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【2】

ー/ー



 今日、小島教授のもとに来客があるのは聞いていた。
 あくまでも研究仲間としては、気も合うし話も弾む相手らしい。ただ、そのあとの会食では面倒な部類なんだそうだ。
 酒癖がどうのではなく、どうやら食べるものにうるさいんだとか。
 食事時間が勿体ないと嘆くことさえある教授にとっては、時間のかかる会席やフレンチの席はそりゃ気は進まないだろうな。
 それでも、結局いつも一緒に夕食を取ることになるそうだけど。
 いくらちょっと世間から浮いたところのある彼でも、「あなたと食事するより、僕やりたいことあるから帰ってくれる?」とズバリ口に出さない程度の良識だか常識はお持ちなのだ。
 おそらく本心では言いたかったと拝察するが。
 つまり、今日は教授は講義終了後には研究室に来ないってことだ。
 いや、客人と別れた後の夜遅くには来るかも、というか絶対来るだろうけどさ。いつもの行動パターンからして。
 別に教授は、毎日誰が研究室に現れるか残って熱心にやってるかなんていちいち見ていない。
 いや、確実に興味ない。だから行かなくてもいいし、帰りたければいつでも好きに帰れるんだ。
 自分の研究の段取りさえきちんとしていれば。
 それが(おろそ)かだと、結局は自分の首を絞める羽目になるだけだからな。
 普段は俺も、小島教授の目を気にして「今日はどうしよう」なんて考えたこともない。
 一応、毎日研究室に顔は出してるし、家庭教師のバイトの日以外は遅くまでそこで過ごすことも多かった。
 寝袋持参で泊まり込むことさえあるけど、それもあくまでも俺の判断だ。
 ただ、今日はたまたま研究の方が一段落ついたところでもあったし、ちょっと思うところがあったからちょうどいいタイミングだったんだ。

 俺は午後一の講義が終わると同時に、そのまま大学を後にした。
 ──日が落ちる前に。
 向かったのは、耀くんの通う中学校だ。
 彼は部活もしてないし、というか、してても中三のこの季節じゃもう引退してるか。
 校門を見通せる曲がり角の歩道で、俺は次々吐き出されて来る制服の群れをじっと観察する。
 万が一見逃したらもう仕方ない、と割り切ってはいたものの、同じブレザーを着た少年たちの中から無事に目当ての一人を見つけ出すことに成功した。
 誰かと一緒だったら遠慮しようと思ってたけど、耀くんは門を出たところで連れの友人たちと左右に別れて一人俺の方に向かって来る。
 彼らとは家の方向が違うんだろう。
 まずは第一段階クリア、ってとこか。
「耀くん」
 曲がり角に一歩下がって身を(ひそ)め、目の前に差し掛かった彼の名を呼ぶ。
 まったく想定外の出来事の筈なのに、耀くんは俺が予想したほどの驚きを示さなかった。
「牟礼先生。どうなさったんですか? 今日は家庭教師の日じゃありませんよね?」
 相変わらず穏やかな、でも少し不安そうなのは俺の先入観のせいか?
