193. ARモンスター

ー/ー



 銀色の髪に、エメラルドの瞳。

 小さな顔に浮かぶ微笑みは、どこか悪戯っぽい。まるで「驚いた?」と言わんばかりに、小首を傾げてレスター三世を見上げている。

 その瞳には、好奇心と優しさが混ざり合っていた。

 人間を恐れていない。むしろ、新しい訪問者を歓迎しているかのように、その小さな瞳の奥には無垢な光が宿っていた。

 恐る恐る、手を伸ばしてみた。

 六十年の人生で、こんなにも慎重に手を伸ばしたことがあっただろうか。まるで、触れた瞬間に消えてしまう泡のように繊細な存在に見えた。

 しかし――妖精は逃げなかった。

 むしろ自分から近づいてきて、レスター三世の(ふし)くれだった指先にそっと触れた。

 ビビッ。

 何かに触れた感触が、確かに伝わってきた。

 温かい。柔らかい。そして、なぜかほのかに甘い香りがする。

 確かにそこに「存在」している。

 幻ではない。この小さな生き物は、確かにここにいて、確かにレスター三世の指に触れている。その小さな手は、生まれたての子猫の肉球のように柔らかく、それでいて確かな重みがあった。

 妖精は、レスター三世の手を取って、にっこりと微笑んだ。

 まるで「はじめまして」と言うかのように。あるいは「ずっと待っていたよ」と言うかのように。

 その笑顔が、あまりにも純粋で、あまりにも愛らしくて――。

 六十年生きてきた老王の心が、不覚にも震えた。

 目頭が熱くなる。喉の奥がきゅっと締まる。胸の奥で、何かが溶けていくような感覚があった。

 これは、何だ。

 この感情は、何だ。

 ただ妖精に微笑まれただけで、なぜこんなにも心が揺さぶられるのだ。

 分からない。分からないけれど、涙が止まらなかった。

 くっ……。

 混乱する自分を受け入れられず、慌てて眼鏡を外す――――。

「な、なんじゃこれは! どうなっとる!?」

 その瞬間――全てが消えてしまった。

 花びらも、妖精も、青い炎も。

 まるで夢から覚めたかのように、そこには何もなかった。

 ただ、白い巨塔と青い空があるだけだ。風が吹き、湖面が輝き、タワー群が静かに立ち並んでいる。先ほどまでと同じ、「現実」の光景。

 しかし――なぜだろう。

 この光景が、ひどく寂しく感じられた。

 さっきまであんなにも圧倒的で、あんなにも美しいと思っていたはずなのに。妖精たちのいない世界は、まるで色を失った絵画のようだった。

 再び眼鏡をかけると、妖精は変わらずそこにいた。

 微笑みながら、小首を傾げている。

 まるで、「どうしたの? どこ行ってたの?」と問いかけるように。その無邪気な仕草に、レスター三世は胸が苦しくなった。

 たった数秒のことなのに、妖精を一人にしてしまったような罪悪感が込み上げてくるではないか。

 レスター三世は、何度も眼鏡を外したりかけたりした。

 外せば何もない。

 かければ妖精がいる。

 外せば静寂。

 かければ音楽。

 いったい、どちらが現実なのだ?

「どうされましたか? ふふっ」

 ミーシャは嬉しそうに尋ねる。その空色の瞳には、明らかに愉悦の光が浮かんでいた。レスター三世の混乱を、まるで玩具を見るかのように楽しんでいる。

 ――この娘、腹黒じゃな。

 レスター三世は内心でそう思ったが、今はそれどころではなかった。

「こっ、これで見えるものはなんじゃ!? こんな幻で余を幻惑するつもりか!?」

 レスター三世は混乱する自分を認められず、当てつけのように叫んだ。声が裏返っているのが自分でも分かった。王としてあるまじき醜態だが、もはやそんなことを気にする余裕もなかった。

「あら、幻なんかじゃございませんわ」

 ミーシャは、まるで子供に言い聞かせるような優しい声で答えた。

「AR……もう一つの現実なのですわ」

「へ? AR……?」

 聞いたことのない言葉だった。この国の言語なのだろうか。それとも、古代の魔法の名前なのだろうか。

「そう、【拡張現実】という、広げられた現実ですの」

 ミーシャは人差し指を立てて、まるで講義をするかのように続けた。

「その妖精もARモンスター――【エアモン】という意味のある、現実の存在ですわ」

「エ、エアモン……?」

「そう、エアモン。この国ではみんなエアモンをパートナーにして、日々一緒に楽しく過ごしているんですの」

「パ、パートナー!?」

 レスター三世は、自分の耳を疑った。

 こんな眼鏡の向こうに映る存在をパートナーにする。その発想が、あまりにも突飛で、あまりにも理解を超えていた。

 パートナーとは、共に歩む者のことだ。共に笑い、共に泣き、共に人生を歩む者のことだ。

 それが――眼鏡を外せば消えてしまう存在だというのか?

