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光を得るために

ー/ー



 高日町は、未曾有の災厄に呑まれていた。

 紫色の空からは、叩きつけるような大雨が降っている。河川はすでに氾濫し、低い土地には濁流が流れ込んでいた。地面は休みなく揺れ続け、家々の窓が軋む。雷による停電で町の明かりは消え、携帯もほとんど繋がらない。どこかでサイレンが鳴っていたが、それすら雨音と地鳴りにかき消されそうだった。人々は逃げ惑い、悲鳴があちこちで上がっている。

 そして、空が裂けた。

 細い黒い裂け目から、紅い光と黒い霧がじわじわと滲み出していた。まるで空そのものが腐り始めたようだった。

「どうなっている……」

 夏野神社の境内から、アルトは空を見上げた。激しい雨が顔と体を打つ。

「これは、あの時以上じゃな。このままでは、高日町だけでは済まん。被害は世界にまで及ぶぞ」

 隣でヤトが呟く。余裕のない顔だった。

「あんた、神様なんだろ。なんとかできないのか?」

「もうやっておる。じゃが、守れるのはここ、それと病院と、避難所になっている学校だけじゃ」

「いつまで持つ?」

「長くは持たん」

 ヤトは額に手を当て、苦々しくうなだれた。

 アルトは天陽山の方を振り向いた。雨の向こうに、黒々とした山影が見える。その頂に御神木がある。

「ボクが行く。虚裂虎杖丸を振るう。だから、御神木まで行けるようにしてくれ」

 ヤトが目を細めた。

「裂け目を縫うつもりか? そうすれば、お主は帰れなくなるぞ?」

「ユートをこちらに送ったあと、ボクが向こうで閉じる」

「そう都合よくいくものかの」

「わからない。でも、これは賭けだ」

 アルトはまっすぐに山を見た。

「向こうと繋がっている今しか、チャンスはない」

 ヤトはしばらく黙り込んだ。やがて、小さく息を吐く。

「そうか……ならば行け。頂の封印を解放する。お主について行きたいのはやまやまじゃが、わしは今、町を守るので精一杯じゃ。健闘を祈る」

 アルトは短くうなずいた。

「アルト!」

 背後から声が飛ぶ。振り向くと、レインコートを羽織った光太が息を切らしながら走ってきた。

「こんなところにいた。お前、勇斗の母ちゃんが心配してたぞ」

「お母――勇斗の母さんは今どこに? 無事なのか?」

 思わず声が沈む。勇斗の母に何かあれば、ユートはきっと深く傷つく。

「安心しろ。学校の体育館まで避難してるよ」

「そうか、よかった」

 アルトは小さく息を吐いた。胸のつかえが、ほんの少し下りる。これで、心置きなく行ける。

「そういやお前、さっきまで誰と話してたんだ?」

 どうやら光太には、ヤトの姿は見えていないらしい。

 説明している暇はない。アルトは雨を吸って重くなったダッフルコートを脱ぎ捨て、前へ出た。

「おい、どこに行くんだよ」

「時間が惜しい。ボクは今から、この天変地異を止めに行く。そしてユートを連れ帰る」

 光太は言葉を失った。だが、すぐに何かを決めたように口を引き結ぶと、首から下げていたお守りを外した。

「持っとけ」

 差し出されたお守りを、アルトは受け取る。雨に濡れた布の感触が、手の中に残った。

「絶対、死ぬなよ」

「努力する」

 アルトは、わずかに口元を緩めた。

「オッケー、それでいい」

 光太は満面の笑みで拳を突き出した。

 アルトも拳を出す。雨の中で、二人の拳がぶつかった。

 ◆

 ランパ、待っていろ。

 勇斗は、禍々しい螺旋階段を駆け上がっていた。臓器じみた柔らかい段差が、踏み込むたびに足を奪おうとしてくる。

 ねちゃり、ぼちゃり――背後で嫌な音がした。

 勇斗は足を止め、振り向く。

