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1話 転生したら芋虫だった件

ー/ー



 転生したら芋虫でした。

「おい、どけよ! この野郎!」

 もぞもぞ、もぞもぞ。

 暗くて湿った空間に、でかい緑色の芋虫が何十匹もうじゃうじゃ蠢いている。

 右を見ても左を見ても同じやつら。俺自身もそのうちの一匹だという事実を、脳が拒否している。

「……ッ、きしょッ!」

 声にならない。ただ体が不気味に震えるだけ。触覚が勝手に動いて、周囲の湿った空気や兄弟たちの体液の匂いを拾ってくる。

 何が起きたのか、さっぱりわからない。

 記憶は断片的だ。気がついたらこの体。しかも、虫の中でも特に気色悪い、太くて柔らかい芋虫だとよ。

「なんでだよ……チクショー……」

 前世じゃ、夏になると団地の裏庭で虫網を振り回してた。
 特に蟷螂(カマキリ)が好きだった。あの鎌みたいな前脚で獲物を捕らえる瞬間が、子供心にめちゃくちゃカッコよく見えた。

 母ちゃんはいつも眉をひそめて言ってた。

「あんた、そんなことばっかりしてたら来世で虫になっちまうよ」

 蟷螂に餌をやるために捕まえたコオロギの手足を、俺は平気で引きちぎってた。母ちゃんが悪魔でも見るような目で睨んできたけど、当時の俺は本気でこう思ってたんだ。

 ――自然の摂理だろ、って。

 我ながら大概だ。今思えば。

 ぐぅ〜。

 腹が減る。このクソ体になっても、空腹感だけは人間の頃と変わらない。

 俺は兄弟たちを押しのけながら、餌の匂いがする方へ不格好に這い進んだ。体が思うように動かなくて、腹が地面に擦れる感触がたまらなく気持ち悪い。

 やがて辿り着いた場所で、俺は息を飲んだ――いや、芋虫に息なんてないけど、感覚的に固まった。

 そこにいたのは、人間の女冒険者だった。

 仰向けに倒れ、胸当てと腰の鎧を半ば引き裂かれ、白い肌が露わになっている。数匹の芋虫がその体に群がり、太い口をずぶずぶと食い込ませて肉を削いでいた。

 女の口の端からは透明なよだれが垂れ、目はとろんと虚ろ。表情は完全に快楽に溺れたような、だらしのないものだった。

 痛みも恐怖も感じていないらしい。
 ただ虚空を見つめ、静かに、ゆっくりと体を食い尽くされ続けている。

 ……俺も、その群れの中に滑り込んだ。

 柔らかい太ももの肉に口を押し当て、ずぶりと噛みつく。

 温かく、鉄の味がする血と肉が口の中に広がった。
 彼女はピクッと体を震わせたが、悲鳴一つ上げない。むしろ腰がわずかに浮くような動きさえ見せた。

 この数日で理解したことがある。

 俺たち芋虫の唾液――というか毒には、痛みを完全に中和し、代わりに強烈な快楽成分を流し込む効果があるらしい。
 だから獲物は抵抗せず、ただ溶けるような表情で、自分が生きながら食われているのを見ているだけになる。

 なんてクソみたいな仕組みだ。

 俺は咀嚼しながら、ぼんやりと思った。

 前世の俺は、コオロギの手足を引きちぎりながら「自然の摂理だ」と言い張っていた。
 今はただ、その立場が逆になっただけか。

 人間だった頃の罪悪感や感情が、少しずつ薄れていくのが怖い。
 でも、正直に言うと……今この瞬間、ほとんど罪悪感は湧かない。

 体が勝手に動く。腹が減る。本能が止まらない。

 その時、頭の奥で妙な電子音が響いた。

 パンパカパーン♪

【経験値を獲得しました】

【芋虫 Lv3 → Lv4】

【進化条件を確認】

【進化先候補】

・毒芋虫
・捕食芋虫
・寄生芋虫(ユニーク個体)