 しかし。

 妖精は楽しそうにクルリと回ると、レスター三世の指につかまり、ニコッと笑顔を見せた。

 その笑顔には、何の(てら)いもなかった。

 ただ純粋に、レスター三世と一緒にいることを喜んでいる。それだけだった。



スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む 194. この子に決めた


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



 銀色の髪に、エメラルドの瞳。
 小さな顔に浮かぶ微笑みは、どこか悪戯っぽい。まるで「驚いた?」と言わんばかりに、小首を傾げてレスター三世を見上げている。
 その瞳には、好奇心と優しさが混ざり合っていた。
 人間を恐れていない。むしろ、新しい訪問者を歓迎しているかのように、その小さな瞳の奥には無垢な光が宿っていた。
 恐る恐る、手を伸ばしてみた。
 六十年の人生で、こんなにも慎重に手を伸ばしたことがあっただろうか。まるで、触れた瞬間に消えてしまう泡のように繊細な存在に見えた。
 しかし――妖精は逃げなかった。
 むしろ自分から近づいてきて、レスター三世の|節《ふし》くれだった指先にそっと触れた。
 ビビッ。
 何かに触れた感触が、確かに伝わってきた。
 温かい。柔らかい。そして、なぜかほのかに甘い香りがする。
 確かにそこに「存在」している。
 幻ではない。この小さな生き物は、確かにここにいて、確かにレスター三世の指に触れている。その小さな手は、生まれたての子猫の肉球のように柔らかく、それでいて確かな重みがあった。
 妖精は、レスター三世の手を取って、にっこりと微笑んだ。
 まるで「はじめまして」と言うかのように。あるいは「ずっと待っていたよ」と言うかのように。
 その笑顔が、あまりにも純粋で、あまりにも愛らしくて――。
 六十年生きてきた老王の心が、不覚にも震えた。
 目頭が熱くなる。喉の奥がきゅっと締まる。胸の奥で、何かが溶けていくような感覚があった。
 これは、何だ。
 この感情は、何だ。
 ただ妖精に微笑まれただけで、なぜこんなにも心が揺さぶられるのだ。
 分からない。分からないけれど、涙が止まらなかった。
 くっ……。
 混乱する自分を受け入れられず、慌てて眼鏡を外す――――。
「な、なんじゃこれは! どうなっとる!?」
 その瞬間――全てが消えてしまった。
 花びらも、妖精も、青い炎も。
 まるで夢から覚めたかのように、そこには何もなかった。
 ただ、白い巨塔と青い空があるだけだ。風が吹き、湖面が輝き、タワー群が静かに立ち並んでいる。先ほどまでと同じ、「現実」の光景。
 しかし――なぜだろう。
 この光景が、ひどく寂しく感じられた。
 さっきまであんなにも圧倒的で、あんなにも美しいと思っていたはずなのに。妖精たちのいない世界は、まるで色を失った絵画のようだった。
 再び眼鏡をかけると、妖精は変わらずそこにいた。
 微笑みながら、小首を傾げている。
 まるで、「どうしたの? どこ行ってたの?」と問いかけるように。その無邪気な仕草に、レスター三世は胸が苦しくなった。
 たった数秒のことなのに、妖精を一人にしてしまったような罪悪感が込み上げてくるではないか。
 レスター三世は、何度も眼鏡を外したりかけたりした。
 外せば何もない。
 かければ妖精がいる。
 外せば静寂。
 かければ音楽。
 いったい、どちらが現実なのだ?
「どうされましたか? ふふっ」
 ミーシャは嬉しそうに尋ねる。その空色の瞳には、明らかに愉悦の光が浮かんでいた。レスター三世の混乱を、まるで玩具を見るかのように楽しんでいる。
 ――この娘、腹黒じゃな。
 レスター三世は内心でそう思ったが、今はそれどころではなかった。
「こっ、これで見えるものはなんじゃ!? こんな幻で余を幻惑するつもりか!?」
 レスター三世は混乱する自分を認められず、当てつけのように叫んだ。声が裏返っているのが自分でも分かった。王としてあるまじき醜態だが、もはやそんなことを気にする余裕もなかった。
「あら、幻なんかじゃございませんわ」
 ミーシャは、まるで子供に言い聞かせるような優しい声で答えた。
「AR……もう一つの現実なのですわ」
「へ? AR……?」
 聞いたことのない言葉だった。この国の言語なのだろうか。それとも、古代の魔法の名前なのだろうか。
「そう、【拡張現実】という、広げられた現実ですの」
 ミーシャは人差し指を立てて、まるで講義をするかのように続けた。
「その妖精もARモンスター――【エアモン】という意味のある、現実の存在ですわ」
「エ、エアモン……?」
「そう、エアモン。この国ではみんなエアモンをパートナーにして、日々一緒に楽しく過ごしているんですの」
「パ、パートナー!?」
 レスター三世は、自分の耳を疑った。
 こんな眼鏡の向こうに映る存在をパートナーにする。その発想が、あまりにも突飛で、あまりにも理解を超えていた。
 パートナーとは、共に歩む者のことだ。共に笑い、共に泣き、共に人生を歩む者のことだ。
 それが――眼鏡を外せば消えてしまう存在だというのか?
 しかし。
 妖精は楽しそうにクルリと回ると、レスター三世の指につかまり、ニコッと笑顔を見せた。
 その笑顔には、何の|衒《てら》いもなかった。
 ただ純粋に、レスター三世と一緒にいることを喜んでいる。それだけだった。