第05話 傷口の市場
ー/ー 今回の目的は、`Y-09` と `S-08` に繋がる搬送経路を、病院の外から拾い直すことだった。
第七処置棟の中をいくら洗っても、出てくるのは削られた記録ばかりだ。
なら、消される前の情報が流れる場所へ行くしかない。
朱璃の言い方を借りるなら、
「表で治せなかったものが、値段を付けて並ぶ場所」
そこがシール街だった。
違法ワゴンは、高架下の保守用昇降機を軋ませながら下層へ降りていく。
格子の外には、鉄骨へ貼りついた違法増築が何層も重なっていた。排水管の横に布が張られ、その下で人が寝ている。補修された跡より、補修を諦めた跡の方が多い。
それでも光だけはある。
赤、青、黄。
剥き出しのネオンが湿った鉄へ滲み、全部まとめて安っぽい祭りみたいに見せていた。
「景気悪いテーマパークだな」
零が言う。
「褒めてる?」
運転席で朱璃が聞く。
「してない」
「安心した」
「どこにだよ」
助手席のノアは、窓の外の配線の束を目で追っていた。
「下、ノイズ濃い」
「要するに?」
「上より壊れた未来が多い」
「分かりやすいな」
「ここ、普通の人が普通の顔で歩いてるだけで偉い場所だもの」
朱璃が笑う。
「あと、撃つ時は壁の向こうも気にしなさい。子供か薬か機材のどれかには当たるから」
「最悪すぎる注意事項だな」
「でも親切でしょ」
「親切の定義が腐ってる」
昇降機が重い衝撃と一緒に止まる。
扉が開いた瞬間、音と匂いが雪崩れ込んできた。
発電機の唸り。
溶接火花。
咳。
笑い声。
値切る声。
その全部の下で、誰かがずっと小さく泣いている。
シール街は市場だった。
ただし、食い物や服を売る場所じゃない。
ここで売られているのは、明日まで身体をもたせる方法そのものだ。
通路の左右には透明シートを垂らした処置台が並んでいた。片脚へ補助骨格を打ち込まれる若い男。タグ認証部を削られている配送員。古い同期薬を薄めて売る露店。未登録の補正チップをその場で焼き込んでいる小屋。
上層の病院と違うのは、順番じゃない。
値段だった。
「やっぱり病院じゃねえな」
零が言う。
「だから市場だって言ったじゃない」
朱璃が肩をすくめる。
「趣味の悪い市場」
「それは完全に同意」
通路の奥から、威勢のいい女の声が飛んできた。
「次! 誰の未来が壊れた!」
そちらを見ると、仮設屋台の奥で小柄な女がタグ端末を振り回していた。
短く刈った髪。
油まみれの頬。
工具ベルト。
ショックガン。
整備士と解体屋と喧嘩屋を、同時にやっていそうな顔だ。
「おい朱璃、その黒ジャケなんだ」
「見ての通り機関の犬」
「最悪」
「でも今夜だけ借り物」
「余計最悪」
朱璃は零へ顎をしゃくった。
「あれがナギ。タグと配線をいじる時だけ機嫌が良くなる」
「聞こえてるぞ違法医師」
「褒めてるのよ」
「どこがだよ」
ナギは端末を腰へ戻し、露骨に零を値踏みした。
「で、その犬は噛む?」
「噛む前に撃つ」
零が答えると、ナギは少しだけ口元を上げた。
「じゃあまだマシ」
「基準どうなってんだ」
「下層」
簡潔すぎて反論しにくい。
その直後、通路の奥から数人が出てきた。
寄せ集めの防具。
布マスク。
違法改造の短銃。
銃口は全部、零へ向く。
先頭の男は背が高かった。防刃ベストには古傷みたいな切り跡が何本も残り、左腕には増設した金属ガードが巻かれている。目だけは妙に静かだ。
「朱璃」
男が言う。
「説明しろ」
「したでしょ。借り物の犬」
「もう少し人語で」
