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 車窓の外にイチョウ並木が見え始めると、急に開けた住宅地が現れた。そこから二つ先の古ぼけたバス停で降りて、大きな一軒家の前を通り、だだっ広い梨園の間にある細い道をとぼとぼ歩いていった先に、おばあちゃんの家がある。まず視界に飛び込んでくるのは、草むしりしなくても整ったハーブの庭。背の高いもの、低いものが適材適所でのびのびと育っている。私がおばあちゃんのことを好きだったのは、この庭のせいかもしれなかった。庭には四季があって、四季は私に、美しさや儚さを教えてくれた。おばあちゃんとの思い出の背景には、いつも必ず庭があるのだ。

 家にはおばが来ていた。おばはとても明るくて気さくな人なのだけれど、いささかおしゃべり好きなのがたまにきず。私たち親子を盛大に迎え入れると、さっそくお母さんをリビングに連れて行ってしまった。今日学校はどうしたの、とか聞かれたらちょっと面倒なので、私は一人、書斎に行くことにした。

 おばあちゃんの書斎には、洋書がたくさん並んでいるのだ。読めなくても、挿絵を追うだけでよかった。訪れる度にこもっては、時間を忘れて入り浸ったものだった。だからいつもとは違う香りが鼻腔をくすぐった時、好奇心よりも不信感が先立ってしまった。決して不快ではない、むしろ、繊細で甘やかな花の香り。私は動物になったつもりで嗅覚を働かせて、香りの発生源を探した。それはすぐに見つかった。背伸びして届いた一冊の本を手に取って、まじまじと観察した。

 真っ黒でぼろぼろになった表紙には、りんごが転がったり杖が傾いたりしているような金色の文字列が並んでいる。とても怪しげではあるけれど、どうしてこんなにいい匂いがするのだろうと、夢うつつで表紙をめくった。

 そこには、花のイラストが描かれていた。おばあちゃんの庭でも見かけたことがある花だけど、どうしても名前が思い出せない。悩んでいるうちに、初めは微かだった香りがどんどん強くなっていった。すると私の頭のなかに、とてもこの世のものとは思えないおぞましい声が響いたのだ。

「本の表紙を読め! そしてあたしを解き放つのだ!」

 いつの間にか書斎は真っ暗闇に包まれていた。かろうじて立っているけれど、一歩でも踏み出したら、ここから抜け出せなくなりそうで恐ろしい。姿を現さない何者かは、またもや私の頭のなかに呼びかけてきた。

「早くしろ! さもなければ魂ごとお前を食ってしまうぞ!」

 抗い難い強い声色である。私はあわてて目線を本に落とした。周囲は真っ暗闇なのに、なぜか手元だけ照明を当てたように明るくなっていた。私は無我夢中で未知の領域にあったはずの文字列を声に出して読んだ。

「赤いゼラニウムが一輪咲いた。花言葉は、『君ありて幸せ』」

 プワンという漫画みたいな効果音が流れたかと思うと、唐突に室内が昼間の明るさを取り戻した。力なくその場に腰を下ろした私の前には、件の本と、真っ黒な猫がちょこんと座っていた。普通の黒猫じゃないことは、一目でわかった。蛇のように長いしっぽが何本もあったからだ。怯えながら数えると、八本もあった。猫の妖怪かもしれないと思っていたら、黒猫はすっと目を細め、口を開いた。

「あたしは西洋の魔女だよ。見てわからないのかい。困った娘だね」

 聞き間違いではない。黒猫は、つい先ほど私の頭のなかに呼びかけてきた何者かの正体だったのだ。

 私はありったけの悲鳴を上げて後ずさる。黒猫はにやにやしながらモデル歩きで近づいてきた。寄りかかった出入口の扉は、なんの前触れもなく突然向こう側に開いた。お母さんが助けにきてくれたのだ。私は顔を見るなり飛びついて、必死に訴えた。

