【4】
ー/ー
あのあと。
どうしたらいいかもまるでわからなかったが、ただその場でおろおろしていてもしょうがない。俺は迷った末にとりあえず救急車を呼んだ。
「家庭教師先の中学生の男の子なんですけど。受験勉強疲れなのか、気晴らしに公園を散歩してたら急に倒れて。貧血か何かかも」
切羽詰まった状況にしては、どうにか矛盾のない理由をでっち上げることができた、気がした。その時点では。
無意識にナイフを拾って畳みポケットに入れていたことにも、俺はひとり呆然と座っていた病院の待合室でようやく気づく。結果的には正解、だったんだろうな。
ああ、後で自転車を回収に行かないと。
──考えてみればいい加減で穴だらけな口実で、一つ突っ込まれたらそこからあっさり崩されそうだ。
そういう意味でもナイフを残しておかなくてよかった。微かにでも、耀くんの身体に刃物傷がついていなかったことも。
連絡を受けて駆け付けた彼のお母さんは、何とも言い訳のしようもなく詫びた俺に、憔悴しきった様子で話し出した
「少し妙だと感じることはあったんです。話し掛けても返事をしなかったり、苛々したような仕草を見せたり。でも耀ももう小さな子どもでもないし、あまりうるさく言っても、と様子を見ているうちにこんな──」
それは耀くんとは違った、んじゃないか。夕焼けの時間やそのあとの夜なら、確実に『耀くん』じゃなかった筈だ。
……でも俺は、何も言えなかった。言っていいのかも判断できなかった。少なくとも今は、お母さんにはそこまで受け止める余裕はないだろう。
俺は自分に都合のいい言い訳をでっち上げて、口を拭ったんだ。
◇ ◇ ◇
耀くんはそれから約一週間眠り続けた。
「ママ、どうしたの?」
それが、目覚めた彼の第一声だったらしい。
ちなみに、耀くんが『ママ』と呼んでいたのは小学校低学年までだったらしいが。
お母さんからの知らせで大学から直接病院に駆けつけた俺に、耀くんは無邪気な笑顔を向けて来た。
「先生、わざわざごめんなさい。たった一週間でも寝たきりだと筋力って落ちるんですね。トイレに行こうと思ったらよろけちゃって吃驚しました。歩行器使ったんですよ」
彼は笑いながら、ベッドの脇に置いてある歩行器を指差す。両腕で掴まって上体を預けて歩くタイプのものだ。
「もう、身体はなんともないの?」
何も覚えていないんだろうか。あの、最後の公園での出来事を。
……でも、お母さんのいる前で不用意な話題は出せない。当たり障りのない俺の問いに、ベッドの上の耀くんはあっさり頷く。
「はい、足が少し弱ってる以外は全然。もう入院してる必要もないくらいです」
俺は、大学の最終講義が終わってすぐここに来た。
……窓の外はオレンジ色に満たされている。
「耀くん。え、っと。今、具合、は……、あ、悪くないんだよね」
自分でも何が言いたいのかと思うくらいの、意味不明な台詞。
それでも耀くんは、俺が倒れた場に居合わせて救急車を呼んだことも聞かされているらしく、安心して気が緩んだとでも解釈してくれたらしい。
あのときの記憶がないのなら。──そして、目の前の彼が耀くん、ならば。
「本当に、目が覚めた時からちょっと怠いくらいでたいしたことなかったんです。さっき言ったみたいに、身体は結構重かったっていうか思い通りにならない感じだったんですけど」
穏やかな声で淀みなく話す様子は、間違いなく耀くんだ。
夕陽の彼の、素の様子とはまるで違う。
彼が擬態しているのでなければ。
……俺は、いったい何を考えている、んだろう。
「先生、退院したらまた家庭教師お願いします。学校、の授業はともかく塾も休んで遅れちゃったし。もう受験まであまり日がないですから」
ベッドの上に上体を起こした姿勢で、耀くんは背筋を伸ばして俺に切り出した
「耀ちゃ、耀。そんなに頑張り過ぎなくていいんじゃないの? 英深学院に拘らなくても、学校や塾の先生もあなたならどこの高校でも心配いらないって言ってくださってるんだから」
横から、お母さんが気遣わしげに口を挟む。黙っていられないって感じだな。
「お母さん、先生の前で止めてよ。僕は大丈夫だから。どうしても英深に行きたいんだ。そして塔都大学に行く。お父さんや牟礼先生の後輩になるから」
きっぱりと宣言した彼に、今までとは違う何かを読み取ったのか。お母さんは少し複雑そうに、それでも確かに微笑んだ。
「うん、わかった。じゃあ、退院して体力的に行けそうだと思ったら連絡して。俺はいつでもいいから。耀くんさえよければ、受験まで時間増やすのもOKだからね。ただし! 無理は禁物。それだけは約束しよう」
「はい、よろしくお願いします。先生」
言い聞かせるような俺の言葉に、耀くんは神妙な顔で頭を下げた。
「すみません、先生。本当に、牟礼先生に来ていただいてよかった……」
お母さんにまでそんな風に言われて、俺は正直困る。
実際、俺は何もしてない。できなかったことばかり数えられるくらいなのに。
改めて別れの挨拶を交わし、俺は病室を後にしたんだ。
俺が病院を出たときには、もうかなり日は傾いていた。
すでに空は、オレンジではなくなっている。残り火のような暗い光も、間もなく消えるだろう。
薄暮の中を歩きながら、俺は不意に初めて会った時の汐の言葉を思い出した。
「耀か朔か、どちらかが相手を消したら、おれも消える」
……?