「……は?」

 女の肉片をくわえたまま、俺は固まった。

 どうやらこの世界、モンスターはレベルアップして進化できるらしい。

 食事を終え、群れから少し離れた暗い隅で、俺は浮かんだウィンドウをじっと見つめていた。

 毒芋虫は、紫色で毒々しいあのパイセンみたいなやつ。
 捕食芋虫は赤くて、獲物を体内に保存する便利屋タイプ。

 そして、寄生芋虫。

 説明にはこう書いてあった。

《対象の神経系に寄生し、行動を完全に支配する。特殊進化・ユニーク個体専用》

 ……これだ。

 前世じゃ毎日上司に頭を下げ、言われるがままの人生だった。
 今度は、誰かを自分の思い通りに動かせる側になれる。たとえそれが芋虫の体から始まるとしても。

 人間の体を取り戻す手段としても完璧だ。

 寄生できれば、人間の目で世界を見られる。
 人間の足で歩ける。街にも出られる。情報も集められる。

 もしかしたら、人間に完全に戻る方法だって見つかるかもしれない。

 いや、今回の人生は芋虫からスタートなんだが……それでも構わない。

 ここは、夢にまで見た異世界だ。

 薄暗いダンジョンの底で、一生うごめき続けて終わるなんて、絶対に嫌だ。

「……よし」

 俺は迷わず選択した。

【寄生芋虫へ進化しますか? はい/いいえ】

「イエス!」

 瞬間、体内の何かが爆発した。

 ぐにゃり、と肉が内側から引き伸ばされ、体液が沸騰するような熱が全身を駆け巡る。
 痛みはない。ただ、自分という存在が根本から作り替えられていく感覚だけ。

 外皮がひび割れ、新たな黒い体が姿を現した。

 一回り大きくなった体は深い漆黒。
 口元には細く鋭い針のような器官が生え、触覚はまるで手足のように自在に動く。

「おお……」

 俺は小さく笑った。ヒッヒッヒ、と。

「こりゃ……最高じゃねぇか」

 新しく生えた針を軽く振ってみる。
 まだ試していないが、これで近くにいる次の獲物――まだ息のある人間の体に卵を産みつければ、どうなるんだろう。

 支配できるのか。
 その人間の目を通して、外の世界を覗けるのか。

 俺はゆっくりと体を動かし、群れの外れで倒れている別の冒険者らしき影に向かって這い始めた。

 まだ完全じゃない。
 でも、これでようやくスタートラインに立った気がする。

 人間を、ただ食うだけじゃなく、
 自分の一部にする側に。


 ◆


「ああッ! もうっ! 全然使えねぇじゃん!」

 俺はダンジョンの冷たい石床の上で、もぞもぞと体をよじった。

 せっかくユニーク個体に進化したというのに、肝心の寄生先がいない。これじゃ殻のない蝸牛――つまるところ蛞蝓だ。

 ……芋虫のくせに、何やってんだ俺は。

 緑・紫・赤の群れの中に、漆黒の俺が一匹紛れ込んだせいで、完全に距離を置かれるようになった。「一緒に押しくら饅頭でもやろうぜ」と近づけば、一斉に距離を取られる。

 ……仲間意識ゼロかよ。

 赤パイセンが人間を運んできても、俺が到着する頃にはもうバラバラの残骸。手脚のない死体に寄生しても意味がない。

「腹減ったな……チクショー」

 ここ数日、ろくに食えてない。これって芋虫界のいじめじゃね?

 ……いや、そんなもんあるわけねぇか。

 くだらない妄想を振り払いながら、てくてく這い進んでいると、通路の端に人影が倒れているのが目に入った。

「……当たりだな」

 若い女だった。十代後半くらいか。血まみれでボロボロだけど、発育はなかなかよろしい。人間だった頃なら、間違いなく飛びついていただろうが、今の俺には性欲というものがまるでない。

 全身を這いずり回る血の跡が、石畳にべっとりと続いている。芋虫の俺よりよっぽど芋虫みたいだ。いや、この場合は蛞蝓か。

「絶好のモルモットちゃんやん♪」

 俺はもぞもぞと近づいた。

「しっ、しっ! あっちへお行きなさい! この私を誰だと思っているんですの!」

 女は震える声で叫ぶ。当然、俺の言葉は通じない。

「こっちに来るんじゃありませんわよ! 来るなって言ってるでしょ!」

 必死に逃げようとする姿が、妙に滑稽に見えた。来るなと言われるほど、行きたくなるのが人間という生き物だ。

 ……あ、俺って性格悪いな。

「ファイヤーボール!」

 ボッ!

