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幸せな夢⑵

ー/ー



 勇斗は教室に入った。

 窓際には白い朝の光が差し込んでいる。あちこちで話し声が重なっていた。椅子を引く音、筆箱の落ちる音、誰かが笑う声。全部が、聞き慣れた学校の音だった。

「日向、おはよう」

「おはよう」

 何の変哲もない、朝の教室の光景だった。なのに、なぜか胸が詰まった。

「勇斗。英語の宿題、やってきた?」
 
「あ……忘れた」
 
「終わったな」
 
「光太は?」
 
「やってるわけないだろ」

 光太はけらけら笑いながら、自分の机へ向かった。

 勇斗は自分の席の前に立ち、鞄を机の横にかけた。ノートを出し、筆箱を置き、椅子を引いて腰を下ろす。どの動作も、妙に自然だった。左手で机を押さえ、右手で教科書を引き出す。体は軽い。痛みはない。何も失っていない。どこにも引っかからない。それだけのことが、ひどく嬉しかった。

 前の席の男子が振り向き、無言でプリントを回してくる。斜め後ろでは女子の笑い声が弾けた。黒板には日付と日直の名前が書かれている。担任はまだ来ていなかった。

 なんとなく窓の外を眺める。広々としたグラウンドの端に、サッカーゴールの白い枠が見えた。朝の光を受けて白く浮いている。

 いつも通りだ。鼻の奥がつんとした。

 チャイムが鳴った。少し遅れて、担任が教室に入ってくる。いつものように気の抜けた声で出欠を取り、連絡事項を読み上げる。やがて、ホームルームが始まった。

 三時間目。国語の授業だった。

 教室には教師の単調な声が流れていた。黒板にチョークが走る音。教科書のページをめくる音。誰かの咳払い。勇斗はノートを取りながら、何度もあくびを噛み殺した。漢字を書き写し、教師が重要だと言ったところに線を引く。内容はあまり頭に入ってこない。でも、それで困ることもなかった。

 教師がふいに、勇斗を指した。

「日向。次、読んでみろ」

 勇斗は少し遅れて立ち上がる。教科書の行を目で追い、そのまま音読した。噛むこともなく最後まで読む。教師は「はい」とだけ言い、すぐに次へ進んだ。クラスの誰も注目していない。誰も気にしない。ただ、それで終わった。それが、妙に心地よかった。

 また、窓の外へ目が向く。薄い雲がゆっくり流れている。フェンスの向こうに並ぶ住宅街。遠くの山の輪郭。変わらない景色だった。

 勇斗は、ぼんやりと思った。今日が終われば、また明日が来る。来週も、来月も、たぶん同じように続いていく。それが続いていくのだと思うと、胸の奥が温かくなった。

 何かを守らなくていい。何かに追われなくていい。誰かの命を背負わなくていい。ただ、授業が終わるのを待っていればいい。それだけでよかった。

 チャイムが鳴り、教室の空気が一斉にゆるんだ。
 
 光太が駆け寄ってきて、小声で言う。

「次、教室移動だっけ」
 
「たぶん」
 
「だるー」
 
「面倒くさいね」
 
 勇斗は少し笑った。

 その直後、胸の奥に小さく引っかかるものがあった。面倒くさいと思えるのが、どうしてかすごく久しぶりな気がした。理由はわからなかった。
 

 放課後、勇斗は鞄を持って教室を出た。いつものように、そのまま帰るつもりだった。
 
 廊下には、部活へ向かう生徒たちの足音が響いている。階段を駆け下りる音、誰かを呼ぶ声、体育館のほうから漏れる笛の音。どこか遠くで、吹奏楽部のトランペットがかすかに鳴っていた。

 昇降口で靴を履き替えると、隣で光太が大きく伸びをした。彼も帰宅部だ。

「今日どうする?」
 
「別に」
 
「じゃ、コンビニ寄る?」
 
「……いや、今日はいいや」
 
「そ。じゃあまた明日」

 光太は手をひらひらさせて、さっさと先に行ってしまった。
 
 勇斗は一人で校門を出た。

 夕方の道は静かだった。住宅街の屋根が西日に照らされ、電線が長く影を落としている。どこかの家から、夕飯の匂いが漂ってきた。自転車が一台、風を切って横を通り過ぎる。遠くでカラスの鳴き声がした。

