように伝わって来る。
「耀。朔は今どうしている?」
「知らな、! 朔、朔、は。……どこ?」
彼の口元が笑みの形に動く。
口角を上げた、まったく笑っていない、笑顔のかたち。
「ここ!」
右の掌を胸の真ん中に勢いよく当てて。
汐がそれまでの歌うような、冷たいけどどこか長閑な調子から一変して、鋭い声を出した。
……その時になって、俺は自分が耀くんと汐の声を、言葉を、ごく自然に完全に聞き分けていたことに気づいた。
ホントに今更だ。
「……こ、こ?」
胸に置かれた手を見下ろす、迷子の子どものような頼りない耀くんの声。
「そう、ここ。朔は消えた。『お前』が飲み込んだ」
「僕は、しらな、い」
戸惑っている耀くん。
「そうかな。朔を。あり得ない、あってはならない自分を疎んで追い詰めて、自分ごと殺そうとして、……飲み込んで消した。次は、おれを、消す?」
相変わらず乾いて冷たいけれど、どこか揶揄うように聞こえる声。汐の。
「汐は、消さない。だって、汐は何も、……! 何? 僕は、何言って、──」
「少しずつ混じって来ているんだ、おれたち。今までおれしか知らなかったのに、今は耀もおれのことを知っている。──ねぇ、おれたちどうなるんだろうね」
最後のひとことで突然変わった汐の声音に、耀くんは、……耀くんの身体は、大きく目を見開いてそのままゆっくりと崩れ落ちるように膝を折った。
ナイフはいつの間にか彼の右手を離れて、すぐ傍の地面の上にある。
ぺたんと座り込んだ彼の、生気の欠片もない硝子玉のような瞳、半開きの唇。
──俺は生まれて初めて、人が『ヒト』でなくなる瞬間を、見てしまったのかもしれない。
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入り口の、車両の侵入を防止するための曲線を描くポールを通り抜け、公園を囲うように伸びる植栽沿いに右方向へ二、三歩進んだところだった。
耀くんがいきなり立ち止まったのに、俺もつられてその場で足を止める。
「先生。……今から僕が話すことは、誰にも言わないでいただけますか?」
向き合うでもなく、横並びでもなく。俺より斜め半歩前に同じ方向を向いて立つ彼が、振り向かないままに口火を切った。
俺は今、試されている。俺がそう受け止めたことを、耀くんもわかっている、筈だ。
「……、……言わない。俺の信用に賭けて、絶対に口外しない」
俺の信用なんてものにどれほどの価値があるのかは自分でも疑問だが、耀くんは納得してくれたらしい。
「今朝、起きたら、……。……あの、目が覚めて起き上がって、ベッドから立ち上がろうとしたら、床に、……。半分ベッドの下に|潜《もぐ》るみたいな形で、あ、あの──」
言いにくそうに、ひとつひとつの言葉を強引に絞り出すかのように話そうとする耀くんに、俺の方が心苦しくなって思わずストップを掛けてしまった。
「耀くん、どうしても打ち明けるのが辛いんなら無理しなくていい。誰にも言わないって約束しただろ? つまり、聞いても聞かなくても俺の中だけの問題なんだから」
一歩踏み出した俺は、耀くんの見るからに力が入った肩を軽く抱くようにしてそのまま公園の少し奥へ歩を進める。
目指す石造りのベンチの前に着くと彼を促し、少し隙間を開けて並んで腰掛けた。
ベンチの座面を|彷徨《さまよ》うように撫でている、……何か|縋《すが》るものを探り当てようとしているかのような彼の手の甲を上からそっと握る。
はっとしたように俺に顔を向け、そのまま固まったかのように数十秒。
|戦慄《わなな》くように震える耀くんの唇から、言葉が滑り出た。
「ナイフ、……。お、折り畳み、の、小さな、ナイフ、が。ベッドの下、に、落ちて、……」
「!」
咄嗟に洩れそうになった声を、精神力を振り絞って押し止めた。よくやった、俺!