「あ、うん。そうなんだけど、ちょっと君と話したくて。今日は塾もないよね? ……時間、いい?」
「ええ、大丈夫です。実は僕も、先生とお話したかったので」
 そんな風に返されて、俺の方が動揺しそうになる。
 だけど怖気(おじけ)づくわけにいかない。
「じゃあ、……夕ご飯は帰ったら食べるよね。ちょっと歩くけど、駅の向こうのカフェでも行こうか」
「すみません。寄り道は校則違反なので、その」
 俺の提案に耀くんが困惑を見せる。そういえばまだ中学生か。そりゃそうだ。
「保護者が一緒でも? もしダメなら、そうだなぁ」
 どうしようか、と考えを巡らせる俺に、耀くんは安心したように答えた。
「ああ、保護者同伴なら大丈夫です。そういえば、先生も大人だし保護者なんですね」
「そうか。ならよかった。……行こう」
 俺は彼を促して、駅の方角へと歩きだした。

 彼と並んでほぼ無言で足だけ動かして、目的のカフェに到着する。
 なかなかに気まずい時間だった……。
 カウンターでそれぞれの飲み物をオーダーし、受け取ったカップを載せたトレイを持ちテーブル席へ向かった。
 当然、支払いは俺だ。言うまでもない。
「どうぞ」
 勧める俺に耀くんは軽く頭を下げて礼を言ってはくれたものの、目の前に置かれたカップに手も伸ばそうとはしなかった。 
「先生も僕が英深(えいしん)学院を目指してるのは、母がそれ以外の道を許さないからだって思われますか?」
 しばしの沈黙を破った耀くんの、真剣な硬い声。
「いや。……まあ正直、最初はそう思ってた。小島教授に紹介されたときから、初めて耀くんのお家に行くまではね」
 俺の言葉に、耀くんの顔の強張りがほんの少し和らいだ気がする。
「……今は違うってこと、ですか?」
「うん。耀くんとお母さんと初めてお会いして話した時、お母さんは『英深じゃなくてもいい』って言いたそうな感じがしたんだ。耀くんが行きたがってるから家庭教師も頼んだし受験するのは構わないけど、そんな無理しなくていいのに、っていうか。──もちろん、単に俺の印象なんだけど」
 彼の探るような問い掛けに、俺は慎重に、だけど正直に打ち明ける。
 俺の言葉を聞いた耀くんは、詰めた息を吐くようにしてどこか感心した様子で返して来た。
「……先生って、あの、こんな言い方は本当に失礼なんですけど。俳優さんみたいに格好いいし優しいし、鋭そうには見えないのに、やっぱり塔都(とうと)大の学生さんだけあって洞察力が凄いんですね」
 偉そうですみません、と再度小さくなって謝る耀くんに、俺は気にするなと手を振って見せた。
 それどころか、過分なお褒めの言葉にかえってぎこちない仕草になってしまう。「俳優さんみたい」なんて今まで生きて来て耳にしたこともない評価だからな。残念ながら。
 彼はお世辞なんかじゃなく、おそらくは本心からそう告げてくれていると伝わるから余計に恐れ多いわ。『先生』フィルター強力過ぎだろ。
「そんな大層なもんじゃないよ。耀くんがさっき言ったみたいなことを信じてる人が居たとしたら、耀くんやお母さんのことなんて碌に見たこともないんじゃないか? 『耀くんが才華(さいか)の中等部を辞退して、英深の高等部を志望してる』って単なる事実からの、勝手な想像というか妄想かもしれないけど」
 俺の、忖度も何も含まない真っ正直な感想に、耀くんの表情がさらに柔らかくなった気がする。
「僕が小学校に入る前に亡くなった父が、英深学院の中高から塔都大だったんですよ。小島の小父(おじ)さまとも大学で出会って、大人になってもずっと仲良くしてたそうです」
「ああ、そうなんだ」
 小島教授と耀くんのお父さんが友人なのはもちろん聞いてたものの、詳しいことは知らなかった。
 そういえば教授は独身だけど、年齢的にはもっと大きな子がいても不思議じゃない。
 実際、今二十二の俺の親と同年代だもんな。もしかして、耀くんのお父さんは結婚が遅めだったのかも。
 そんなプライベートなこと、少なくとも今は訊く気もないけど。

「父とは少ししか一緒に過ごせなかったから。物心ついてからほんの数年、しかも忙しかったから多分遊んだりした時間も短くて。顔も声も何もかも、実際の記憶なのか写真や映像を見て取り込んだものなのか、もう自分でもわからないくらい曖昧(あいまい)なんです」
 俺はなんとも返す言葉がなくて、耀くんの顔を見つめることしかできなかった。
 安易な慰めは失礼だろう。