「機関の現場部隊。今夜だけ」
男の視線が零へ移る。
射殺するかどうかを決める視線だ。
「武器を置け」
低い声で男が言った。
「ここでは機関の権限は通らない」
「そんなもん最初から持ってない」
零はPX4のホルスターへ手を添えたまま答える。
男の眉が少しだけ動く。
「じゃあ何を持ってる」
「面倒ごと」
ノアが横から言う。
「あと、情報が欲しい」
男の目がノアへ向く。
ノアは一歩も引かない。
静かに立っているだけなのに、妙に喧嘩腰に見えるのは得だか損だか分からない。
「名前は」
零が聞いた。
「答える理由がない」
「感じ悪いな」
「お前に言われたくない」
そこで朱璃が笑った。
「この子、迅よ」
「勝手に言うな」
「減るもんじゃないでしょ」
「増える」
「面倒が?」
「そうだ」
迅は深く息を吐いた。
「で、何を探してる」
零は答える。
「`Y-09` と `S-08`」
その二つを言った瞬間、空気が変わった。
ナギが端末を持つ手を止める。
迅も、銃を下ろしはしないまま沈黙した。
「知ってるのか」
「知ってる名前だ」
迅が言う。
「だから余計に、お前を通す理由がない」
「今それを掘ってるのは表の病院だけじゃない」
零が返す。
「第七処置棟の患者タグが踏み台にされてる。更新列から外れた連中を橋にして、誰かがその番号を追ってる」
ナギが露骨に舌打ちした。
「やっぱりか」
「お前、何か知ってるな」
「知ってるから最悪なんだろ」
ナギは工具袋を蹴って足元へ寄せた。
「ここ二週間で、下に流れてくるタグの焼け方が変わった。正規認証部だけじゃなくて、奥の同期線まで焦げてる」
「`QBX-NULL`」
ノアが言う。
ナギがそちらを見る。
「知ってんのか」
「見た」
「見たで分かるの嫌だな」
「そっちも」
ナギは少しだけ黙ってから、端末を投げてよこした。
零が受け取る。
画面には、焼けたタグの断片ログがいくつも並んでいた。
施設名は消されている。
搬送ルートも空白だ。
だが照会先だけが残っている。
`Y-09`
`S-08`
その先の中継点に、見覚えのある文字列があった。
「……湾岸貨物区画」
零が読む。
ナギが顎を上げる。
「夜間積み替え。冷蔵指定。表の病院から直接載せる時もあるし、下で繋ぎ直してから流す時もある」
「列車か」
「そう」
迅が低く続ける。
「今夜も一本動く」
「何を運ぶ」
「違法同期薬。焼けたタグ。たまに人間」
最後の一言だけ、やけに平坦だった。
零は眉を寄せる。
「たまに、ね」
「見たことあるのか」
「搬入口だけなら」
「中は?」
「見る前に見るなって言われた」
それだけで十分に嫌な話だった。
シール街のざわめきが、急に一段だけ遠く聞こえる。
表で救われなかった人間が継ぎ足されて生きている街。
その下層の連中ですら、近づきたがらない貨物ルート。
「で」
迅が零を睨む。
「その番号をお前が掘って、どうする」
「止める」
「何を」
「今夜動く列車ごと」
ナギが少しだけ目を細めた。
「機関に渡すために?」
「機関より先に中身を見る」
迅がわずかに口元を歪めた。
「口だけなら誰でも言う」
「だろうな」
「じゃあ証拠を出せ」
「今はない」
「正直で助かる」
「嘘つくよりマシだろ」
「それはそう」
シール街の奥で、突然ガラスの割れる音がした。
次いで怒鳴り声。
露店のひとつがひっくり返る。
誰かが叫ぶ。
「補正切れだ!」
通路の向こうで、男がひとり暴れていた。
痩せた身体。
赤い目。