「お前は朔を消したんだ」
汐は公園で確かにそう言った。あのとき、耀くんの中には朔はもういなくて、……でも汐はいた?
何故?
「朔は『ここ』」
胸、……心? 『飲み込んだ』っていうのは、吸収したってことでいいのか?
耀くんと朔がひとつになって、つまり朔も耀くんの『中』にいるから、汐も消えなかった?
──じゃあ、今、は?
これからは……?
俺はいったい、どうしたらいいんだろう。
◇ ◇ ◇
年が明けて二月。
「牟礼先生、本当にありがとうございました」
耀くんの英深学院高等部合格の知らせに急いで五十嵐家を訪れた俺に、お母さんは挨拶もそこそこに頭を下げてくれる。
「いえ、止めてください。僕の力じゃなくて、耀くんの元々の能力と努力の賜物です」
「お母さん、先生困ってるよ。もういいでしょ? 先生、部屋に来て!」
耀くんに腕を掴んで先導され、俺は彼の私室に向かった。
受験日に学校まで着いて行って見た限りでは、耀くんは俺よりよほど落ち着いていたし、終わった後も晴れ晴れとした表情だった。
あれは諦めて開き直った顔じゃない。十分手応えはあったって余裕の笑みだ。
だから俺は九分九厘彼の合格は確信してたんだけど、当然ながら結果が出るまでは安心できなかったからな。
「牟礼先生、改めてありがとうございました」
「いや、だからさ」
言い掛けた俺を、耀くんが止める。
「僕はもちろん頑張りました。それはもう謙遜はしません。でも、先生のおかげも絶対にありますから」
控え目な、……だけど自信に溢れた言葉、雰囲気。
「先生、次は塔都のキャンパスでお会いしたいです。確か院に進まれるんでしょう?」
「うん。この四月からね」
「だったら僕が大学に入学するときには、先生もまだ大学、あ、院にいらっしゃいますよね?」
合格して入学するのが当然、という前提で話を進めている耀くん。この短い時間に、彼に何があったのかと思っても不思議じゃない。
──何、が。
「……途中で挫折するか、クビにならなきゃね」
「そんなこと、先生なら心配いらないでしょう」
可笑しそうに声を立てて笑う、耀くん。
この子、ずいぶん明るくなったな。
やっぱり、受験の重圧っていうか『英深に行かなきゃ』って思いが強過ぎて、それが叶って楽になったってことか?
それとも。
それとも、以前の『耀くん』とは違うんだろうか。
……やっぱり。朔と、もしかしたら汐も混じり合ったから、以前の『純粋な耀くん』とは違って感じる?