 でも、それ以外にどうすべきかも俺にはわからない。
 両親が健在で、実家を離れて東京の大学に通わせてもらってる平凡な俺には、耀くんの抱える寂しさも痛みも、真の意味では理解することなんてできないからだ。
 できるなんて軽々しく口にしちゃいけない。
 だから俺はただ黙っていた。
 結局、その程度の人間なんだよな。便宜上でも『先生』なんて呼ばれる器じゃないんだよ。──ゴメン。
「だから僕は、英深学院に行くのが夢でした。せめて同じ学び舎で、父と同じ景色が見たい。同じ経験がしてみたかった。そのあとも、父や先生と同じ塔都大学に進みたいんです」
「そうか。だから高等部で再挑戦したいんだね」
 今までだって、耀くんがどうしても英深に行きたがってることくらい俺にもわかってた。
 そりゃあ最難関の学校だから「どうしても行きたい」子は別に珍しくないし、俺もそれ以上考えたことはなかったんだ。
 本当の理由は今初めて知ったことになる。
「……母は僕が英深の中等部に落ちたときも、一言も叱ったりしなかったんです。『頑張ったのに残念だったわね。でも才華もいい学校だし楽しいわよ』って」
 あのお母さんならきっとそうだろう。俺にはすんなり納得が行った。
 耀くんが気にしていたように、教育ママだとか息子の将来を縛ってるとか言いたがる人がいたのは何となく感じてたけど、俺にはとてもそんな風には思えなかったからだ。
 俺が実際に接した耀くんのお母さんは、何より息子の希望を尊重したいって意思が窺えた。
 だから耀くんが英深に行きたいなら応援もサポートも惜しまない、と塾に行かせて家庭教師も頼んで。
 でも俺は、お母さんとしては公立中学に行って英深の高等部を目指すより、そのまま才華に入学して欲しかったんじゃないかとさえ感じたくらいだ。
 さすがにお母さんだって、直接口に出すことはなかったけど。
 才華学園は完全中高一貫で高校入試はない。
 確かに英深学院より偏差値は(わず)かに低いかもしれないとはいえ、アットホームというのか教員も生徒も和気(わき)藹々(あいあい)なイメージが強かった。
 同じトップレベルの進学校でも、自由闊達(かったつ)な校風で個性が強い生徒が多い英深とは少し持ち味というか雰囲気が違うんだよな。
 言うまでもなく、どっちがいい悪いの問題じゃない。
 俺の大学の同級生にも両方の出身者がいるけど、少しタイプが違う気はする。とはいえどっちの学校卒でも、みんなそれぞれ魅力的な奴らなのは確かなんだけどさ。
 気が弱いとは思わないけど、あまり自己主張しない耀くんにはむしろ才華の方が合うかもしれない。
 もちろん、英深でやって行けそうにないという意味じゃなくて。
 お母さんは、それもわかった上で気を()んでたんじゃないだろうか。
 そして俺もそういうズレというか、一人自分を追い込んでいるかのような耀くんが確かに気になってたんだ。

 あの夕陽の『彼』の話を聞いた時。
 到底信じ難いまさしく荒唐(こうとう)無稽(むけい)な内容が、理屈じゃなくストンと()に落ちたのはそういう前提が俺の中にあったからなんだと今はわかる。
「……だから。母のせいじゃなくて、僕の問題なんです。僕の出来が良くないから。『どうしても行きたい』なんて言い張っておいて中等部は落ちたし、高等部だってこのままじゃ──」
 半年以上家庭教師を続けて、それなりに親しくなって耀くんの信頼も得られたんじゃないかと自惚(うぬぼ)れていた。
 でも彼が俺に、こんな風に本音を、……弱味を見せてくれたのは初めてだったんだ。
 今思えば、耀くんが俺に向けていたのはあくまでも表面的な余所(よそ)行きの顔で、本心を明かす気なんてさらさらなかったんだろう。これまでは。
「耀くん。受験に絶対はないし、今の段階で合格間違いなしだから安心しろなんて言えない。それは確かだ。でも君は志望校別模試の成績も申し分ないし、合格判定だって何の心配も要らないレベルだろう? あの数字、なかなか出ないよ」
「でも、……」
 俺に限らず、おそらく学校や塾で先生に説明されていても、肝心の耀くんが自分に自信が持てないんだろう。
 マイナス思考のスパイラルとでもいうのか、どんどん袋小路にはまり込んで行くばっかりなのかもしれない。
「不安があったら俺にでも塾の先生にでも、……そうだな、もし信頼できる先生がいるなら塾の方がいいかもな。受験についてはそれこそプロなんだし。とにかく、一人で思い詰めても何もいいことなんかない。吐き出すだけでもいいから誰かに相談して」
