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第1話

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 愚かだった。  何も知らないということは何も持たないということだ。攻撃も防禦もできない。逃げも隠れもできない。  食べきれる量じゃないくせに大盛を頼み、嫌いな生卵と嫌いな大葉、嫌いな紅ショウガと嫌いな七味唐辛子を載せた牛丼を、逆手に持った割り箸でぐるぐるとかき混ぜてゆく。  大盛だ。怨嗟の大盛だ。メガネのレンズに涙がぽとりと落ちる。メガネを外し、重い丼をどうにか片手で支えて一気にかきこむ。 「男なんて嫌い。もう嫌い。ぜんぶ、もうぜんぶ、ぜんぶ!」  自傷行為のようにがつがつと牛丼を胃袋に押し込む。 「プリ、カ――ですか?」 「そう。うちのバイトの子にはね、入ってもらったお祝い金、三万円をプリペイドカードでお渡ししてるんです。かんたんですよ。クレジットカードと違って使いすぎや盗難被害とか、紛失でもそれほど痛くないし。まあ、なんにせよ、学生のうちに作っといた方があとあと有利だから。カードっていってもこういうの(プラスチックのカードを机に置く)。ポイントカードみたいなもんだよ。これからは仕事上のパートナー、つまり対等な関係だから。よろしくね」  援助交際なんて三〇年近く前に廃れた。少なくともわたしはそう認識している。昔の、テレビドラマで見るような悪い大人と悪い女子高生がふたり仲良く破滅に向かったり、あるいは純愛を誓ったりと、そんなフィクションは今時だれも求めていない。飽き飽きしている。だからわたしが健全な街コンや、同じく健全なマッチングアプリに表向きふつうの会社員なり公務員なりの姿で「サクラ」を演じるのも、それほどの有害性や背徳感は持たなかったのだ。  仲のいい子だった。小中高とおなじ学校で、高校こそは一年で中退したが、今も折々に連絡を取り合ったり、また仲間同士でお腹いっぱい、門限ぎりぎりまで繁華街で遊んだりする子だ。  今こうして泣きながら牛丼を食べているのも、その彼女からの紹介で始めたバイトのせいだ。いや、あの子に責任転嫁してはいけない。わたしがただ単に、馬鹿だったからなのだ。 『みっひー』 「おう?」  このLINEから始まった。このLINEさえなければ、わたしは「ふつうの子」のままだっただろう。彼女には申し訳ないが、やはりこの時わたしでなく、別な子にLINEをしてくれればすべての苦痛からは逃れられたのだ。 『いやー、あんた今なんかバイトとかしてるー?』 「うんにゃ。国公立目指しとるからのー」 『ああ、特進やったか。ちょっとさ、ド短期でいいのがあるんだけど、話だけでもどうかなと思って』 「あー、まあ、話だけなら」  つまり、お見合いパーティなりマッチングアプリでサクラを演じれば、一回につき一万円程度の実収入で、いつ始めてもいつ辞めてもいい、とのことだった。  二、三回働いて辞めたら小遣い稼ぎとしてはいいかも、とその時は軽く見ていた。この世の中にそんな甘い話があれば、という仮定に基づいた話ではあるが。  駅近、といっても駅裏のごみごみとした格安アパートや格安居酒屋の立ち並ぶ区画、雑居ビルの三階。 「――で、これが重要事項説明書。これが誓約書でこっちは契約書。じっくり読んでも、さっき口頭で説明した内容とおんなじだから、今サインしてもデメリットはないよ。もちろん、控えは両方が持つことになるから安心して」  人当たりのよさそうなスーツ姿の男が業務内容を説明してくれた。年のころは三〇代前半、細いセルフレームのメガネが知性と柔和な印象を同時に感じさせる、有り体にいっていい男だった(それでもわたしの守備範囲からは大きく外れた年齢ではあったが)。 「拇印でいいですよ。あと、十七歳以上だから保証人もなしでOK。それで――今日のうちに契約してくれたら祝い金として三万円が発生するんだけど、どうします?」  県立高校の特進コースで勉強漬けだった。バイトの経験もなく、理系だからというわけでもないが、法律上の粗を探すだけの知識もなかった。三万円。三万あったらどうしよう。弟になにか買ってあげたいけど、バイトのことが親にばれたら怒られるだろうな。学校はアルバイト禁止ではないが、これはちょっとふつうじゃない仕事だ。  手堅く貯金する順当な判断か。 「えっと、分かりました。じゃあ、今日からお世話になります」 「早いうちにビジネスパートナーが見つかってよかったよ。さてさて、三万円なんだけど、プリカって知ってるよね? そこに入金するのをおすすめしています。つまり、現金じゃなくてカードとして」  事務所を辞し、わたしは少しだけ足取りも軽く家路へと着く。 「もし親御さんとか、ご理解を得られるか心配ならカードの受取をこの事務所で代行しますよ。書留なんでね、さすがに高校生がカード作ったら不安がるご家族もいると思います。ま、それでも海外では常識なんですけどねえ。日本はそこのところ遅れてて」  契約したのが火曜日。金曜日の午前にはプリカが届いた旨、スマホの留守電に録音されていた。  昼休み、外のベンチで留守電を開く。  慇懃な女性の声だった。 『お忙しいところ失礼をいたします。KMコンサルティングの加賀と申します。こちら瀬戸みひろ様の携帯電話でお間違いないでしょうか。ご依頼の郵便物をお預かりしております。近くにお立ち寄りの折に弊社までお越し願えればとご連絡差し上げました。なお、保管期間は今日を入れて三日間とさせていただいておりますので、お早めのお受け取りをよろしくお願いいたします。加賀がご案内いたしました。失礼いたします』  数字の七をタップし、録音を消去する。  