 家に帰るつもりで、いつもの道を歩いていた。少なくとも、そのはずだった。

 ふと気づくと、足は別の方角へ向いていた。足元のアスファルトは、いつの間にか苔むした石畳に変わっていた。ゆるやかな坂道を上っていく。その先に、鳥居が見えた。

 夏野神社だった。

 ついさっき光太と別れたばかりなのに、なぜここに来てしまったのだろう。

 勇斗は唇を固く結んだ。

 できるなら逃げ出したかった。それなのに、足は止まらなかった。止めようとしても、勝手に前へ出る。

 石段を上り、境内を抜ける。
 
 気づけば、蔵の前に立っていた。

 風が吹く。木々がざわつく。葉擦れの音が、やけに耳についた。

 ここで、何かあった気がする。何か、とても大きなことが。でも、それが何なのかだけが、どうしても思い出せない。記憶の奥だけが、無理やり掻き回されているようだった。

 勇斗は踵を返した。

 嫌だ。ここは駄目だ。来てはいけない。

 体の奥が、強く拒んでいた。ここにいたら、大変なことが起こる。もう二度と、あの場所には戻りたくない――そう思った瞬間、自分が何を恐れているのかもわからないことに気づき、余計にぞっとした。

 ふと、足元を見る。

 木の枝が落ちていた。

 枝をじっと見つめていると、鼓動が速くなった。何かを忘れている気がする。大事な何かを。どうしても、思い出さなければいけない何かを。

 これは、一体何なんだ。

 紅い光が脳裏をよぎる。

 勇斗は目を閉じ、首を左右に振った。だめだ。考えるな。ここから離れろ。平穏な日常が壊れてしまう。

 次の瞬間、勇斗は走り出していた。

 石段を駆け下り、坂道を下る。途中、誰かとすれ違った。視界の端に、見慣れた顔がかすめる。光太だった気がした。でも、確かめる余裕はなかった。声もかけず、そのまま駆け抜ける。

 気づけば自宅の前に着いていた。

「あれ?」

 さっきまで握っていたはずの木の枝が、消えていた。
 

 帰宅後、夕食を済ませ、宿題を終えた勇斗は、自室のベッドに寝転びながらスマートフォンをいじっていた。

 ショート動画が次々と流れていく。笑い声、料理、動物、よくわからないダンス。指先で画面をはじくたび、別の映像に切り替わる。ぼんやり眺めているうちに、少しずつ眠気が差してきた。

 その時、画面の上にメッセージの通知が現れた。

 父からだった。

 勇斗は動画を止め、メッセージアプリを開く。

『勇斗、元気にしているか。悪いが、次に戻る日程はまだ未定だ。母さんの言うことをちゃんと聞くんだぞ。あと、体調には気をつけるように』

 いつもの父らしい文章だった。短く、事務的で、それでも気遣いだけは入っている。だが、妙に遠く感じた。

 返信しようとして、指が止まる。何を打てばいいのかわからなかった。

「勇斗ー」

 階下から母の声が聞こえた。勇斗は体を起こし、階段の上から「何?」と返した。

「ガムテープない? こっちの、もうなくなっちゃって」

 自分の部屋にはない、と答える。

「もしかしたら、父さんの部屋にあるかも。見てきてくれない?」

「うん、わかった」

 勇斗は廊下の奥にある父の部屋へ向かった。

 扉を開け、電気をつける。

 淡い明かりの下に、父の集めた海外のコレクションが並んでいた。色とりどりの切手、くすんだコイン、飛行機や船の模型、古びたパイプ。旅先で少しずつ集めたのだろう品々が、整然と飾られている。