 柄にもなく『先生の顔』で(なだ)めるように言い聞かせる俺に、耀くんは一瞬俺の目を見てすぐ(うつむ)いてしまう。

 次に顔を上げたとき、彼は思い切ったように口を開いた。
「先生、もう少しお時間構いませんか? ここじゃなくて、もっと誰もいないところで聞いて欲しいことがあるんです」
 断る選択肢は俺にはない。もう事態は動き出した。
 アクセルを踏んだのは、俺だ。
「わかった。そうだな、店だとどうしても人はいるし。……線路沿いに歩いたところの公園は? 遊具が無いから小さい子連れも居なさそうだし。木が多くて野球やサッカーもできないから、小中学生もいないだろ。どう?」
 そもそも「木が多くてボール遊びができない」のではなく、「禁止されてるボール遊びが後を絶たないために、景観は無視して仕方なく木を植えた」という話らしいが。
 まあそれはどうでもいいか。
「はい。それでいいです」
 生真面目に返して来た耀くんに、俺は頷きで答えた。
 席を立つ前に、耀くんはふと気づいたようにドリンクを手に取る。
「もう氷も溶けて薄まってるだろ。飲まなくていいよ。もし喉が渇いてるんなら新しく買い直そう。飲みながら行けばいいしさ」
 俺の言葉にとんでもないと言わんばかりに身体の前で手を振って、彼はそれ以上口を挟ませない勢いでカップを空にした。


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 あくまでも研究仲間としては、気も合うし話も弾む相手らしい。ただ、そのあとの会食では面倒な部類なんだそうだ。
 酒癖がどうのではなく、どうやら食べるものにうるさいんだとか。
 食事時間が勿体ないと嘆くことさえある教授にとっては、時間のかかる会席やフレンチの席はそりゃ気は進まないだろうな。
 それでも、結局いつも一緒に夕食を取ることになるそうだけど。
 いくらちょっと世間から浮いたところのある彼でも、「あなたと食事するより、僕やりたいことあるから帰ってくれる?」とズバリ口に出さない程度の良識だか常識はお持ちなのだ。
 おそらく本心では言いたかったと拝察するが。
 つまり、今日は教授は講義終了後には研究室に来ないってことだ。
 いや、客人と別れた後の夜遅くには来るかも、というか絶対来るだろうけどさ。いつもの行動パターンからして。
 別に教授は、毎日誰が研究室に現れるか残って熱心にやってるかなんていちいち見ていない。
 いや、確実に興味ない。だから行かなくてもいいし、帰りたければいつでも好きに帰れるんだ。
 自分の研究の段取りさえきちんとしていれば。
 それが|疎《おろそ》かだと、結局は自分の首を絞める羽目になるだけだからな。
 普段は俺も、小島教授の目を気にして「今日はどうしよう」なんて考えたこともない。
 一応、毎日研究室に顔は出してるし、家庭教師のバイトの日以外は遅くまでそこで過ごすことも多かった。
 寝袋持参で泊まり込むことさえあるけど、それもあくまでも俺の判断だ。
 ただ、今日はたまたま研究の方が一段落ついたところでもあったし、ちょっと思うところがあったからちょうどいいタイミングだったんだ。
 俺は午後一の講義が終わると同時に、そのまま大学を後にした。
 ──日が落ちる前に。
 向かったのは、耀くんの通う中学校だ。
 彼は部活もしてないし、というか、してても中三のこの季節じゃもう引退してるか。
 校門を見通せる曲がり角の歩道で、俺は次々吐き出されて来る制服の群れをじっと観察する。
 万が一見逃したらもう仕方ない、と割り切ってはいたものの、同じブレザーを着た少年たちの中から無事に目当ての一人を見つけ出すことに成功した。
 誰かと一緒だったら遠慮しようと思ってたけど、耀くんは門を出たところで連れの友人たちと左右に別れて一人俺の方に向かって来る。
 彼らとは家の方向が違うんだろう。
 まずは第一段階クリア、ってとこか。
「耀くん」
 曲がり角に一歩下がって身を|潜《ひそ》め、目の前に差し掛かった彼の名を呼ぶ。
 まったく想定外の出来事の筈なのに、耀くんは俺が予想したほどの驚きを示さなかった。
「牟礼先生。どうなさったんですか? 今日は家庭教師の日じゃありませんよね?」
 相変わらず穏やかな、でも少し不安そうなのは俺の先入観のせいか?