「うわっ、危ねぇ! 何すんだよ! 当たったらどうしてくれんだ!」

 咄嗟に口から糸を吐き、天井に逃げる。火の玉が石床を爆ぜさせた。追い詰められた獲物は、最後に何をしでかすかわからない。まさにその通りだ。

 糸を振り子のように使って勢いをつけ、俺は女の真横へ飛び降りた。そして迷わず、

 首筋へ、針を突き立てた。

 ぷすり。

 ……多少の躊躇いはあった。でも、前世でコオロギの手足を引きちぎっていた頃の俺に比べれば、かわいいものだ。芋虫になった今、コオロギと人間に大差はない。

 針の先から、卵のようなものを送り込む。やり方は体が勝手に覚えていた。進化したこの体は、最初からそういう構造らしい。

 女の体がびくりと大きく痙攣し、そのまま静かになった。

「あれ、死んだ?」

 失敗か? 不安になって様子をうかがう。

 五分ほど経った頃。

 女の瞼が、ゆっくりと開いた。

 まず目に入ったのは、白目。ぐるぐると眼球が回り、ようやく碧い瞳が元の位置に戻る。

「うわぁ……引くわー」

 美少女の白目は、想像以上にキモい。美少女じゃなかったら即座に顔を背けていた。

 その瞬間、俺の意識に別の視界が滑り込んできた。

 薄暗い天井。血の跡の残る石の床。そして、漆黒の芋虫が一匹。

「俺じゃん!?」

 女の視界が、そのまま俺の頭の中に流れ込んでくる。自分の外側から自分を見ているような、薄気味悪い二重写し。ぞわりと背筋が――いや、芋虫に背筋なんてないが、震えた。

「……動かせる」

 意識を集中する。右手に念を向けると、女の右手がゆっくりと上がった。

 自分の手じゃないのに、自分の意思で動く。他人の指が開き、閉じる。皮膚の感触、指先を伝う冷たい空気、血のぬめり、すべてが神経を通じて流れ込んでくる。

 これは、俺がやっていることなのか。

 最初はぎこちなかったが、ゲームのコントローラーを操る感覚に切り替えると、だんだんスムーズになった。

「これ……操ってる、のか?」

 慣れてしまった自分が、少し怖かった。

 さらに操作を続けていると、記憶の断片が次々と流れ込んできた。

 エルメス=バーキン。十六歳。魔法使い、冒険者ランクC、伯爵家の令嬢。

 初寄生にしては大当たりだ。美少女で、むさ苦しいおっさんじゃなかった時点で勝利。

 だが、記憶を深く読み進めるにつれ、俺は顔をしかめた。

 周囲にキツく当たり散らし、気に入らない相手は平気で破滅させる。騙して借金地獄に落とし、奴隷商に売り飛ばす。姉や恋人ごと売り飛ばされた相手が、今回のように毒を盛って報復したらしい。