 机の引き出しを開けると、目当てのガムテープはすぐに見つかった。

 ふと、机の上に置かれたヒュミドールが視界に入った。胸が、わずかに詰まった。

 勇斗はおそるおそるヒュミドールを開けた。

 本来なら、中には葉巻が何本も詰まっているはずだった。だが、中は不自然なほど空いていた。残っていたのは、たった一本だけ。

 勇斗はその葉巻を手に取った。葉の巻かれた感触が、指先に伝わる。鼻を近づけると、甘い香りがした。

 無性に吸いたくなった。

 ――いや、駄目だ。

 遅れて、思考が追いついた。勇斗は葉巻を戻そうとして、ふと手を止めた。

 ヒュミドールの底に、別のものがあった。

 木の枝だった。

 葉っぱが数枚ついた、小さな枝。見覚えがある。朝も見た。神社でも見た。

 どうしてだ。さっきまで、こんなものはなかったはずなのに。

 ――わかるか? オイラとユートはイッシンドータイなんだ。どんなに離れていても、心は一緒さ。

 声がした。耳ではない。脳の奥へ直接流れ込んできた。

 勇斗は葉巻を机の上へ置き、夢中で木の枝を掴んだ。

 瞬間、ガラスが砕け散るような感覚が全身を襲った。

 膝が折れる。床に片手をつき、勇斗は頭を押さえた。視界が明滅する。森、塔、砂漠、雪、血、煙。いくつもの光景が、砕けた破片のように頭の中へ突き刺さってきた。

 ランパ。その名を口にした瞬間、心の奥底から熱いものがこみ上げてきた。

 そうだ。僕は、ランパを助けに行かなきゃいけない。こんなところにいてはいけない。

「勇斗、遅いけど、どうしたの?」

 母の声がした。

 勇斗は息を乱しながら立ち上がり、振り向いた。

 母が不安そうな顔で立っている。

「どうしたの、勇斗?」

「お母さん、ごめん。僕、行かなきゃいけない」

 自分でも驚くほど、声ははっきりしていた。

 母の目が揺れる。

「行くって、どこに。もう遅いんだから、やめておきなさい。明日も学校があるでしょ」

 勇斗は首を横に振った。

「大切な人が、待ってるんだ。だから、ごめん」

 木の枝を強く握りしめる。

 その瞬間、部屋の輪郭が音を立てて歪み始めた。壁に亀裂が走る。コレクションが砂のように崩れていく。天井の照明がちらつき、空間そのものが割れていく。

「勇斗、駄目!」

 母が叫んだ。

「ここにいればいいのよ、勇斗。危ない目に遭わなくていいの。何も苦しまなくていいの。だから行っちゃ駄目!」

 険しい表情で、必死で叫んでいる。

「お母さん、ごめん」

 でも、もう大丈夫だから。

 勇斗の頬を涙が伝った。
 

 次の瞬間、意識が弾けた。

 燃え尽きたドラシガーが、ガラスの間の床に転がっていた。細い灰が、鏡張りの床に散っていた。甘ったるい幻の匂いは、消えていた。

 勇斗は鞘から聖剣を抜き、玉座に向かって歩いた。

「嘘……」

 ソーマの眉間に深い皺が寄る。余裕を装った笑みは消え、表情がみるみる険しくなっていった。

「まさか……今、自分で戻ったの……?」

「僕の力じゃない。ランパのおかげだ」

 刃が、ソーマの首筋に触れる。白い皮膚がわずかに裂け、黒い血が細く流れ落ちた。

「そんなはず、ありませんわ……あの空間は誰の干渉も受けないはず……誰にも壊せないはずですのに……」

「僕とランパの絆を、甘く見るな」

 ソーマは眉をつり上げた。しかし、次の瞬間にはまた薄笑いを浮かべていた。

「待ってくださいませ。まだ終わってなどいませんわ。そう、あなたは疲れているだけ。幻と現実の区別がついていないだけですの。だから、もう一度だけ目を閉じて。ね?」

 媚びるような声音だった。だが、その目の奥には焦りが滲んでいた。

「あれは、あなたがいちばん望んでいた世界でしょう? 傷つかなくて、失うものもなくて、誰も死ななくて、誰にも裏切られなくて――」

「ああ」

 勇斗はその声を断ち切った。

「確かに、僕が望んだ世界だった。だけど、あれじゃ前に進めない」