タグの認証部が火花を散らし、腕の動きだけが半拍遅れている。
だが第1話や第3話の異常者ほど深くはない。
まだ人の形に留まっている。
「あーあ」
朱璃が楽しそうに言う。
「私の番じゃないけど」
「言ってる場合か」
暴れた男が、露店の刃物へ手を伸ばす。
零は反射で動いていた。
PX4を抜く。
一歩。
二歩。
視界に三秒先の線が走る。
男の肘。
刃物。
露店の支柱。
喉ではない。
まだそこまでじゃない。
一発目は肘。
二発目は露店の支柱。
男の腕がはじかれ、刃物が飛ぶ。崩れた露店布がそのまま顔へ被さる。
そこへノアの一声。
「左」
零は従う。
布を振り払って突っ込んできた男の肩をかわし、すれ違いざま腰へ膝を入れる。
男は床へ転がり、そのままナギのショックガンが首筋へ当たった。
短い放電音。
男が痙攣して止まる。
「うちの客壊すなよ」
ナギが言う。
「壊してない。寝かせただけだ」
「今のはちょっとかっこつけた」
ノアが言う。
「お前それ好きだな」
「使いやすいから」
迅は倒れた男を一瞥し、それから零へ視線を戻した。
「機関の犬にしては、噛む相手を選ぶらしい」
「褒めてる?」
「まだだ」
朱璃が笑う。
「でも今ので五分くらいは稼いだわね」
「五分かよ」
「下層で信用って高いのよ」
「安いだろ」
「命が?」
「そっちじゃねえよ」
ナギは端末を取り返し、手早く新しい画面を開いた。
「積み替えの最後だけ抜く」
古い車両番号。
未登録通路。
冷蔵指定。
焼かれたタグ一覧。
その末尾に、見覚えのある二つが並んでいる。
`Y-09`
`S-08`
さらにそのすぐ下。
`発車予定 / 00:40 / 湾岸貨物線`。
「当たり」
ナギが言う。
「今夜動く。ここで追うなら列車の上」
「止めるならヤードか」
零が言う。
「そう」
迅が低く続ける。
「旧小児研究棟第七区画は終点だ。けど今、そこへ真っ直ぐ行っても何も残ってない。押さえるなら搬送の途中だ」
零は端末を見た。
病院の中で削られた経路。
下層で繋ぎ直されたタグ。
そして、今夜動く貨物列車。
たしかに、一番分かりやすいのはそこだった。
「で」
迅が聞く。
「どうする」
「決まってる」
零は端末をジャケットの内側へ押し込み、PX4の位置を直した。
「先に列車を止める」
ノアが小さく頷く。
「賛成」
ナギは端末を腰へ戻し、工具袋を肩へ引っかける。
「私はここまで」
「十分だ」
「勘違いするな。機関を助けるんじゃない」
「知ってる」
「ガキを番号で運ぶのが気に食わないだけだ」
その言葉だけは、妙に真っ直ぐだった。
迅も銃を下ろす。
「ヤードの外縁まで案内する。そっから先は自分で飛べ」
「優しいな」
「下層基準で言えばな」
「それ、全然信用できねえ」
「だろうな」
朱璃が医療ケースを閉じる。
「じゃ、夜行列車見学と行きましょうか」
「遠足みたいに言うな」
「白衣がいればだいたい遠足よ」
「お前の場合、行き先が全部最悪なんだよ」
シール街のざわめきはまだ続いている。
違法改造。
未登録薬。
切られたタグ。
表で救われなかった未来が、ここでは値段を付けて延命されていた。
そしてその中心から、今夜の貨物列車へ線が伸びている。
「行くか」
零が言う。
「うん」
ノアが返す。
「最悪の方へ」
「いつも通り」
シール街のいちばん暗い通路の先で、湾岸貨物区画へ続く搬送路が口を開けていた。
市場の喧騒だけが背中に残る。
まるで街そのものが、今夜また一人分、余計な未来を売りに出したみたいだった。