「そりゃ殺されるわ……」

 ひどい話だ。

 ……でも。

 誰からも必要とされず、必要とされたくて、やり方を間違え続けた。そんな風にも見えた。他人の記憶なんて断片に過ぎないけど。

「ある意味、自業自得だぜ、エルメスちゃんよ」

 口ではそう言いながら、なぜか捨てておけない気がした。

 エルメスは死んだと思われている。

 でも実際は……。

「俺に乗っ取られました、と」

 俺は女の体を、ゆっくりと立ち上がらせた。

 人間の足で立つ。人間の目で世界を見る。久しぶりの、人間の視界。

 膝を曲げ、伸ばす。ちゃんと動く。

 空気の匂い、肌を撫でる冷気、血の鉄臭さ、すべてが鮮明に、びりびりと指先まで届いてくる。あの地面スレスレの芋虫視点が、まるで嘘のようだった。

 気持ち悪い、と思った。

 でも、やめられなかった。

 俺は今日、産まれ直した。

 芋虫として這いずっていた俺が、ようやく自分の足で、立ち上がった。

 これから、どこへでも行ける。

 誰をも、支配できる。


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 転生したら芋虫でした。
「おい、どけよ! この野郎!」
 もぞもぞ、もぞもぞ。
 暗くて湿った空間に、でかい緑色の芋虫が何十匹もうじゃうじゃ蠢いている。
 右を見ても左を見ても同じやつら。俺自身もそのうちの一匹だという事実を、脳が拒否している。
「……ッ、きしょッ!」
 声にならない。ただ体が不気味に震えるだけ。触覚が勝手に動いて、周囲の湿った空気や兄弟たちの体液の匂いを拾ってくる。
 何が起きたのか、さっぱりわからない。
 記憶は断片的だ。気がついたらこの体。しかも、虫の中でも特に気色悪い、太くて柔らかい芋虫だとよ。
「なんでだよ……チクショー……」
 前世じゃ、夏になると団地の裏庭で虫網を振り回してた。
 特に|蟷螂《カマキリ》が好きだった。あの鎌みたいな前脚で獲物を捕らえる瞬間が、子供心にめちゃくちゃカッコよく見えた。
 母ちゃんはいつも眉をひそめて言ってた。
「あんた、そんなことばっかりしてたら来世で虫になっちまうよ」
 蟷螂に餌をやるために捕まえたコオロギの手足を、俺は平気で引きちぎってた。母ちゃんが悪魔でも見るような目で睨んできたけど、当時の俺は本気でこう思ってたんだ。
 ――自然の摂理だろ、って。
 我ながら大概だ。今思えば。
 ぐぅ〜。
 腹が減る。このクソ体になっても、空腹感だけは人間の頃と変わらない。
 俺は兄弟たちを押しのけながら、餌の匂いがする方へ不格好に這い進んだ。体が思うように動かなくて、腹が地面に擦れる感触がたまらなく気持ち悪い。
 やがて辿り着いた場所で、俺は息を飲んだ――いや、芋虫に息なんてないけど、感覚的に固まった。
 そこにいたのは、人間の女冒険者だった。
 仰向けに倒れ、胸当てと腰の鎧を半ば引き裂かれ、白い肌が露わになっている。数匹の芋虫がその体に群がり、太い口をずぶずぶと食い込ませて肉を削いでいた。
 女の口の端からは透明なよだれが垂れ、目はとろんと虚ろ。表情は完全に快楽に溺れたような、だらしのないものだった。
 痛みも恐怖も感じていないらしい。
 ただ虚空を見つめ、静かに、ゆっくりと体を食い尽くされ続けている。
 ……俺も、その群れの中に滑り込んだ。
 柔らかい太ももの肉に口を押し当て、ずぶりと噛みつく。
 温かく、鉄の味がする血と肉が口の中に広がった。
 彼女はピクッと体を震わせたが、悲鳴一つ上げない。むしろ腰がわずかに浮くような動きさえ見せた。
 この数日で理解したことがある。
 俺たち芋虫の唾液――というか毒には、痛みを完全に中和し、代わりに強烈な快楽成分を流し込む効果があるらしい。
 だから獲物は抵抗せず、ただ溶けるような表情で、自分が生きながら食われているのを見ているだけになる。
 なんてクソみたいな仕組みだ。
 俺は咀嚼しながら、ぼんやりと思った。
 前世の俺は、コオロギの手足を引きちぎりながら「自然の摂理だ」と言い張っていた。
 今はただ、その立場が逆になっただけか。
