21.「大切な人」

ー/ー





 曇り空が薄れてきて、会場には陽の光が差し込みはじめた。

 4コースの飛び込み台の奥で、黒いレース用水着に身を包んだ海風がアップをはじめたとき。
 一足先に台上へと上がっていた5コースの選手が、タッチ板を叩く水面の選手から存在しないバトンを受け継いで、その上を悠々と飛び込んでいった。

 先の選手のストロークによって、水面のうねりはとっくに支配されている。
 激しく波打つコースロープをわき目に、6コースの選手も同様に水面へと飛び込んでいく。

 そんな中――海風は二本の足で、堂々と台上に立った。

 メタリックに輝くゴーグルの奥の目はきっと、一直線に彼女へと向かっている坂野先輩を見据えている。

 大会のトリとなる、女子800m自由形リレー。
 その中でも、アンカーを務める1年生は彼女一人しかいないそうだ。
 もしかすると、これも“特待生”と呼ばれることによる枷のひとつだったのかもしれない。

 しかし、今の海風にそんなものは関係ない。
 軋轢にも、順位にも、肩書にも振り回されない力が、今の彼女にはある。

 そう思わせるだけの確かな感触の記憶が――今も俺の手と上半身を包んでいる。


 ◆


 陽はとうに落ちて、駅から離れた国道をひとり歩く。

 歩道を照らす街灯はどこか心許なく、ガードレールを隔てて大小さまざまな車が行き交うたび、その前照灯からこぼれた光が重なって、視界の中で断続的に明滅した。


「はぁ……」


 目的地が近づくにつれて、ため息の頻度が明らかに増えた。

 心の奥底にひた隠しにしていた、自分がやらかしたことに対する罪悪感が今になって、ふつふつと湧き上がってきた。
 足取りは重く、ソワソワとおぼつかない感覚が常について回る。

 結局、俺が約束をすっぽかしたことに対するバイト先からの連絡は、何ひとつとしてなかった。
 懇親会はもうとっくの前にお開きになって、店長は店舗に戻っているはずだ。
 すぐにでも引き返して、何事もなかったことにしたい衝動が、何度も襲った。


 ついに、店舗事務所までやって来た。
 ドアを目の前にして、足がすくむ。

 我慢ならず、バッグの中にある“お守り”に手を伸ばそうとした――そのとき。
 ポケットの中のスマホが一度だけ震えた。

「いよいよきたか」「もう着いてるのにな」などと思いながら、スマホを開く。

 違う。
 メッセージの主は、海風だった。


『嬉しかった 19:21』


 メッセージの下には、写真が添付されていた。
 そこに写っていたのは、海風や坂野先輩をはじめとするリレメンたちが、プールをバックに横に並んで、笑顔のまま両手で“2”の形を作る楽しげな様子だった。

 スマホをしまい、俺は一度だけ深呼吸をして、一歩を踏み出した。


 ◆


「“すみませんでした”って言われてもね……はぁ」


 頭を深く下げていることで、店長が今どんな顔をしているのか分からない。
 声は穏やかだが……俺のやらかしが、そう簡単には許されないものだったということは分かった。


「行けなくなっちゃったこと自体は、仕方ないと思うよ。お子さんが熱を出して、行けなくなった人だっているからさ」
「はい……」

「でもさ、メッセージだと見落とすから……言いにくいだろうけど、そこは電話で連絡が欲しかったなぁ。お店のキャンセル間に合ったかもしれないしね」
「……はい……」

「あとなにより、理由はちゃんと添えようよ。いきなり“行けなくなりました”“すみません”だけじゃ、誰も納得できないよ?」
「……」


 こういうとき、いつもは出てくるはずのしょうもない思いつきの言葉すら、喉から出なかった。

 理由ってなんだろう?
 みんなが楽しみにしていた懇親会に泥を塗って、それでも許してもらえる言葉なんて存在するのだろうか?

 とにかく何か言わなきゃと思って、「あの」とだけ短く漏らして、また口をつぐんでしまった。
 だめだ、今の俺には理解してもらえるような言葉を紡ぐ冷静さなんて、どこにも――


『ありがとう、いってくる』


 ――違う。

 海風に伝わったのは、口先の言葉なんかじゃない。

 俺がどれだけ滑り散らかしても、ダサいことをしても。
 海風はいつかの学校のプールで見せた……いや、あれ以上に力強い泳ぎを取り戻すことができた。

 そうだ、もっと受け止めてくれる人を信じよう、忍。


「た……大切な人を、助けたかったからです」


 しばしの沈黙が流れる。
 気になって頭を上げると、店長は顔を赤くして俺から目を逸らし、「た……たいせつ、かぁ……」とぼそぼそ呟いていた。

 なんだろうと思い、俺もいま言ったことを頭の中で反芻させてみる。

 ――うわ。
 こ、これは……いくらなんでもクサすぎる!