「あ、うん。そうなんだけど、ちょっと君と話したくて。今日は塾もないよね? ……時間、いい?」
「ええ、大丈夫です。実は僕も、先生とお話したかったので」
 そんな風に返されて、俺の方が動揺しそうになる。
 だけど|怖気《おじけ》づくわけにいかない。
「じゃあ、……夕ご飯は帰ったら食べるよね。ちょっと歩くけど、駅の向こうのカフェでも行こうか」
「すみません。寄り道は校則違反なので、その」
 俺の提案に耀くんが困惑を見せる。そういえばまだ中学生か。そりゃそうだ。
「保護者が一緒でも? もしダメなら、そうだなぁ」
 どうしようか、と考えを巡らせる俺に、耀くんは安心したように答えた。
「ああ、保護者同伴なら大丈夫です。そういえば、先生も大人だし保護者なんですね」
「そうか。ならよかった。……行こう」
 俺は彼を促して、駅の方角へと歩きだした。
 彼と並んでほぼ無言で足だけ動かして、目的のカフェに到着する。
 なかなかに気まずい時間だった……。
 カウンターでそれぞれの飲み物をオーダーし、受け取ったカップを載せたトレイを持ちテーブル席へ向かった。
 当然、支払いは俺だ。言うまでもない。
「どうぞ」
 勧める俺に耀くんは軽く頭を下げて礼を言ってはくれたものの、目の前に置かれたカップに手も伸ばそうとはしなかった。 
「先生も僕が|英深《えいしん》学院を目指してるのは、母がそれ以外の道を許さないからだって思われますか?」
 しばしの沈黙を破った耀くんの、真剣な硬い声。
「いや。……まあ正直、最初はそう思ってた。小島教授に紹介されたときから、初めて耀くんのお家に行くまではね」
 俺の言葉に、耀くんの顔の強張りがほんの少し和らいだ気がする。
「……今は違うってこと、ですか?」
「うん。耀くんとお母さんと初めてお会いして話した時、お母さんは『英深じゃなくてもいい』って言いたそうな感じがしたんだ。耀くんが行きたがってるから家庭教師も頼んだし受験するのは構わないけど、そんな無理しなくていいのに、っていうか。──もちろん、単に俺の印象なんだけど」
 彼の探るような問い掛けに、俺は慎重に、だけど正直に打ち明ける。
 俺の言葉を聞いた耀くんは、詰めた息を吐くようにしてどこか感心した様子で返して来た。
「……先生って、あの、こんな言い方は本当に失礼なんですけど。俳優さんみたいに格好いいし優しいし、鋭そうには見えないのに、やっぱり|塔都《とうと》大の学生さんだけあって洞察力が凄いんですね」
 偉そうですみません、と再度小さくなって謝る耀くんに、俺は気にするなと手を振って見せた。
 それどころか、過分なお褒めの言葉にかえってぎこちない仕草になってしまう。「俳優さんみたい」なんて今まで生きて来て耳にしたこともない評価だからな。残念ながら。
 彼はお世辞なんかじゃなく、おそらくは本心からそう告げてくれていると伝わるから余計に恐れ多いわ。『先生』フィルター強力過ぎだろ。
「そんな大層なもんじゃないよ。耀くんがさっき言ったみたいなことを信じてる人が居たとしたら、耀くんやお母さんのことなんて碌に見たこともないんじゃないか? 『耀くんが|才華《さいか》の中等部を辞退して、英深の高等部を志望してる』って単なる事実からの、勝手な想像というか妄想かもしれないけど」
 俺の、忖度も何も含まない真っ正直な感想に、耀くんの表情がさらに柔らかくなった気がする。