──自画自賛してる場合じゃないんだが、くだらない茶々入れでもしてないとこの耐え難い緊迫に俺まで叫び出したくなるんだよ。
俺たちを包む、すさまじい緊張を孕んだこの空気に。
「僕、僕は本当にそんなもの持ってませんし、興味もない、なかったんです。本当に、先生」
涙の膜が張った、レンズの向こうの揺れる瞳。縋るような声。
「大丈夫、わかってる。信じてるから。耀くんを知ってる人なら、それは疑いもしないよ。だから落ち着いて。──もしできたら、もう少し詳しく教えてくれる?」
「わか、りません。何も、わからないんです。僕、……僕、おかしい、んじゃ」
無理もないが、いつになく動揺を見せる耀くんに俺はどう対処すればいいんだろう。
「それは、……おかしいなんて、そんな。部屋の中なら知らない人が入るってことはないだろうけど、何か、勘違いとか。あー、折り畳みなら小さいだろうし、文房具用に以前買ったとか、……それはないんだね。えっと」
俺には、何の役にも立たず慰めにさえならない、呆れるほど陳腐な言葉しか掛けられない。
自分の底の浅さが恨めしくなる。
「それに、ナ、ナイフだけじゃ、なくて。その時に、ベッドの下に何かあると思って引っ張り出したら紙袋で、その中に、服、が」
──服。あの、耀くんが選びそうにもない黒っぽい、朔、の?
そういえばそうだ。あのとき朔が来てた服は、到底耀くんの私服とは思えないんだから。
汐に聞いた事実。
耀くんは知らない、でも俺は知っている、いくつかのこと。教えるべきなんだろうか。本人には知る権利がある、んだろうか。
だけどどこから説明したらいいんだ? こんな現実離れした話、聞いただけで信じられるか?
君の中に別の人間が居るんだ、って? いきなり?
──俺には、言えない。
「……耀くん、とりあえず今日は帰ろう。送ってくよ。遅くなったらお母さんも心配するし。何かあったら、なくても少しでも不安なことがあったら、いつでも連絡してきていいから」
肩に手を掛けて俺が言うのに、耀くんは黙って首肯した。
俺の役立たずっぷりにがっかりしたのか、それとも一応聞いてもらっただけでも安心できたのか。彼の無表情からは何も読み取れなかった。
これは俺の、責任放棄、なんだろうか。
──途中で投げ出すくらいなら、最初から目を背けていた方がまだマシだった、のか?
◇ ◇ ◇
公園で耀くんと話した二日後の休日。
部屋でだらだら過ごしていた俺の耳に、スマートフォンの着信音が届いた。これは通話だな、滅多に聞かないから忘れそうだけど。
そもそもの話、俺に電話してくる奴なんてほとんどいない。友人やなんかはメールやメッセージで事足りるからだ。
数少ない電話の相手である家族は、もっと遅い時間でないと掛けて来ない。
だから、おそらくこれは。
そんな風に頭の中で思いを巡らせながら、俺は音を頼りに何故かキッチンのシンク横に置きっぱなしにしていたスマホの元へ足早に向かう。
ディスプレイに浮かぶ予想通りの名を確かめた途端、俺は飛びつくようにスマホを手に取って応答ボタンを押していた。
「はい、牟礼です! 耀くん?」
「……あ、先生。僕、もう、無理……」
俺の耳に流れ込む、途切れ途切れの苦しそうな耀くんの声。
「耀くん! 今どこ?」
「……公園、あの、先生と……、あ、……来て、くれる……?」
今にも消え入りそうな弱々しい声が一瞬帯びる、微かな希望を見出したかのような響き。
「すぐ行く! 自転車で向かうから、──そう、十五分。待てるよね?」
考えるより先に言葉が飛び出していた。
行ってどうする。
心の中でそう思うのも事実だ。
だけど、行かなくてどうする! 耀くんに頼られたら応えたいんだよ。
もしかしたら、また後悔するだけの結果に終わるのかも知れないけど。
やっぱり俺は行ってしまうんだ。……行きたいんだ。これは俺の自己満足にすぎないんだろうか。だけど。
最初から無視しとけば、ってのは一歩踏み出す前にしか通用しない。だって俺はもう、走り出したんだから。それも自分から。
「せん、せ──」
涙声。もう言葉になっていない。
俺は彼に再度待つように念押しして、通話を終わらせる。
そしてスマホをポケットに突っ込んで、財布と鍵だけ掴んで部屋を飛び出した。
公園の前で急ブレーキで止まった俺は、パーキングする手間さえ惜しくてその場に自転車を放り出す。
ごめんなさい。許して、今は!