「ち、違うんです! と、友達がすごく困ってて、そそ、それで」
「いやいや、ばっちり聞いちゃったから……なになに、青春かよぉ」


 椅子に腰かけた店長は前のめりになり、たばこの匂いのする意地悪いにやけ顔をこちらに近づけてきた。


「わすれてください!」
「だめだめ、ちゃんと他の人にも話さなきゃ。それが誠心誠意の謝罪ってもんだぞ室井ク~ン」

「そ、そんなー!」


 あぁ、俺ってやつは……どうしようもなくダサダサで、何をしても締まらない人間だ。

 それに、なんで――

 俺は海風のことを、“友達”じゃなくて“大切な人”って言ったんだろう。




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 曇り空が薄れてきて、会場には陽の光が差し込みはじめた。
 4コースの飛び込み台の奥で、黒いレース用水着に身を包んだ海風がアップをはじめたとき。
 一足先に台上へと上がっていた5コースの選手が、タッチ板を叩く水面の選手から存在しないバトンを受け継いで、その上を悠々と飛び込んでいった。
 先の選手のストロークによって、水面のうねりはとっくに支配されている。
 激しく波打つコースロープをわき目に、6コースの選手も同様に水面へと飛び込んでいく。
 そんな中――海風は二本の足で、堂々と台上に立った。
 メタリックに輝くゴーグルの奥の目はきっと、一直線に彼女へと向かっている坂野先輩を見据えている。
 大会のトリとなる、女子800m自由形リレー。
 その中でも、アンカーを務める1年生は彼女一人しかいないそうだ。
 もしかすると、これも“特待生”と呼ばれることによる枷のひとつだったのかもしれない。
 しかし、今の海風にそんなものは関係ない。
 軋轢にも、順位にも、肩書にも振り回されない力が、今の彼女にはある。
 そう思わせるだけの確かな感触の記憶が――今も俺の手と上半身を包んでいる。
 ◆
 陽はとうに落ちて、駅から離れた国道をひとり歩く。
 歩道を照らす街灯はどこか心許なく、ガードレールを隔てて大小さまざまな車が行き交うたび、その前照灯からこぼれた光が重なって、視界の中で断続的に明滅した。
「はぁ……」
 目的地が近づくにつれて、ため息の頻度が明らかに増えた。
 心の奥底にひた隠しにしていた、自分がやらかしたことに対する罪悪感が今になって、ふつふつと湧き上がってきた。
 足取りは重く、ソワソワとおぼつかない感覚が常について回る。
 結局、俺が約束をすっぽかしたことに対するバイト先からの連絡は、何ひとつとしてなかった。
 懇親会はもうとっくの前にお開きになって、店長は店舗に戻っているはずだ。
 すぐにでも引き返して、何事もなかったことにしたい衝動が、何度も襲った。
 ついに、店舗事務所までやって来た。
 ドアを目の前にして、足がすくむ。
 我慢ならず、バッグの中にある“お守り”に手を伸ばそうとした――そのとき。
 ポケットの中のスマホが一度だけ震えた。
「いよいよきたか」「もう着いてるのにな」などと思いながら、スマホを開く。
 違う。
 メッセージの主は、海風だった。
『嬉しかった 19:21』
 メッセージの下には、写真が添付されていた。
 そこに写っていたのは、海風や坂野先輩をはじめとするリレメンたちが、プールをバックに横に並んで、笑顔のまま両手で“2”の形を作る楽しげな様子だった。
 スマホをしまい、俺は一度だけ深呼吸をして、一歩を踏み出した。
 ◆
「“すみませんでした”って言われてもね……はぁ」
 頭を深く下げていることで、店長が今どんな顔をしているのか分からない。
 声は穏やかだが……俺のやらかしが、そう簡単には許されないものだったということは分かった。
「行けなくなっちゃったこと自体は、仕方ないと思うよ。お子さんが熱を出して、行けなくなった人だっているからさ」
「はい……」
「でもさ、メッセージだと見落とすから……言いにくいだろうけど、そこは電話で連絡が欲しかったなぁ。お店のキャンセル間に合ったかもしれないしね」
「……はい……」
「あとなにより、理由はちゃんと添えようよ。いきなり“行けなくなりました”“すみません”だけじゃ、誰も納得できないよ?」
「……」
 こういうとき、いつもは出てくるはずのしょうもない思いつきの言葉すら、喉から出なかった。
 理由ってなんだろう?
 みんなが楽しみにしていた懇親会に泥を塗って、それでも許してもらえる言葉なんて存在するのだろうか?
 とにかく何か言わなきゃと思って、「あの」とだけ短く漏らして、また口をつぐんでしまった。
 だめだ、今の俺には理解してもらえるような言葉を紡ぐ冷静さなんて、どこにも――
『ありがとう、いってくる』
 ――違う。
 海風に伝わったのは、口先の言葉なんかじゃない。
 俺がどれだけ滑り散らかしても、ダサいことをしても。
 海風はいつかの学校のプールで見せた……いや、あれ以上に力強い泳ぎを取り戻すことができた。
 そうだ、もっと受け止めてくれる人を信じよう、忍。
「た……大切な人を、助けたかったからです」
 しばしの沈黙が流れる。
 気になって頭を上げると、店長は顔を赤くして俺から目を逸らし、「た……たいせつ、かぁ……」とぼそぼそ呟いていた。
 なんだろうと思い、俺もいま言ったことを頭の中で反芻させてみる。
 ――うわ。
 こ、これは……いくらなんでもクサすぎる!
「ち、違うんです! と、友達がすごく困ってて、そそ、それで」
「いやいや、ばっちり聞いちゃったから……なになに、青春かよぉ」
 椅子に腰かけた店長は前のめりになり、たばこの匂いのする意地悪いにやけ顔をこちらに近づけてきた。
「わすれてください!」
「だめだめ、ちゃんと他の人にも話さなきゃ。それが誠心誠意の謝罪ってもんだぞ室井ク~ン」
「そ、そんなー!」
 あぁ、俺ってやつは……どうしようもなくダサダサで、何をしても締まらない人間だ。
 それに、なんで――
 俺は海風のことを、“友達”じゃなくて“大切な人”って言ったんだろう。