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 愚かだった。  何も知らないということは何も持たないということだ。攻撃も防禦もできない。逃げも隠れもできない。  食べきれる量じゃないくせに大盛を頼み、嫌いな生卵と嫌いな大葉、嫌いな紅ショウガと嫌いな七味唐辛子を載せた牛丼を、逆手に持った割り箸でぐるぐるとかき混ぜてゆく。  大盛だ。怨嗟の大盛だ。メガネのレンズに涙がぽとりと落ちる。メガネを外し、重い丼をどうにか片手で支えて一気にかきこむ。 「男なんて嫌い。もう嫌い。ぜんぶ、もうぜんぶ、ぜんぶ!」  自傷行為のようにがつがつと牛丼を胃袋に押し込む。 「プリ、カ――ですか?」 「そう。うちのバイトの子にはね、入ってもらったお祝い金、三万円をプリペイドカードでお渡ししてるんです。かんたんですよ。クレジットカードと違って使いすぎや盗難被害とか、紛失でもそれほど痛くないし。まあ、なんにせよ、学生のうちに作っといた方があとあと有利だから。カードっていってもこういうの(プラスチックのカードを机に置く)。ポイントカードみたいなもんだよ。これからは仕事上のパートナー、つまり対等な関係だから。よろしくね」  援助交際なんて三〇年近く前に廃れた。少なくともわたしはそう認識している。昔の、テレビドラマで見るような悪い大人と悪い女子高生がふたり仲良く破滅に向かったり、あるいは純愛を誓ったりと、そんなフィクションは今時だれも求めていない。飽き飽きしている。だからわたしが健全な街コンや、同じく健全なマッチングアプリに表向きふつうの会社員なり公務員なりの姿で「サクラ」を演じるのも、それほどの有害性や背徳感は持たなかったのだ。  仲のいい子だった。小中高とおなじ学校で、高校こそは一年で中退したが、今も折々に連絡を取り合ったり、また仲間同士でお腹いっぱい、門限ぎりぎりまで繁華街で遊んだりする子だ。  今こうして泣きながら牛丼を食べているのも、その彼女からの紹介で始めたバイトのせいだ。いや、あの子に責任転嫁してはいけない。わたしがただ単に、馬鹿だったからなのだ。 『みっひー』 「おう?」  このLINEから始まった。このLINEさえなければ、わたしは「ふつうの子」のままだっただろう。彼女には申し訳ないが、やはりこの時わたしでなく、別な子にLINEをしてくれればすべての苦痛からは逃れられたのだ。 『いやー、あんた今なんかバイトとかしてるー?』 「うんにゃ。国公立目指しとるからのー」 『ああ、特進やったか。ちょっとさ、ド短期でいいのがあるんだけど、話だけでもどうかなと思って』 「あー、まあ、話だけなら」  つまり、お見合いパーティなりマッチングアプリでサクラを演じれば、一回につき一万円程度の実収入で、いつ始めてもいつ辞めてもいい、とのことだった。  二、三回働いて辞めたら小遣い稼ぎとしてはいいかも、とその時は軽く見ていた。この世の中にそんな甘い話があれば、という仮定に基づいた話ではあるが。  駅近、といっても駅裏のごみごみとした格安アパートや格安居酒屋の立ち並ぶ区画、雑居ビルの三階。 「――で、これが重要事項説明書。これが誓約書でこっちは契約書。じっくり読んでも、さっき口頭で説明した内容とおんなじだから、今サインしてもデメリットはないよ。もちろん、控えは両方が持つことになるから安心して」  人当たりのよさそうなスーツ姿の男が業務内容を説明してくれた。年のころは三〇代前半、細いセルフレームのメガネが知性と柔和な印象を同時に感じさせる、有り体にいっていい男だった(それでもわたしの守備範囲からは大きく外れた年齢ではあったが)。 「拇印でいいですよ。あと、十七歳以上だから保証人もなしでOK。それで――今日のうちに契約してくれたら祝い金として三万円が発生するんだけど、どうします?」  県立高校の特進コースで勉強漬けだった。バイトの経験もなく、理系だからというわけでもないが、法律上の粗を探すだけの知識もなかった。三万円。三万あったらどうしよう。弟になにか買ってあげたいけど、バイトのことが親にばれたら怒られるだろうな。学校はアルバイト禁止ではないが、これはちょっとふつうじゃない仕事だ。  手堅く貯金する順当な判断か。 「えっと、分かりました。じゃあ、今日からお世話になります」 「早いうちにビジネスパートナーが見つかってよかったよ。さてさて、三万円なんだけど、プリカって知ってるよね? そこに入金するのをおすすめしています。つまり、現金じゃなくてカードとして」  事務所を辞し、わたしは少しだけ足取りも軽く家路へと着く。 「もし親御さんとか、ご理解を得られるか心配ならカードの受取をこの事務所で代行しますよ。書留なんでね、さすがに高校生がカード作ったら不安がるご家族もいると思います。ま、それでも海外では常識なんですけどねえ。日本はそこのところ遅れてて」  契約したのが火曜日。金曜日の午前にはプリカが届いた旨、スマホの留守電に録音されていた。  昼休み、外のベンチで留守電を開く。  慇懃な女性の声だった。 『お忙しいところ失礼をいたします。KMコンサルティングの加賀と申します。こちら瀬戸みひろ様の携帯電話でお間違いないでしょうか。ご依頼の郵便物をお預かりしております。近くにお立ち寄りの折に弊社までお越し願えればとご連絡差し上げました。なお、保管期間は今日を入れて三日間とさせていただいておりますので、お早めのお受け取りをよろしくお願いいたします。加賀がご案内いたしました。失礼いたします』  数字の七をタップし、録音を消去する。  




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