ポールを縫うようにして公園に足を踏み入れると、あちこちに点在する大きな木の向こうに広がるのは、燃える空。
左右を見回した俺の目に、探すでもなく飛び込んで来た耀くんの姿。ベンチの傍の木の幹に、もたれるように立っている。
駆け寄る俺を見ようともせずにだらんと手を下げて、……その右手に握られているものが|朱《あか》く|鈍《にぶ》く光った。
ナイフの、刃が。
「耀く、!」
俺の声が引き金になったのかはわからない。
彼はこちらに目線さえ寄越さなかったから。でもタイミングとしてはそう思ってしまうくらいだったんだ。
耀くんはナイフを持った手をゆっくり持ち上げて、──自分の顔の方に持って行く。
「止めろ! オレを殺すのか⁉ お前も一緒に死ぬんだぞ!」
耀くんが叫ぶ。……耀くんの身体が、口が、……別の自我、が。
首筋にぴたりと当てられた刃は、そのまま動かない。
ただじっと止めているわけではなく、|柄《え》を握った手を引いて切り裂こうとする耀くんと、それを押し止めようとする何か、誰か、……朔、が闘っている。
見えない火花が散るようなその緊張感が、少し離れた場所から見ている俺には手に取るように伝わって来た。
──どうしてわかるんだ。俺もどうかしてる、ってことなのか?
止めるべきなんだろうか。いや、他人が入ったことが悪い方向に作用したら。頭ではあれこれ考えつつも、俺はその場から動けない。
一触即発の空気が漂っている。
そのままいったいどれくらい経ったんだろう。
まだ空は朱い。おそらく俺の体感に反して、実際にはほんの|僅《わず》かな時間だった筈だ。
ぱたん、と聞こえる筈のない音を耳が拾った気がした。それくらい機械的に、耀くんの右手がまた脱力して身体の横に下がる。
ナイフを持ったまま。
「……消した」
耀くんが呟く。耀くんの口が。
「違う、僕は、僕……」
「違わない。お前は朔を、……『もうひとりのお前』を消したんだ」
「ちがうちがうちがう! 僕はそんなの知らない! 僕は僕だ。五十嵐 耀だよ」
彼の中で、いったい何が起こっているのか。もう俺には見えない、理解できない。
……その方がいい、のかもしれないけど。
ただ一つ、確実なのは。この、俺の目に映ってる『耀くん』の身体の中に、耀くんと汐がいるってことだけだ。
──ついさっきまでは、耀くんと朔だった。そこに、……奥に汐もいたんだろうか。
夕陽の時間は汐のもの、だった筈だ。あとの二人を繋ぐ存在の。
彼ら『三人』のバランスが、──メカニズム、が崩れた……?
俺の前では、途切れることなく『会話』が繰り広げられてた。
頭の、あるいは心の中のじゃない。現実に、物理的に同じ口から吐き出される、同じ、……でも異質な声。二人分の。
「そうだ。五十嵐 耀。この身体の名前」
「オレ、……僕、だ。耀は、ぼく……」
耀くんが混乱している様子が手に取るように伝わって来る。
「耀。朔は今どうしている?」
「知らな、! 朔、朔、は。……どこ?」
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口角を上げた、まったく笑っていない、笑顔のかたち。
「ここ!」
右の掌を胸の真ん中に勢いよく当てて。
|汐《・》がそれまでの歌うような、冷たいけどどこか|長閑《のどか》な調子から一変して、鋭い声を出した。
……その時になって、俺は自分が耀くんと汐の声を、言葉を、ごく自然に完全に聞き分けていたことに気づいた。
ホントに今更だ。
「……こ、こ?」
胸に置かれた手を見下ろす、迷子の子どものような頼りない耀くんの声。
「そう、ここ。朔は消えた。『お前』が飲み込んだ」
「僕は、しらな、い」
戸惑っている耀くん。
「そうかな。朔を。あり得ない、あってはならない自分を|疎《うと》んで追い詰めて、自分ごと殺そうとして、……飲み込んで消した。次は、おれを、消す?」
相変わらず乾いて冷たいけれど、どこか揶揄うように聞こえる声。汐の。
「汐は、消さない。だって、汐は何も、……! 何? 僕は、何言って、──」
「少しずつ混じって来ているんだ、おれたち。今までおれしか知らなかったのに、今は耀もおれのことを知っている。──ねぇ、おれたちどうなるんだろうね」
最後のひとことで突然変わった汐の声音に、耀くんは、……耀くんの身体は、大きく目を見開いてそのままゆっくりと崩れ落ちるように膝を折った。
ナイフはいつの間にか彼の右手を離れて、すぐ傍の地面の上にある。
ぺたんと座り込んだ彼の、生気の欠片もない硝子玉のような瞳、半開きの唇。
──俺は生まれて初めて、人が『ヒト』でなくなる瞬間を、見てしまったのかもしれない。