 さっきまで上ってきた段差が崩れていた。赤黒い肉のような組織が裂け、砕け、赤い光を帯びた霧の中へぼろぼろと崩れ落ちていく。階段は下から順に失われていた。

 止まれば、崩壊に飲まれる。

 勇斗は息を荒げる間もなく、再び階段を蹴った。

 やがて、壁のあちこちに奇妙なものが見え始めた。

 精霊石だった。

 無数の精霊石が、内壁に半ば埋め込まれている。どれもがひび割れ、今にも砕けそうだった。

 ――助けて。
 
 ――苦しい。
 
 ――解放して。

 声が、耳ではなく頭の内側へ直接流れ込んできた。

 勇斗は一瞬だけ目を伏せた。

 助けたい。だが、今は立ち止まれない。

 勇斗は迷いを断つように階段を蹴った。

 その時だった。

 ドン、ドン、と低く重い音が響いた。胸骨の裏側まで震わせるような衝撃。上るにつれ、鼓動は大きくなる。一歩ごとに、頂上に近づいているのがわかった。

 しかし、どれだけ上っても終わりは見えなかった。

 ◆

 アルトは獣道を駆けていた。

 泥にまみれた黄色いパーカーが体に張りつく。胸元で揺れる白いお守りだけが、雨の中でかすかに光を拾っていた。

『落ち着いて避難してください!』

 防災スピーカーの声が、どこか遠くで響いている。だが、サイレンも警告も、激しい雨音に呑まれてほとんど聞こえなかった。

 背後から、地鳴りのような崩落音が迫る。

 アルトは振り向かない。振り向く暇があれば、一歩でも前へ出る。

 その瞬間、稲光がすぐ脇へ落ちた。土が跳ね上がり、獣道の足場が砕ける。

 アルトは反射的に跳んだ。濡れた枝を掴む。ぶら下がった勢いのまま体を引き上げ、崖の上へ身を投げ出した。

 肩から地面に叩きつけられ、泥の上を転がる。

 背後で、さっきまで走っていた道が崩れた。土砂と木々がまとめて闇へ呑まれていく。

 急がないと、世界が終わる。

 荒い息が白く滲んだ。アルトは泥まみれの手でお守りを握りしめ、ぬかるんだ地面を蹴る。

 次の一歩を踏み出した、その刹那だった。

 斜面の上から岩塊が落ちてきた。

 跳ぼうとした足が、泥に取られた。

「っ……!」

 踏ん張りきれない。体が浮く。次の瞬間、アルトの体は横殴りに弾き飛ばされていた。

 鈍い衝撃が背を打ち、視界が反転した。空と泥と木々の黒が、ぐちゃぐちゃにかき混ざり、そのまま下へ、下へと落ちていく。

 やがて、重い音とともに体が止まった。

 アルトは暗い斜面の底に叩き落とされ、泥に顔を埋めたまま動かなかった。

 冷たい雨だけが、血に染まった背中を容赦なく打ち続けていた。

 ◆

 螺旋階段を抜けた瞬間、視界が一気に開けた。

 空は裂けていた。巨大な裂け目が渦を巻き、赤黒い霧を吐き出している。

 足元には、半透明の結晶の床が広がっていた。その下を、赤黒い光が川のように流れている。

 目の前には、胴体を真っ二つに裂かれた飛竜が横たわっていた。裂けた肉と骨だけが、むき出しになっていた。

 その先に、黒いものが転がっていた。

 見覚えのある漆黒の鎧と、折れた大斧。

 真弘だった。

 首は、なかった。

「よくここまで来ましたね、ユートくん。歓迎しますよ。新しい世界の始まりに立ち会える者は、そう多くない」

 歪んだ声が響く。

 聞き覚えのあるトゥーレの声だった。いや、違う。ヴェンの声だ。音の奥が狂っている。人の喉で鳴るはずのない響きが混じっていた。

 勇斗は顔を上げた。

 声の主は、黒緑色の人型の異形だった。身長は二メートルほどある。顔立ちだけは人間に近い。だが、目は蛇そのもので、口は耳元まで裂けている。頭髪は根のように垂れ下がり、わずかに蠢いていた。胴体には樹木の幹のような繊維が幾重にも重なっている。