 人間だった頃の罪悪感や感情が、少しずつ薄れていくのが怖い。
 でも、正直に言うと……今この瞬間、ほとんど罪悪感は湧かない。
 体が勝手に動く。腹が減る。本能が止まらない。
 その時、頭の奥で妙な電子音が響いた。
 パンパカパーン♪
【経験値を獲得しました】
【芋虫 Lv3 → Lv4】
【進化条件を確認】
【進化先候補】
・毒芋虫
・捕食芋虫
・寄生芋虫(ユニーク個体)
「……は?」
 女の肉片をくわえたまま、俺は固まった。
 どうやらこの世界、モンスターはレベルアップして進化できるらしい。
 食事を終え、群れから少し離れた暗い隅で、俺は浮かんだウィンドウをじっと見つめていた。
 毒芋虫は、紫色で毒々しいあのパイセンみたいなやつ。
 捕食芋虫は赤くて、獲物を体内に保存する便利屋タイプ。
 そして、寄生芋虫。
 説明にはこう書いてあった。
《対象の神経系に寄生し、行動を完全に支配する。特殊進化・ユニーク個体専用》
 ……これだ。
 前世じゃ毎日上司に頭を下げ、言われるがままの人生だった。
 今度は、誰かを自分の思い通りに動かせる側になれる。たとえそれが芋虫の体から始まるとしても。
 人間の体を取り戻す手段としても完璧だ。
 寄生できれば、人間の目で世界を見られる。
 人間の足で歩ける。街にも出られる。情報も集められる。
 もしかしたら、人間に完全に戻る方法だって見つかるかもしれない。
 いや、今回の人生は芋虫からスタートなんだが……それでも構わない。
 ここは、夢にまで見た異世界だ。
 薄暗いダンジョンの底で、一生うごめき続けて終わるなんて、絶対に嫌だ。
「……よし」
 俺は迷わず選択した。
【寄生芋虫へ進化しますか? はい/いいえ】
「イエス!」
 瞬間、体内の何かが爆発した。
 ぐにゃり、と肉が内側から引き伸ばされ、体液が沸騰するような熱が全身を駆け巡る。
 痛みはない。ただ、自分という存在が根本から作り替えられていく感覚だけ。
 外皮がひび割れ、新たな黒い体が姿を現した。
 一回り大きくなった体は深い漆黒。
 口元には細く鋭い針のような器官が生え、触覚はまるで手足のように自在に動く。
「おお……」
 俺は小さく笑った。ヒッヒッヒ、と。
「こりゃ……最高じゃねぇか」
 新しく生えた針を軽く振ってみる。
 まだ試していないが、これで近くにいる次の獲物――まだ息のある人間の体に卵を産みつければ、どうなるんだろう。
 支配できるのか。
 その人間の目を通して、外の世界を覗けるのか。
 俺はゆっくりと体を動かし、群れの外れで倒れている別の冒険者らしき影に向かって這い始めた。
 まだ完全じゃない。
 でも、これでようやくスタートラインに立った気がする。
 人間を、ただ食うだけじゃなく、
 自分の一部にする側に。
 ◆
「ああッ! もうっ! 全然使えねぇじゃん!」
 俺はダンジョンの冷たい石床の上で、もぞもぞと体をよじった。
 せっかくユニーク個体に進化したというのに、肝心の寄生先がいない。これじゃ殻のない蝸牛――つまるところ蛞蝓だ。
 ……芋虫のくせに、何やってんだ俺は。
 緑・紫・赤の群れの中に、漆黒の俺が一匹紛れ込んだせいで、完全に距離を置かれるようになった。「一緒に押しくら饅頭でもやろうぜ」と近づけば、一斉に距離を取られる。
 ……仲間意識ゼロかよ。
 赤パイセンが人間を運んできても、俺が到着する頃にはもうバラバラの残骸。手脚のない死体に寄生しても意味がない。
「腹減ったな……チクショー」
 ここ数日、ろくに食えてない。これって芋虫界のいじめじゃね?
 ……いや、そんなもんあるわけねぇか。
 くだらない妄想を振り払いながら、てくてく這い進んでいると、通路の端に人影が倒れているのが目に入った。
「……当たりだな」
 若い女だった。十代後半くらいか。血まみれでボロボロだけど、発育はなかなかよろしい。人間だった頃なら、間違いなく飛びついていただろうが、今の俺には性欲というものがまるでない。
 全身を這いずり回る血の跡が、石畳にべっとりと続いている。芋虫の俺よりよっぽど芋虫みたいだ。いや、この場合は蛞蝓か。