入院中、見舞いに行った際も、退院して家庭教師を再開してからも。
耀くんから、あの『出来事』について触れて来ることは一切なかった。だから俺も、その話題を持ち出すことはできない。
完全に忘れているのならそれでいい。わざわざ思い出させる必要はない。
もし覚えていて知らない顔をしているのなら、なおさら俺が蒸し返すことじゃない。
つまり、すべては終わったこと、だ。結局、俺は傍観者でしかなかったんだから。
だから、俺は忘れる。忘れた、振りをする。
──おそらくはそれが、俺にできる最善の行動なんだろうから。
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どうしたらいいかもまるでわからなかったが、ただその場でおろおろしていてもしょうがない。俺は迷った末にとりあえず救急車を呼んだ。
「家庭教師先の中学生の男の子なんですけど。受験勉強疲れなのか、気晴らしに公園を散歩してたら急に倒れて。貧血か何かかも」
切羽詰まった状況にしては、どうにか矛盾のない理由をでっち上げることができた、気がした。その時点では。
無意識にナイフを拾って畳みポケットに入れていたことにも、俺はひとり呆然と座っていた病院の待合室でようやく気づく。結果的には正解、だったんだろうな。
ああ、後で自転車を回収に行かないと。
──考えてみればいい加減で穴だらけな口実で、一つ突っ込まれたらそこからあっさり崩されそうだ。
そういう意味でもナイフを残しておかなくてよかった。微かにでも、耀くんの身体に刃物傷がついていなかったことも。
連絡を受けて駆け付けた彼のお母さんは、何とも言い訳のしようもなく詫びた俺に、|憔悴《しょうすい》しきった様子で話し出した
「少し妙だと感じることはあったんです。話し掛けても返事をしなかったり、苛々したような仕草を見せたり。でも耀ももう小さな子どもでもないし、あまりうるさく言っても、と様子を見ているうちにこんな──」
それは耀くんとは違った、んじゃないか。夕焼けの時間やそのあとの夜なら、確実に『耀くん』じゃなかった筈だ。
……でも俺は、何も言えなかった。言っていいのかも判断できなかった。少なくとも今は、お母さんにはそこまで受け止める余裕はないだろう。
俺は自分に都合のいい言い訳をでっち上げて、口を拭ったんだ。
◇ ◇ ◇
耀くんはそれから約一週間眠り続けた。
「ママ、どうしたの?」
それが、目覚めた彼の第一声だったらしい。
ちなみに、耀くんが『ママ』と呼んでいたのは小学校低学年までだったらしいが。
お母さんからの知らせで大学から直接病院に駆けつけた俺に、耀くんは無邪気な笑顔を向けて来た。
「先生、わざわざごめんなさい。たった一週間でも寝たきりだと筋力って落ちるんですね。トイレに行こうと思ったらよろけちゃって|吃驚《びっくり》しました。歩行器使ったんですよ」
彼は笑いながら、ベッドの脇に置いてある歩行器を指差す。両腕で掴まって上体を預けて歩くタイプのものだ。
「もう、身体はなんともないの?」
何も覚えていないんだろうか。あの、最後の公園での出来事を。
……でも、お母さんのいる前で不用意な話題は出せない。当たり障りのない俺の問いに、ベッドの上の耀くんはあっさり|頷《うなず》く。
「はい、足が少し弱ってる以外は全然。もう入院してる必要もないくらいです」
俺は、大学の最終講義が終わってすぐここに来た。
……窓の外はオレンジ色に満たされている。
「耀くん。え、っと。今、具合、は……、あ、悪くないんだよね」
自分でも何が言いたいのかと思うくらいの、意味不明な台詞。
それでも耀くんは、俺が倒れた場に居合わせて救急車を呼んだことも聞かされているらしく、安心して気が緩んだとでも解釈してくれたらしい。
あのときの記憶がないのなら。──そして、目の前の彼が耀くん、ならば。
「本当に、目が覚めた時からちょっと|怠《だる》いくらいでたいしたことなかったんです。さっき言ったみたいに、身体は結構重かったっていうか思い通りにならない感じだったんですけど」
穏やかな声で淀みなく話す様子は、間違いなく耀くんだ。
夕陽の彼の、素の様子とはまるで違う。
|彼《・》が擬態しているのでなければ。
……俺は、いったい何を考えている、んだろう。
「先生、退院したらまた家庭教師お願いします。学校、の授業はともかく塾も休んで遅れちゃったし。もう受験まであまり日がないですから」
ベッドの上に上体を起こした姿勢で、耀くんは背筋を伸ばして俺に切り出した
「耀ちゃ、耀。そんなに頑張り過ぎなくていいんじゃないの? 英深学院に|拘《こだわ》らなくても、学校や塾の先生もあなたならどこの高校でも心配いらないって言ってくださってるんだから」
横から、お母さんが気遣わしげに口を挟む。黙っていられないって感じだな。
「お母さん、先生の前で止めてよ。僕は大丈夫だから。どうしても英深に行きたいんだ。そして塔都大学に行く。お父さんや牟礼先生の後輩になるから」
きっぱりと宣言した彼に、今までとは違う何かを読み取ったのか。お母さんは少し複雑そうに、それでも確かに微笑んだ。
「うん、わかった。じゃあ、退院して体力的に行けそうだと思ったら連絡して。俺はいつでもいいから。耀くんさえよければ、受験まで時間増やすのもOKだからね。ただし! 無理は禁物。それだけは約束しよう」
「はい、よろしくお願いします。先生」
言い聞かせるような俺の言葉に、耀くんは神妙な顔で頭を下げた。
「すみません、先生。本当に、牟礼先生に来ていただいてよかった……」
お母さんにまでそんな風に言われて、俺は正直困る。
実際、俺は何もしてない。できなかったことばかり数えられるくらいなのに。
改めて別れの挨拶を交わし、俺は病室を後にしたんだ。
俺が病院を出たときには、もうかなり日は傾いていた。
すでに空は、オレンジではなくなっている。残り火のような暗い光も、間もなく消えるだろう。
薄暮の中を歩きながら、俺は不意に初めて会った時の汐の言葉を思い出した。
「耀か朔か、どちらかが相手を消したら、おれも消える」
……?