 長い腕の先では、湾曲した紅い爪が、真弘の生首を掴んでいた。

 ヴェンは生首を、まるで不要なものでも捨てるように放り投げる。首は結晶の床を転がり、勇斗の足元で止まった。

 真弘の表情は、恐怖に満ちたまま固まっていた。

「その子は最後まで叫んでましたよ。助けて、にいちゃん――と」

「ヴェン、貴様……」

 勇斗の目が、鋭くヴェンを射抜いた。

 ふと、勇斗の視線がヴェンの背後で止まる。

 巨大な結晶柱があった。その内部に、ランパがいた。

「彼の力は素晴らしいですよ。清らかで、それでいて危うい。壊すには実に惜しい。だからこそ、利用する価値がある」

 ヴェンの裂けた口が、奇妙に吊り上がった。

 勇斗は静かに息を吐き、マントの内側に手を入れた。

 ランパ。今、助ける。

 勇斗は、ドラシガーの吸い口を一気に噛み切った。左のガントレットから青白い炎が立ち上る。先端に火を移し、深く煙を吸い込む。口内から全身へ流れ込んだマナが、ラマシルを活性化させる。

 緑煙をまとい、勇斗は聖剣クトネシスを抜いた。

 ◆

 アルトはまぶたを開いた。

 最初に感じたのは冷たさだった。泥と雨に濡れた地面の冷たさが、頬と手のひらに染み込んでいる。両手をついて上体を起こし、よろめきながら立ち上がった瞬間、全身に鋭い痛みが走った。