第七処置棟の中をいくら洗っても、出てくるのは削られた記録ばかりだ。
なら、消される前の情報が流れる場所へ行くしかない。
朱璃の言い方を借りるなら、
「表で治せなかったものが、値段を付けて並ぶ場所」
そこがシール街だった。
違法ワゴンは、高架下の保守用昇降機を軋ませながら下層へ降りていく。
格子の外には、鉄骨へ貼りついた違法増築が何層も重なっていた。排水管の横に布が張られ、その下で人が寝ている。補修された跡より、補修を諦めた跡の方が多い。
それでも光だけはある。
赤、青、黄。
剥き出しのネオンが湿った鉄へ滲み、全部まとめて安っぽい祭りみたいに見せていた。
「景気悪いテーマパークだな」
零が言う。
「褒めてる?」
運転席で朱璃が聞く。
「してない」
「安心した」
「どこにだよ」
助手席のノアは、窓の外の配線の束を目で追っていた。
「下、ノイズ濃い」
「要するに?」
「上より壊れた未来が多い」
「分かりやすいな」
「ここ、普通の人が普通の顔で歩いてるだけで偉い場所だもの」
朱璃が笑う。
「あと、撃つ時は壁の向こうも気にしなさい。子供か薬か機材のどれかには当たるから」
「最悪すぎる注意事項だな」
「でも親切でしょ」
「親切の定義が腐ってる」
昇降機が重い衝撃と一緒に止まる。
扉が開いた瞬間、音と匂いが雪崩れ込んできた。
発電機の唸り。
溶接火花。
咳。
笑い声。
値切る声。
その全部の下で、誰かがずっと小さく泣いている。
シール街は市場だった。
ただし、食い物や服を売る場所じゃない。
ここで売られているのは、明日まで身体をもたせる方法そのものだ。
通路の左右には透明シートを垂らした処置台が並んでいた。片脚へ補助骨格を打ち込まれる若い男。タグ認証部を削られている配送員。古い同期薬を薄めて売る露店。未登録の補正チップをその場で焼き込んでいる小屋。
上層の病院と違うのは、順番じゃない。
値段だった。
「やっぱり病院じゃねえな」
零が言う。
「だから市場だって言ったじゃない」
朱璃が肩をすくめる。
「趣味の悪い市場」
「それは完全に同意」
通路の奥から、威勢のいい女の声が飛んできた。
「次! 誰の未来が壊れた!」
そちらを見ると、仮設屋台の奥で小柄な女がタグ端末を振り回していた。
短く刈った髪。
油まみれの頬。
工具ベルト。
ショックガン。
整備士と解体屋と喧嘩屋を、同時にやっていそうな顔だ。
「おい朱璃、その黒ジャケなんだ」
「見ての通り機関の犬」
「最悪」
「でも今夜だけ借り物」
「余計最悪」
朱璃は零へ顎をしゃくった。
「あれがナギ。タグと配線をいじる時だけ機嫌が良くなる」
「聞こえてるぞ違法医師」
「褒めてるのよ」
「どこがだよ」
ナギは端末を腰へ戻し、露骨に零を値踏みした。
「で、その犬は噛む?」
「噛む前に撃つ」
零が答えると、ナギは少しだけ口元を上げた。
「じゃあまだマシ」
「基準どうなってんだ」
「下層」
簡潔すぎて反論しにくい。
その直後、通路の奥から数人が出てきた。
寄せ集めの防具。
布マスク。
違法改造の短銃。
銃口は全部、零へ向く。
先頭の男は背が高かった。防刃ベストには古傷みたいな切り跡が何本も残り、左腕には増設した金属ガードが巻かれている。目だけは妙に静かだ。
「朱璃」
男が言う。
「説明しろ」
「したでしょ。借り物の犬」
「もう少し人語で」
「機関の現場部隊。今夜だけ」
男の視線が零へ移る。
射殺するかどうかを決める視線だ。
「武器を置け」
低い声で男が言った。