「本棚の本から猫が出てきて喋ったの! お前の魂を食べちゃうぞ、って!」

「本って、この本?」

 書斎に入ってきたおばが、床でひっくり返っていた黒表紙の本を拾い上げる。猫はいなくなっていたけれど、私はぎゃあぎゃあ騒ぎ立てた。

「それ、呪われてますから! すぐ本棚に戻してください!」

「はいはい、わかりました」

 おばはくすくす笑いながら棚に戻して言った。

「まだまだお子様なのね、望結ちゃんは」

 一刻も早く立ち去りたくて、私はなぜか嬉しそうに渋るお母さんの手を引いて、急いで自宅へ帰ったのだった。


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 車窓の外にイチョウ並木が見え始めると、急に開けた住宅地が現れた。そこから二つ先の古ぼけたバス停で降りて、大きな一軒家の前を通り、だだっ広い梨園の間にある細い道をとぼとぼ歩いていった先に、おばあちゃんの家がある。まず視界に飛び込んでくるのは、草むしりしなくても整ったハーブの庭。背の高いもの、低いものが適材適所でのびのびと育っている。私がおばあちゃんのことを好きだったのは、この庭のせいかもしれなかった。庭には四季があって、四季は私に、美しさや儚さを教えてくれた。おばあちゃんとの思い出の背景には、いつも必ず庭があるのだ。
 家にはおばが来ていた。おばはとても明るくて気さくな人なのだけれど、いささかおしゃべり好きなのがたまにきず。私たち親子を盛大に迎え入れると、さっそくお母さんをリビングに連れて行ってしまった。今日学校はどうしたの、とか聞かれたらちょっと面倒なので、私は一人、書斎に行くことにした。
 おばあちゃんの書斎には、洋書がたくさん並んでいるのだ。読めなくても、挿絵を追うだけでよかった。訪れる度にこもっては、時間を忘れて入り浸ったものだった。だからいつもとは違う香りが鼻腔をくすぐった時、好奇心よりも不信感が先立ってしまった。決して不快ではない、むしろ、繊細で甘やかな花の香り。私は動物になったつもりで嗅覚を働かせて、香りの発生源を探した。それはすぐに見つかった。背伸びして届いた一冊の本を手に取って、まじまじと観察した。
 真っ黒でぼろぼろになった表紙には、りんごが転がったり杖が傾いたりしているような金色の文字列が並んでいる。とても怪しげではあるけれど、どうしてこんなにいい匂いがするのだろうと、夢うつつで表紙をめくった。
 そこには、花のイラストが描かれていた。おばあちゃんの庭でも見かけたことがある花だけど、どうしても名前が思い出せない。悩んでいるうちに、初めは微かだった香りがどんどん強くなっていった。すると私の頭のなかに、とてもこの世のものとは思えないおぞましい声が響いたのだ。
「本の表紙を読め! そしてあたしを解き放つのだ!」
 いつの間にか書斎は真っ暗闇に包まれていた。かろうじて立っているけれど、一歩でも踏み出したら、ここから抜け出せなくなりそうで恐ろしい。姿を現さない何者かは、またもや私の頭のなかに呼びかけてきた。
「早くしろ! さもなければ魂ごとお前を食ってしまうぞ!」
 抗い難い強い声色である。私はあわてて目線を本に落とした。周囲は真っ暗闇なのに、なぜか手元だけ照明を当てたように明るくなっていた。私は無我夢中で未知の領域にあったはずの文字列を声に出して読んだ。
「赤いゼラニウムが一輪咲いた。花言葉は、『君ありて幸せ』」
 プワンという漫画みたいな効果音が流れたかと思うと、唐突に室内が昼間の明るさを取り戻した。力なくその場に腰を下ろした私の前には、件の本と、真っ黒な猫がちょこんと座っていた。普通の黒猫じゃないことは、一目でわかった。蛇のように長いしっぽが何本もあったからだ。怯えながら数えると、八本もあった。猫の妖怪かもしれないと思っていたら、黒猫はすっと目を細め、口を開いた。
「あたしは西洋の魔女だよ。見てわからないのかい。困った娘だね」
 聞き間違いではない。黒猫は、つい先ほど私の頭のなかに呼びかけてきた何者かの正体だったのだ。
 私はありったけの悲鳴を上げて後ずさる。黒猫はにやにやしながらモデル歩きで近づいてきた。寄りかかった出入口の扉は、なんの前触れもなく突然向こう側に開いた。お母さんが助けにきてくれたのだ。私は顔を見るなり飛びついて、必死に訴えた。
「本棚の本から猫が出てきて喋ったの! お前の魂を食べちゃうぞ、って!」
「本って、この本?」
 書斎に入ってきたおばが、床でひっくり返っていた黒表紙の本を拾い上げる。猫はいなくなっていたけれど、私はぎゃあぎゃあ騒ぎ立てた。
「それ、呪われてますから! すぐ本棚に戻してください!」
「はいはい、わかりました」
 おばはくすくす笑いながら棚に戻して言った。
「まだまだお子様なのね、望結ちゃんは」
 一刻も早く立ち去りたくて、私はなぜか嬉しそうに渋るお母さんの手を引いて、急いで自宅へ帰ったのだった。