 服は破れ、腕にも脚にも痣や切り傷が残っていた。血も滲んでいた。だが、骨が折れた感触はない。まだ動ける。

 視線の先に、紐のちぎれたお守りが落ちていた。真っ二つに裂けている。

 アルトはお守りを見つめた。あれが、自分の代わりに砕けたのかもしれない。

 天を仰ぐ。雨は止んでいた。代わりに、赤黒い瘴気が低く漂っている。空はまだ不気味に歪み、遠くでは地鳴りのような音が続いていた。

 急がなくては。

 アルトは岩に手をかけ、崖を登り始めた。

 手をかけるたび、濡れた石が滑る。何度も足を取られ、何度も落ちかけた。指先の感覚はとっくに薄れている。爪の間に泥が入り込み、腕は重かった。

 それでも止まれない。ここで止まれば、この世界は終わる。

 最初は、自分には関係のない世界だと思っていた。だが、もう違う。見捨てる理由がない。守るべき人間が、たくさんできてしまった。

 息を切らしながら、アルトは最後の岩場を越えた。

 やがて、天陽山の頂へ辿り着いた。

 異様な静けさに包まれていた。下界では世界が崩れかけているというのに、頂には張りつめた清気が残っている。

 目の前に、大きな樹が立っていた。御神木だ。太い縄が幹に巻かれ、根は地に深く食い込んでいる。揺るがぬその姿には、立っているだけで圧があった。

 樹の根元に、一本の刀が刺さっていた。細身の刀身は半ばまで地に沈み、柄には長い歳月を経た気配が宿っている。それでも、朽ちた気配はなかった。

「これが、虚裂虎杖丸か」

 アルトは柄に手を伸ばした。

 触れた瞬間、声が脳の奥へ流れ込んできた。

 ――我が魂を継ぐ者よ。刀を抜くがよい。そうすれば道は開かれよう。

 アルトは迷わず、虚裂虎杖丸を引き抜いた。

 瞬間、刃先から光が天へ向かって走る。それはまっすぐ、次元の裂け目へ伸びていった。
 
 やがて、裂け目へ続く光の道が現れた。


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 高日町は、未曾有の災厄に呑まれていた。
 紫色の空からは、叩きつけるような大雨が降っている。河川はすでに氾濫し、低い土地には濁流が流れ込んでいた。地面は休みなく揺れ続け、家々の窓が軋む。雷による停電で町の明かりは消え、携帯もほとんど繋がらない。どこかでサイレンが鳴っていたが、それすら雨音と地鳴りにかき消されそうだった。人々は逃げ惑い、悲鳴があちこちで上がっている。
 そして、空が裂けた。
 細い黒い裂け目から、紅い光と黒い霧がじわじわと滲み出していた。まるで空そのものが腐り始めたようだった。
「どうなっている……」
 夏野神社の境内から、アルトは空を見上げた。激しい雨が顔と体を打つ。
「これは、あの時以上じゃな。このままでは、高日町だけでは済まん。被害は世界にまで及ぶぞ」
 隣でヤトが呟く。余裕のない顔だった。
「あんた、神様なんだろ。なんとかできないのか?」
「もうやっておる。じゃが、守れるのはここ、それと病院と、避難所になっている学校だけじゃ」
「いつまで持つ?」
「長くは持たん」
 ヤトは額に手を当て、苦々しくうなだれた。
 アルトは天陽山の方を振り向いた。雨の向こうに、黒々とした山影が見える。その頂に御神木がある。
「ボクが行く。虚裂虎杖丸を振るう。だから、御神木まで行けるようにしてくれ」
 ヤトが目を細めた。
「裂け目を縫うつもりか? そうすれば、お主は帰れなくなるぞ?」
「ユートをこちらに送ったあと、ボクが向こうで閉じる」
「そう都合よくいくものかの」
「わからない。でも、これは賭けだ」
 アルトはまっすぐに山を見た。
「向こうと繋がっている今しか、チャンスはない」
 ヤトはしばらく黙り込んだ。やがて、小さく息を吐く。
「そうか……ならば行け。頂の封印を解放する。お主について行きたいのはやまやまじゃが、わしは今、町を守るので精一杯じゃ。健闘を祈る」
 アルトは短くうなずいた。
「アルト!」
 背後から声が飛ぶ。振り向くと、レインコートを羽織った光太が息を切らしながら走ってきた。