「お前は朔を消したんだ」
汐は公園で確かにそう言った。あのとき、耀くんの中には朔はもういなくて、……でも汐はいた?
何故?
「朔は『ここ』」
胸、……心? 『飲み込んだ』っていうのは、吸収したってことでいいのか?
耀くんと朔がひとつになって、つまり朔も耀くんの『中』にいるから、汐も消えなかった?
──じゃあ、今、は?
これからは……?
俺はいったい、どうしたらいいんだろう。
◇ ◇ ◇
年が明けて二月。
「牟礼先生、本当にありがとうございました」
耀くんの英深学院高等部合格の知らせに急いで五十嵐家を訪れた俺に、お母さんは挨拶もそこそこに頭を下げてくれる。
「いえ、止めてください。僕の力じゃなくて、耀くんの元々の能力と努力の|賜物《たまもの》です」
「お母さん、先生困ってるよ。もういいでしょ? 先生、部屋に来て!」
耀くんに腕を掴んで先導され、俺は彼の私室に向かった。
受験日に学校まで着いて行って見た限りでは、耀くんは俺よりよほど落ち着いていたし、終わった後も晴れ晴れとした表情だった。
あれは諦めて開き直った顔じゃない。十分手応えはあったって余裕の笑みだ。
だから俺は九分九厘彼の合格は確信してたんだけど、当然ながら結果が出るまでは安心できなかったからな。
「牟礼先生、改めてありがとうございました」
「いや、だからさ」
言い掛けた俺を、耀くんが止める。
「僕はもちろん頑張りました。それはもう|謙遜《けんそん》はしません。でも、先生のおかげも絶対にありますから」
控え目な、……だけど自信に溢れた言葉、雰囲気。
「先生、次は塔都のキャンパスでお会いしたいです。確か院に進まれるんでしょう?」
「うん。この四月からね」
「だったら僕が大学に入学するときには、先生もまだ大学、あ、院にいらっしゃいますよね?」
合格して入学するのが当然、という前提で話を進めている耀くん。この短い時間に、彼に何があったのかと思っても不思議じゃない。
──何、が。
「……途中で挫折するか、クビにならなきゃね」
「そんなこと、先生なら心配いらないでしょう」
可笑しそうに声を立てて笑う、耀くん。
この子、ずいぶん明るくなったな。
やっぱり、受験の重圧っていうか『英深に行かなきゃ』って思いが強過ぎて、それが叶って楽になったってことか?
それとも。
それとも、以前の『耀くん』とは違うんだろうか。
……やっぱり。朔と、もしかしたら汐も混じり合ったから、以前の『純粋な耀くん』とは違って感じる?
入院中、見舞いに行った際も、退院して家庭教師を再開してからも。
耀くんから、あの『出来事』について触れて来ることは一切なかった。だから俺も、その話題を持ち出すことはできない。
完全に忘れているのならそれでいい。わざわざ思い出させる必要はない。
もし覚えていて知らない顔をしているのなら、なおさら俺が蒸し返すことじゃない。
つまり、すべては終わったこと、だ。結局、俺は傍観者でしかなかったんだから。
だから、俺は忘れる。忘れた、振りをする。
──おそらくはそれが、俺にできる最善の行動なんだろうから。