「絶好のモルモットちゃんやん♪」
 俺はもぞもぞと近づいた。
「しっ、しっ! あっちへお行きなさい! この私を誰だと思っているんですの!」
 女は震える声で叫ぶ。当然、俺の言葉は通じない。
「こっちに来るんじゃありませんわよ! 来るなって言ってるでしょ!」
 必死に逃げようとする姿が、妙に滑稽に見えた。来るなと言われるほど、行きたくなるのが人間という生き物だ。
 ……あ、俺って性格悪いな。
「ファイヤーボール!」
 ボッ!
「うわっ、危ねぇ! 何すんだよ! 当たったらどうしてくれんだ!」
 咄嗟に口から糸を吐き、天井に逃げる。火の玉が石床を爆ぜさせた。追い詰められた獲物は、最後に何をしでかすかわからない。まさにその通りだ。
 糸を振り子のように使って勢いをつけ、俺は女の真横へ飛び降りた。そして迷わず、
 首筋へ、針を突き立てた。
 ぷすり。
 ……多少の躊躇いはあった。でも、前世でコオロギの手足を引きちぎっていた頃の俺に比べれば、かわいいものだ。芋虫になった今、コオロギと人間に大差はない。
 針の先から、卵のようなものを送り込む。やり方は体が勝手に覚えていた。進化したこの体は、最初からそういう構造らしい。
 女の体がびくりと大きく痙攣し、そのまま静かになった。
「あれ、死んだ?」
 失敗か? 不安になって様子をうかがう。
 五分ほど経った頃。
 女の瞼が、ゆっくりと開いた。
 まず目に入ったのは、白目。ぐるぐると眼球が回り、ようやく碧い瞳が元の位置に戻る。
「うわぁ……引くわー」
 美少女の白目は、想像以上にキモい。美少女じゃなかったら即座に顔を背けていた。
 その瞬間、俺の意識に別の視界が滑り込んできた。
 薄暗い天井。血の跡の残る石の床。そして、漆黒の芋虫が一匹。
「俺じゃん!?」
 女の視界が、そのまま俺の頭の中に流れ込んでくる。自分の外側から自分を見ているような、薄気味悪い二重写し。ぞわりと背筋が――いや、芋虫に背筋なんてないが、震えた。
「……動かせる」
 意識を集中する。右手に念を向けると、女の右手がゆっくりと上がった。
 自分の手じゃないのに、自分の意思で動く。他人の指が開き、閉じる。皮膚の感触、指先を伝う冷たい空気、血のぬめり、すべてが神経を通じて流れ込んでくる。
 これは、俺がやっていることなのか。
 最初はぎこちなかったが、ゲームのコントローラーを操る感覚に切り替えると、だんだんスムーズになった。
「これ……操ってる、のか?」
 慣れてしまった自分が、少し怖かった。
 さらに操作を続けていると、記憶の断片が次々と流れ込んできた。
 エルメス=バーキン。十六歳。魔法使い、冒険者ランクC、伯爵家の令嬢。
 初寄生にしては大当たりだ。美少女で、むさ苦しいおっさんじゃなかった時点で勝利。
 だが、記憶を深く読み進めるにつれ、俺は顔をしかめた。
 周囲にキツく当たり散らし、気に入らない相手は平気で破滅させる。騙して借金地獄に落とし、奴隷商に売り飛ばす。姉や恋人ごと売り飛ばされた相手が、今回のように毒を盛って報復したらしい。
「そりゃ殺されるわ……」
 ひどい話だ。
 ……でも。
 誰からも必要とされず、必要とされたくて、やり方を間違え続けた。そんな風にも見えた。他人の記憶なんて断片に過ぎないけど。
「ある意味、自業自得だぜ、エルメスちゃんよ」
 口ではそう言いながら、なぜか捨てておけない気がした。
 エルメスは死んだと思われている。
 でも実際は……。
「俺に乗っ取られました、と」
 俺は女の体を、ゆっくりと立ち上がらせた。
 人間の足で立つ。人間の目で世界を見る。久しぶりの、人間の視界。
 膝を曲げ、伸ばす。ちゃんと動く。
 空気の匂い、肌を撫でる冷気、血の鉄臭さ、すべてが鮮明に、びりびりと指先まで届いてくる。あの地面スレスレの芋虫視点が、まるで嘘のようだった。
 気持ち悪い、と思った。
 でも、やめられなかった。
 俺は今日、産まれ直した。
 芋虫として這いずっていた俺が、ようやく自分の足で、立ち上がった。
 これから、どこへでも行ける。
 誰をも、支配できる。