ゾグワンタと私
ー/ー 夜九時。珍しくお母さんは、長電話をしている。相手はおばらしい。私に気を遣っているみたいで、時折こちらを盗み見ては笑っているのがわかったので、私は憤まんやるかたなく自室にこもることにした。
扉を開けた瞬間に悟った。昼間、嗅いだあの花――多分ゼラニウムの香り――が、どこからともなく漂ってきていたからだ。嫌な予感をありありと感じながら扉を閉める。するとベッドの下から昼間遭遇した黒猫がするりと出てきて体勢を整えたのだ。
私は緊張を高まらせながら黒猫と対峙した。戦うことになったらどうしよう。にんにく、十字架、日光? どれも今すぐ手に入れられるものではない。困っていると、黒猫はあからさまに顔をしかめた。
「いやはや、こんな小娘と契約させられるとはね。つくづくついてないよ、あたしは」
膝は震えていたけれど、昼間ほどじゃない。私は自らを励ましながら、がらがら声の自称魔女に向かい、質問した。
「どうやってここまでついてきたの? 契約って? そもそも本当に魔女なの?」
黒猫は片眉だけつり上げ、目を見張る。
「おや、興味を持ったのかい。ならば教えてやろう。あたしは稀代の大魔法使い、ゾグワンタさ。ついてくるもなにも、あの本の表紙が解読できたということは、魔法の道が開かれたということ。契約はその時点で交わされたのさ」
「ゾグワンタ、さん? 帰っていただくことはできませんか?」
「帰れるものならそうしている。それができぬから仕方なくここにいるのだ。本に閉じ込められた時から、あたしには拒否権などない。こうして外へ出てくるまで、契約者がどんな人間なのかさえ知りえないのだ。気の毒だと思ったかい? ああそうだよ、あたしなんてどうせ歴史から忘れ去られた稀代の大魔法使いさ。お国が変われば無名も同然。今やこうして猫の姿を保っているのがやっとのババアだよ。わかっちゃいたけど、随分落ちぶれたもんだね。フフフ……」
どうやらクーリングオフはできなさそうだ。普通の猫ならまだしも、ゾグワンタの声も表情もひたすら恐ろしいので、ただここから立ち去ってもらいたい一心で私は共感するふりをした。
「ゾグワンタさんにはゾグワンタさんの事情があるということですね」
「そうだよ。だからさっさとあんたとの契約を解除して、次へ行きたいのさ」
「そういうことなら私が許可します」
「無理だね。願いを叶えなけりゃ解除はできない」
「そう言われても、願い事なんて、すぐ言葉にできるものではないですよ……」
濃密に圧縮されたゼラニウムの香りが、霧のごとく部屋のなかで充満していた。まともな思考力は低下。するとなぜかもう一人の私が現れ、勝手に私の声帯を操り始めた。
「大魔法使いとか冗談でしょ? どう見たって野良猫じゃない。ウケる~」
ゾグワンタはきいっと目を吊り上げ、八本のしっぽを扇風機の羽みたいにぶんぶん振り回して激高した。
「ふざけた小娘よ。契約の代償にこうしてくれるわ!」
雷鳴が轟き、部屋中をまばゆい光が覆った。そこから先の記憶はない。気がついたら、朝だったのだ。
お母さんに起こされるより前に目を覚ました私は、しばらくの間、ベッドの上で放心状態だった。昨日の出来事を少しずつ反芻しながら、ひょっとして夢を見ていたんじゃないかと考えている。でも机の上にはちゃんと黒い表紙の本があって、やっぱり夢じゃなかったのだと悟った時、急に現実が重くのしかかってくるのだった。
不本意にも魔女と契約してしまったなんて一体、誰が信じるだろう。お母さんもおばさんも、きっと真面目に取り合ってくれない。それならいつも相談に乗ってくれる保健の東川先生は? カレンダーを見たら、次の登校日は明後日だった。でもそれまで待つなんて無理。我慢できそうにない。
私はベランダで洗濯物を干していたお母さんに、「今日、学校行くから」と宣言した。お母さんは、「そう、じゃあ、一緒にごはん食べようね」とほほえんだ。もっと驚くと思ったのに、紙みたいに薄っぺらい返答である。期待するだけ無駄なのに、いつも別のなにかを期待してもやもやする。思春期なのだろうか。
お母さんの代わりにコーヒーをドリップしたけれど、うまくゆかなくて、苦いだけになってしまった。それでもお母さんはおいしいと言う。気まずいので、さっさと登校することにした。異変に気づいたのは、制服に着替えた後のこと。パジャマのポケットが、跡形もなく消えていたのだ。まさかとは思うけれど、契約の代償に奪われた、なんてことがあるのだろうか。だとしたら、相当な変わり者だ。
十二月の朝は凍えるほど寒くて、途中、何度も家に引き返したい衝動に駆られたけれど、結局、学校の敷地に入ってしまった。私は覚悟を決めて、早めに登校してきた生徒の間を走って通り抜けた。
上履きが入った靴箱を、祈りながら開ける。と、そこには、やっぱりというか、なかった。私の上履きは、大体の確率で、生徒用玄関の隅っこにある傘立ての上に、まるで私自身が望んでそうしたかのように置かれている。それ以外のことは今のところ起きていない。だから先生にも、話していない。どうして学校へ来ないのか聞かれても、どうしてもと答えて保健室へ登校するだけで、せめてクラス替えがあるまではと、このスタイルを貫くつもりだ。
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