「こんなところにいた。お前、勇斗の母ちゃんが心配してたぞ」
「お母――勇斗の母さんは今どこに? 無事なのか?」
 思わず声が沈む。勇斗の母に何かあれば、ユートはきっと深く傷つく。
「安心しろ。学校の体育館まで避難してるよ」
「そうか、よかった」
 アルトは小さく息を吐いた。胸のつかえが、ほんの少し下りる。これで、心置きなく行ける。
「そういやお前、さっきまで誰と話してたんだ?」
 どうやら光太には、ヤトの姿は見えていないらしい。
 説明している暇はない。アルトは雨を吸って重くなったダッフルコートを脱ぎ捨て、前へ出た。
「おい、どこに行くんだよ」
「時間が惜しい。ボクは今から、この天変地異を止めに行く。そしてユートを連れ帰る」
 光太は言葉を失った。だが、すぐに何かを決めたように口を引き結ぶと、首から下げていたお守りを外した。
「持っとけ」
 差し出されたお守りを、アルトは受け取る。雨に濡れた布の感触が、手の中に残った。
「絶対、死ぬなよ」
「努力する」
 アルトは、わずかに口元を緩めた。
「オッケー、それでいい」
 光太は満面の笑みで拳を突き出した。
 アルトも拳を出す。雨の中で、二人の拳がぶつかった。
 ◆
 ランパ、待っていろ。
 勇斗は、禍々しい螺旋階段を駆け上がっていた。臓器じみた柔らかい段差が、踏み込むたびに足を奪おうとしてくる。
 ねちゃり、ぼちゃり――背後で嫌な音がした。
 勇斗は足を止め、振り向く。
 さっきまで上ってきた段差が崩れていた。赤黒い肉のような組織が裂け、砕け、赤い光を帯びた霧の中へぼろぼろと崩れ落ちていく。階段は下から順に失われていた。
 止まれば、崩壊に飲まれる。
 勇斗は息を荒げる間もなく、再び階段を蹴った。
 やがて、壁のあちこちに奇妙なものが見え始めた。
 精霊石だった。
 無数の精霊石が、内壁に半ば埋め込まれている。どれもがひび割れ、今にも砕けそうだった。
 ――助けて。
 ――苦しい。
 ――解放して。
 声が、耳ではなく頭の内側へ直接流れ込んできた。
 勇斗は一瞬だけ目を伏せた。
 助けたい。だが、今は立ち止まれない。
 勇斗は迷いを断つように階段を蹴った。
 その時だった。
 ドン、ドン、と低く重い音が響いた。胸骨の裏側まで震わせるような衝撃。上るにつれ、鼓動は大きくなる。一歩ごとに、頂上に近づいているのがわかった。
 しかし、どれだけ上っても終わりは見えなかった。
 ◆
 アルトは獣道を駆けていた。
 泥にまみれた黄色いパーカーが体に張りつく。胸元で揺れる白いお守りだけが、雨の中でかすかに光を拾っていた。
『落ち着いて避難してください!』
 防災スピーカーの声が、どこか遠くで響いている。だが、サイレンも警告も、激しい雨音に呑まれてほとんど聞こえなかった。
 背後から、地鳴りのような崩落音が迫る。
 アルトは振り向かない。振り向く暇があれば、一歩でも前へ出る。
 その瞬間、稲光がすぐ脇へ落ちた。土が跳ね上がり、獣道の足場が砕ける。
 アルトは反射的に跳んだ。濡れた枝を掴む。ぶら下がった勢いのまま体を引き上げ、崖の上へ身を投げ出した。
 肩から地面に叩きつけられ、泥の上を転がる。
 背後で、さっきまで走っていた道が崩れた。土砂と木々がまとめて闇へ呑まれていく。
 急がないと、世界が終わる。
 荒い息が白く滲んだ。アルトは泥まみれの手でお守りを握りしめ、ぬかるんだ地面を蹴る。
 次の一歩を踏み出した、その刹那だった。
 斜面の上から岩塊が落ちてきた。
 跳ぼうとした足が、泥に取られた。
「っ……!」
 踏ん張りきれない。体が浮く。次の瞬間、アルトの体は横殴りに弾き飛ばされていた。
 鈍い衝撃が背を打ち、視界が反転した。空と泥と木々の黒が、ぐちゃぐちゃにかき混ざり、そのまま下へ、下へと落ちていく。
 やがて、重い音とともに体が止まった。
 アルトは暗い斜面の底に叩き落とされ、泥に顔を埋めたまま動かなかった。
 冷たい雨だけが、血に染まった背中を容赦なく打ち続けていた。
 ◆
 螺旋階段を抜けた瞬間、視界が一気に開けた。
 空は裂けていた。巨大な裂け目が渦を巻き、赤黒い霧を吐き出している。