「ここでは機関の権限は通らない」
「そんなもん最初から持ってない」
零はPX4のホルスターへ手を添えたまま答える。
男の眉が少しだけ動く。
「じゃあ何を持ってる」
「面倒ごと」
ノアが横から言う。
「あと、情報が欲しい」
男の目がノアへ向く。
ノアは一歩も引かない。
静かに立っているだけなのに、妙に喧嘩腰に見えるのは得だか損だか分からない。
「名前は」
零が聞いた。
「答える理由がない」
「感じ悪いな」
「お前に言われたくない」
そこで朱璃が笑った。
「この子、迅よ」
「勝手に言うな」
「減るもんじゃないでしょ」
「増える」
「面倒が?」
「そうだ」
迅は深く息を吐いた。
「で、何を探してる」
零は答える。
「`Y-09` と `S-08`」
その二つを言った瞬間、空気が変わった。
ナギが端末を持つ手を止める。
迅も、銃を下ろしはしないまま沈黙した。
「知ってるのか」
「知ってる名前だ」
迅が言う。
「だから余計に、お前を通す理由がない」
「今それを掘ってるのは表の病院だけじゃない」
零が返す。
「第七処置棟の患者タグが踏み台にされてる。更新列から外れた連中を橋にして、誰かがその番号を追ってる」
ナギが露骨に舌打ちした。
「やっぱりか」
「お前、何か知ってるな」
「知ってるから最悪なんだろ」
ナギは工具袋を蹴って足元へ寄せた。
「ここ二週間で、下に流れてくるタグの焼け方が変わった。正規認証部だけじゃなくて、奥の同期線まで焦げてる」
「`QBX-NULL`」
ノアが言う。
ナギがそちらを見る。
「知ってんのか」
「見た」
「見たで分かるの嫌だな」
「そっちも」
ナギは少しだけ黙ってから、端末を投げてよこした。
零が受け取る。
画面には、焼けたタグの断片ログがいくつも並んでいた。
施設名は消されている。
搬送ルートも空白だ。
だが照会先だけが残っている。
`Y-09`
`S-08`
その先の中継点に、見覚えのある文字列があった。
「……湾岸貨物区画」
零が読む。
ナギが顎を上げる。
「夜間積み替え。冷蔵指定。表の病院から直接載せる時もあるし、下で繋ぎ直してから流す時もある」
「列車か」
「そう」
迅が低く続ける。
「今夜も一本動く」
「何を運ぶ」
「違法同期薬。焼けたタグ。たまに人間」
最後の一言だけ、やけに平坦だった。
零は眉を寄せる。
「たまに、ね」
「見たことあるのか」
「搬入口だけなら」
「中は?」
「見る前に見るなって言われた」
それだけで十分に嫌な話だった。
シール街のざわめきが、急に一段だけ遠く聞こえる。
表で救われなかった人間が継ぎ足されて生きている街。
その下層の連中ですら、近づきたがらない貨物ルート。
「で」
迅が零を睨む。
「その番号をお前が掘って、どうする」
「止める」
「何を」
「今夜動く列車ごと」
ナギが少しだけ目を細めた。
「機関に渡すために?」
「機関より先に中身を見る」
迅がわずかに口元を歪めた。
「口だけなら誰でも言う」
「だろうな」
「じゃあ証拠を出せ」
「今はない」
「正直で助かる」
「嘘つくよりマシだろ」
「それはそう」
シール街の奥で、突然ガラスの割れる音がした。
次いで怒鳴り声。
露店のひとつがひっくり返る。
誰かが叫ぶ。
「補正切れだ!」
通路の向こうで、男がひとり暴れていた。
痩せた身体。
赤い目。
タグの認証部が火花を散らし、腕の動きだけが半拍遅れている。
だが第1話や第3話の異常者ほど深くはない。
まだ人の形に留まっている。