 ソーマの顔から、作り物めいた微笑が剥がれ落ちた。むき出しになったのは、怒りと焦りと、醜い執着だった。

「なぜ、そこまでして現実を選びますの? なぜ? どうして? 苦しいだけでしょう! 痛いだけでしょう! それなのに、どうしてわたくしの手を振りほどきますの!?」

「もういい」

 勇斗の目は冷えていた。

「もう、お前の声は届かない」

 次の瞬間、剣閃が走った。

 ソーマの首が、胴から離れて床へ転がる。鏡の上を短く滑り、やがて止まった。その顔には、最期まで怯えと執着がこびりついていた。

 切り離された首と胴体は、音もなく消えた。


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 勇斗は教室に入った。
 窓際には白い朝の光が差し込んでいる。あちこちで話し声が重なっていた。椅子を引く音、筆箱の落ちる音、誰かが笑う声。全部が、聞き慣れた学校の音だった。
「日向、おはよう」
「おはよう」
 何の変哲もない、朝の教室の光景だった。なのに、なぜか胸が詰まった。
「勇斗。英語の宿題、やってきた?」
「あ……忘れた」
「終わったな」
「光太は?」
「やってるわけないだろ」
 光太はけらけら笑いながら、自分の机へ向かった。
 勇斗は自分の席の前に立ち、鞄を机の横にかけた。ノートを出し、筆箱を置き、椅子を引いて腰を下ろす。どの動作も、妙に自然だった。左手で机を押さえ、右手で教科書を引き出す。体は軽い。痛みはない。何も失っていない。どこにも引っかからない。それだけのことが、ひどく嬉しかった。
 前の席の男子が振り向き、無言でプリントを回してくる。斜め後ろでは女子の笑い声が弾けた。黒板には日付と日直の名前が書かれている。担任はまだ来ていなかった。
 なんとなく窓の外を眺める。広々としたグラウンドの端に、サッカーゴールの白い枠が見えた。朝の光を受けて白く浮いている。
 いつも通りだ。鼻の奥がつんとした。
 チャイムが鳴った。少し遅れて、担任が教室に入ってくる。いつものように気の抜けた声で出欠を取り、連絡事項を読み上げる。やがて、ホームルームが始まった。
 三時間目。国語の授業だった。
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 また、窓の外へ目が向く。薄い雲がゆっくり流れている。フェンスの向こうに並ぶ住宅街。遠くの山の輪郭。変わらない景色だった。
 勇斗は、ぼんやりと思った。今日が終われば、また明日が来る。来週も、来月も、たぶん同じように続いていく。それが続いていくのだと思うと、胸の奥が温かくなった。
 何かを守らなくていい。何かに追われなくていい。誰かの命を背負わなくていい。ただ、授業が終わるのを待っていればいい。それだけでよかった。
 チャイムが鳴り、教室の空気が一斉にゆるんだ。
 光太が駆け寄ってきて、小声で言う。
「次、教室移動だっけ」
「たぶん」
「だるー」
「面倒くさいね」
 勇斗は少し笑った。
 その直後、胸の奥に小さく引っかかるものがあった。面倒くさいと思えるのが、どうしてかすごく久しぶりな気がした。理由はわからなかった。
 放課後、勇斗は鞄を持って教室を出た。いつものように、そのまま帰るつもりだった。
 廊下には、部活へ向かう生徒たちの足音が響いている。階段を駆け下りる音、誰かを呼ぶ声、体育館のほうから漏れる笛の音。どこか遠くで、吹奏楽部のトランペットがかすかに鳴っていた。
 昇降口で靴を履き替えると、隣で光太が大きく伸びをした。彼も帰宅部だ。
「今日どうする?」
「別に」
「じゃ、コンビニ寄る?」
「……いや、今日はいいや」
「そ。じゃあまた明日」
 光太は手をひらひらさせて、さっさと先に行ってしまった。
 勇斗は一人で校門を出た。
 夕方の道は静かだった。住宅街の屋根が西日に照らされ、電線が長く影を落としている。どこかの家から、夕飯の匂いが漂ってきた。自転車が一台、風を切って横を通り過ぎる。遠くでカラスの鳴き声がした。