「僕が小学校に入る前に亡くなった父が、英深学院の中高から塔都大だったんですよ。小島の|小父《おじ》さまとも大学で出会って、大人になってもずっと仲良くしてたそうです」
「ああ、そうなんだ」
 小島教授と耀くんのお父さんが友人なのはもちろん聞いてたものの、詳しいことは知らなかった。
 そういえば教授は独身だけど、年齢的にはもっと大きな子がいても不思議じゃない。
 実際、今二十二の俺の親と同年代だもんな。もしかして、耀くんのお父さんは結婚が遅めだったのかも。
 そんなプライベートなこと、少なくとも今は訊く気もないけど。
「父とは少ししか一緒に過ごせなかったから。物心ついてからほんの数年、しかも忙しかったから多分遊んだりした時間も短くて。顔も声も何もかも、実際の記憶なのか写真や映像を見て取り込んだものなのか、もう自分でもわからないくらい|曖昧《あいまい》なんです」
 俺はなんとも返す言葉がなくて、耀くんの顔を見つめることしかできなかった。
 安易な慰めは失礼だろう。
 でも、それ以外にどうすべきかも俺にはわからない。
 両親が健在で、実家を離れて東京の大学に通わせてもらってる平凡な俺には、耀くんの抱える寂しさも痛みも、真の意味では理解することなんてできないからだ。
 できるなんて軽々しく口にしちゃいけない。
 だから俺はただ黙っていた。
 結局、その程度の人間なんだよな。便宜上でも『先生』なんて呼ばれる器じゃないんだよ。──ゴメン。
「だから僕は、英深学院に行くのが夢でした。せめて同じ学び舎で、父と同じ景色が見たい。同じ経験がしてみたかった。そのあとも、父や先生と同じ塔都大学に進みたいんです」
「そうか。だから高等部で再挑戦したいんだね」
 今までだって、耀くんがどうしても英深に行きたがってることくらい俺にもわかってた。
 そりゃあ最難関の学校だから「どうしても行きたい」子は別に珍しくないし、俺もそれ以上考えたことはなかったんだ。
 本当の理由は今初めて知ったことになる。
「……母は僕が英深の中等部に落ちたときも、一言も叱ったりしなかったんです。『頑張ったのに残念だったわね。でも才華もいい学校だし楽しいわよ』って」
 あのお母さんならきっとそうだろう。俺にはすんなり納得が行った。
 耀くんが気にしていたように、教育ママだとか息子の将来を縛ってるとか言いたがる人がいたのは何となく感じてたけど、俺にはとてもそんな風には思えなかったからだ。
 俺が実際に接した耀くんのお母さんは、何より息子の希望を尊重したいって意思が窺えた。
 だから耀くんが英深に行きたいなら応援もサポートも惜しまない、と塾に行かせて家庭教師も頼んで。
 でも俺は、お母さんとしては公立中学に行って英深の高等部を目指すより、そのまま才華に入学して欲しかったんじゃないかとさえ感じたくらいだ。
 さすがにお母さんだって、直接口に出すことはなかったけど。
 才華学園は完全中高一貫で高校入試はない。
 確かに英深学院より偏差値は|僅《わず》かに低いかもしれないとはいえ、アットホームというのか教員も生徒も|和気《わき》|藹々《あいあい》なイメージが強かった。
 同じトップレベルの進学校でも、自由|闊達《かったつ》な校風で個性が強い生徒が多い英深とは少し持ち味というか雰囲気が違うんだよな。
 言うまでもなく、どっちがいい悪いの問題じゃない。
 俺の大学の同級生にも両方の出身者がいるけど、少しタイプが違う気はする。とはいえどっちの学校卒でも、みんなそれぞれ魅力的な奴らなのは確かなんだけどさ。