 足元には、半透明の結晶の床が広がっていた。その下を、赤黒い光が川のように流れている。
 目の前には、胴体を真っ二つに裂かれた飛竜が横たわっていた。裂けた肉と骨だけが、むき出しになっていた。
 その先に、黒いものが転がっていた。
 見覚えのある漆黒の鎧と、折れた大斧。
 真弘だった。
 首は、なかった。
「よくここまで来ましたね、ユートくん。歓迎しますよ。新しい世界の始まりに立ち会える者は、そう多くない」
 歪んだ声が響く。
 聞き覚えのあるトゥーレの声だった。いや、違う。ヴェンの声だ。音の奥が狂っている。人の喉で鳴るはずのない響きが混じっていた。
 勇斗は顔を上げた。
 声の主は、黒緑色の人型の異形だった。身長は二メートルほどある。顔立ちだけは人間に近い。だが、目は蛇そのもので、口は耳元まで裂けている。頭髪は根のように垂れ下がり、わずかに蠢いていた。胴体には樹木の幹のような繊維が幾重にも重なっている。
 長い腕の先では、湾曲した紅い爪が、真弘の生首を掴んでいた。
 ヴェンは生首を、まるで不要なものでも捨てるように放り投げる。首は結晶の床を転がり、勇斗の足元で止まった。
 真弘の表情は、恐怖に満ちたまま固まっていた。
「その子は最後まで叫んでましたよ。助けて、にいちゃん――と」
「ヴェン、貴様……」
 勇斗の目が、鋭くヴェンを射抜いた。
 ふと、勇斗の視線がヴェンの背後で止まる。
 巨大な結晶柱があった。その内部に、ランパがいた。
「彼の力は素晴らしいですよ。清らかで、それでいて危うい。壊すには実に惜しい。だからこそ、利用する価値がある」
 ヴェンの裂けた口が、奇妙に吊り上がった。
 勇斗は静かに息を吐き、マントの内側に手を入れた。
 ランパ。今、助ける。
 勇斗は、ドラシガーの吸い口を一気に噛み切った。左のガントレットから青白い炎が立ち上る。先端に火を移し、深く煙を吸い込む。口内から全身へ流れ込んだマナが、ラマシルを活性化させる。
 緑煙をまとい、勇斗は聖剣クトネシスを抜いた。
 ◆
 アルトはまぶたを開いた。
 最初に感じたのは冷たさだった。泥と雨に濡れた地面の冷たさが、頬と手のひらに染み込んでいる。両手をついて上体を起こし、よろめきながら立ち上がった瞬間、全身に鋭い痛みが走った。
 服は破れ、腕にも脚にも痣や切り傷が残っていた。血も滲んでいた。だが、骨が折れた感触はない。まだ動ける。
 視線の先に、紐のちぎれたお守りが落ちていた。真っ二つに裂けている。
 アルトはお守りを見つめた。あれが、自分の代わりに砕けたのかもしれない。
 天を仰ぐ。雨は止んでいた。代わりに、赤黒い瘴気が低く漂っている。空はまだ不気味に歪み、遠くでは地鳴りのような音が続いていた。
 急がなくては。
 アルトは岩に手をかけ、崖を登り始めた。
 手をかけるたび、濡れた石が滑る。何度も足を取られ、何度も落ちかけた。指先の感覚はとっくに薄れている。爪の間に泥が入り込み、腕は重かった。
 それでも止まれない。ここで止まれば、この世界は終わる。
 最初は、自分には関係のない世界だと思っていた。だが、もう違う。見捨てる理由がない。守るべき人間が、たくさんできてしまった。
 息を切らしながら、アルトは最後の岩場を越えた。
 やがて、天陽山の頂へ辿り着いた。
 異様な静けさに包まれていた。下界では世界が崩れかけているというのに、頂には張りつめた清気が残っている。
 目の前に、大きな樹が立っていた。御神木だ。太い縄が幹に巻かれ、根は地に深く食い込んでいる。揺るがぬその姿には、立っているだけで圧があった。
 樹の根元に、一本の刀が刺さっていた。細身の刀身は半ばまで地に沈み、柄には長い歳月を経た気配が宿っている。それでも、朽ちた気配はなかった。
「これが、虚裂虎杖丸か」
 アルトは柄に手を伸ばした。
 触れた瞬間、声が脳の奥へ流れ込んできた。
 ――我が魂を継ぐ者よ。刀を抜くがよい。そうすれば道は開かれよう。
 アルトは迷わず、虚裂虎杖丸を引き抜いた。
 瞬間、刃先から光が天へ向かって走る。それはまっすぐ、次元の裂け目へ伸びていった。
 やがて、裂け目へ続く光の道が現れた。