 家に帰るつもりで、いつもの道を歩いていた。少なくとも、そのはずだった。
 ふと気づくと、足は別の方角へ向いていた。足元のアスファルトは、いつの間にか苔むした石畳に変わっていた。ゆるやかな坂道を上っていく。その先に、鳥居が見えた。
 夏野神社だった。
 ついさっき光太と別れたばかりなのに、なぜここに来てしまったのだろう。
 勇斗は唇を固く結んだ。
 できるなら逃げ出したかった。それなのに、足は止まらなかった。止めようとしても、勝手に前へ出る。
 石段を上り、境内を抜ける。
 気づけば、蔵の前に立っていた。
 風が吹く。木々がざわつく。葉擦れの音が、やけに耳についた。
 ここで、何かあった気がする。何か、とても大きなことが。でも、それが何なのかだけが、どうしても思い出せない。記憶の奥だけが、無理やり掻き回されているようだった。
 勇斗は踵を返した。
 嫌だ。ここは駄目だ。来てはいけない。
 体の奥が、強く拒んでいた。ここにいたら、大変なことが起こる。もう二度と、あの場所には戻りたくない――そう思った瞬間、自分が何を恐れているのかもわからないことに気づき、余計にぞっとした。
 ふと、足元を見る。
 木の枝が落ちていた。
 枝をじっと見つめていると、鼓動が速くなった。何かを忘れている気がする。大事な何かを。どうしても、思い出さなければいけない何かを。
 これは、一体何なんだ。
 紅い光が脳裏をよぎる。
 勇斗は目を閉じ、首を左右に振った。だめだ。考えるな。ここから離れろ。平穏な日常が壊れてしまう。
 次の瞬間、勇斗は走り出していた。
 石段を駆け下り、坂道を下る。途中、誰かとすれ違った。視界の端に、見慣れた顔がかすめる。光太だった気がした。でも、確かめる余裕はなかった。声もかけず、そのまま駆け抜ける。
 気づけば自宅の前に着いていた。
「あれ?」
 さっきまで握っていたはずの木の枝が、消えていた。
 帰宅後、夕食を済ませ、宿題を終えた勇斗は、自室のベッドに寝転びながらスマートフォンをいじっていた。
 ショート動画が次々と流れていく。笑い声、料理、動物、よくわからないダンス。指先で画面をはじくたび、別の映像に切り替わる。ぼんやり眺めているうちに、少しずつ眠気が差してきた。
 その時、画面の上にメッセージの通知が現れた。
 父からだった。
 勇斗は動画を止め、メッセージアプリを開く。
『勇斗、元気にしているか。悪いが、次に戻る日程はまだ未定だ。母さんの言うことをちゃんと聞くんだぞ。あと、体調には気をつけるように』
 いつもの父らしい文章だった。短く、事務的で、それでも気遣いだけは入っている。だが、妙に遠く感じた。
 返信しようとして、指が止まる。何を打てばいいのかわからなかった。
「勇斗ー」
 階下から母の声が聞こえた。勇斗は体を起こし、階段の上から「何?」と返した。
「ガムテープない? こっちの、もうなくなっちゃって」
 自分の部屋にはない、と答える。
「もしかしたら、父さんの部屋にあるかも。見てきてくれない?」
「うん、わかった」
 勇斗は廊下の奥にある父の部屋へ向かった。
 扉を開け、電気をつける。
 淡い明かりの下に、父の集めた海外のコレクションが並んでいた。色とりどりの切手、くすんだコイン、飛行機や船の模型、古びたパイプ。旅先で少しずつ集めたのだろう品々が、整然と飾られている。
 机の引き出しを開けると、目当てのガムテープはすぐに見つかった。
 ふと、机の上に置かれたヒュミドールが視界に入った。胸が、わずかに詰まった。
 勇斗はおそるおそるヒュミドールを開けた。
 本来なら、中には葉巻が何本も詰まっているはずだった。だが、中は不自然なほど空いていた。残っていたのは、たった一本だけ。
 勇斗はその葉巻を手に取った。葉の巻かれた感触が、指先に伝わる。鼻を近づけると、甘い香りがした。
 無性に吸いたくなった。