 気が弱いとは思わないけど、あまり自己主張しない耀くんにはむしろ才華の方が合うかもしれない。
 もちろん、英深でやって行けそうにないという意味じゃなくて。
 お母さんは、それもわかった上で気を|揉《も》んでたんじゃないだろうか。
 そして俺もそういうズレというか、一人自分を追い込んでいるかのような耀くんが確かに気になってたんだ。
 あの夕陽の『彼』の話を聞いた時。
 到底信じ難いまさしく|荒唐《こうとう》|無稽《むけい》な内容が、理屈じゃなくストンと|腑《ふ》に落ちたのはそういう前提が俺の中にあったからなんだと今はわかる。
「……だから。母のせいじゃなくて、僕の問題なんです。僕の出来が良くないから。『どうしても行きたい』なんて言い張っておいて中等部は落ちたし、高等部だってこのままじゃ──」
 半年以上家庭教師を続けて、それなりに親しくなって耀くんの信頼も得られたんじゃないかと|自惚《うぬぼ》れていた。
 でも彼が俺に、こんな風に本音を、……弱味を見せてくれたのは初めてだったんだ。
 今思えば、耀くんが俺に向けていたのはあくまでも表面的な|余所《よそ》行きの顔で、本心を明かす気なんてさらさらなかったんだろう。これまでは。
「耀くん。受験に絶対はないし、今の段階で合格間違いなしだから安心しろなんて言えない。それは確かだ。でも君は志望校別模試の成績も申し分ないし、合格判定だって何の心配も要らないレベルだろう? あの数字、なかなか出ないよ」
「でも、……」
 俺に限らず、おそらく学校や塾で先生に説明されていても、肝心の耀くんが自分に自信が持てないんだろう。
 マイナス思考のスパイラルとでもいうのか、どんどん袋小路にはまり込んで行くばっかりなのかもしれない。
「不安があったら俺にでも塾の先生にでも、……そうだな、もし信頼できる先生がいるなら塾の方がいいかもな。受験についてはそれこそプロなんだし。とにかく、一人で思い詰めても何もいいことなんかない。吐き出すだけでもいいから誰かに相談して」
 柄にもなく『先生の顔』で|宥《なだ》めるように言い聞かせる俺に、耀くんは一瞬俺の目を見てすぐ|俯《うつむ》いてしまう。
 次に顔を上げたとき、彼は思い切ったように口を開いた。
「先生、もう少しお時間構いませんか? ここじゃなくて、もっと誰もいないところで聞いて欲しいことがあるんです」
 断る選択肢は俺にはない。もう事態は動き出した。
 アクセルを踏んだのは、俺だ。
「わかった。そうだな、店だとどうしても人はいるし。……線路沿いに歩いたところの公園は? 遊具が無いから小さい子連れも居なさそうだし。木が多くて野球やサッカーもできないから、小中学生もいないだろ。どう?」
 そもそも「木が多くてボール遊びができない」のではなく、「禁止されてるボール遊びが後を絶たないために、景観は無視して仕方なく木を植えた」という話らしいが。
 まあそれはどうでもいいか。
「はい。それでいいです」
 生真面目に返して来た耀くんに、俺は頷きで答えた。
 席を立つ前に、耀くんはふと気づいたようにドリンクを手に取る。
「もう氷も溶けて薄まってるだろ。飲まなくていいよ。もし喉が渇いてるんなら新しく買い直そう。飲みながら行けばいいしさ」
 俺の言葉にとんでもないと言わんばかりに身体の前で手を振って、彼はそれ以上口を挟ませない勢いでカップを空にした。