「あーあ」
朱璃が楽しそうに言う。
「私の番じゃないけど」
「言ってる場合か」
暴れた男が、露店の刃物へ手を伸ばす。
零は反射で動いていた。
PX4を抜く。
一歩。
二歩。
視界に三秒先の線が走る。
男の肘。
刃物。
露店の支柱。
喉ではない。
まだそこまでじゃない。
一発目は肘。
二発目は露店の支柱。
男の腕がはじかれ、刃物が飛ぶ。崩れた露店布がそのまま顔へ被さる。
そこへノアの一声。
「左」
零は従う。
布を振り払って突っ込んできた男の肩をかわし、すれ違いざま腰へ膝を入れる。
男は床へ転がり、そのままナギのショックガンが首筋へ当たった。
短い放電音。
男が痙攣して止まる。
「うちの客壊すなよ」
ナギが言う。
「壊してない。寝かせただけだ」
「今のはちょっとかっこつけた」
ノアが言う。
「お前それ好きだな」
「使いやすいから」
迅は倒れた男を一瞥し、それから零へ視線を戻した。
「機関の犬にしては、噛む相手を選ぶらしい」
「褒めてる?」
「まだだ」
朱璃が笑う。
「でも今ので五分くらいは稼いだわね」
「五分かよ」
「下層で信用って高いのよ」
「安いだろ」
「命が?」
「そっちじゃねえよ」
ナギは端末を取り返し、手早く新しい画面を開いた。
「積み替えの最後だけ抜く」
古い車両番号。
未登録通路。
冷蔵指定。
焼かれたタグ一覧。
その末尾に、見覚えのある二つが並んでいる。
`Y-09`
`S-08`
さらにそのすぐ下。
`発車予定 / 00:40 / 湾岸貨物線`。
「当たり」
ナギが言う。
「今夜動く。ここで追うなら列車の上」
「止めるならヤードか」
零が言う。
「そう」
迅が低く続ける。
「旧小児研究棟第七区画は終点だ。けど今、そこへ真っ直ぐ行っても何も残ってない。押さえるなら搬送の途中だ」
零は端末を見た。
病院の中で削られた経路。
下層で繋ぎ直されたタグ。
そして、今夜動く貨物列車。
たしかに、一番分かりやすいのはそこだった。
「で」
迅が聞く。
「どうする」
「決まってる」
零は端末をジャケットの内側へ押し込み、PX4の位置を直した。
「先に列車を止める」
ノアが小さく頷く。
「賛成」
ナギは端末を腰へ戻し、工具袋を肩へ引っかける。
「私はここまで」
「十分だ」
「勘違いするな。機関を助けるんじゃない」
「知ってる」
「ガキを番号で運ぶのが気に食わないだけだ」
その言葉だけは、妙に真っ直ぐだった。
迅も銃を下ろす。
「ヤードの外縁まで案内する。そっから先は自分で飛べ」
「優しいな」
「下層基準で言えばな」
「それ、全然信用できねえ」
「だろうな」
朱璃が医療ケースを閉じる。
「じゃ、夜行列車見学と行きましょうか」
「遠足みたいに言うな」
「白衣がいればだいたい遠足よ」
「お前の場合、行き先が全部最悪なんだよ」
シール街のざわめきはまだ続いている。
違法改造。
未登録薬。
切られたタグ。
表で救われなかった未来が、ここでは値段を付けて延命されていた。
そしてその中心から、今夜の貨物列車へ線が伸びている。
「行くか」
零が言う。
「うん」
ノアが返す。
「最悪の方へ」
「いつも通り」
シール街のいちばん暗い通路の先で、湾岸貨物区画へ続く搬送路が口を開けていた。
市場の喧騒だけが背中に残る。
まるで街そのものが、今夜また一人分、余計な未来を売りに出したみたいだった。
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