 ――いや、駄目だ。
 遅れて、思考が追いついた。勇斗は葉巻を戻そうとして、ふと手を止めた。
 ヒュミドールの底に、別のものがあった。
 木の枝だった。
 葉っぱが数枚ついた、小さな枝。見覚えがある。朝も見た。神社でも見た。
 どうしてだ。さっきまで、こんなものはなかったはずなのに。
 ――わかるか? オイラとユートはイッシンドータイなんだ。どんなに離れていても、心は一緒さ。
 声がした。耳ではない。脳の奥へ直接流れ込んできた。
 勇斗は葉巻を机の上へ置き、夢中で木の枝を掴んだ。
 瞬間、ガラスが砕け散るような感覚が全身を襲った。
 膝が折れる。床に片手をつき、勇斗は頭を押さえた。視界が明滅する。森、塔、砂漠、雪、血、煙。いくつもの光景が、砕けた破片のように頭の中へ突き刺さってきた。
 ランパ。その名を口にした瞬間、心の奥底から熱いものがこみ上げてきた。
 そうだ。僕は、ランパを助けに行かなきゃいけない。こんなところにいてはいけない。
「勇斗、遅いけど、どうしたの?」
 母の声がした。
 勇斗は息を乱しながら立ち上がり、振り向いた。
 母が不安そうな顔で立っている。
「どうしたの、勇斗?」
「お母さん、ごめん。僕、行かなきゃいけない」
 自分でも驚くほど、声ははっきりしていた。
 母の目が揺れる。
「行くって、どこに。もう遅いんだから、やめておきなさい。明日も学校があるでしょ」
 勇斗は首を横に振った。
「大切な人が、待ってるんだ。だから、ごめん」
 木の枝を強く握りしめる。
 その瞬間、部屋の輪郭が音を立てて歪み始めた。壁に亀裂が走る。コレクションが砂のように崩れていく。天井の照明がちらつき、空間そのものが割れていく。
「勇斗、駄目!」
 母が叫んだ。
「ここにいればいいのよ、勇斗。危ない目に遭わなくていいの。何も苦しまなくていいの。だから行っちゃ駄目!」
 険しい表情で、必死で叫んでいる。
「お母さん、ごめん」
 でも、もう大丈夫だから。
 勇斗の頬を涙が伝った。
 次の瞬間、意識が弾けた。
 燃え尽きたドラシガーが、ガラスの間の床に転がっていた。細い灰が、鏡張りの床に散っていた。甘ったるい幻の匂いは、消えていた。
 勇斗は鞘から聖剣を抜き、玉座に向かって歩いた。
「嘘……」
 ソーマの眉間に深い皺が寄る。余裕を装った笑みは消え、表情がみるみる険しくなっていった。
「まさか……今、自分で戻ったの……?」
「僕の力じゃない。ランパのおかげだ」
 刃が、ソーマの首筋に触れる。白い皮膚がわずかに裂け、黒い血が細く流れ落ちた。
「そんなはず、ありませんわ……あの空間は誰の干渉も受けないはず……誰にも壊せないはずですのに……」
「僕とランパの絆を、甘く見るな」
 ソーマは眉をつり上げた。しかし、次の瞬間にはまた薄笑いを浮かべていた。
「待ってくださいませ。まだ終わってなどいませんわ。そう、あなたは疲れているだけ。幻と現実の区別がついていないだけですの。だから、もう一度だけ目を閉じて。ね?」
 媚びるような声音だった。だが、その目の奥には焦りが滲んでいた。
「あれは、あなたがいちばん望んでいた世界でしょう? 傷つかなくて、失うものもなくて、誰も死ななくて、誰にも裏切られなくて――」
「ああ」
 勇斗はその声を断ち切った。
「確かに、僕が望んだ世界だった。だけど、あれじゃ前に進めない」
 ソーマの顔から、作り物めいた微笑が剥がれ落ちた。むき出しになったのは、怒りと焦りと、醜い執着だった。
「なぜ、そこまでして現実を選びますの? なぜ? どうして? 苦しいだけでしょう! 痛いだけでしょう! それなのに、どうしてわたくしの手を振りほどきますの!?」
「もういい」
 勇斗の目は冷えていた。
「もう、お前の声は届かない」
 次の瞬間、剣閃が走った。
 ソーマの首が、胴から離れて床へ転がる。鏡の上を短く滑り、やがて止まった。その顔には、最期まで怯えと執着がこびりついていた。
 切り離された首と胴体は、音もなく消えた。